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ナザリ行



 年が明け、ナザリのアークフィア神殿の神官長が交代した。
 田舎町の神殿には、新しい神官長の就任式の日取りだけが伝えられて、手紙を受け取ったアダは、いつものてきぱきとした態度で首都に旅立つための段取りを整え、メロダークについてくるよう命じた。災禍のあとに神殿に住み着いたこの陰気な大男は、黙々と旅の準備をはじめた。

「街道沿いもまだまだ物騒らしいからね。年寄りの一人旅じゃ盗賊どものいい餌食じゃよ」
「でもアダ様、盗賊相手ならそれこそ私がお供してもいいと思うんですけれど」
 養い親であり巫女長でもあるアダの決定に異を唱えるのは気が引けたが、それでも控え目に抗議せずにはいられなかった。マナも年頃の娘なので、ナザリへの憧れがある。
 マナの言葉に渋い顔をしたのは、年老いた方の馬の鼻面をなでてやっていた旅姿のアダではなく、荷物を運んできたメロダークの方だった。慣れた手つきで若い方の馬の鞍に荷物をくくりつけながら、メロダークが言った。
「……アークフィアの神官ではない私が残っても仕方がないだろう」
「それはそうですけど」
「それなら何が不満だ」
「だって。いいな、ナザリ」
 と、正直にうらやましそうな声を出す。
「黒鳥宮を一度見てみたいです。私が行ったときはまだ建てている最中でしたから」
 アダが面白そうに笑った。
「あの時は、お前さん、ホルムに帰りたいと泣いて大変だったじゃないか」
「あれは、だって、まだ子供の頃でしたし。人が多くてびっくりしたんです」
「今回は我慢おしよ。そのうちあたしが隠居したら、嫌でもお前さんが行かなきゃならなくなるんだから。大市場でお土産を買ってきてやるから、おとなしく留守番しておいで」
「だから、もう子供じゃありませんってば」
 マナは子供のようにぷっとふくれたが、黙々と馬に荷物を積んでいるメロダークの横顔が微かに笑っているのに気づくと、いそいですました顔に戻った。
「それではメロダークさん、アダ様をよろしくお願いしますね」
「ああ」
 頷いたメロダークは
「菓子でも買ってくるか?」
 と尋ねて、ふたたびマナをふくれっ面にさせ、アダをけらけらと笑わせた。
 メロダークがこれもまた慣れた手つきでアダに手を貸し、老巫女は難なく馬にまたがった。
「アダ様、どうかお気をつけて。お土産は本当に結構ですから、道中ご無事で」
「あんたも神殿を頼むよ」
「忙しければテレージャさんにもお願いできますから、ご心配なく。メロダークさんもお気をつけて。万が一何かあっても、無茶はなさらないでくださいね」
「……何かの事によるがな。アダ殿の無事を優先する」
 そこは譲れないところらしくて、マナも食い下がることはしなかった。
 図体のでかさに似合わぬ身軽さで自分も馬に乗ったあと、メロダークは馬上からマナを見下ろした。
「何かあったら空馬だけでも戻してください。訓練されていますから、ホルムの厩へ戻ります」
 と、言い足したのは騎士としての修行もつんだ娘らしい一言であった。
「留守の間、お前も気をつけろ」
 と言ったメロダークが突然、ひどく心配そうな目をしたので、手綱を握った男の手にマナはそっと触れた。
 身を屈めた男が少女の肩についた糸くずを払うような素振りで額にキスをしている間、巫女長はうつむいて、旅行用のマントの縫い目を点検しているようなふりをしてやっていた。
 ――まったく、そういうのは先にすませておくものだよ。最近の若い連中ときたら、要領が悪いったら。

帰依



 頼まれていた水晶のお守りはすぐに見つかった。
 マナが礼拝堂に戻ると、メロダークはベンチに腰掛けたままぐっすりと眠りこんでいた。
 汗と埃と返り血に汚れた黒い髪を、大河から吹く夕風が揺らしていた。近づいていったマナが小さな護符を掌に滑りこませても、戦いを終えて疲れきった男は身動ぎすらしなかった。
 今日は辛い一日だった。明日は今日より辛くなるだろう。それでも明日も行かねばならない。幾千年淀み続けた墓所の闇の奥底には、すべての元凶である始祖帝が彼女と仲間たちを待ち構えている。
 揺り起こしてひばり亭へ帰るよう言っても良かったのだが、マナはそうせず、男と向き合う格好で前のベンチへ腰を下ろした。
 無人の礼拝堂は昼間の喧騒が嘘のように静まりかえり、崖下のアークフィア大河の波音だけが響いている。うつむいたメロダークの寝顔は安らかで、マナは無性に男が憎らしくなった。
 ――人を散々悩ませておいて。
 相手が眠っているのをいいことに、思い切り怖い顔をしてみせる。メロダークは当然それには気づかず、こくり、こくりと、のん気に眠り続けていた。マナは身を乗り出してメロダークの顔を覗きこみ、そのうちに、そっと微笑した。
 傷ついた魂を持つ男が一人、今は憂いなく眠っている。
 自分が彼の信仰に値するような人間だとはかけらも思わぬが、迷える魂が救われたことは、巫女であるマナにとって大いなる喜びであった。
 メロダークのことは好きだ。
 彼が平安を得たのは嬉しい。
 にも関わらず、胸の奥にはひっそりとした寂しさがある。
 こうして二人きりで大河の波音に包まれて、薄闇の中で向い合って座っていると、夢の旅路を思い出す。揺れる小舟に二人、自分が何者かも相手が誰かも知らず、それでも力を合わせて、旅をしていた。
 怪物の汚れた爪に切り裂かれた肉と、流れた熱い血と、骨まで届く残酷な無数の傷と。少年の苦しみはもう永遠に去ったのか。後悔も恐怖もすべては過去の物なのか。
「メロダークさんは、ずるいな」
 そうつぶやいた。

