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ここでがんばれ

滝の洞窟/ネル アベリオン パリス

 目覚めると誰かに背負われていた。
 混濁した意識の底で、あ、お父さんだとネルは思った。お父さんがわたしをおんぶしてくれている。今よりずっと小さい頃、森を港を路地をアベリオンやパリスと一緒にくたくたになるまで駆けまわり遊び疲れた夕方、ご飯のあとに食卓で眠ってしまう。薪の爆ぜる音、炎の匂い。お母さんが作ってくれたシチューを食べて、お腹がいっぱいになっている。暖炉に顔を向けてうたたねしていると、テーブルに乗せた頬だけはひんやりと冷たくて、そこ以外には熱を感じる。お母さんが食器を片付ける音。「駄目よネル。ここじゃなくて部屋で眠りなさい」椅子を引く音。お父さんの手がネルの頭を撫でる。「ネル? 寝ているのかい?」ネルは頑張れば起き上がれるのだけれど、頑張らないで、うとうとし続けている。お父さんが何か冗談を言い、お母さんがくすくす笑う。お父さんはネルを背負い上げる。食堂からひんやりとした廊下に出る。二階に向かう階段はもっと寒い。でもお父さんの背中は温かい。
 お父さん。大好き。
 しがみつく手に力をこめたら、ふらふら、背中が頼りなく揺れた。ああでも待って、これはお父さんじゃないや。だってお父さんはもういないんだもの。だからわたしがしっかりしないと、お母さんがしょんぼりしちゃう。
 あれっ、じゃあこれは誰だろう。ラバン爺?
「おい」
 パリスの声だ。なんだあパリスか。よくわかんないけど、ならいいや。
 安心してまた眠りかけたが、やっぱりちょっと待とう。これはどうもパリスではないような気がする。だってパリスはチュナちゃんをずっとお守りしていたせいか、かなりおんぶ慣れしているのだった。赤ん坊のチュナちゃんを背中に紐でくくり、ひょいひょい広場を走って来たり、塀の上を歩いたり、一度など二階から飛び降りるところを見たことまである。赤ん坊のチュナちゃんは泣いちゃうかと思いきや案外平気な顔でくぅくぅと眠っていた。ネス公国おんぶ大会があれば、あそこの兄妹は多分かなりの上位に食い込む。でも今、誰かさんの背中で、ネルはかなり不安定。誰かさんがネルのお尻じゃなくて太腿の変なところを抱えているせいで、ネルのお尻はずり下がり、変な格好になっている。
「おい、アベリオン」
 でもアベリオンということはないよね。それはない。
 子供の頃から今になるまでアベリオンは鶏の骨みたいな痩せっぽちだ。本しか持てないどころか重い本を運べなかったことまであるんだけど、そういうのはネルが持ってあげるから別にいいのだ。だってネルは力持ちだから。そのかわりネルが読めない本はアベリオンが読んでくれて、アベリオンはパリスのために山羊の乳を集めてやり、パリスはパリスでアベリオンの釣竿に毛鉤を作ってやる。釣り場を教えてくれるのはラバン爺で、ラバン爺のためにネルはお母さんが教えてくれたパンを焼き、オハラさんが譲ってくれた鳥肉でチキンサンドを作ってあげるのだ! 誰かが出来ないことは他の誰かがやってあげるから、人間は集まって一緒の場所に住むんだって、巫女長のアダ様が言っていた。
「おいったら。代わるぜ」
「いや、いい。大丈夫だ」
 という声と同時にネルがくっついている背中が静かに震えた。ネルはびっくりした。アベリオンは一旦足を止め、ずり下がってきたネルの体を背負い直す。また歩き出した。ふらふらと右の方に傾いていく。
「歩けてねえぞ」
「大丈夫だ」
「そっちの方、斜面になってるぞ。先の方に川があっからな」
「わかってる」
 そう答えるアベリオンは息切れしている。ネルは目を開けた。洞窟の中だったのでまたしてもびっくりした。水の音が聞こえたからホルムの森だと思っていたのだ。頭がずきずきする。なんだか、耳が変だ。音の位置がうまくつかめない。
「おっ、起きたぜ」
 すぐ隣を歩いていたパリスがそう言うと同時にがくん! とアベリオンの膝が折れ腰が下がり、背中を滑り落ちたネルはしかし、無事に着地してアベリオンの後ろに立った。アベリオンの肩に回していた両手を外しながら、「わたしどうしちゃったんだい?」と聞いた。
「ここどこ?」
 アベリオンではなく、パリスが答えた。
「町外れの洞窟。もうじき外だぜ。大丈夫かよお前、痛いとこねえか? こんな棍棒にぶん殴られて、ずっと気絶してたんだぜ」
「えっ? 棍棒?」
 洞窟の通路の角を曲ったとたん、数匹の小鬼と出くわしたのを思い出した。アベリオンに向かって小鬼たちが殺到したので、夢中になって手斧を振り回しながら前に飛び出した。そこまでは覚えてるんだけどな。あっそうか、助けるつもりがやっつけられちゃったんだね。
 そこまで考えて、はっとなる。
 アベリオンは腰を深く折って、肩で息をしている。よく見れば長衣の裾が破れて細い脛がむき出しになっていて、ネルは慌ててしまった。
「アベリオン!」
 心配がそのまま大声になる。
「大丈夫だった? 怪我してない?」
 アベリオンが顔を上げた。荒い息をしながら、言った。
「重……」
「わたしが甲冑着てるの、忘れないでね!? 脱いだら軽いから!」
「だからオレが代わるって」
 呆れた声を出したパリスは、朝にはしていなかった包帯を腕に巻いていた。でもネルの視線に気づくと、「たいしたこたあねぇよ」と、包帯をくるりと巻き取ってしまった。包帯の下からは青黒い痣が現れたが、同時に朝方アベリオンに頼まれてネルが調合した傷薬の匂いがつんと鼻を刺した。あれはデネロス先生直伝の薬なので、とてもよく効くのだ。
「お前が気絶した後、アベリオンの魔法でまとめて一撃だったしよ」
 パリスは自分の手柄のように自慢気な顔をしている。アベリオンがにやっと笑った。
「今日はうまくいった。パリスが囮になってくれたから」
「オレって囮だったの!?」
「……そのつもりで走ったんじゃないのか、あれは」
 パリスとアベリオンが顔を見合わせる。その様子がおかしくて笑おうとしたら、目眩がした。ネルがへたりこむと、二人が同時に振り向いて、ネルの名前を呼んだ。
 冷たい地面にぺたんと座り込んだまま、ネルは右の耳を押さえた。
「ふらっとした。痛くはないけど、耳が変だよ」
 アベリオンの眉間にぎゅっと皺が寄る。
「少し休んで行こうか」
「変だけど平気だよ」
 自分の声もぐるんぐるん回転しているように聞こえる。ネルの傍らに膝をついたアベリオンが手を伸ばしてくる。その手が顎にそっと触れたら、治癒の魔法も掛かっていないのに、すうっと目眩が収まった。


