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殉教者の列

大廃墟/シーフォン アベリオン キレハ ネル パリス

 
 
 夢を見た。

  *

 多分そのせいで朝から不機嫌だった。
 神経が尖り、ひどい頭痛がする。
 この場所ではあらゆる物がそれぞれに魔力を帯びていて、魔術に通じた人間、つまりシーフォンにはそのあらゆる魔力が『見え』る。見えすぎることは気持ちが悪い。空気すら今日はシーフォンの敵だった。
 前を行くアベリオンが腰に下げた袋から漏れる青い光が一番ひどい。目を閉じ顔をそむけ意識をそらしてもそらしても、光は脳髄に突き刺さる。
「それ、どーして使わねぇんだよ」
 両足を投げ出し、崩れかけた石の壁に背を預け、シーフォンはとうとう不機嫌な声で尋ねた。
 アベリオンはパリスと二人で苦労しておこした焚き火の前にしゃがみこみ、串に刺した魚の焼け具合を眺めている。
「何?」
 目をあげずに聞きかえしてくる。
 こいつはいつもこうすっとぼけた返事をする。むかつく。むかつく。
「青金石だよ――寝不足で頭が痛えんだ。うるせえんだよそれ」
「ああ」
 大廃墟の南方を流れる暗い河で釣りあげた魚はこんがりと焼け、彼らが暖をとっている石の廃屋にはうまそうな匂いが充満している。シーフォンは炎からも熱からも隠れるように、建物の中で一番暗い場所を選んで座っている。いつでも暗闇はシーフォンの味方だった。頭痛と疲労のせいなのか、空腹であるはずなのに食欲がわいてこない。音を立てて黒く捻じれながら焼けていく魚はまったく別のものを連想させる。いらいらする。
 指についた油を舐めて、アベリオンがようやく答えた。
「普通じゃない」
 だから使わない、という意味なのだろう。いつものように言葉が足りない。
「僕だって見りゃわかるんだよンなこと」
 かちんときた気持ちをそのまま声にすれば、アベリオンが初めてシーフォンの方をむいた。焚き火のせいか、瞳が赤いように見える。馬鹿らしい。
「だから使わない」
 ゆっくりと言った。
 それはすでにシーフォンが予想していた言葉で、予想をなぞるようなアベリオンの平坦なその声に、シーフォンは自分への悪意を――拒絶を、非礼を、無理解を、嘲笑を感じ取る。馬鹿にされたことへのどす黒い怒りがわき上がる。
 しかしごく普通の儀礼的な会話であっても、自分はいつもそこに相手の悪意を感じとるのだ。アベリオンは僕を馬鹿にしているわけではない。きかれたことにただ答えただけだ。
 シーフォンの理性が感情をなだめ、だが感情は理性に吠えたてる。
 ――ああそうかい、それじゃあまたまた僕が間違ってるってわけかよ。
 腹を立てるのは自分で怒鳴られるのも自分、どちらが勝っても敗北するのは自分だった。
 頭痛がひどい。
 青い輝きは閉じた両目の間に突き刺さってくる。
 ふとその光が消えた。
 目を開けると、アベリオンがあいたほうの手で、腰の道具袋を握り締めていた。魔力が――青金石から溢れ禍々しいまでに輝いていた魔法の力が――アベリオンに触れ、和らいでいた。石と青年の力は共鳴しあっている。
 なんだよそれ。
 なんだよ。
 絶大な魔力すら自分は制御できるって僕に言ってんのかよ、見せつけてんのかよ? 頭痛のせいで膨れ上がる怒りを制御できない。なんでこんなに機嫌が悪くなってんだよ僕はとちらりと考えたがそれすらすぐにどろどろの赤い溶岩のような怒りに溶けこみ包みこまれていく。気がつくとアベリオンが何か言いたげな表情でこちらを見つめていた。
「なんだよ!?」
 アベリオンが頭を下げた。
 首にかけた細い銀の鎖を外すと、シーフォンにむかって投げた。手を出さず、それが自分の側に音をたてて落ちるのを興味のない目で見つめていた。親指の爪ほどの小さなメダルの表面には、蜘蛛の巣のような模様が刻んであり、うっすらと魔法の力を感じる。神殿で売っているお守りの類らしかった。
「悪夢よけだ。同じ部屋に置いておくだけで……」
「いらねぇよ」
 言葉を遮って吐き捨て、目をそらした。アベリオンは怒りもせずに頷いた。「そうか」とだけ言った。
 廃屋の入り口で外を見張っていたパリスが振り向き、低い緊張した声でアベリオンの名を呼んだ。
「夜種がこっちに来るぞ。数が多い」
 アベリオンは串に刺さった魚を手に立ちあがり、パリスと並んで外を見る。魚の腹にかじりつくと、数度咀嚼しただけで地面に吐き捨てた。
「生焼けだ――外で迎え撃とう」
「やりすごさねえの?」
「夜種は地上へ出る。なるべく全部倒したい」
「了解。行けるか、シーフォン?」
 パリスが背をむけたまま言う。その言葉にまた腹がたつ。なんだか普通に心配してるらしいのが心底むかつく。
「はぁ? 行けるに決まってるだろ、馬鹿」
 すぐにそう答えて杖を握りしめ立ちあがる。頭痛はますますひどくなっているが、気力は回復し、魔力は高まりつつあるのを感じる。怒りは研ぎ澄まされた刀の切先のように近づいてくる夜種たちへ向かう。やってやる。ぶち殺してやる。


