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その狼

ホルム暴動 / キレハ ホルガー

 その春に生まれた一腹の兄弟のなかから、一番利口そうな顔をした仔狼がキレハの元に来た。
 灰色のふわふわとした塊は少女に抱かれてくぅんと心細げに鼻を鳴らした。キレハが最初にその狼に与えたのは、羊の乳でも柔らかな肉でも遊ぶための毬でもなく、新しく与えられる家族のために冬の間考え続けて最後に思いついた、ホルガーという名前であった。
 ホルガー、おいで、ホルガー!
 ホルガーはあんたの名前よ、私はあんたの姉さん、さあ姉さんのところへ来なさい!
 お座り、待て、伏せ、食べろ、食べるな、取って来い、歩け走れ止まれ、そういった諸々もキレハが教えこみ、その頃から、ん? と思うことが時折あった。お手! と言ったら数瞬の沈黙の後、突然地面に仰向けになり、ふかふかした腹をむけ服従! の姿勢で『どう俺すごくないどう!?』な顔をする。ぽうんと草原に木の枝を投げれば、喜び勇んで矢のように駈け出し、二日後に泥まみれになってしょんぼりした顔で『気がついたら川に流されていたんだよ俺……ところで姉さん今日のご飯まだ?』と帰宅したりする。
 つまり同時に生まれた兄弟たちのなかで一番凛々しく利口そうな顔をしていたのだが、だからといって、別に一番利口なわけではなく、それどころか二番、三番、狼と犬と鶏と羊や馬をあわせたなかで、百番目くらいに利口かどうか、それすら疑わしいのだった。



 旅立ってからキレハは、道に落ちた己の影を、これまでとは違う気持ちで見つめるようになった。
 影は故郷にいたころと同じように、キレハの歩調に合わせてどこまでもついてきた。
 目をあげれば荒野の黄色い岩々の間を通って、曲がりくねった細い道が果てしなく続いている。子供の頃から旅には慣れており、この旅立ちも例の馬の一件以来ずっと覚悟していた物であったが、一族の仲間たちが誰もおらず、誰一人己を知る人のいない心細さは、言葉に尽くせぬ物があった。
 ――帰りたい。
 無理は承知で、時折、そう願った。
 キレハのそういった不安を、ホルガーはいつも敏感に感じ取り、狼なりに気をつかい元気づけようとしてくれるのだが、歳の離れた弟分として可愛がりすぎたせいか生まれつきのものなのか、どうにも狼らしさに欠けている。
 つまり地面に座り膝を抱えてうなだれたキレハの周囲を、砂埃を立てながら円を描いてぐるぐるとうろつき、『見て見て、姉さん! 俺を見て! 元気が出るようなすごいもの見せてあげるよ!』という気配にキレハがちらりと顔をあげれば、見た目だけは凛々しい若狼が、地面に斜めに寝転がって左の前足と後足を持ち上げ、少しだけ腹を見せた半端な姿勢で微動だにせず、はっしと視線を据えている。率直に言って意味がわからない。
 ホルガーはハッハッハと息を荒げながら、『どう?』、えっ、何がどう? 『どうこのポーズどう!? これ、俺の考えたかっこいいポーズ! 元気でた!?』、ポ……? いや元気はでないわよ、『じゃあこれどう!? これもかっこいいポーズ!』、うん……ああ……えーと、か、かっこいいわね? 『ポーズ! とっておき! とっておきなの! お腹全部見せるよ!?』、そうね私あなたのお腹は見慣れてるからわからないけれどかっこいいのかもしれないわね、『じゃっじゃじゃーんすごいポーズ! カッコいい俺! ポーズがすごくて格好がいい俺!』、うんうんねえホルガーちょっと私静かにしたい気分だからよければ少しあっちに、『元気でた!? 俺のポーズで元気でた!?』、え……ええありがとう元『アアアッ、リス! 今リスだよ動いたよリスだよ姉さん! 俺ちょっとあいつをオオオーッゥウ!』
 尻尾を引きちぎれんばかりの勢いで左右に振りながら(正直にいってそれはキレハが遊んでやっているときより若干大きく振れている)、ぴょこーんと跳ね上がった銀灰色の狼は空中で体を翻し、草むら目がけ飛び込んでいくのだった。




