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テオルと鷹

竜の塔/テオル アベリオン

 力に溺れるなというのが師匠が繰り返し口にしてきたひと言で、おそらく力とは溺れるほどの何かであるのだが、少年にはまだわからない。
 秘儀にも真髄にもほど遠く、ホルムはのんびりとした四月の朝で、今少年が見上げているのは鷹が飛ぶ青い空だ。
 



 ホルムの森に騎馬の群れが踏み込んだ最後はラルズーエ戦争の頃、当時はまだ青年であったカムール率いるホルム正規軍と当時はすでに老練の域に入っていたゼペックとレンデュームの精鋭たちがこの森で激突し、正規軍はほぼ全滅、カムールが勝ちを拾ったのは彼の幸運ゆえであったのだが、その戦から三十年が経った四月の朝、ホルムでは見慣れぬ揃いの紋章をサーコートや盾に刻んだ騎士たちが、これも騎士らしからぬ粗野な笑い声を上げながら、蹄鉄で森の若草を散らしていく。
 騎士たちの紋章は、火に燃える車輪であった。
 ――火車騎士団――ナザリはもちろんネスの隅々まで、悪名は響きわたっている。酒、女、博打、放火や強盗を含む度を越した悪戯け、しかし何よりも彼らが好むのは剣と喧嘩で、この貴族や郷士の次男坊三男坊、この柄は悪いが腕の立つ物騒な連中を率いて、テオル公子は常に隊の先頭を行くことを好んだ。下品な冗談を掛け合い、笑い声をあげながらも隊列に乱れはなく、テオルの馬の歩みに合わせた見事な行軍であった。
 木々の間から空を見上げた騎士団の一人が「鷹だ」と声を上げた。
 確かに鷹だ。
 大きく美しい鷹が天を舞っている。
 別の一人が弓を構えた。狙いを定め、無言でその弓を引く。青空に吸い込まれるように飛んだ矢は、見事に命中した。口笛とやんやの喝采が上がる。
 鷹は一度強く羽ばたき、次の瞬間、落ちた。
 木々の間を落下してく鷹を、公子は目で追った。
「羽根に当たったな」
 役者のような、張りのある美しく響く声で言った。
「生きているなら、狩り用に仕込めるかもしれませんぜ」
「ウサギ狩りか?」
「夜種狩りさ! お待ちを、大将! ホルムの鷹を持ってまいります!」
 浮き立つような笑い声をあげると、矢を放った火車騎士団員が馬の腹を蹴った。四人、いや五人が男の後を追い、鷹が落下した方角へと駆け出していく。
 テオルはそれを止めずに見送った。
 ――ネス公国では、領主の許可なくその土地の獣を狩ることは禁止されている。
 薄い微笑を浮かべ、テオルは配下の者どもが『暴走』するのを見送った。ホルムの森はナザリの近辺のそれとはまた違う暗さと険しさであった。