 そして今日も死なずにすんだ。

  *

 また夢を見た。

  *
 
 暗闇についてはよく知っている。雷の術も我が物にした。聖闇地空水火雷、どの魔術に自分の適性があるのかを早くに見極めた。子供のうちからすべてわかっていた。知性と魔術の才能は溢れており、脆弱な肉体のなす技など端から軽蔑していた。少し動けばすぐに息が切れる。走れば遅く、重い物を持つことも押すこともままならず、水には溺れ、跳ぶことはできない。それでも誰よりも強く、誰よりも力があると信じている。知っていた。僕が一番だ。そのはずだ。
 大廃墟の固い地面に這いつくばり握りしめた白墨で魔方陣を書いていると息が切れてくる。土埃のせいだ――なんと情けない。咳のせいで複雑な呪文の配置と魔法陣の辺の長さを測っていた視界がぶれ、没頭していた意識が現世に戻ってくる。両膝と手で体を支え咳きこんでいると、己が死にかけたみじめな獣であるかのような気分になる。夕べの眠りが浅かったせいだ、そのせいでこんな妙な気持ちになるのだ。
「これって全部暗記しているの?」
 上からネルの声が降ってくる。うるさい。うるさいが声には率直な敬意と賞賛がこもっていて、ほんの少し気分がよくなる。 「あたりまえだろ」  シーフォンの手元に影が落ちないよう気をつけて隣を歩きながら、「すごいんだねえしーぽんは」と言う。ネルには魔法の才能がなく、しかしそのくせというかそれゆえなのか、魔法への純粋な憧れがある。純粋さは、シーフォンが評価する種類の事柄だった。力は純粋で強さも純粋だ。ネルのことは当然鬱陶しいが、別段嫌いではない。
 しかしそれはそれとして、そのへんな呼び方はやめろよと何度も繰り返している抗議をまたあげようとした時に、「ねえアベリオンは? アベリオンも全部暗記してるの?」とネルが大声で言った。大廃墟のここに至るまでに巨大な炎を呼びだしたアベリオンは、彼らから離れた場所で地面に横たわっている。返事はなかった。忙しく手を動かしながら、まだ返事もできねえのかよと思い、少し嬉しくなった。
 僕ならもう少し早目に回復できる。それに呪文の詠唱の早さだけが取り柄みたいな奴なのに、今日はやけに時間がかかっていた。あいつまだまだだな。
 アベリオンはどうやら首を横に振ったらしい。
「ふーん、そうなんだ」
 拍子抜けしたようにネルが呟いた。
 そうだろう、あいつは雷の術など使えない。アベリオンが得意なのはただの魔法だ。聖でも闇でも地空水火雷どれにも属さぬ魔法、単純にして強力な魔の力、元素の一にして全て、始まりにして終わり、一であり無限……。
 あることに気付き、さっきまで感じていた優越感がみるみるうちに消えていった――あいつ、この間までは魚を焼く火も起こせなかったはずだぞ。炎の呪文なんていつ使えるようになったんだ?
 おそらく夢を見たせいで、眠りが浅く、疲労が回復しておらず、だから脆弱な肉体が悲鳴をあげるのだ。
 また咳が出た。
「ねえ、だいじょ……」
「あーっ、もう、あっち行ってろよ! うるさいんだよ!」
 苛立って怒鳴りつけると、
「う、ごめん」
 ネルはびくっとした声で謝り、シーフォンの側を離れた。アベリオンの方へと行った。彼の隣へ腰を下ろし、何かを話しはじめる。ネルのおしゃべりに、アベリオンは時折短く相槌をうっている。やがてネルが楽しそうな笑い声をあげた。自分の時とは大変な違いだ。
(ほら、こうなることは分かっていたじゃないか。三人しかいなくて一人が怒鳴ればもう一人の方へ行くに決まってる。彼らは幼馴染みなんだから、そりゃあ楽しいさ。大体あいつはいつも冷静で、絶対に大声をあげたりしないものな。分かっていてやったんだぜ、お前は――ますます自分が腹を立てるのも知っていて!)
「うるさいぞ!」
 大声で怒鳴ると、ネルが怒鳴り返してきた。
「もーっ、小さい声でしゃべってるでしょ! 怒らないでよ!」
 アベリオンが立ち上がった気配があった。まだ魔方陣を書き終えていない。咳を続けながら、右手を必死で動かす。大神ハァル、くそったれの畜生、僕に力をよこせ……暗闇と雷は僕に力を与える、子供の頃から嵐の空が好きだった、黒い雲に塗りつぶされた天を雷鳴が走り紫色に周囲が染まるほんの一瞬を見逃すまいと、豪雨に打たれびしょぬれになりながら、空を見つめていた……。
 短い杖を手にしたアベリオンがやってくる。魔方陣には一瞥もくれずシーフォンの横を通り過ぎながら、言った。
「来るぞ」
「わかってるんだよ、バーカ。見てろ、ギッタンギッタンにやっつけてやる。なにもかも全部黒焦げにしてやらぁ」
 言い終える前に、広場の向こうから雷鳴のような音が響く。地鳴りと似た響きは、遺跡を徘徊する亡霊どもの群れが吠える声だ。巨大な建物の間から、白く淡く輝く死霊どもの一群がこちらへとやって来る。最後の線を引き終え、初めの線と最後の点が結びつき、己の尾を飲みこむ蛇のように始まりも終わりもない魔方陣が完成する。力がわき上がってくる。手の中で白墨が折れた。
 