 ネルは目を閉じる。アベリオンの掌は冷たくて指先に籠る力が気持ちいい。デネロス先生みたいな口ぶりで音の聞こえ方や目眩についていくつか質問したあと、アベリオンはネルのこめかみや耳の後ろに軽く触れた。
 ここは痛い? ここは?
 アベリオンの声は手と同じように、冷たく静かな力が篭っている。言葉はいつも適切な場所に触れてすぐに離れていく。まるで無駄がない。
 アベリオンって、端から端までアベリオンだな!
 そう思っておかしくなり、怪我を診てもらっているところなのに、へへへと幸せそうに笑ってしまった。
「くすぐったい?」
「ううん。ごめんね、怪我しちゃって」
「謝るなよ、そんなこと」
「あんたのこと心配して無理について来たのに、わたしがあんたを心配させちゃ駄目だよね」
 アベリオンは黙ってネルの額に手を置いた。
「きみがいてくれないと困る。僕も、パリスも」
 耳がおかしくなっているせいで、その声はとても遠い場所から聞こえてきた。大きくて分厚くて固くて豆だらけだったお父さんの手とは全然違うのに、アベリオンに触られているととても安心する。だってこれは、わたしが大好きで、わたしのことを大好きな人の手なのだから。
 
 
 
 
end

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