 目を覚ましたメロダークは、自分が水晶のお守りを握っていることに少し驚いたようだった。すぐにこちらを見守る少女を発見する。
「……すまん、眠っていたようだな」
「お気になさらないでください。お疲れでしょうから」
「これも。ありがとう」
 マナは微笑して、
「考えていたんです」
 と言った。
「なんだ」
「メロダークさんが、私に帰依するとおっしゃったこと。私が嫌だと言ったらどうするんです?」
 マナの予想と違って、メロダークは狼狽しなかった。
「どうもせん」
 お守りを道具袋にしまいこみながら、落ち着いてそう答える。
「なんです、それ」
「……そのままの意味だが。もう帰依した。何も変わらん」
「変わらないなんてこと、ないでしょう。では言いますが、やめてください。信頼していただくのは嬉しいことですが、信仰なんて困ります」
 メロダークが黙った。黙ったが、別段考えこんだり迷ったりする様子もなく、ただ静かにマナを見つめている。マナは呆れた。
「私の気持ちは無視ですか」
「そういうわけではないのだが。これは……これは、そういう問題ではないのだ。軽い気持ちで言ったのではない」
 お前も巫女だろう、とメロダークが言った。
「信仰とはそういうものだ。わかれ」
「……叱られてしまいましたね」
「叱ったわけではない。勘違いするな」
 と、腹を立てたらしいメロダークに、今度こそ本当に叱られてしまう。
 なんと偉そうな信仰者なのだろう!
 マナはおかしくなって、くすくす笑い出した。
「何がおかしい」
 不審そうに尋ねられ、うつむいて口元を押さえるが、笑いが止まらない。
 わかれ、わかれ。
 マナはずっと、それがわからなかったのだ。
 額が甲冑に包まれた男の胸元にぶつかった。顔を上げると、吐息がかかる距離でメロダークが彼女を見つめている。大河の波音が、自分の血の流れのざわめきであるように感じられた。拒まれることすら問題にしない一途な瞳はまだマナをとらえ続けていて、タイタスを巡るこの探索と試練がこの先どういう結末を迎えようと、メロダークは必ず彼女の側にいてくれるのだろう。そう思うことは不快ではなかった。それどころか、ずっと悩み続けてきた信仰についての答えがいつかこのまなざしの向こうに見つかるのではないか、そのようにまで思えた。
 それでマナは指を伸ばし、ベンチに置かれた浅黒い、骨ばった、大きな手の甲に、小さな白い手を重ねた。ぎゅっと力をこめて手を握ると、メロダークが息を止めた。黒髪の間に覗く耳に唇を寄せ、ささやいた。
「わからせてください。お願いです」
 メロダークが返事をするより先に、マナは勢いよく手を引いて、ベンチから立ち上がった。汚れた甲冑姿の少女はメロダークを見下ろしていたが、整った白い顔からは先ほどまでの無邪気で楽しげな微笑は拭ったように消え去り、懇願するような不安げな表情だけがあった。無言のまま身を翻し、礼拝堂から駆け出していった。祭壇に飾られた聖杯には目もくれなかった。

散髪

 密偵をしている間、メロダークは誰にも怪しまれぬ傭兵らしさを心がけてきた。
 つまり蓬髪、無精髭、汚れた甲冑と泥のついた靴、風呂には入らぬ日々で、独り身の男にとってこの偽装は、驚くほど楽かつ快適であった。ホルムの神殿で働くようになってからもずるずるとこのずぼらで気楽な格好を続けて来たわけだが、唐突にそれを改めることになった。
 何かあって一念発起したわけではなく、神殿に運び込まれた理髪師の怪我を治療したのだが、決められた寄付金に手持ちの金が足りず、それならば代わりに髪を切らせてくれと申し出られたのであった。丁寧な仕事の最後に髭を剃りあげると、理髪師は帰っていった。メロダークは一人、何年ぶりかで軽くなった後頭部を撫でた。
 式典か何かがあるわけでもないのに、こざっぱりとしている。
 落ち着かない。
 いやしかし考えてみれば薄汚い格好で神殿をうろついていたこれまでの自分こそ、マナに仕える者としてどうなのかと思う。マナはこちらが服さえ着ていれば満足そうで、その寛大さにすっかり甘えてしまっていた。
 自室に戻ると、メロダークは衣装箱を開けた。汚れた服を脱ぎ、洗濯された簡素だが清潔な平服に着替えると、ますますさっぱりした格好になる。その後、暇なのをいいことに靴まで磨いた。

 もちろんずっと暇なわけではなく、港まで礼拝用の香油を買いに行くよう巫女長に命じられている。
 メロダークの肩書きは今、神殿の下働きだ。
 剣ではなく箒が手に馴染んでいる。
 ぴかぴかの靴を履いて外出の用意を整えたメロダークは、神殿の一角へと向かった。神殿では子供たちを集めて簡単な読み書きを教えており、巫女たちが持ち回りで教師役を務めている。今日はマナが先生で、そろそろ授業が終わる時間であった。
 教室になっている部屋の扉のない戸口のむこうから回廊へ、子供たちがばらばらと駆けだしてくる。何人かは廊下に突っ立った見慣れない風体の男をちらりと見上げたが、それがメロダークだとわかっても、特に感想はないようだった。神殿に住み込んでだいぶ経つのに、いまだマナのおまけ程度にしか認識されていない。
 だが最後に分厚い本を抱えて部屋を出てきたマナは、メロダークを見るとものすごくびっくりした顔になった。ぽかんと口を開け、動きを止めてしまう。メロダークは自分の頬を撫でた。
「……おかしいか?」
 マナの顔が赤くなった。持っていた本で、赤くなった顔の下半分を隠す。彼から目を逸らさぬまま、ぷるぷると頭を横に振った。メロダークが近づいていくと、
「よくお似合いです」
 と、消え入るような声でつぶやいた。
 しかしこれはどう考えても、『お似合い』に対する反応ではないような気がする。メロダークは少ししょんぼりしたが、すぐに気を取りなおした。見た目が多少悪くなっても、気にするマナではないはずだ。
「香油を買いに行くのだが、昨日、商館へ買い物に行きたいと言っていただろう。一緒に行くか?」
「あっ、は、はい! では、着替えてきますね!」
 そう言ったマナはいつもの巫女服姿だったので、メロダークは理解に苦しんだ。
「……そのままで構わんだろう」
「でもちゃんとした格好じゃないと……は……恥ずかしい」
 そう言って今度は完全に顔を隠してしまう。なぜだ。