 今日も死ななかった。
 
  *
 
 なぜ同じ夢を繰り返し見るのか、そろそろ考えた方がいい。

  *
 
 ひばり亭の酒場のいつもの席で、一人、『死者の書』を広げ窓の外を眺めていた――もはや慢性の病のようになった頭痛のせいで、うまく集中できない。複雑な装飾で書かれた古代文字の一文一文が、脳まで到達せずに眼球の上を滑ってこぼれおちるように思えた。
 手に負えないとは思わない。
 もちろんいつかは読解できるに決まっている。
 だがそのいつかがいつになるのか、予想すらつかない。『死者の書』はシーフォンの想像以上に難解で、複雑極まりなく、素晴らしかった。古代語を読める人間の中でも、これを理解できる人間は、そしてそれを元に呪文を構成できる才能のある人間は、自分以外にいないだろう……少なくともこの町には……デネロスのジジイならできるかもしれない、しかしあいつは老いぼれだ……僕だけだ、僕様だけだ、絶対にそうだ。だからあいつもすぐにこれを僕によこしたのだ。この書をあんなにあっさりと手放したのは、奴が自分では手に負えないと知っていたからだ。
 ひばり亭の裏は空き地になっており、その先には昼でも暗い森が広がっている。木々の間にちらちらと輝く物が見え、目を細めた。間違いない、アベリオンだ――銀にも見える灰色の髪が木漏れ日の隙間から落ちる陽光を反射し、柔らかく輝いていた。
 自分でも意識することなく、自然にアベリオンの周囲を見回し、他の誰かの姿を探していた。あいつはいつも誰かと一緒にいる。誰もがあいつの側に行きたがる。
 若く強大な魔力を持ち(僕の方が上だが)魔法の力を追い求め(これも僕の方が上だ)、偉大になろうと決めている(僕だってそうだ僕の方が渇望している)。
 なのになぜアベリオンの周囲には人が集まってくるのか、そしてなぜ彼がそれを許すのか、シーフォンにはまるで理解できなかった。
 力に対する恐怖は人間の本能に根付く本質的なものであり、地域や文化の差など存在しないはずだ。だからシーフォンは強い力を求める、孤独は力の代償であると同時に特権だ――ところがホルムの町の人間は老人や子供にいたるまでアベリオンをまったく警戒していない。彼を自分の孫や兄のように扱う。アベリオンもアベリオンで、ネルやパリスと酒場で談笑する暇を魔道書を解読する時間に充てればもっと強大な魔法を使えるようになるだろうに、それをしない。今日も今日とて矢の呪文だ。シーフォンには彼の態度が恵まれた環境と持って生まれた才能を浪費しているように見える。
 
 森の中のアベリオンは、ゆっくりと木々の間を行き来している。あちらに行ったかと思えばこちらへ戻る。薬草か茸でも探しているのかと思うがそういった風情でもない。覗き見は趣味ではないし、遺跡の外で奴が何をしていても興味はない。シーフォンは再び『死者の書』の読解に取りかかった。
 だがしばらくするとまた目を上げ、森に立つ魔術師を見つめていた。
 夕暮れの時間は通り過ぎ、じきに夜がやってくる。あいつはそのうち庵へ戻り、ジジイと話をしながら温かな夕食をとり、炉の側の子供の時から変わらぬ寝台の上で安らかな眠りにつくのだろう。
 頭がずきずきと痛む。シーフォンの頭の中を職場と決めて、くそったれの小人の鍛冶屋が熱したハンマーでそこら中を叩きまわっている。頭蓋骨が割れそうだった。固く目を閉じ、また開く。
 ホルムの遺跡には、アルケアの魔道書が大量に眠っている。この『死者の書』と同等の価値を持つ、あるいはさらに素晴らしい魔道書が地底には存在し、シーフォンが解読する日を待っているのだ。くだらないことにかまけている暇はない。
 アベリオンが大樹のそばでわずかに上半身をかがめている。
 体を揺らし、外套を脱ぎ捨てた。
 何やってんだよあんなところでと微かに眉をひそめたが、その理由はすぐにわかった。
 木の影から女の手が伸び、柔らかくアベリオンの頬をなでた。アベリオンの体が木の影に隠れた。

