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蛍火

竜の塔 / キレハ アイリ メロダーク

 真っ暗な地底湖に浮かぶ小舟の上で、ひどくくつろいだ気持ちでいた。
 蛍火がともるのを待っている。
 遥かな頭上では風がぶつかりあい、遠く低く、獣の唸り声のように響いている。
 湖面は静かだ。さざ波の音とたどたどしい詠唱の声が混じり流れていく。船底に置いたランタンから漏れる橙色の光は、舟上の狭い範囲をぼんやりと照らしていた。
 立てた両足を腕で抱き、膝の上に顎をのせた姿勢で、キレハはとろとろとまどろみはじめている。敏感な鼻は、彼方の夜種どもの不快な体臭、獣の血、燃え尽きた炭と焼けた鉄を嗅ぎとっている。しかしそれらを圧倒し鼻腔を満たすのは、周囲を囲む澄んだ水と同乗した人間たちの匂いだ。
 不思議だな、と思う。
 彼らの匂いは嫌ではない。
 人一倍警戒心が強いはずの自分が安心しきっている。そう、探索の最中に眠気に襲われるくらいに。
 この町もこの遺跡も初めての場所なのにどこか懐かしく、出会った人々には昔からの知人と再会できたような親しみを感じる。成り行きで訪れた土地だが、怖いくらい肌になじむ。

 半分瞼が下りた目を、船尾に腰かけた少女の方へ向ける。
 アイリという名の少女は、両手で小杖を握りしめ、膝の上に広げた魔道書に目を落とし、一心不乱に呪文の詠唱を続けていた。
 ランタンより明るくて手が汚れないし油が切れる心配もないすごい呪文だ、それにただ本を音読するだけで魔法陣も契約もいらず発動は簡単、素人でも間違いがない――魔道書を片手にそう力説するものだから、ならちょっとやってみてよという話になったのだが、それから大分時間が経つのに、明かりはいっこうに灯る様子もない。
 キレハの故郷は、ここよりも魔術がさかんだ。
 炎や氷のまじないは彼女にとって親しいもので、それと比べてアイリのこの詠唱は――詠唱というより朗読だ――いくらなんでも稚拙すぎる――そう思う。頻繁につっかえては言いなおし、口ごもってはページを戻る。
 キレハはふあ、とあくびした。
 無駄な待ち時間だと思うが、苛立ちはなかった。
 言葉はたどたどしいものの、少女のよく通る低い声は耳に心地いい。
 声の響きだけならば一流の魔術師のようだと思う。
 それから過大すぎる評価を与えた自分に苦笑する。
 数日前に会ったばかりの、それこそ名前しか知らないような子に、ちょっと肩入れしすぎなんじゃないの?
 己にむかってそう問いかけるが、――いいじゃない、悪くないわよ。そんな甘い答えしか頭に浮かばない。

 ぼんやりとアイリを眺める。
 体は小さく顔立ちも子供っぽいが、態度と声はやけに大きい。酒場を出るまえに身内らしい青年が、絶対無茶はするなと熱心に申しふくめていた。アイリは神妙な表情で頷いていたが、当然無茶ばかりするのだろう。初めて会ったときだって、暗闇の中から川を横切り、たった一人で突っ込んできた。無謀な勇気だ。家族は心配でたまらないだろう。
 それも含めて変わった子だなと思う。
 でもあけすけな物言いもあけっぴろげな笑顔も嫌いではない。
 ――自分はこの少女を気にいった、そういうことだ。
 出会いは不思議だ。誰とも親しくなるまいと、あんなにも固く強く人を拒みながら旅してきたのに、偶然の一瞬で絆が生まれ、友情を感じてしまう。