 結局マナがマントを羽織って来て、それから連れ立って出かけた。
 先にいつものピンガー商会に寄る。新しいリボンやら櫛やらちょこちょこした身の回りの品を選び、最後にマナはチョコレートを買った。エンダは相変わらずチョコレートが好きだ。顔見知りの女店員は髪を整えたメロダークを卒なく褒めたが、マナは落ち着かない様子でそれを聞いていた。店を出たあと、港に並ぶ商館の一件に立ち寄り、香油を何本か購入した。重い瓶が入った汚れた麻袋を、手分けして持つの持たないので賑やかに言い合い、そうする間にようやくいつも通りのマナになった。
 帰り道、大通りを並んで歩きながら、マナは袋を担いだメロダークの横顔を、ちらちらと何度も見上げていた。
「最近、よく考えます。メロダークさんは男の方なんだなって」
 メロダークは沈黙した。
「……わざわざ考えるようなことなのか、それは」
「え、と、そうですね、この言い方じゃ変ですよね。そうではなくて。どう言ったらいいのかな。探索をしている間はそんなこと意識しなかったんですけれど」
「……男の俺では、神殿の仕事で行き届かんことも多いだろうな。つまり、そういうことか?」
 マナが首を横に振った。
「メロダークさんは良くしてくださっています。信者の皆さんもアダ様も、メロダークさんのことをいつもお褒めになって」
「それならいいのだが」
「それに私……私はメロダークさんが一緒にいてくださるだけで、幸せです」 
 マナのその言葉は、メロダークを深く感動させた。しかし気持ちが昂ぶると、いつもの癖で無表情になる。
「俺もだ」
 と、ぶっきらぼうに言った。マナはちらりと笑顔を見せ、すぐに沈んだ表情になった。
「でもメロダークさんと一緒にいると、時々、自分の貪欲さが嫌になります」
 マナのどこが貪欲なのか、メロダークにはわからなかった。出会った最初から今まで、マナはずっとマナのままだ。タイタスを倒したあと英雄としての名誉には興味を示さず、神殿の暮らしへと静かに戻って来た。それにお前は他人のために自分の魂すら投げ打つ。少女のほっそりとした白い手を見つめながら、メロダークはそう思った。
 麻袋を担ぎ直すと、マナが手伝おうとする。メロダークはマナを叱った。
「せっかく着替えてきたのに。手が汚れるぞ」
「ほら、メロダークさんだって。探索の間はそんなことおっしゃらなかったじゃないですか」
「そうだったかな」
「そうです。私のこと男の子みたいに扱っておられましたよ。小人の塔の温泉でも」
 懐かしいことを言い出す。
「……ブラックプディングを入れるかどうかで揉めたな」
「揉めましたね! だって、それは、反対しますよ。溶けるか膨らむかもわからないのに」
「膨らんだ」
「いい匂いもしていましたね」
 真面目な口調でそう言ったあと、マナが楽しそうに笑いだした。それから、言った。
「その髪、似あっておられますね」
「……」
「とても素敵だと思います」
 はにかんだ微笑を浮かべてマナが彼を見上げる。思い切ったように手を伸ばして彼の前髪に触れた。メロダークは身を屈め、少女が触りやすいようにしてやった。優しい指が柔らかく前髪を梳いた。
 今、彼の幸福はこのようなものだ。

占領


 占領下の町でメロダークは、味方であるはずの神殿軍とシーウァの兵士たちをひどく警戒していた。
 外套のフードを被っただけの変装とすらいえない格好で、マナは神殿軍が宿舎としている神殿へ入っていった。メロダークが止める暇もなかった。
 ――大胆なことをする。
 メロダークは一瞬躊躇したあと、すぐにマナの後を追った。バルスムス直属の兵士たちは血眼になって少女を探しているはずだ。もし彼女が捕まったとしても自分が側にいれば、そこまで考えて、メロダークはひそかに舌打ちした。側にいて、それで一体どうするつもりなのだ? 密偵として自由な判断と行動を許されてはいるが――メロダークは必要とあらば神殿軍の兵士と剣を交えるどころか、彼らを殺す覚悟まであった――タイタスの憑代とされる少女に関しては、自分の判断と神殿軍の意向が大きくかけ離ていることも自覚していた。遺跡と憑代の二つさえ押さえれば、タイタスの復活は阻止できる。では遺跡が神殿軍に掌握されたことで、憑代であるマナはもはや価値を失ったのではないか。メロダークは漠然とそう期待していたのだが、いつまで経ってもバルスムスからの新たな指示はなかった。
 無心に監視を続けるにはあまりに深く関わりすぎていた。
 バルスムスに少女の潜伏場所を知らせ、後は正規兵たちに任せるべきだ。マナの望みも苦悩も、あの笑顔すら知らぬ彼らは躊躇いなく彼女を捕らえ、ユールフレールへ連れ去るだろう。タイタスが復活すればどれだけの血が流れることか。一人、たった一人の犠牲で多くの人が救われる。だがメロダークは、無言で少女の後ろを歩き続けた。
 神殿の石造りの回廊には町の人々の姿が目立った。彼らは祈るためにここにいるのではなく、行方不明になった身内を探しているのであった。押し殺した泣き声と、怒りを隠したささやきが神殿に満ちている。武装した兵士と町民の間を縫い、マナは軽やかに歩いて行く。神殿軍が追っている少女が、まさか昼日中に正面からここへ戻ってくるとは誰も思わないだろう。だが警戒しているはずの兵士たちも、少女を子供の頃から知る町人たちも、誰一人彼女に注意を向けず、マナもそれが当然であるかのように堂々と歩を進め、メロダークはまたしてもこの娘の強運が恐ろしくなった。
 ――大河のほとりに流れ着き……魔の素質を持ち……いにしえの皇帝と似た偉業を……。
 中庭を通りかかったマナが、突然体の向きを変えた。普段は使わぬ奥の回廊へふらふらと近づいていき、柱の側で足を止める。後を追ったメロダークは、彼女の肩越しにその光景を見た。
 ひんやりとした廊下にいくつもの遺体が並べられている。