  *

 力は純粋だ。純粋だからこそ容赦がなく、すべてを己で満たそうとする。呑まれたくなければ支配するしかない。駆け引きや情の入る余地など一切ない。「だからきみも死ぬんだシーフォン」。暗闇はどこまでも広がり、この大地すべてを覆い、生のある者は一人だけだった。自分の心臓の音だけがきこえている。「助けてくれ」叫べば暗闇が口から入り込んでくる。体中の穴という穴を強引に押し広げ、体内へと潜りこんでくる。「助け」人間の指のように体の中で蠢いている。暗闇が侵入してくる。毛穴の一つ一つからも。敏感なすべての部分が凌辱される不快さに悲鳴をあげる。心臓の音が止まった。これが死かと思う。「苦痛が続く。永遠にだ。こんなことになるなんて知っていたかい?」
 
  *

「まだ死ではない、ぎりぎりまで死に近づいたけれどまだ死ではない――これがずっと続くんだ。知っていたらそれでもやったかい?」

  *
 
 ひばり亭の前で、アベリオンとネルとパリスが立ち話をしている。
 警戒心のかけらもない楽しげな様子で、彼らは探索者ではなくただの町の若者に見える。当然だ、数か月前まではその通りだったのだ。よそ者のシーフォンがいないから、三人だけで楽しそうに、仲間だけで気兼ねないおしゃべりをしている。
 ネルが突然、あっと声をあげてアベリオンの手首を捕まえた。アベリオンが低い声で何かつぶやき、そのとたん、パリスが頭をのけぞらせて笑いだした。
 黙って彼らの横を通りすぎ、ひばり亭の中に入ろうとしたが、ネルが「あっ、しーぽん待ってよ! ちょっとこれ見てこれ! アベリオンがひどい不良なんだよ!」と明るい声で呼びとめた。無視するつもりだったが、
「やめろよ、シーフォンは関係ないだろ」
 珍しくアベリオンが慌てた声をあげたものだから思わず足を止めてしまう。
「関係ないわけねーだろ、こら、こいつも仲間だぞ」
「そうだそうだ!」
 パリスが陽気にそう言って、ネルが賛同の声をあげる。シーフォンはなぜかぎくりとした。「仲間じゃねえよ」という声は彼らの笑い声にかき消される。パリスとネルが嫌がるアベリオンの体をおさえて、強引に頭を上向かせた――首の付け根にはっきりそれとわかる歯の跡が――唇ではなく歯の跡が!――赤く残っている。二人の手を振り払い、襟を直すと、わずかに頬を上気させたアベリオンが、妙に堂々とした口調で言った。
「だから――つまり――虫に刺されたんだ」
 パリスとネルがぷっと吹きだした。
「どんな虫だよ!? それ、気付かなかったってんなら、マジでかなり……おいおいどういうアレだ! この!」
「ぎゃー、不良だ不良! なぜまだ隠すか!? もうっ、探索を早目に切り上げたがると思ったら!」
「忙しくて掃除をしていないから……蚤だな、きっと」
 自分の首筋が見えないせいで、ごまかし方が少々おかしなことになっている。趣味の悪い大騒ぎではあったが、アベリオンのらしからぬ動揺をからかいたくなる気持ちはシーフォンにも理解できた。パリスたちと調子をあわせ、昨日森にいるのを見たぜと言ってさらに狼狽させてやってもよかった。さぞ楽しかっただろう――彼らと一緒に騒ぐのは。ただしそれは自分の気分が悪くなければの話だ。
 寝不足と頭痛でむかついていた。
 あるいは、もしかしたら恐怖のせいで。
「うるせえ」
 シーフォンの声に、三人が驚いた顔になって動きを止めた。
「くだらねえことで声かけんな。迷惑だ。友達ごっこをやってる暇はねえんだよ」
 そう吐き捨てると、ひばり亭へ入っていった。彼らの声の断片が、不快げに舌打ちする音がきこえた。
「……だよあいつ」
「寝不足なんだろう。そういうことは僕もある」
 アベリオンがするりと何気ない調子でそう言った――声がきこえた――片手を顔にあて、歪んだ自分の表情を隠した。くそったれ。またかよ。またしてもって訳かよ? 引き返して怒鳴りつけてやりたかった、しかしそうする代わりに背を丸め、何かに怯える者のような足取りで階段を上っていった。

  *

 大丈夫だ、今日も死なずにすんだ。
 よかったじゃないか。
 生命は素晴らしい!
 生きているからこそ肉を食い酒を飲み女を抱けるのだ!
 当然他人の命だって奪える。
 