 暗い湖水にランタンの光が反射したのか、少女の額のあたりでちらちらと白い光が揺れている。だがその光はやがて青い温度の低い輝きを帯びてきた。
 砂粒のように小さい青白い光が、ぼんやりと明滅し、ふらふらと揺れている。大きさも光の強さも本物の蛍のようだった。
 詠唱にかかった時間を思えば、ささやかすぎる成果だった。
 目をあげたアイリは一瞬会心の笑みを浮かべたが、すぐに落胆した表情になる。
「これだけ!? やー! もう、お終い!」
 突然癇癪を起したようにそう叫ぶと、本をぱたりと閉じて舟底に寝転がった。蛍火はアイリの動きを避けるようにふわりと流れ、空中で揺れている。
「頭痛い! すごい疲れた! コツがつかめない! 少しだけわかんない! なにこれもう! それに明るくない!」
 考えたことを全部口にするタイプらしい。
「油にはまだ余裕があるから、そう頑張らなくてもいいわよ」
 キレハが声をかけると、
「うー……できないのやだ」
 むくれた返事が戻ってくる。
「魔法は初めて?」
「うん」
「なら、ま、上出来なんじゃないの……どうしたの?」
 腹這いでじりじりと近づいてきたアイリが、キレハの膝に手をかけた。抵抗する間もなく膝をぐいと引かれ、横座りの姿勢にされる。太腿の上に、アイリがぽすんと頭をのせた。
 唐突かつ突然の行動にびくっとして体を引き、舟の縁に両手でつかまった。
「え、なななななに?」
「疲れちゃった」
 太腿の上でアイリがキレハの顔を見上げる。少女を振り払おうとする体の動きが止まったのは、アイリの顔にもかすれた声にも、濃い疲労の影が宿っていたからだ。
 ――昨日もずっと、死者の宮殿を探索したと言っていた。
 これまでに少女がどんな暮らしをしていたのか知らないが、この田舎町で洞窟が発見されたのはついひと月前の話だという。それまでは探索者とも怪物たちとも魔道書とも、姿の見えない敵に飛びかかる愚かな無謀さとも、まったく無縁の生活だったはずだ。
 望んでここにいるわけではない。ただ突然町を襲った混沌に翻弄され、暮らしを壊され、ここにいる。必死でもがいている。
 自分と同じだ。
 だからこの子が他人と思えないのかしら。
 そう気付いた。
 しかし――それはそれとしてだ。
 ちょっと待ってなんで膝枕とかさせられてるのなんなのこの子と狼狽する。甘えてるの? 甘えられてるの? でも私そういう人じゃないわよ! 人懐っこすぎない!?
「この蛍火はね、キレハさん」
 アイリが囁いた。
「ええ?」
「忘却界にいけず彷徨ってる死者の魂なんだってさ」
「……ふうん? それが?」
 幽霊や死者は別に怖くない。
 なのでそう答えたのだが、アイリはぼんやりとした表情のままだった。じっと見つめられている。不思議な目の色を見返していたら、するりと伸びてきた両手が首筋に絡みついた。え、と思う間もなくアイリの顔が近づいてくる。
 気がつくと上半身を抱きしめられていた。少女の体がぐったりと絡みついている。
 頭に血がのぼった。
「ちょっと何してるの!? 何、何、何! どうしたの!?」
「んー……わからない……でもキレハさんはすごく抱きつきたくなる……よく言われない?」
「初耳よ! ちょっと離して! 離しなさい!」
 バランスを崩して後ろに倒れこむ。舟が大きく揺れてもアイリは離れなかった。むしろさっきよりも絡まっている。背中に当たった舟底の冷たい木の感触と、少女の体の柔らかさの両方がキレハを混乱させた。アイリの眠たげな声が、熱い吐息とともに耳に潜りこんでくる。
「すごい不思議……なんか癒される……気持ちが落ち着く。キレハさんは?」
「すごい勢いで消耗してるわよ! ちょ、ちょっと、どこ触って! どどど、どこをあなたは!」
 絆の友情の警戒心のない好感情が、全部まとめて彼方へ吹っ飛ぶような大胆かつ的確な手の動きだった。
「うーん? 柔らかいところ……?」
「ひゃうううう!」
 本気の悲鳴をあげた時、耳元で、ごん、と固い音がした。
 ぎゃっと悲鳴をあげたアイリの頭がすとんと落ちた。
 逆さになった視界の中に、濡れたオールが飛び込んでくる。アイリの体を押しのけ、息を弾ませて起き上がった。
 舳先に座ったメロダークの方へ膝でにじりより、言った。
「た、た、助かったわ」
 傭兵は表情ですら返事をしなかった。アイリの後頭部を殴りつけたオールを引くと、無言で水面に戻した。
「本気でぶったぁ!」
 がばと体を起こしたアイリが、涙の浮かんだ両目でメロダークを睨みつける。両手で頭を押さえていた。
「できた! こぶができましたあ! もうっ、なにすんだよ!?」
「……」
 メロダークのこめかみが一瞬ひくついた。いつのまにか外されていたマントの留め金を直しながら、キレハは、この寡黙な男が本気で苛立っているのに気付く。真面目なものだ。
(でもほんとに真面目ならもっと早くに止めに入りなさいよ)
「あのね、頭はね! ここパリスにもぶたれたことないんだよ! 女の首から上は殴っちゃ駄目だって習わなかったの!?」
「……こんなところで馬鹿騒ぎをするからだ。無駄だ。時間の」
「止めるんなら口で言ってよね! 馬鹿になったらどう……」
 アイリの唇がぴたりと止まる。目が見開かれた。
「あ」と言った。
 激昂の欠片もない、素直な声だった。
「あ、あ、あ。わかった。むしろ利口になった。わかった。わかったわかった。そっか、止めるんだ。続けるの違うんだ。読まずに無理やり止めちゃえばいいのか」
 そうつぶやくと、物凄く真面目な顔になった。四つん這いで船尾に戻ると、放り出していた魔道書を取り上げる。ページを乱暴にめくり、背を丸め、呪文の詠唱を始めた。
 切り替えが早すぎてついていけない。
「……けだものみたいな子ね、もう」
 ぐったりとしてキレハはそうつぶやき、さして返事に期待もしなかったのだが、意外なことにメロダークは、こくりと頷いた。