「これが結果か」
 知らぬうちにそうつぶやいていた。マナが顔をこちらに向けた。頬に少女の視線が刺さるのを感じたが、メロダークは彼女の方を見ることができなかった。

朝食の後


 泣いたらきっと傷つけると思って我慢していたのに、やっぱり泣いてしまった。興奮がすっかり冷めた様子になったメロダークは、寝台の端に腰掛けている。裸のまま毛布にくるまって泣きじゃくるマナの肩を抱いていたが、やがてぽつりと
「すまなかった」
 と言った。
「軽率だった。許してくれ」
 汗に濡れたこめかみにキスをされる。先ほどまでとは違う優しく冷静な手の動きに、今度は悲しくなる。
 マナは頭をぶんぶんと横に振った。謝られたらここに至るまでの全部が否定されてしまうような気がして、そんなのは嫌だった。
「……あ……謝らないで……」
「怖がらせた」
「こ……子供扱いしないで。また……また、してください。ううん、しましょう。次は大丈夫です」
 男の手をつかんで手繰り寄せ、泣きながら頼んだ。
「大丈夫です。考えてみたら、ぜ、全然、大したことでもなかったし……平気です。次は最後までちゃんとできます」
 メロダークが一瞬、息を止めた。何かを言いかけ、黙った。不安になったマナがメロダークの手をぎゅっと握ると、無言でそれを握り返される。
「大丈夫です。言ってください」
 マナが言った。メロダークがためらっているのに気づいて、「本当に大丈夫ですから」と繰り返す。とうとう、思い切ったようにメロダークが口を開いた。
「……まだ何もしていない」
 マナがゆっくり瞬きした。
「えっ?」
「どう言えばいいのかわからんのだが。……全部を……うむ……一日に例えるなら、あそこまでで大体、朝食の後くらいだ」
 マナが沈黙した。メロダークの顔をじっと見つめていたが、嘘や冗談で言っていないことを飲み込むと、そのうちに耳まで真っ赤になった。枕を手に取り、男の胸をそれで思い切り叩いた。
「おい」
「メロダークさんは……ううう……一体、何を考えているんです!?」
「待て、落ち着け、俺が考えたわけでは」
「あんなことをしておいて、まだ何もしていないって! 信じられない! 馬鹿! 最低! なんでそんなにいやらしいんですか! 知らない! もう知りません!」
 罵倒の最後に枕を投げつけると、マナは毛布をひっつかんで頭から被り、寝台に転がった。ふて寝した。


「海辺なら楽なのだが」
「大河とは違うんですか」
「塩なので体が浮く」
 意味がわからなくてマナがきょとんとしていると、メロダークが「塩水では、体が浮くのだ」と言った。
「はあ……それはまあ、浮きますよね。水の中だと」
「浮かんだろうが、おまえは」
「それは私が泳げないから」
 塩水と体が浮くことが結びつかない。
「その塩はどこから来るんです?」
 メロダークが黙った。長い間考えこんでいたが、
「知らん」
 と怒ったように言った。
「からかってるんじゃないでしょうね?」
 不安になってそうきくと、メロダークが渋い顔になった。
「なぜそんなことをせんといかんのだ。本当の話だ」
「あ、すみません。そうですね……メロダークさんがおっしゃるなら、きっとそうなんだと思います」
 今ひとつ理解出来ないままマナがそう頷くと、メロダークが手にした枝で組んだ薪を叩いた。火の粉が吹き上がり、薪が燃えて白くなった部分から乾いた音を立てて崩れ落ちる。濡れたマントからは湯気が立っている。
「行けばわかる」
「ええ」
「海水だけではない。風にも塩が含まれているから、一日海辺にいると、髪や服が塩気を帯びる」
 理屈はなんとなくわからないでもないが、どうも上手く想像できなかった。
「いつかお前が――」
 それきり黙った。
「なんです?」
 マナが先をうながすと、メロダークが思い切ったように、言った。
「いつかお前に海を見せることができればいいと思ったのだ」
 そうですね、私も見てみたいです、何の気なしにそう相槌を打とうとしたマナは、言外に匂わせた意味に気づいて、はっとしてメロダークを見た。焚き火とは関係なく頬がとたんに熱くなったような気がして、火を起こして頂いてよかった、心底そう思った。炎を睨んでいたメロダークは、ぶっきらぼうな口調で続けた。
「しかしそういうことにはならん」
「……そ、そうですか?」
「そうだ。絶対にそうはならん。当たり前だ。だからお前は自分でなんとかして海を見に行け。そうすれば、私が嘘をついていなかったとわかる」
「そんな、嫌な言い方をなさらなくてもいいのに」
 マナが大きな声で言った。
 少女が涙ぐんでいるのを見て、メロダークは驚いた顔になった。