 先行した火車騎士団にテオルはゆっくりと追いついたが、そこで目にした光景は、彼が予想していなかったものだった。
 森の木々がまばらになった空き地があり、騎乗の騎士たちはそこに半円を描いている。
 円の中心にいるのは、粗末な身なりをした小僧だった。
 色褪せたぼろの長衣の胴を、いくつもの道具袋や短い杖や短剣を吊った帯で止めている。長衣の裾からつきだした脛は土に汚れており、一目で貧民とわかる身なりであったが、銀のような灰色の髪と、女のように白い肌が、唯一目立つところだった。少年の後ろの草むらでは、ばたばたと鷹がもがいている。少年の手には矢が握られ、鷹の羽は止血帯がつけられていた。見るべきものが見れば、射落とした直後に鷹を発見したとしても、素早く、適切かつ見事な手当てだと誉めたに違いあるまい。だがその場にいるのは公子をはじめとして、殺す方ばかりに長けた人々であった。
 テオルに気づいた騎士団の一人が、少年に怒鳴った。
「高貴な方の前だ。膝をつけ、小僧!」
 鷹を背に隠すように立った少年は、命令に素直に従った。地面に膝をつき、テオルにむかって頭を垂れた。
「礼儀は構わん。察するところ、そこの子供が見つけたか?」
「馬鹿な小僧でして。申し訳ありません、すぐに。おい、坊主! さっさと鷹を渡せ!」
 貧民の子供は、両膝を地面についたまま、ほんの少しだけ頭を高くした。声が通った。
「閣下、どうか鷹にお慈悲をお願いします」
 怯むことのない堂々とした、森の端々まで響く、澄んだ声であった。
 騎士たちが目を見合わせた後ろで、馬上の公子は、一瞬、面白そうに唇の端をあげた。顔を伏せたままで少年が続けた。
「鷹にお慈悲を。部下の方々に剣を引くよう、どうかお命じください」
 懇願ではなく礼儀正しい依頼の声であった。命令ひとつで動く小物どもだと、一言で甲冑の男たちを切って捨てている。テオルが前に出ると、火車騎士団の兵士たちが後ろに下がった。半円の中、跪いた小僧と馬上の公子が一対一で向かいあった。
「面白い小僧だな。森番の倅か?」
「いいえ。この森の薬草を摘み、苔を集めて生計を立てております、薬師です」
 格好を見れば薬師よりはまじない師と呼ばれる、いかがわしい連中の一人であるようだった。
「まじない師がなぜ己の鷹を?」
「失礼ながら――恐れながら。この鷹は春の森の地面に落ちました。すると今は閣下の鷹ではなく、ホルムの森の鷹でございます」
 賤民の小僧が、武装した騎馬に乗った男たちと公子を相手にまったくたじろぐことがない。少なからず異様な光景であった。
「閣下、私どもは森を守り、動物を殺さず、人を助けることを条件に、領主様からこの森の一角に土地を貸して頂いております。ここであなた様にこの獣を渡し、それが領主の知るところとなれば、たちまち森を追われることになりましょう」
 頭を深く垂れて少年がいい、馬上の公子が面白そうに笑った。
「なかなか弁の立つ小僧だな。ならこう約束しよう。その鷹は殺さん。だから己によこせ」
 少年が突然、顔をあげた。騎士たちがたじろぐほどに冷やかな瞳だった。テオルだけがまだ微笑を崩さずにいた。
「なんだ、その目は?」
「恐れながら、閣下。たった今、あなた様には何一つお渡しできなくなりました」
 貴人に対するにはぎりぎりの言葉だった。テオルの笑みが消えた。
 馬上で身を起こし、低い声で言った。
「ここでおまえを殺すのは簡単なことなのだぞ」
 いつの間にか少年は両手を後ろに回している。膝をついた罪人のような姿勢で、身じろぎもせずに騎乗の一団を眺めていた。
「ホルムの法のままに」
 この口調だけは丁寧な、あからさまな挑発に、テオルはのってこなかった。ひどくけだるげな口調で言った。
「ここでは己が法だ」
「ご随意に。十年、二十年先まで、この町のいい噂の種になりましょう。寸鉄も帯びぬ小僧一人を殺すのに、閣下は馬に乗り魔法の剣とご自慢の騎士団を使ったと」
 どこか遠くで風を切るような甲高い口笛の音が響き、小僧の背後の草の上で、鷹の羽根が激しく地面を叩いた。それを合図に、少年が立ちあがった。両手は後ろに回したままだ。
「殿下、私が始末を」
 進み出た大柄な騎士の方を振り向きもせず、テオルが片手だけをあげた。互いに目をそらさず、しばらく睨みあっていたが、やがてテオルが言った。
「ただの小僧でもないな?」
 小僧の眉がぴくりと動いた。ゆっくりと頬が紅潮する。
 突然、テオルが頭をのけぞらせ、呵々大笑した。理由がわからず顔を見合わせる騎士団の前で、テオルが言った。
「ホルム伯とその度胸に免じて、今回だけは鷹とお前を見逃してやろう。だが次はないぞ――己は寛容だが短気な方なのでな。名前は?」
 一瞬ためらい、次にためらったことを恥じるように、少年は胸を張った。
「アベリオンと申します」
「覚えておこう。おまえは鷹よりも面白い」
 テオルはそう言うと、姿勢を戻し、手綱を引いた。馬の蹄が蹴った土が頬の側をかすめたが、アベリオンと名乗る少年はぴくりとも動かぬままだった。公子の後に続いて騎士たちが去っていく様子を、ずっと見送っていた。

 空き地から離れていく途中、公子は一度も振り返らなかった。
「大将、どういうことです?」
 騎士の一人がいつものガラの悪い調子に戻り、言った。
「妖術師だ」
「なんです」
「後ろ手で何か焦点具を持って、呪文の詠唱を始めていた」
 騎士たちが息をのんだ。しんがりを勤めていた若い騎士が馬の足をとめ、厳しい声で言った。
「戻って殺して参りましょう」
「つまらんことを――言っただろう、己は面白いものが好きだ。あの小僧がどんな偉大な魔術師であっても、四騎と魔法の防具をまとった騎士を一網打尽にできる技など使えまい。どう戦うつもりだったのかはしらんが、鷹一匹命懸けだったのは間違いない」

 風もないのに木の枝が揺れた。
 アベリオンと名乗った少年は、暴れる鷹を抱きかかえ、楡の大木の影にいる。握りしめていた杖は、今はまた帯の後ろに束ねていた。激しく揺れる頭上の茂みではなく、抱いた鷹を見た。
「おとなしくしろよ」
 そう囁いた次の瞬間、木の上から人影が飛び降りてきた。
 膝を曲げて地面に着地した男は、ふわりと浮いた帽子を片手のフック型の義手でひっかけて頭に乗せなおした。
 愛嬌のある両目が丸くなっている。
「おおー、怖!」
 白い髭を生やした老人であったが、見た目とは裏腹な若く軽やかな声で言った。
「クソ度胸もいいところだな。俺ぁ、ガタガタ震えたよ」
 鷹を抱いた少年は、やけに大きな声で笑った。先ほどまで涼しげだった額に、脂汗が浮かんでいる。
「僕は今」
 そう言いながら、白い指をかざして見せた。
「震えが来た。ラバン爺がいたからな」
「おいおい、俺かよ」
 アベリオンは頷いて、昔馴染みの老剣士を見た。
「危なくなったら助けてくれる。そうだろう?」
「助けねえぞ」
 アベリオンは表情を変えなかった。無言のまま、軽くのけぞった。
「いやだって考えろよお前さん、もしも本当にやるとなったら五対二どころの話じゃないぜ?」
 それに助けを見越して行動するのは感心しねえぞ、とラバンは軽い調子で付け足す。
「今みたいな場合は特にだ」
「今後は気をつけるよ」
 アベリオンは真面目な声で言うと、傷つきながらも自由を求めてもがく鷹を抱く手に力を込めた。


end

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