  *

 なぜこんなにチリチリと眼球の裏を焼かれるような、睾丸をゆっくりと握り捩じられるような、背骨に太い針を刺されるような――このような苦痛を感じるのだろう。
 一瞬一瞬が苦痛の連続であるなら、肉体と生になんの喜びがあるのだろう? これらの苦痛を乗り越えて大いなる力を得たとして、それがさらなる苦痛を呼ばない保証が一体どこにあるのだろう?
『死者の書』の原本を胸に抱き横たわり天井を見上げていた。解読がまったく進んでいない。まだ上巻だけだというのに……『死者の書』にはまだ続きがあるのに。ページをめくるたびに目が痛み悲鳴をあげるように頭蓋骨の中で脳が軋む。集中力が持たず、先へ進み新たな理解を得ることを体が拒絶しているようだ。……。
(そんなわけねえだろ。根性が足りねぇだけだ。僕ならできる。魔道書を理解できなかったことなんて一度もねえんだ。あんな夢を見るのも根性が足りないんだ、それだけだ、もっと心が強ければあんな夢なんて絶対に見ないはずだ)
 ドアにノックの音がした。
 来客は珍しい、というよりもありえない。無視しているとやや間があって、今度は声がきこえた。
「いるか?」
「いねーから入るな」
 反射的にそう答えたが、すぐに扉が開き、アベリオンが入ってきた。鍵をかけ忘れていた――魔方陣でも作って、侵入者が焼かれるような罠を作っておけばよかった。次からそうしよう。だが今は部屋に入ってきた足音は無遠慮に近づいてくる。
「死ねよ」
 一応そう言ったが、当然死ぬような気配は見せなかった。片手に持っていた黒っぽい布を、シーフォンの枕元に置いた。
「見舞いだ――ネルとパリスと、僕からの」
「持って帰れ、死ね」
「『死者の書』は一旦休憩しろ、一度に読むような物じゃない、具合が悪くなって当たり前だ、死ね、という伝言だ」
 シーフォンがじろりとにらむと、「デネロス先生からだ」とにこりともせずに言った。
「最後のは僕の言葉だ」
「……うるせえ、ほっとけよ、入るな、あっちへ行って乳くりあってろ。その間に僕は……この書を……おまえよりもずっと強く……」
 舌がもつれる。
 アベリオンがなんの容赦もなく部屋を出ていこうとしている。だが振りむいて、一瞬、ためらうような表情を見せた――言った――「さっさと回復しろ。皆心配してる……それなりに」
 シーフォンは目を閉じ、扉が軋みながら閉ざされる音をきいた。……それなりにってなんだよ、馬鹿かよ、全力で心配しろっつーの。されたらされたらうぜえけど! つーかそもそもおまえらに心配される筋合いなんかねえんだよ……休めって? そんな暇はない……しかし、クソったれ、あのジジイがなんで僕にそんなことを……。
 枕元に無造作に置かれた布からは薬草と花の匂いがする。取り上げて顔に押しあてると、想像よりもずっとごわごわしており、あちこちに固い芯のような手触りがあり、何かの魔力を感じた。ていうかこれ帽子じゃねーか。どういうセンスだ。ささくれだっていた気持ちから棘が抜け落ちる。くいしばっていた歯をわずかに緩めた。
 ……死ね、だってよ。あいつ今まで一度も言ったことがねえじゃねえかそんなこと。死ねだと。初めて言わせてやったぞ。バーカ。ざまあみろ。口癖がうつってやんの。
 帽子を顔にあてたまま、気がつくと微かに笑っていた。
『死者の書』を枕元に置き、思いなおして、腕を動かし寝台の下へと置いた。手から離れた『死者の書』は、軽い音を立てて落下した。
 