海のこと』の没分。 ▲Top

悪戯

 のどかな春の日差しが洗濯物の上に落ちている。女たちのにぎやかなしゃべり声が騒々しい足音と共に遠ざかっていき、代わりに軽やかなマナの足音が近づいてきた。
 随分と機嫌がいいなと思いながら、彼は、石造りの壁にもたれてうつむいたままでいた。空になった洗濯物の籠を手に角を曲がってきたマナは、物陰に座り込んだメロダークに驚いたようだった。
「どうしたんです、そんなところで?」
 メロダークは返事をしなかった。マナが周囲を見回す。人の気配がないのを確認してから、彼の隣にしゃがみこんだ。
「ご気分でも?」
 心配そうにメロダークの顔を覗き込み、それから、ぷっと噴き出した。
「……洗い場が占領されていてな」
 字を習いに来た子供たちに黒インクで落書きされた顎と頬を撫でながらつぶやいた。くすくす笑ったあと、「隠れているんですか?」とマナがきく。
「そうだ」
「じゃあ、静かにしていないと」
 マナの両目がいたずらげに輝いた。伸びてきた指先が耳の後ろに触れ、そこをくすぐる。
「……」
「声をだしたら、見つかってしまいますよ」
 身を捩って少女の手を逃れようとすると、マナは彼の体に抱きついてくる。くすくす笑いながら顎の下や首や敏感な場所を次々とくすぐりだした。「ほら、ほら、静かにしていないと――」もつれ合ううちに、半ば地面に横たわり、マナの体を抱えるようになっている。こんなところを誰かに見られたらまたいらん噂がたつと焦る一方で、柔らかな重みに気持ちが抑えられなくなる。とうとうマナの手首をつかまえて、「あっ」とうろたえた声をあげた少女の首筋を吸った。
「ん――駄目、それ、ずるい……」
 身を捩ったマナの体を抑えこみ、汗の浮いた肌にもう一度唇を寄せた。
「……本気になる」
 メロダークがささやくと、マナが潤んだ目で彼を見上げた。息が乱れているが、駄目、とはもう言わなかった。メロダークは少女の腰に手を這わせた。
 ややあって、あ、とマナが声をあげ、メロダークから体を引き剥がした。黒いインクがうつった頬を擦り、「……忘れていました」と情けない顔になる。  

接吻

(! グッドエンド後に嫌な感じ)

 紅色の花は八重に重なりあって咲き乱れ、枝が重く垂れ下がってホルムの墓の列を彩り、そうやって花に覆われた神殿の五月が来た。
「去年は気がつきませんでしたけれど、この木、刺があるんですね。触ったら怪我をしそう」
 そう独りごちながら、マナは墓石の上に伸びた枝を折ろうとした。だがいつものように背後に控えていたメロダークが手を伸ばし、マナより先にそれを掴むと、力を込めて枝を折った。驚いて振り向いたマナに、メロダークはいくつも花のついた枝を渡した。
「……飾るなら、それを。残りはあとで私が始末しておこう」
「ありがとうございます」
 つぶやいたマナは、赤い花と小さな刺をいくつもつけたサンザシの枝をそっと両手に乗せた。怪異が収束して何年経ったか。欠かさぬ日課となっている夕方の見回りであったが、メロダークが自分から口をきいたのは久しぶりだった。マナの意向を確認せずに、己の意志で何ごとかをするのも。
 夕暮れの墓地に人の気配はなく、手渡されたサンザシの花からは甘い香りがした。メロダークは彼女の後ろではなく傍らに佇んでいて、まるで探索をしていた頃のようだと思い、そのせいでマナは、らしからぬおしゃべりをしたくなった。花から目を上げ、「メロダークさん」と彼女の忠実な従者の名を呼んだ。
「先日、領主様からお話があったんです。ナザリに新しく尼僧院を作るから、そこの院長にならないかって。大公陛下が直々に私をご指名になったんですって」
 メロダークは表情を変えなかった。いや、伏せた睫毛の奥にかすかな動揺の影が走ったようだったのは、マナの見間違えだろうか? マナはすっかり身についた物憂げな口調で続けた。
「まだ若くて経験もない私にはもったいないような名誉なお話なんです。ただ、背後にユールフレールの大神殿の意向があるらしくて。尼僧院の院長になってしまえばいつでも辞められる気楽な巫女と違うから、ほら、きっと、ずっと子供を作らないでしょう? あの人たち、まだ怖がっているんです。私の血統から次のタイタスが生まれることを。馬鹿げていますよね。私が男の人を好きになるようなこと、もうあるはずないのに」
 相槌を打つどころか身動ぎすらせず、メロダークは墓石のひとつのようにそこに立っていた。語り終えたマナはふっとため息をついた。
「メロダークさんはどうお思いになりますか?」
「……巫女長殿は……」
「私はメロダークさんのご意見が聞きたいんです」
 メロダークの答えは残酷な素早さで返って来た。
「お前の好きにすればいい。俺はただ従うだけだ」
 夕闇がホルムの空を覆いはじめていた。ランタンに火をいれる頃合いであったが、墓地に面した神殿の回廊も窓も真っ暗であった。二人は向き合って立っていたが、マナはメロダークの表情を伺うためにいつもよりも側へ近づく必要があった。マナはしばらく男の顔を見つめていたが、疲れたように微笑した。
「尼僧院に行ってしまえば、もうお別れになりますね。メロダークさん。長い間、よく仕えてくださいました」
 マナは枝を持っていない方の手で、男の頬に触れた。メロダークはかすかに息を飲んだが、その手を振り払おうとはしなかった。
「お別れの挨拶にキスをして差し上げましょうか。あの時のように」
「……マナ、あれは……あのことはもう……」
「キスさせてください」
 マナが言った。大河の巫女がまだ少女だった頃に口にしたのとまったく同じ言葉で、相手も同じ男であった。女の声と両目に微かな怯えが揺れていることまで、あの時と同じだった。
「でも、どこにキスすればいいのかしら。今度はメロダークさんが選んでくださいませんか。頬、額? 髪? それとも指先?」
 沈黙が落ちた。
 長い長い沈黙だったが、その間、メロダークは結んだ唇を震わせることすらしなかった。
 やがてマナは、晩春の夜の冷気にかじかんだ指を、男の頬から離した。一歩後ずさると男を睨みつける。
「わかりました」
 先ほどまでの少女めいた畏れは消え失せ、大河の巫女は怒りに燃えるような目をしていた。
「あなたはそれすらお選びにならないわけですね。最後の――私の――こんなことすら! ええ、それなら、私が選んで差し上げます。いつものように私が決めましょう。唇でよろしいですか?」
 震える声で叫んだ女は、一転して低い声で命じた。 
「目はつぶらないで」
 枝を握り締めた片手を振りあげると、マナは勢いよく男の唇を叩いた。
 鋭い枝が男の唇を、頬を、顎を切り裂いて、散った血と花びらが娘の白い顔と巫女装束にかかった。
「これがあなたに与えることのできる、私のキスです」
 そう吐き捨てるとマナは枝を地面に投げ捨て、振りかえりもせずに墓地を去っていった。
 残されたメロダークはいつもと同じ沈黙を保っていたが、やがて膝をつき、マナが捨てたサンザシの枝を拾った。それが女のたおやかな手であるかのように掬いあげると、先ほどまで彼女の指が握りしめていたその場所に、血のまじりあった口づけを落とした。
 

