TOP>TEXT

アベリオンとネル

/


 角を曲がれば新たな角が現れ、曲がりくねった通路の先はまた別の通路につながって、どこまでも石と岩だ。
 歳月の重みに押しつぶされた建物の群れは、古い自然の岩と区別がつかなくなっている。廃都の空を見上げれば月や星ではなく、ひび割れた岩盤が広がるばかりだ。
 魔法の杖を手に、仲間たちの先頭に立ち、暗い遺跡をさまよいながら、
 ――ここは、僕のいるべき場所じゃないな。
 ずっとそう思っていた。
 だからといってホルムの町が自分の場所だと思ったこともない。



  *



 子供の頃、春風に乗って一匹の蝶が大河を渡っていくのを見た。
 アークフィア大河の対岸は彼方だ。
 大河の向こうも同じ国なのだと先生から教わったが、卓上に広げた地図に描かれていたのはぼんやりとした茶色と緑のかたまりで、実際の対岸の光景と同じように、霧にかすんでいるようだった。
 その、果ても見えない、行き交う船もない、空と同じようにただひたすらに青く白い大河の上を、小さな蝶が飛んでいる。
 途中で力尽き波に飲まれて死んでしまうと思ったが、追いかけることもできず、白い花と似た羽が懸命に羽ばたく様子を河岸から見守っていた。
 その少し前、ネルの父親が死んだ。
 そのせいで、生き物の生き死にに、ひどく敏感になっていた。
 ネルの笑い声は以前と同じような朗らかさだったが、そこには拭うことのできないうっすらとした影があった。今もネルは明るく元気だが、以前のネルとは違う。悲しみはいつか癒されるだろう。それでもあの影は多分、もう、消えないのだろう。
 薬草の技で人々を助けるデネロス師の元で育ち、。育ての親を処刑された兄貴分がおり、自分自身も親はなく、まだ子供であったが、悲しみや苦しみに鈍感でいられる環境ではなかった。
 ――あの蝶にも、家族がいるに違いない。
 蝶の奥さんや幼い娘が、ホルムの町をひらひらと飛びまわり、夫であり父である一匹の蝶を探す様子をとっさに夢想した。悲しくなったが、すぐに蝶の子供は芋虫だと気づき、らしくもない感傷は身を潜める。しかし、そうなるとなお悲しいな、と思った。どうやっても後を追うことができないじゃないか。
 強い風が吹いた。
 波が高く伸び上がった。白い飛沫が白い蝶の周囲で踊り、一瞬、蝶はその波に飲み込まれたように見えた。
 あ、とアベリオンは身を乗り出したが、波が静まったあと、蝶は再び姿を現した。
 羽ばたいている。
 ホルムを離れて北へ。
 羽を休めることもなく、大河の彼方へと。
 粗末なサンダルが濡れるのも構わず葦の生い茂る波間に足を踏み入れ、少年は、小さくなっていく蝶を見つめ続けていた。



  *



「なんとなくね、わたしいつも、アベリオンがどこかにフラっと消えちゃうような気がしてたんだ」
 ネルの声には安堵が溢れている。
「子供の頃から、ずっと。えへへ。変だよね、こんなの」
 ほっとした笑顔になると、前掛けの帯に挟んでいた布で汚れた両手を拭った。格好だけならすっかり一人前の鍛冶屋だ。
 格好だけなら一人前なのは、アベリオンも同じだ。
 まじない師ではなく魔術師らしいローブ姿、マントを羽織り、しばらくの間にすっかり扱いなれた杖を握りしめ、ネルの顔を見つめている。一年の間に背が伸びた。以前は鳥の脚のようだった腕や貧弱だった胸板も、雪原や炎の塔を旅すするうちに、それなりに厚みを増している。今はもうネルと同じくらいの背の高さで、ネルと同じぐらい力が……あるわけではないが(開かない扉や道を塞ぐ大岩を前に、ネル、頼んだ! がってんだ! なやりとりはあいかわらずだ)、それとは別の強大な力を使うことができる。もっともアベリオン本人は、当分その力を使うつもりはないが。
 正面からまともに向き合い、顔を突き合わせる。ネルはアベリオンの視線を受け止めて、まっすぐにこちらを見つめている。白子族の町の後と同じだ。天空のアーガデウムを見上げ、立ちすくんでいたアベリオンの方を振り向いた時とも同じだ。
 アベリオンは口を開く。
 実を言うと、さっきまで迷っていた。
 町を出るのもいいかなと思っていた。
 でも今、きみに、町を出て行くのかと問われて気づいた、今の僕が望むことは――。
 そういう、正直な気持ちを言おうとするが、うまく言葉にできない。何度か口を開閉して、結局、無言になってしまう。それなのに、その沈黙のあいだに、ネルの頬が赤くなる。照れたように笑う。アベリオンを上目遣いに見る。今度はアベリオンが照れて視線をそらす。結局、いつものように、隣に並んで一緒に歩き出す。

 ネルの笑顔も足取りも弾んでいる。肩を並べて歩く。だが今日は距離が近い。近づきすぎているせいで、時々、手がぶつかる。お互いに謝るが、アベリオンもネルも離れて歩こうとはしない。
 二人のそばを煉瓦を積んだ荷馬車が通っていく。貧民街の方からは、かぁん、かぁんと釘を打つ金槌や材木を挽くのこぎりの音が、絶え間なく響いてくる。店の前に集まった女たちのおしゃべり、子供たちの笑い声。戦いが終わり、傷ついた町は新しい活気を取り戻していた。この小さな町で、古代の魔術に精通した若い賢者には、やるべきこと、できること、求められていることが山のようにあった。
 過去の栄光を封じ込めた地下と幻の都ではなく、陽光に溢れたこの田舎町、お姉さんぶるくせに危なかっしい駆け出しの鍛冶屋の隣が、アベリオンの居場所だった。



  *



 白い蝶が廃墟を舞っている。
 一匹ではなく二匹だ。
 割れた路面の下、燐光を放つキノコや植物が密生している。カブラ苔、クルカの葉、緑光黴、アセラスの葉。人の手に刈りとられることもなく気ままに伸びた香りの高い草の群れを祝福するように、二つの白い影がふわりふわりと踊り続けている。





end

TOP>TEXT