 乱れていた髪を手でまとめ、キレハも気持ちを切り替える。
 舟に乗りこんでから時間が経ちすぎている。これ以上必要もない呪文に時間をかけるのは、メロダークのいう通り、時間の無駄だ。今日はもう行きましょう、そう声をかけようとしたが、口を閉ざした。
 アイリの詠唱は、ぎこちなさから完全に解放されていた。歯切れよく飛びだす言葉のひとつひとつに、みなぎる力が感じられる。さっきの一撃で、本当に“わかった”らしい。
 ――勘のいい子ね。
 少し感心した。
 最初に生まれた光の粒は、アイリの声に押されるように、ふわり、ふわり、揺れながら上へと登っていく。先ほどよりも明るさが増している。
 アイリの額のあたりに、青白い光がもうひとつ、現れた。
 最初の物よりも少しだけ大きい。
 二つ目の光は本物の蛍が番の相手を探すように、上昇を続ける最初の光の後を追う。まっすぐに近づいていく。またすぐに生まれた三つめの光が、詠唱を続けるアイリの顔を照らしだした。
 
 四つ、五つと光が生まれる。
 六つ。
 七つ。
 荒野で生まれ、大陸を縦断してここへ来た。
 故郷でも旅の途中でも、妖術師の怪しげな技はいくらでも目にする機会があった。キレハにとって魔法は特別な物ではない。雨を呼び風を送るまじないの歌は自分も使える。その力も、力を得るために魔道へ踏みこんだ人々の努力も、持って生まれた才能という奴も、様々な形の魔法を目にし、耳にした。
 だが、これは――。
 十の光は二十に増え三十に増え、それでも飽き足らずアイリが口を開き息を吐くたびに、次から次へと空中から湧き出てくる。ぶつかりあう互いが互いを飲み込んで、小さな光は大きさを増し、いつしか光の塊になり、塊同士が接触すれば身を震わせてまた結びつき、輝度を増し回転し、上へ上へと昇って行く。
 気がつけばいつのまにか首が痛いくらいに頭を倒し、ぽかんと口を開け目を見開き、天井すれすれにゆっくりと回転する青白い炎の塊を見上げていた。
 ――両腕を広げてもあの炎の球を抱え切ることはできまい。二人でももう無理だ。巨大に膨れ上がった魔法のともしびは、今や太陽のように煌々と輝き、四方を明るく照らしだしていた。ドーム型の天上も、彼方の土の壁も、巨大な白い石柱のひとつひとつも、点在する白い滑らかな石の島も、広大な地中湖のすべてが青白い光を浴びて輝き、隅々まで照らされている。
 本物の太陽ではないので両目で見つめられる。こんなに明るいのに熱がない。高い場所に上った時と同じように、脇に汗がにじみ、心臓がどきどきと脈打ちはじめた。高所でしがみつくべき枝を探すように、舳先に座ったメロダークを見た。傭兵もまた、キレハと同じく圧倒されたように、声もなく光を見上げていた。眉間に深く刻まれたいつもの皺は消え、口が薄く開かれていている。内心の恐れを剥き出しにしたその表情のせいで、ひどく幼い少年のように見えた。やがて視線に気づいたメロダークが、顎を引きキレハを見かえした。
 互いの目の中に――これは異常だ――そのひと言を、恐怖を、大いなる力に対する畏怖の念を見出す。
 つい先ほど、アイリは蛍火は死者の魂だといった。
 それならば圧倒的なこの光は、どれだけの数の死でどれだけの死者なのだろう。
 魔術師としての訓練を積んだわけでもない少女が、なぜこれほどの死と魂を呼び寄せることできたのだろう?
「ねえ、これちょっと明るすぎない? どうやったらもっと小さくできるんだろ?」
 少女一人が恐れることなく光を見上げ、屈託のないご機嫌な声をあげている。
 ――アイリの白い小さな顔が、さっきまでとは違って見えた。
 ためらいなく恐れもなく強大な力を行使する者が、すぐ傍らに座っている。
 思わず少女から目をそらした。
 舟の縁から下を見れば、濁りのない水は完全な透明で、視線は奈落の底まで落ちた。なめらかな鍾乳洞の岩肌を持つ地底湖の底の上を、目のない巨大魚の群れが空を飛ぶ鳥のように悠々と横切っていく。
 自分たちを乗せたこの小舟が想像を絶するような高みで揺れていたことに初めて気付く。体と心の両方がすくみ、かたく目を閉じ、舟の縁につかまった。



end

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