信仰

 ホルムに帰還し、列柱の影が並ぶ回廊を歩く少女の姿を見たとき、初めて、自分の信仰が完全に変節したことを知った。
 祈祷書を両手で抱えてしとやかに歩いていたマナは、通路の先にいる彼に気づいたとたん、ぱっと笑顔になった。駆けて来たそのままの勢いで彼に飛びつき、彼の腕と腰をつかまえて、抱擁のような格好になる。
「お帰りなさい、メロダークさん!」
 曇りのない笑顔に、メロダークは笑みを返さなかった。
 身を屈めて少女が足元に落とした祈祷書を拾い、手渡した。
「長い間留守にしたな。すまなかった」
 そっけない態度をマナは気にした様子も見せなかった。彼がいつも、他人からは疎まれるような態度の悪さを示しても、マナは気にしない。
「ありがとうございます」
 礼を言って祈祷書を受け取ると、
「お留守の間、寂しかったんですよ。ご無事で何よりです」
 そう言ってまた彼の片手をつかむ。
「アダ様も喜ばれますよ! 今、皆食堂に揃っているのです。一緒に行きましょう」
 小さな手の優しい指の力や、ふりむいた瞬間にひるがえった髪の間にのぞくうなじや、ふわりと漂った香の匂いに疲労した体が敏感に反応して、メロダークはマナの手をやんわりと振りほどいた。
「いや……まず着替えてくることにしよう。船旅で汚れている」
「そんなの気になさらなくても……」
「すぐに行く」
 そう言ってマナを残し、足早にその場を立ち去った。
 暗い通路から振り向くと、マナはまだこちらを見つめていた。髪も肌も服も、すべてが白く光っていた。

ファイル名が「身体検査」だったのでエロにするつもりだったんだと思います。▲Top

メ……

 昼過ぎには雑務が終わり、神殿を訪れる信者がいない日には、夕方の祈祷までの時間がぽっかりと暇になる。
 駆け足で外套を羽織り、エンダと一緒に神殿を出ようとしたところで、外出から帰ってきた巫女長のアダとばったり出くわした。
「今日もひばり亭かい」
「はい!」
 元気よくそう答えてから決まりが悪くなって足を止めたマナを、決まりの悪さとは無縁のエンダが元気よくどやしつける。
「おいマナ、急げ! オハラに怒られても知らないぞ!」
 階段を三段飛ばしで駆け下りていったエンダを見送りながら、アダがきいた。
「オハラさんになんで怒られるんだい」
「今日はひばり亭をお掃除する約束を」
「あんたとエンダで?」
「汚してしまって」
「なんでだい」
「あのう、つまり、この間の晩、皆でお食事をしていたら……魔術の技くらべ、に、なって……」
 さすがに呆れた顔になったアダの視線を受けて、マナは首をすくめた。
「私は止めに入ったんです。でもすごいのを見せてやるってテ……探索者の方が、ですね。それで、えっと、火を消すのに水を、ですね」
「テ……には次の礼拝日にはちゃんと顔を出すよう言っておきな。まったく、あの娘も世話の焼けることだよ」
「はい」
「メ……の方はどうなってるんだい」
「えっ! どなたです?」
 すっとぼけてみたが、うまくいかなかった。すぐに赤くなってうつむいたマナは、「どうって。どうもしないです、そんなの」と、子供っぽく拗ねたように言い訳した。
「なんでごまかすんだよ、まったく。あんたもあんたで面倒な子だね」
「ごまかしてないですよ。だって、何もないですから」
 アダは少女のしどろもどろの嘘をまったく無視した。
「部屋はいくらでも空いてるんだから、さっさと越してくりゃあいいのに。なんだねあれは、はっきりしない」
「メロダークさんのせいじゃないです。わ……私が、駄目だって言ってるから」
 おや、と養い親に見下ろされ、マナはうなだれた。
「だってあの人、好きとか……私のこと、好きとか、そ、そういうのじゃないし」
 沈黙が落ちた。長い沈黙だった。マナが恐る恐る見上げると、アダは、ものすごく面白そうな笑顔になっていた。つまり、とてもにやにやしていた。一瞬ぽかんとしたマナは、
「アダ様! もう! 違うんですってば!」
 とますます赤くなって抗議した。マナにくるりと背を向けると、老巫女はホルムの大通りまで響く高らかな笑い声をあげはじめた。