 
 死ななかった。
 
 誰も、そう自分すら気付かないまま、たった一人で死の淵まで近づき、その深い暗い水面を覗きこみ、しかし戻ってきた。
 
  *
 
 夢もみなかった。
 
 夜中に目を覚まし濡れた頬を震える手で擦ることもなかった。

  *
 
 朝、ひばり亭の階段を下りていくと、カウンターの端でパリスとネルとフランが談笑していた。三人とも探索用の装備を整えていて、フランとパリスが同時に顔をあげた。なんだよと思って一瞬うろたえたが、考えてみれば彼らは盗賊だから誰のものであれ足音に反応するのは当然なのだ。
「おう、顔色いいじゃねえか」
 そう言ったパリスは心なしか嬉しそうな表情を浮かべていた。まさかこいつ僕が調子いいから喜んでるわけ? まさかまさか――だがフランとパリスが同時に半歩体を引きシーフォンのために場所を開け、その輪の中にすんなりと自然に足を踏み込めば、むかいに立ったネルがこれは見間違えようのない明白な笑顔を浮かべる。
「わーい、しーぽん使ってくれてるんだ」
 シーフォンは帽子をわざと乱暴に引っ張り、顔を隠した。妙に照れくさい。
「別に……ただ手持ちの帽子がなかったからさ」
「おいっ、縫ったのはネルだけどオレも生地代を出したんだぞ! 礼を言え、礼を。ありがとうございますって頭下げろ」
「ああっ? 見舞いに帽子はおかしいだろ、考えろアホ」
「なんだと!?」
 フランがくすりと笑って、「よくお似合いですよ」と言った。
「皆さん、仲がよろしいんですね」
「はぁ? それ何喧嘩売ってるの?」
「この騒動が終わったら、シーフォン様はどうなさるのですか?」
 突然、フランがそうきいた。
「僕が魔王をぶっ倒した後かよ」
 パリスとネルが同時に手を振り、ないない、と言ったがそれには構わず続ける。
「そうだなあ、遺跡にある魔道書を集め終えるまではここにいるけどよ。それがどうかしたのかよ? 文句あんの、ああ?」
「……なんでそんなに喧嘩ごしなんですか。あたしはただ、仲のいい魔術師のお友達ができたから、アベリオン様も嬉しそうだなと思って……」
「ああ! 誰が!?」
「ふえ、だからなんで怒るんですか」
「別に怒ってねぇよ」
 そう言ってそっぽをむいた。
 なんだよ。ばーか。
 ……怒っていないというのは本当だった。久しぶりにぐっすり眠れたためか、烈火のような怒りの発作はやって来ない。目を閉じたままで意識を走らせれば、周囲のあらゆるものが発するそれぞれの魔力は認知できるが、先日までの己をさいなむような光や波は感じられなかった。いい兆候だ。
 カウンターの向こうから、パンも肉も分厚いサンドウィッチが乗った皿を手に、オハラが近づいてきた。パリスが金を払ってそれを受け取る。シーフォンにむかって言った。
「一緒に行くか? 今日はアベリオンはいねえけどな」
「アベリオンはキレハさんとアルソンくんと一緒だから、私たちは大廃墟を探索しようかと思って」
 ああいいぜ一緒に行こうぜ、と言おうと思った。行き先が大廃墟以外の、そう、効率よく魔道書が漁れそうな場所ならすぐにそう返事し、実際に仲よく探索へ出かけていただろう。
 しかし昨日は結局一度も『死者の書』に目を通しておらず、そのせいで落ち着かない気分だった。シーフォンがどんなに多くの欠点を抱えているにしても、その中に“怠惰”は含まれていなかった。
「あー。うん。パス。今日は一人で行く、魔道書を探したいから……悪ぃな」
 パリスが鼻の横をひっかいた。何か言われるかと警戒していたが、「そうか」と言っただけだった。ネルも頷きながら、一人なの、気をつけてねと言う。
 ひばり亭を出て遺跡へと歩きながら、なんだかもやもやする物を感じた。……頭をふり、そのもやもやを追い払う。当たり前の反応じゃねーか。何期待してるんだよ。まさかもっとしつこく誘われると思ってたんじゃねえだろな? 冷静に自問し、それはないという結論に達する。そこまでお友達ごっこに飢えてはいない。アホらしい。
 自分が何に引っかかっているのか、さっぱりわからなかった。
 
  *

 何事もなく眠り、目を覚ます――

  *

 小人の塔の書庫には、長い時を経て乾燥しきった粘土板が並んでいる。アベリオンが呼び寄せた蛍火は、青白い光を放ちながら低い天井の下でゆるやかに回転していた。粘土板を棚から引き出すだけでひと苦労だ。ちらりと目をあげれば、部屋の反対側の端に立ち、順に粘土板を調べていくアベリオンの横顔も、棚の間を興味のなさそうな顔で歩き回っているキレハも、全てが水底に沈んでいるようだ。死体のように青く染まり揺らめいている。
 手元の粘土板に意識を戻す。小人たちの古代文字は実に読みにくい。単語の区切り方に独自の記法が使用されているようだ、一見すると出鱈目なようで、学者ではないシーフォンは、法則性を発見するより先に感覚だけで読み方をつかむ。農場の収穫量……これは裁判の記録……王を讃える歌……分類もされずに雑然と並べられた記録の山だ。棚から引きだした粘土板を床に置き、目を通し、抱えあげて元に戻し、また新しい物を引きだす。段々と息が上がってくる。粘土板を抱えたままよろめき、尻もちをつきそうになったが、伸びてきた手に支えられた。
「気をつけろ」
 いつの間にか側に来ていたアベリオンがそう言い、シーフォンの背から手を離す。
「……うるせー。二手に別れて調べるんじゃなかったのかよ? 何こっちに来てんだよ」
「ああ」
 アベリオンが頷いた。
「飽きた」
「おい!」
「二人とも!」
 キレハの声が響いた。
 揺れる蛍火の下で、魔術師たちは同時にふりむき、同時にそれぞれの杖と剣を握り締めている。
 戸口の向こうの景色が揺れている――熱気のせいで空気が歪んでいる。熱源はすぐにその正体を現した。
 巨大な火トカゲが威嚇の声を上げながら書庫に突っ込んで来る。図体の割に動きは素早い。体をくねらせて室内に侵入するやいなや、びっしりと尖った歯が並ぶ口を開いた。暗い喉の奥に炎が見えた。
 しかしアベリオンが呪文の詠唱をすでに終えている。
 地面から噴き出した魔法の炎が、火トカゲの下顎を真下から叩いた。ぱすんという気の抜けた音をたて火トカゲの口が閉じ、吐きかけた炎は歯の隙間と鼻から小さな火花となって漏れた。
 アベリオンが腰の剣を抜き鞘を放り投げ、キレハの脇を駆け抜けて、火トカゲめがけて突っ込んでいく。シーフォンは杖をかざす。詠唱の速度に限れば今はまだ勝てない――クソッたれ、ほとんど一呼吸だったんじゃねえか? どういう舌と喉なんだ、標的が動いているのになんであんなに正確にあの位置に炎を――だが威力と手数なら僕が上だ。意識は冴えわたっている。負けるわけがない。
(あいつ火トカゲに炎の呪文を唱えてどうするんだよバーカ!)
 列をなす棚の間にキレハが体を隠したのを目の端で確認し、古代語で闇を呼んだ――魔方陣が書けないから威力が弱い、だがこれがシーフォンにとって一番速く唱えられる最も得意な呪文だ――キレハが「シーフォン――待って! アベリオンが!」と叫んだが、すでに呪文に完全に集中しておりその声は届かない。
 詠唱が終わると同時に空中に出現した闇が、火トカゲと、その口に剣を突き立てたアベリオンを同時に飲み込んだ。
 目を開けると、アベリオンの背が分厚い闇に塗りこめられるように消えていくところだった。
 アベリオンが絶叫した。
 