 北へ向かうに連れて、乾いた空気は湿り気を帯び、草と木はキレハが知らぬ緑の滴りとなり、旅籠で出される食事は焼いた土の器に入った見慣れぬ色と匂いの料理となる。
 変わらぬのは空と星だけであったが、黒馬の背に揺られ、頭上は鷹に守られ、そして先を駆ける狼がいて、帰りたい、そう思うことは少なくなった。旅路の風雨はキレハの精神を静かに練り、照りつける日差しは心を鍛えた。
 故郷は遠く、お供の中では一番神経質な黒陰は時折落ち着かぬ様子を見せるようになり、コートもじっと無言で寄り添うことが増えて、しかしホルガーだけは、何かあるたび、いや何もなくとも、ウォワーン! と元気よくおたけび、走りだす。
「お嬢さん、それは狼じゃないかね」と不安そうな顔で声をかけてくる(河の民の臆病なこと!)宿の亭主には『ハァアアーイ、なんだかいい匂いがするけどそれ俺にくれるの!? 干し肉持ってるよね干し肉! ワッォーン!』と後足で立ち上がってはぼたぼたと涎を垂らすホルガーを片手で制し、「大丈夫よ、人を襲ったりはしないから」と説明するのだがどうにも疑り深い目で見られながら遠ざかり、出ていってもらおう、そう怒鳴られるのはまだいいほうで、後ろから矢を射かけられることまであった。一体どういうつもりなのかしら! 怒りと悲しみを覚えたが、彼らがこれまで培ってきた恐怖心と争っても仕方のないことだ。キレハは旅籠や村に入るとき、獣たちを外に残していくようになった。翌日に宿を離れ、一人になった頃を見極めて口笛を吹いて呼べば、いつも一番に駆けつけるのはコートで、ホルガーはいつまで経ってもやってこない! まったくもう、あの狼ときたら!



 旅が続く。
 ホルガーは捕まえた獲物を引き割き、一部だけを持って帰ってくる実に乱暴な技を覚えた。でも成長らしい物はたったそれきり。図体はでかくなったものの、中身は相変わらずのホルガーで、目があえば『ハイッ、遊びましょうか!?』、目があわなくても『ハイッ、遊ぶんですね!』、うんうんちょっとだけ落ち着いてねいい子だから、『わかった! ところで、落ち着くのってどんな遊び!?』尻尾をいつか振り過ぎてちぎれてしまうのではないかと時々心配になる。
「あなたは狼らしくねもう少し」
 お説教をしてやるとホルガーは興奮気味におたけび、『任せといて! おおお俺の狼らしいポーズぅー!』、キレハは最初は苦笑し、でもすぐその得意げな様子に声をあげて笑いだしてしまう。
 ええわかったわ、もう諦めた。
 あなたは私の弟だものね。狼も色々、人間も色々、それでいいわ。きっと私の育て方が悪かったのかしら。そうでなければ良すぎたせいね!



 そういったわけで馬鹿だけれどのん気な弟だと思っていたから、ホルガーの鳴き声が空気と群衆を震わせた時、そのぞくりとするような凶暴な吠え声に、キレハは状況どころか痛みすら忘れて驚愕した。
 あのホルガーが。あんな声で。
 檻のように彼女を取り囲み服や髪を地面に縫いとめた何本もの槍の下で、周囲すべてを威圧するホルガーのおたけびをきいた。驚愕から立ち直ったあと、ほんの一瞬だけ場違いに嬉しくなる。なーんだ、やればできるじゃない。当然よね、狼だものね。
「狼」「狼だ」「でかい狼だ」「魔物だ」「魔物か」神殿軍の連中のみならず、貧民窟の住人たちまでが怯えざわめき互いを押し合い、そこを逃れようと顔を歪めて駆けだして、人の流れがぶつかりあい、弱い者から倒れ伏し、神殿軍の兵士が槌を奮って誰かがギャッと悲鳴をあげて血の匂いがする。この混乱の中、身を起こして、ホルガー、大声で狼の名前を呼ぼうとすると「抵抗するな!」己を取り囲む兵士の一人が叫んで彼女の胸元を槍の石突きで思い切り打ち、衝撃に体が跳ねる。とっさに自由な片手で頭をかばおうとすると腹を乱暴に蹴りあげられ、側頭部が固い地面に衝突する、ぬるりとした熱いものが顔にかかる。痛い! そう感じたのを最後に、ふっと周囲が暗くなった。
 この渾然とした状況、猛り狂う兵士たちの足元で、意識を失うことは恐ろしい。目を開けようともがくが、血にまみれた瞼は激痛にあわせて激しく痙攣するばかりで持ち上がろうとしない。暗闇に浮かぶのは老人をめった打ちにする武装した兵士たち、痩せ細り汚れた体に襤褸を纏う貧民たちの怯えた顔、顔、顔、身を守る術すらない彼らの背にでたらめに打ちふるわれる剣の輝き、そしてあの人の怒りと恐怖にこわばった白い横顔、握り締められた拳。
 逃げて、と言ったはずだ。
 逃げずにいるほど愚かな人ではないと思う。
 ホルガーも連れていってくれたと思っていたけれどはぐれてしまったのかしら、もしかしたら逃げなかったのかな。ほんとに人の言うことをきかない人ね! 私の周りには、どうしてああ強情なのが集まるのかしら!





 狼が叫んでいる。


 気高く、強く、凛々しく、強い四肢と太い牙を持ち、爛々と輝く目は闇を見通す。愚鈍にして高貴、無垢ゆえに残虐、迸る血と脈打つ心臓の味を知る、獣たちの王の声がする。
 最初は遠吠えと思ったその声は、今は不思議とすぐそばにあった。足元に落ちる己の影の中から聞こえたような気がしたが、光のない漆黒の中、己の影と周囲の闇はお互いの輪郭を侵食して混じりあい、太古の時代から一つであったかのように溶け合って、もはや一つを二つに分けることはできず、彼女は彼女を呼ぶ懐かしい狼の姿を確かめることができなかった。





end

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