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共寝

 ひばり亭の部屋の扉は無用心に開きっぱなしで、覗いてみると、寝台の上ではメロダークが全力でごろごろしていた。
 あまり見ない光景なので、マナは少し感動した。マナに気づいて起き上がろうとしたメロダークに、そのままで、と合図する。部屋に入り後ろ手で扉を閉めながら、マナは
「メロダークさんでも、だらだらなさることがあるんですね」
 と、感心したように言った。
「雨だからな。やる事がない。何か用か?」
「いえ、何も。ネルのところで買い物をしたので、ついでに寄っただけです」
 礼拝用の蝋燭の詰まった道具袋を足元に置くと、マナは外套を脱いで壁に掛けた。寝台に長々と寝そべったメロダークが、端に寄って場所を空ける。マナが走ってきて、寝台に飛び乗った。
「……」
 腹這いになって枕を引き寄せ、メロダークにえへへと笑いかける。
「雨だとやる事がないですね!」
「……神殿はいいのか」
「夕方には戻ります」
 本当は明日の礼拝の準備をせねばならないのだが、それは夜にやることに決めた。枕に肘を置き、メロダークが体の下に敷いた毛布を引っ張ったが、メロダークがどいてくれないので諦める。ただでさえ狭い寝台にただでさえ図体のでかいメロダークがおり、二人で寝そべるとひどく窮屈だ。最初の頃はこういったことに逐一狼狽していたメロダークだが、最近ではあまり動じなくなった。壁にぴったりと背をつけてマナからは極力距離を取り、相変わらず感情の読みにくい無表情さを保っている。マナは無頓着に、メロダークの懐に潜り込んだ。
 こうやってくっついていると安心する一方、なぜかそわそわする。これまでに経験したことがない不思議な感覚で、この気持ちがどこから来て何を意味するのか知りたくなる。もちろんメロダークがそれを許してくれるならの話だが。それで、私がくっつくのお嫌ですかと一度率直に尋ねてみたところ、メロダークは半眼になった。長い沈黙の末、好きにしろ、と言った。考えてみればちゃんとした答えになっていない。だが、少なくとも嫌ではないということなのだろう。それでマナは、好きにしている。
 メロダークは目を閉じている。眠っているわけではないようだが、マナが話しかけても返事がない。マナもそのうち眠くなって、メロダークには背中を向けてまどろみはじめた。
 そのうち背後から手が伸びてきて、抱き寄せられた。背中にぴったりと男の体温を感じると、ますます安心する。自分を抱きしめる男の手に手を重ねて、じっとしていた。
 振り向いて、戒律は破る、そう言ってしまえば楽なのに、踏み切れない卑怯な自分がいる。

後日

 数日してようやく、体から痛みが引いた。
 その頃には恥ずかしくてたまらなかった首筋と胸元の接吻の跡や、全身のあちこちについた鬱血のあとも薄くなり、マナは、行為の痕跡が消えていくことに今度はひっそりとした寂しさを感じていた。それというのも、町中やひばり亭では何度かメロダークと顔をあわせたが、人前では男はマナに対し徹底して以前と変わらぬ平静さを保っていたのであった。初めての恋に浮かれるマナにしてみれば、それは冷酷きわまりない残酷な態度だった。
 マナもまた表面上は朗らかに振舞っていたが内心では泣き出したいくらい悲しくて、実際、夜に自室で寝台に潜り込んだあとは、枕に顔を押し付けて毎晩べそをかいていた。舞い上がった自分があんなことを口走ったからメロダークさんはそんな気もないのに私に恥をかかせまいとああいうことをしたのだと思ったり、いや自分が彼を喜ばせることができなかったからお嫌いになったのだとか、信仰を誓うと言われたくせに自分は好意を勘違いしたのだ、いやそうではなくてあの人は巫女の自分が簡単に求めに応じたのに幻滅したのだ、メロダークのことを考えて考えて考えて、自分の感情に振り回され、へとへとにくたびれて眠りにつく数日を過ごしていた。
 他に誰もいない場所で、マナがメロダークを捕まえることができたのは、それから十日もしたあとの夕暮れであった。
 参拝者も姿を消し人気がなくなった墓地で、墓の前に立つ長身の男の影を見かけ、二人になる機会があれば文句の一つも言ってやろうとずっと思っていたのに、急いで走っていってメロダークの隣に並び、顔を見たとたん胸がいっぱいになってしまう。メロダークは、駆け寄ってくるなり、いきなり涙をこぼした少女に面食らったようだった。
「……おい、どうした」
「メロダークさんが……私のこと……私のこと、お嫌いになったから」
「俺が?」
 仰天した声をだしたメロダークが、マナの手をつかみ、大樹の影へと引っ張っていった。神殿や通りからは見えない木の影に少女を引き込むと、そこに立たせる。唇を固く結んでぽろぽろと涙をこぼしていたマナは、こちらを見下ろす男の目をみたとたん、自分の勘違いを悟った。あ、違う、この人は私のことを好きだと気づいて、気持ちを疑っていた自分の愚かさが恥ずかしくなる。謝罪しようと口を開きかけたとき、メロダークが拳を固め、マナの頭上の幹を、頭上の枝葉が揺れるくらいの強さで――彼にとっては『軽く』叩いただけだったのだが――殴りつけた。ぎょっとしたマナが息を止めたところに、「泣くのをやめろ」と鋭い声で命じた。
「何があったのか順序立てて話せ。ひとつも抜かさずにだ」
 捕虜を尋問するのと同じ口調であった。
 ――怒らせた。
 と、マナは思った。
 まじまじとメロダークを見つめたあと、マナは両手で顔を覆い、声をあげて、本格的に泣き出した。
 表情を変えないまま、メロダークがおろおろしはじめた。