 ずっと昔にきいたことがあるような叫び声だった。



「単なる事故だ……僕の腹の傷は……デネロス先生にはあれよりも深い……そういう物なんだ……」
 炎の河からは熱風が吹きあがってくる。通路の端に立ち、ぎらぎらとした真紅の流れを見つめていると、両目が痛くなってくる。輝きのせいばかりではない、この塔には魔法の力が満ちている、そのせいだ……魔力を感知できない人々は一体どのような世界を見ているのだろう? これもまた、シーフォンには想像すらできず理解の及ばない種類の事柄だ。
「……それとこれとは……いいか、火傷を恐れる人間はそもそも厨房に入るべきじゃない……」
 風にのり、途切れ途切れにきこえてくるのはアベリオンの話し声ばかりだ。
 背をむけたまま、少なくともあいつはわかっているんだなと思った。
 当然だ、あいつも魔術師だ。僕もあいつも境界線上で力を欲する人間の一人なのだ。あいつが理解しているからと言って僕がありがたがる必要はない。しかしその言葉に、全身の震えがようやくおさまった。
「私が言ってるのはそういうことじゃないの」
 キレハの声には微かな苛立ちが含まれていた。
 振り向けば、キレハがアベリオンの手を払いのけたところだった。
「誰もあなたの代わりにはならないのよ」
 そう言って、キレハは踵を返し、書庫の中へ戻って行く。アベリオンはもう一度彼女の名前を呼んだが、キレハはもう返事をしなかった。
 書庫の入り口から離れ、シーフォンの方へと近づいてきたアベリオンの顔は、闇の投影の残照に固くこわばっていた。足取りは重くぎこちない。暗闇は体に入り込み骨を軋ませる。全身を覆う倦怠感と不快感から回復するまで数日はかかるだろう。当然だ、あれは僕が一番得意な呪文なのだ。
 だがアベリオンは生きている。
 生きている。死ななかった。
 シーフォンが先に口を開いた。帽子のつばを引き上げてアベリオンの両目を見据え、鋭く、素早く、切り捨てるように言った。
「謝らねぇからな、僕は」
 アベリオンはシーフォンの目から視線をあげ、軽く肩をすくめただけだった。

 しかしその夜、ひばり亭の自分の部屋の寝台に横たわったとたん、体が激しく震えだした。闇の中から響きわたる絶叫が耳の底にこびりつき、蘇り、繰り返す。目を閉じればそこには闇がある。人間は生きている限り、決して闇から逃れることはできない。
 捻じれるようなあの声は本当にアベリオンの物なのか?
 きっと今日はあの夢を見る。
 畜生、畜生、馬鹿野郎、ああ頼むお願いだから本当に誰か、誰でもいいから僕を、いいや、僕ではなくあいつを――。

 驚いたことに夢を見なかった。
 朝までぐっすり眠っていた。

  *


「夢を見なければ見ないで不安になる。面倒な物だ。つまりもう忘れたということか? ああ なんという 愚かさよ!」


  *

 違う。これは自分が成長した証なのだ。
 大丈夫だ。
 その証拠に、ほら、今日も夢を見ない。

  *
 
 
 眠りは安らかだ――。
 
 
  *

「最近ご機嫌いいね、しーぽん」
 久しぶりに『死者の書』を広げながら食事をしていると、通りかかったネルが足を止め、そう言った。
「その呼び方やめろ。まあな。探索もうまく行ってるし、夜もぐっすり眠れるし、敵なしだぜ――まあ元々無敵だけどな!」
「わー、またしてもすごい自信だあ」
 ネルが笑い、シーフォンも笑った。
 まったく爽快な気分だった。
 だがネルが「あっ、アベリオン!」と、大声で叫んだ。
 ひばり亭の戸口から、アベリオンが入ってくる。杖を手に道具袋を肩にかけ、いつもの冷静な表情で酒場を見回している。四日前、シーフォンの闇の魔法に飲まれた様子は欠片も残っていなかった。酒場にいた探索者たちがいっせいに彼を見る。駆け寄って行ったネルが、アベリオンの手をつかみ、ぶんぶんと上下に振った。
「心配したよ、もう! ……お見舞いに行ったのに先生が会わせてくれないから、どんな大怪我かと……」
「怪我は別に。怒られていただけだ」
「え、なんで? 探索中に怪我したのに!?」
「鍛錬が足りないと。ちょっとごめん」
 笑顔のオハラから声をかけられ、カウンターにいたパリスとは無言で拳を突き合わせ、頬を染めぷいと横をむいたキレハに何か小声で囁き、テーブルの間を通って、探索者たちから次々に投げられる陽気な挨拶に短く返事をし、最後にシーフォンの方へとやってきた。
『死者の書』に手をのせ、唇を固く結んで、近づいてくるアベリオンを見つめていた――。

