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混沌の輪郭

アーガデウム後/キレハ アベリオン

 落下していく感覚が怖い。
 どうしても悲鳴をあげてしまう。
 喉を押し広げ口から漏れる声が自分の物ではないようでびっくりする。体を支えるために爪と歯を立てる。「痛い」低い声で囁かれて我にかえる。全力でしがみついている自分に気付く。
 忘我の数瞬が嫌だ。心と体のずれが嫌だ。世界と自分の境界線が消滅する瞬間、すべてを呑みこもうとするあの貪欲な混沌の渦をすぐ近くに感じる。

 短い眠りから目覚めると、彼の手がゆっくりとキレハの背をなでていた。
 西にむかって開いた洞穴の入り口からは秋の日差しが差し込み、小さな洞窟の中に厚く積もった枯れ葉を金色に染めている。葉と土、体液と汗。乾いた物、湿った物。彼の手や髪に染み付いた薬草と火薬の匂いが、自分の肌にもうつっている。密着した部分で温もりを味わい、完全には重なることのない二つの心臓の音をききながら、もう一度両目を閉じた。この場所は安全だと本能が告げている。石の外壁に囲まれた町外れ、森の奥の小さな洞穴、恋人の腕の中。ここで安心できないならば、どこで安らかに眠れるというのだろう?
「人間と獣の境目って、どこにあるのかしら?」
 半ばまどろんでいたせいで、考えたことをそのまま口にした。
 アベリオンの手がぴたりと止まり、そのせいでぱちりと目が覚めた。困らせたかなと思う。目をあげると、やはり微妙に困った顔になっていた。表情をあまり変えないくせに、感情の変化がひどくわかりやすい。アベリオンの心はいつも、開かれた本のように無造作に広げられている。あいつはよくわからんと他の人たちから言われているのが不思議でならない。
「ん……変なこと言ったわね。ごめんなさい」
 小さな声で謝った。
「いや、驚いただけだよ」
 これまでに考えたこともなかったから、と静かな声で続けた。
「一度くらいは考えてもよさそうな事なのにな。なにしろ山羊……うん……あんなに森の近くに住んでいたんだから」
 赤みがかった瞳が洞穴の低い天井にむかい、宙を泳ぐ。放っておくとそのまま思索の海に沈み込んでいくのがわかっていたので、顎を軽くつかんで自分の方を向かせ、「こら」と叱った。顎からはなした手を肩に置いた。
 アベリオンの右の肩には、自分がつけた真新しい傷が残っている。歪な星型をした傷を指先でそっとなぞり、また少し泣きたくなった。
 後悔するのは好きじゃない。何事につけても割り切りは早い方だ。でもそうじゃない、多分長いあいだ一人でいたから勘違いしていただけだ。二人になればこんなに弱くなる。これが自分についた傷ならよかったのに。私が彼につけた傷じゃなくて、彼が私につけた傷ならよかったのに――ぼんやりとそう思う。
「もう痛くないよ」
 こちらの気持ちを見透かしたようにそう言い、目があえば微笑した。
「そう?」
 短くそう返事したが、あまりによそよそしい自分の声に苛立った。他人ごとみたいに言っている。私がつけた傷なのに。別のことを言えればよかったのに――ああ、でもごめんねと謝るのは少し違うし、本当に? ときかなくても本当なのはわかるし、傷が残るかどうかについてはもう何度もきいた後だし。せ、責任を取るとかいうのもおかしいし!
 ……この町にきてから少しくらいは成長したつもりだったけれど、結局、自分は何も変わっていないのではなかろうか。
 表には出さずに落ち込んでいると、アベリオンが彼女の手をとって、自分の胸に押し付けた。下腹まで滑らせていき、ある一点で止まった。固く盛り上がった三本の線が、右の乳首の下から左の脇腹へむけて、ぐるりと体を囲んでいる。古い傷だ。内臓の熱を感じる薄い皮膚の表面で、その部分だけが冷たい。獣の爪の跡のようだが、本当にそうならば、生き伸びたのが不思議なくらいのひどい傷だ。
「魔物を召還した」
 キレハの手に自分の手を重ねたまま、アベリオンが言った。白い胸と腹が呼吸にあわせてゆっくりと上下している。
「子供の頃の話だ。読んではいけないと言われていた魔道書だったが、その頃から僕は、知識に制限など無意味だし不要だと……。先生は留守だった。魔法陣はうまく書けた。完璧だった。失敗するはずがないと思っていた。立ち上がった魔物の角の先は、天井の梁をこすった。僕は得意の絶頂だった。二つに割れた蹄が魔法陣の縁を踏みつけて外に出てくるまでは」
 言葉を切り、急速に濃くなっていく洞窟の外の暗闇を見つめていた。
「中途半端な成功は、完全な失敗よりずっと性質が悪い」
 そうつぶやくと、それきり黙った。
「それでどうなったの?」
 思わず先をそう促すと、不思議そうな顔で見かえされる。
「どうって、終わりだよ」
「魔物は?」
「帰った」
「あなたは?」
「死ななかった」
「からかってるの?」
 そうきいてしまったあとで、いつも通り大真面目なのに気付いた。わかっている、他人をからかったりはしない人だ。溜め息が途中で苦笑にかわった。
「あなたってほんとに――」
「獣ってきみのこと?」
 キレハの言葉をさえぎり、アベリオンがきいた。
「えっ? 別にそういうつもりじゃ」
 否定しようとして軽く顔をしかめる。自分でも意識していなかったが、もしかしたらそういうつもりだったのかもしれない。言葉を選びあぐね黙っていると、アベリオンが言った。
「怖がらなくていいんだ」
 驚いて、胸元に寄せていた頭を持ちあげ、彼の顔を見上げる。目があうと、もう一度はっきりと言った。
「きみはもう何も怖がらなくていいんだ」
 まじまじと見つめてしまう。口にしてもいないことが、どうしてわかるのだろう?
「私、怖いなんて言ったかしら?」
 冷静に尋ねたつもりだったのに、思い切り動揺した声が出た。
「まだ言ってないよ」
「ああ、そうよね――ってあれっ? え、ど、どういうことなの?」
 魔術師が笑いながら体を動かし、二人の下で枯れ葉の寝床がうるさいくらいの音を立てた。

 洞窟から出ると、森はもう完全に夜の底に沈んでいた。
 月明かりに照らされた森のどこかで、夜の鳥たちが声をあげ仲間を呼んでいる。草むらからは虫の声が湧きたつようにきこえている。
 冷たい風に揺れる木々の梢を見上げれば、天空には満月だけがぽっかりと浮かんでいた。
 実りと収穫の季節は過ぎ、じきに冬がやってくる。
 アベリオンの方を振り向こうとした時、背後から伸びてきた腕が柔らかく体を抱いた。
「境界線はここに」
 そう言われた。
 身をよじり首をひねり、「どこ?」ときいたが、「もうない」そう答えが返ってきて、この場所に体を繋ぎとめるかのように、強く、かたく、抱きしめられた。




end

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