レンデューム行


 タイタスは滅んだが、邪悪な生き物や夜種どものすべてが消え失せたわけではない。
 生き残った夜種は野や森に潜んで数を増やし、その夜種にねぐらを奪われた獣たちは、人里の側をうろつくようになっている。人もまた獣の仲間だ。食うに困った貧民が追い剥ぎとなり傭兵崩れの悪党どもが堂々たる山賊となって、それらを捕まえる武器も兵士も、今のホルムには足りていない。
 超自然の邪悪な脅威が去ったあと、地に残されたのは昔変わらぬ厄災と平和というわけだ。
 ホルムを出てから街道にはどこかピリピリとした雰囲気が漂っていたのだが、レンデューム郷に近づくと、突然空気が穏やかになった。
 郷の長老や子供たちと一緒に村の入り口までマナとメロダークを出迎えてくれたフランは、山賊や夜種の被害がないかというマナの質問に首を横に振り、遺跡の魔女などは例外中の例外で、レンデュームの周辺はいつも平和だ、と言った。
「そういう土地ですから」
 と、よく考えるとかなり物騒なことを言う。
 かつてマナたちが修羅丸と戦った村の広場も、今は平和だ。身軽な格好の子供たちが、NINJA! NINJA! と歓声を上げながら、ホルムの子供たちの倍くらいの速さで駆けまわっていた。元気だ。
「後はギュスタールが見つかれば、あたしたちも安心できるんですが」
「ギュスタールさんも他の方も、公子の命令に忠実に従ったまでのことです。忠誠に罪などありません」
 マナの言葉にフランは一瞬、困ったような寂しげな微笑を浮かべたが、すぐに話を切り替えた。
「ホルムの皆様は元気にしてらっしゃいますか?」
「ええ、皆変わりありません。エンダは元気すぎるくらい」
「エンダ様らしいですね。マナ様とメロダーク様は、これから……」
「シリン村の跡へ。遺跡が見つかったそうなので、数日滞在して探索をするつもりです」
「お二人でですか?」
「はい」
 遺跡には数多くの扉がありそこには危険な罠も多いが、マナとメロダークは二人とも開錠や罠の解除ができない。パリスとネルにも頼んだがこの時期は店が忙しく、それでマナはフランを頼ってレンデュームに来たのだった。だがマナがそれを言う前に、フランが突然「はう!」と声をあげた。マナとメロダークを交互に見やりながら、後ずさる。なぜか赤くなっている。
「マ、マナ様、つまりそれは……それは! し、し、新婚旅行! ということなのでしょうか!?」
「なっ」
「えっ」
 マナとメロダークが同時に大きな声をあげ、とっさに相手がしゃべるのを待って同時に口を閉ざし、また同時に口を開けて閉ざし、顔を見合わせて、相手が狼狽しきった顔になっているのをお互いに見てしまう。
 結果として『図星を指されたような雰囲気』を醸し出してしまい、それに気づいたマナは、ますます慌てた。さっきまで周囲を走り回っていた子供たちがフランを取り囲むように集結し、何ひとつ遠慮のない好奇心あふれる輝く目で二人を見つめていた。
「ち、ちが……!」
「新婚旅行!」
 子供の一人が絶叫した。たちまち他の子供たちが唱和する。
「シンコンリョコー! シンコンリョコー!」
 真っ赤になったフランが、こくこくと頷いて全力で肯定している。

屋根

 重なりあう足音と話し声が聞こえてきて、マナは長櫃の蓋を閉じ、急いで立ち上がった。扉を開けて廊下を見る。いつものようにしゃっきりと背を伸ばして足早に歩くアダと、その後ろに梯子を抱えて従うメロダークの姿が見えた。
「足を滑らさないように頼むよ。あんたくらい図体がでかいと、治療室に運びこむのも一苦労だ」
 アダの声はいつも通り遠慮がない。マナは扉を開いて二人を迎え入れた。窓際から外へ突き出すように梯子をかけ、そこからメロダークが屋根の上に上がるまで一騒動で、梯子を押さえた巫女は二人で、庇の向こうに消えていく男の靴を見上げていた。エンダが数日前に壊れた屋根を修繕する『手伝い』をしてくれたせいで、宿舎の屋根の雨樋が全て詰まってしまったのだった。
「メロダークさん、気をつけてくださいね」
 声を張り上げると、返事のつもりか金槌を打ち付ける音がした。屋根の上でメロダークがごそごそと動きまわっている気配がある。
「今の季節は港も畑も忙しいから、男手があるのはいいもんだね」
 澄ました顔で老巫女がそう言った。マナは養い子の気楽さで、「だからってあんまり御用を言いつけられるの、駄目ですよ。メロダークさんは頼まれたらなんでも引き受けられてしまう方なんだから」とアダに釘を刺した。
「なんでもなんてことはなかろうよ」
「なんでもですよ」
「あんたと所帯を持てと言っても、うんと言わない」
 頭上からは金槌の音が鈍く響いてくる。メロダークは雨樋を端から修繕することに決めたようだった。マナが最初の衝撃から立ち直るまで時間がかかった。ようやく硬直がとけてから、メロダークには聞こえないよう、小さな声でささやいた。
「本当にそんなことおっしゃったんです?」
「ほら、お前が子供の頃に住み込みで働いていたアイエの神官夫婦がいただろう。あの子たちが使っていた部屋がそのまま空いているから、あそこに入ればいいってね」
 梯子の脚にしがみついたマナが大きくあえぎ、震え声で言った。 「あの方、なんて? そしたら、なんて?」
「前と同じさね」
「前? まえ? 以前にもお聞きになったんですか!? アダ様! 私に何もおっしゃらずに」
 強い口調でなじられて、アダはむっとしたようだった。
「お前さん、私をなんだと思ってるんだね。いくらこの町が田舎でのんきだと言っても、神殿住まいのあんたがあまりだらしないことじゃ困るんだよ。大体相手が小僧ならともかくだね、いい年をした大の男が大河の巫女を相手にいい加減な……」
「あっ……も……も、申し訳ありません。悪いのはメロダークさんじゃなくて……でも、でもそんなこと、私に内緒で二度も……」
「二度? 二度だって?」
 アダはいよいよ呆れた顔になった。
「二度なんてもんじゃない。ここに来るたびに言ってるよ」

 音を立てて梯子が倒れた。
 屋根から身を乗り出したメロダークが部屋の中を覗きこんだ。部屋にはマナの姿はなく、アダが一人で床に倒れた重い梯子を引き起こそうとしているところだった。上下逆さまになったメロダークと目があうと、老巫女は八つ当たり気味に言った。
「それであんたは、一体いつあの子と所帯を持つんだね」
 メロダークは今日も無言のまま、そろそろと頭を引っ込めた。

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