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秋の熱

古代都市 / キレハ

 眠い。
 つらい。
 体が火照る。
 咳がでて、頭がぼうっとする。
 つまり風邪だ。

 テレージャに治癒の魔法をかけてもらうか、ネルに薬を調合してもらうか、オハラに粥を作ってもらうかの三択で、でもまず最初はここから起き上がるところから始め、次に誰かに頼まなけばいけない。
 毛布にくるまったキレハは、微かな唸り声をあげる。寝返りをうつたびに乱れたシーツには汗がにじみ皺が寄り、体を動かすだけで不快だったが、起き上がるのはもっと億劫だった。
 ホルムに到着したその日から、キレハはひばり亭の一番端の部屋をねぐらにしていた。寝台を下りて扉を開け、狭い廊下を歩いていって階段を下りて――と考えただけで面倒だ。さらにテレージャなりネルなりに助けてと頼むのを想像すると、ますます全身がだるくなり、熱が上がっていくようだった。テレージャたちがどうこういうのではなく、相手が誰であろうと、頼みごとは苦手だ。
 熱が出ている今は特に億劫に感じる。
 辛い。気持ち悪い。寒い。でも熱い。だるい。
 でもこのままじっとしていたらそのうち熱がひかないかな、と思う。指一本すら動かすのが面倒だ。判断力の低下した頭で、じっとしておこうと決めた。

 ここがマルディリアで――寝台の周囲を囲むのが冷たい石の壁ではなく厚い布のテントで――床には石で組んだ炉があって、その周囲に家族がいればいいのにと思った。
 家族なら頼みごとをする必要がない。
 頼まなくてもいいし、頼まれなくてもいい。
 相手にとって必要なことをするだけだ。弱っているときは呼吸だけでわかるし、その原因が病気ならば匂いでわかるし、顔を見れば何が欲しいのか予想できる。言葉なんかいらない。ただぬくもりがあるだけだ。でもここには家族はいない。
 なんだか心細くて寂しくなってきて、涙がでそうになる。
 気が弱るのは病気のせいだ。

 冷たい手が額をおさえている。
 目を開けると、いつのまにか日が暮れていた。暗い部屋の中で人影が寝台の端に腰かけている。
 アベリオン、と言ったつもりだったが、腫れた喉はうまく息を吐けない。
 キレハはまた目を閉じた――ひんやりとした手の感触がものすごく気持ちいい。熱も心細さも溶けていく。
 そのまま手を離さないで、触っていてというと、アベリオンは無言で頷いた。
 変なの。
 私頼みごとなんか嫌いなのにあなたには言えるのね。
 アベリオンの手が離れないのに安心して、彼の手に自分の手を重ねた。平熱に戻ればこんなことはとてもできない――どんな顔してやればいいのよ、馬鹿じゃないの?――から、熱を出してよかった、と一瞬だけ思った。
 それを最後に安らかな眠りに落ちていった。