 ようやく理解できた。
 何にひっかかっていたのかわかった。
 ――ねえ、アベリオンは?
 ――アベリオン様も嬉しそうだなと……。
 ――今日はアベリオンはいねえけどな。
 ――誰もあなたの代わりにはならないのよ……。
 
 つまるところ、皆が気にしているのはアベリオンなのだ。
 アベリオンがしゃべれなければシーフォンとしゃべり、アベリオンがシーフォンを友人と見なせば仲間だと認め、アベリオンがいなければ仕方なくシーフォンを誘い、アベリオンの代わりは誰もおらず、彼こそがこの町で一番の魔術師というわけだ。

 それでいいじゃないか、何が不満なんだ?
『死者の書』にわずかに爪を立てた。
 魔法も使えぬアホどもが何を崇拝し、喜ぼうが僕の知ったことじゃない。孤独は魔術師の義務であり特権だ。
 友情ごっこなんてお呼びじゃねえんだ。
 その証拠にほら、今じゃ夢すら見なくなった。生涯これに付きまとわれるのかと涙し恐怖したあの悪夢すら僕を脅かさない。
 僕はこいつよりももっと偉大に、ずっと偉大に……。
 シーフォンの前で立ち止まったアベリオンが手を差し伸べ、「帽子を」と言った。
「……ああ?」
「この間からずっと気になっていて」
 身構えていた分、拍子抜けした。体調が悪い間に他人の帽子の心配とかなんだそれは。馬鹿か。脱ぐのも癪だったからつばを引き下げて「もらった以上は僕のもんだ。返さねえ、触るなほっとけ」と言った。だがアベリオンの背後から、ネルとパリスが近づいてくる。
「あー、ほんとだ、ほつれちゃってるね」
 ネルがそう言いながら、向かいの席に滑りこむように座った。
「中身が出ちゃう」
「……中身?」
 受け取って以来ずっと被り続けている帽子に触れた。嫌な予感がした。手を滑らせればつばの縁には固い部分がある。ずっと布の継ぎ目か、あるいは形を整えるための芯だと思っていたのだが、その思い込みを捨てれば指はまったく別の情報を伝えてくる。帽子を脱ぎ、『ほつれちゃって』いる部分から糸をむしりとった。
 銀色の細い細い鎖が出てくる。なんだこれ、と思ったが、その答えはすでにわかっていた。震えだした指先で乱暴に鎖を引っ張ると、鎖の先についた小さな銀色のメダルが帽子の中から出てくる。親指の爪ほどの小さなメダルの表面には蜘蛛の巣のような模様が刻んであって、これが悪夢を食いとめるのだという。神殿で祝福を受けたメダルからはかすかな魔力が漏れている。まったく、こんな些細な魔法のくせに、よくもこれだけ役に立った物だ――。
「縫いこむの簡単だから大丈夫だよ、すぐ直るよ。今やったげる」
 親切なネルが陽気な声でそう告げる。
「首にかけるのが嫌かと……」
 アベリオンが少しとまどったような声で言った。
「どうしたよ?」
 能天気にパリスがそう問いかけ、もう限界だった。

 席を蹴りつけて立ち上がるなり、シーフォンは、手にしたメダルをアベリオンの顔に投げつけた。額に命中したメダルは音を立てて床に転がった。
「てめえ、どれだけ僕をコケにすりゃ気がすむんだよ……!」
 少年の絶叫に、ひばり亭の客たちの視線が奥のテーブルへと集中する。そこにいたのはアベリオンと彼の仲間の若者たちで――とまどった表情で、あるいは面白げに成り行きを見守る探索者たちの間で、キレハだけが眉間にかすかな皺を寄せていた。
 帽子の残骸を床に叩きつけ、靴底で踏みつける。ネルが跳び上がった。
「しーぽん、ひどいよ!」
「おいおいおい! 何か知らねえけど……」
 アベリオンが額をおさえ、パリスの肘をつかみ、かすかに頭を振った。落ち着け、と目で合図する。そろそろと額から手を下ろし傷がないことを確認すると、いつもの冷静さを取り戻した顔で、シーフォンに向きなおった。
「体調が悪そうだったから――」
「ざっけんなよばーか! 誰も助けろなんて言ってねぇよ!」
「おめえなんでそんなに怒ってるんだよ。面倒くせぇガキだな」
 あきれたようにパリスが言った。
「うるせー!」
 憤怒に顔を歪めわめき声をあげるシーフォンの周囲で、アベリオンたちはただとまどいの視線を交わしている。


  *

 このようにして今日もまた、
(なぜ大丈夫だなどと思ったのかね?
 そこから逃れられる人間など誰一人いないのに)

  *

 生き延びた。



end

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