 次に目を覚ましたときには体はずっと楽になっていて、ただし周囲は大騒ぎになっていた。
 というよりも、大騒ぎのせいで目が覚めた。
 狭い部屋は湯気のたつ銅の鍋を持ってうろうろするアルソンとびちびち尾を動かす巨大な魚を手にその後についていくエンダと杖を宙に掲げ両目を閉じて集中するテレージャと右手に洗濯したてのシーツ、左手に洗濯籠を抱えたフランと濡れた布を片手に顔を覗き込むネルとでいっぱいになっていて、ネルが「あー目ぇ覚ましたよー」とのんきな声で言ったら全員が動きをとめて、キレハに視線が集中した。
「……なんの騒ぎなのこれは」
 唐突に訪れた静寂の中、横たわったままそう言った。
「いいから寝てて!」
 ネルがきっぱりと言って、手にした布を額にのせた。濡れた布はひんやりとして気持ちがよかったけれど、置き方が適当なので視界がふさがって、同時にみんなが動き出す。
「魚は駄目だよエンダ、病気の人は胃が弱って、ええと、お腹が痛くなるから生魚は駄目なんですよっ」「腹が痛い? ニンゲン食ったのか?」「キレハ様、少しだけ足を上げて頂けますか? シーツを交換してしまいますので……はい、ありがとうございます、次はちょっとだけごろんってしてくださいね」「だいぶ汗がひいてきたよ。もう大丈夫だよん。ご飯食べたらこっちの薬を飲んでね」「あれっ、お皿はどこに……わーネルさんそれスープの!」「ああっ、ごめーん! 薬入れちゃったよ!」「魚食べろ、元気になるぞ」
 大騒ぎだ。
「どうなってるのよ?」
 もう一度きくと、頭上からネルの声がふってきた。
「んー? お見舞いだよ。テレージャさんから熱出して寝込んでるってきいたから」
「……テレージャ?」
 左の乳房の上に手が置かれた。毛布と肌着を通してなお熱を感じる――人肌とは思えないほど熱くなり、声をあげかけたとき不意に呼吸が楽になり、きしんでいた関節から痛みが消え、熱い手が離れていった。布をずらし片目で見ると、テレージャがいつものからかうような目で自分を見つめていた。
「魔法で熱は下がるけれど、体調の崩れは自力で戻すしかないからね。しばらくはアルソンくんの手料理でも食べておとなしくしているといい」
「はいっ」
 テレージャの隣に控えていたアルソンがすかさず鍋を差し出す。暖かな湯気が鼻孔をくすぐり、お腹が鳴った。
「……」 
 赤面したキレハの頭の下からふんわりとシーツを引き抜き(そして体の下にはいつのまにか皺もなくぴんと伸ばされた清潔な新しいシーツが敷かれていることに気付き、キレハは真剣に、フランが魔法を使ったのではないかと疑った)、フランが優しく笑った。
「食欲があるのはいいことですよ。二日も何も召し上がってないんですから」
「ここに置いておきますからいっぱい食べてくださいね」
「魚食え、食わないならエンダが食べるぞ」
「アルソンくん、わたしも食べたいよこのおいしそうな鍋を!」
 誰かが額の布を取って、誰かから匙を手渡される。鍋に匙をいれ、透明なスープをすくい、口に運ぶ。香辛料と薬草の匂いがした。
「おいしい」
 小さな声で言った。まったく探索者たちというのは騒々しい連中で――でも気がつくと熱はひき清潔に整えられた寝床でおいしくて栄養のあるものを口にしていて――キレハは不思議な気持ちになる。何も頼んでないのに。二口目のスープを口に運んだとき、皆がわいわいと騒ぎながら部屋を出て行こうとしているのに気づいて、少し慌てた。
「……ありがとう」
 その声が届いたのか届かなかったのか。
 頼みごとは苦手だから、お礼だって滅多に言わない。でもありがとうという言葉は嫌いじゃない。
 最後に部屋を出ようとしていたテレージャが振り返った。
「どうしたね?」
「わたしが寝ているあいだに……アベリオン……が来たと思ったのだけれど。って何よその顔は」
「彼は――彼らは――帰っていないよ。しかしその夢が本当になるといいね……という、きみを気遣う気持ちに満ちた顔だ」
 気遣いのある人がそんなににやにやするもんですかと言おうと思ったが、黙った。もちろんアベリオンは帰っていない。わかっていた。彼が戻ってきたのならば、必ず彼の話題がでて、もっとお祭り騒ぎのようになっているはずだ。
 アベリオンたちが迷宮に姿を消して、もう四カ月になる。
 ホルムの町の探索者たちは最初の一週間は新しい迷宮への入り口を探し、次のひと月は残された手がかりを探し、その後は遺体を探すようになったが、そのすべては徒労に終わった。
 アベリオンが消えたあと、ひばり亭もこの町も色彩が欠けた絵のようで、迷宮から帰還するたびに異様な疲労感がたまる。季節外れの風邪をひきこんだのも、疲労のせいだとわかっているのだ。
 生還できるかどうかなんて、先頭をアベリオンが歩いていたときには考えたこともなかった。ともかくあの青年についていけばどんな迷宮からも必ず無事戻れると思って――信じて――そして実際、帰って来れた。
 その彼が帰って来ない日が来るなんて、一体、誰が予想しただろう?
「ゆっくりお休み」
 テレージャが柔らかくそう言い残し、部屋を出ていった。
 キレハはまだ温かなスープを飲みながら、あれは本当に夢だったのかなと思う。手で額に触る。ひんやりとした感触がまだ残っているようだった。
 

 end  

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