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疾く来れ

暴動後/アベリオン キレハ パリス


 獣は必ず走ってくる。
 大丈夫だから歩いておいで。魔術師は毎回そう声をかける。


 光の届かぬ洞窟の奥に音もなく起き上がり、なめらかな肉球で地を踏み太い尾を揺らしこちらへ近づいてくるその様は暗闇が肉の重みを得たようで、魔物よ、名前のない、黒い生き物、その異形の風貌、おまえの体から放たれる<混沌>の匂いは――魔術師はそれを鼻孔ではなく目で嗅ぎ取る、彼らは眼球でなく皮膚で見、鼓膜でなく舌で聞き、指でなく心で触れる――すべての色彩が混じり合う黒を、目を凝らせば極彩色に流れる闇よりも濃い漆黒の香りを、彼はよく知っている。物心ついて以来、いや揺り籠の中にいたころからずっと親しんできた匂いだ。完成した魔法陣から湧きあがるあの大いなる物、炎より熱い物、詠唱を終えた瞬間頭の後ろでかちりと音を立て開く彼方との回路、白い石列の交わる丘の頂点で大気を満たす熱、綴られた古代の言葉、鍛えられた古代の鋼に、聖なる木のなめらかな枝に輝く竜の鱗に土中に埋まる真の銀に白い星の光を閉じ込めた玻璃瓶に、卵の殻を踏みつけ立ち上がるしろがねの竜の子の指に瞳に心臓に、いやそうではないこの世界すべてに――魔力が満ちた場所では可視化されたあの精霊の王たちはこの地上にも――<混沌>の息吹を、あらゆる物に、あらゆる場所に、あまねく果てまでに。だから魔術師はためらいなく両手を伸ばし、黒い獣を抱きとめ、自分を舐めまわす柔らかな肉塊である舌や肩に置かれるずしりと重い前足や擦りつけられる湿った鼻を受け入れる。重みも熱も牙と爪の鋭さも、ひとつ間違えれば身が砕け苦痛の中に死ぬ危険も、すべて彼には馴染んだものだ。太古から彼らは<混沌>と秩序の境目に立ち、ある時は力に呑まれ、ある時は力を制し、撃ち合い、倒し、己と己以外の命を賭け金に、世界そのものを変容させながら、そうやって生きてきて、それが代償で、必ずやってくることを覚悟していて、だから魔術師は怯えもせず竦みもせず、黒い獣を抱きしめる。


 けだものの夜と同じ色をした柔らかな毛に顔を埋めれば太陽と森の匂いがする。脈動する太い首に腕を回し抱きしめれば長衣を通して熱が伝わる。この毛皮の輝きも肌の温もりも、森のイバの祝福を受けた健やかな他の命となんら変わらず、だからこそおまえの体中に満ちる<混沌>の邪悪な気配が、生き物たちの恐怖を呼びさますのだろう。この洞窟には犬どもすら近寄らぬ。飛ぶ鳥すら空を避けるのに気付いたか。



 <混沌>の眷属よ。
 若い魔術師はぴくぴくと動く巨大な耳の奥に囁く。
 おまえは生命の始まりであり終わり、しかし生命ではなく死そのものだ。一瞬としてとどまらず、そのうえで永久不変、神官どもが歌う魂の永遠すらおまえは貪欲に呑みこむ。口を開け、歯を見せろ、四十二の並んだ鋭さであの兵士たちを噛み砕いたように僕を噛め、荒れ狂う力の行きつく先、産みの苦しみと似るという死の苦痛の果てを見せてくれ。
 赤黒い唇を割り尖った歯を持ちあげて白い手を口中にねじりこむ彼の熱意は獣には理解しがたく、迷惑千万だ。若者よりも遥かに巨大で強靭な肉体を持つ黒い獣は、悲しげな声をあげ怯えたように体をすくめる。柔らかくもろい手のせいで閉じることのできぬ歯の間からぼとぼとと涎を垂らし、上目づかいに彼を見上げ、どうしてそんなことをするの? と目で問いかける。
 魔術師は片腕で獣を抱きしめ白い顔を黒い毛に埋め、光線の具合によっては赤い輝きを放つ瞳を、自分の手を飲み込んだ獣の口にぴたりと据えている。集中した時にいつもそうなるように、外界のすべてを遮断し、一点を見つめ、己の内側を覗きこむ。細かく区分される一方で複雑に繋がりあう記憶のページを一枚、一枚、ゆっくりとめくり、オオカミ、<狼>、人狼、伝説の生き物、荒野、マルディリア、<混沌>から湧き出る力の源、原始の力を押さえこむための記号の列、犬の頭蓋骨を覆う桃色の肉と筋肉の筋、耳から伸びる二本の筋、解剖図の薄い冊子の手触り、縦に広がる肩甲骨、水銀、三種類の上顎、大半が書物や師匠や他の人間から得た知識だが彼自身の経験から得た知識と記憶はどれも鋭い輝きを放ち、まだ幼い思索はどうしてもその輝きに引きずられる、森番がぶらさげた狼の死骸、銀貨のような月、森に響く悲しげな遠吠え、木々の間に群れなし走る獣どもの影、「彼らは最初に鳴く、それから走りだすのだ」、まじないの歌、足音、伸びやかな女の声、引き締まった太腿にまとわりつく灰色の影、「ホルガー駄目よそれは私の友達よ」、友達だって? 友達。ちえっ。草むらからこちらをうかがう黄色い目――やあもしかして嫉妬しているのかおまえはそれはこちらも同じだ。同じなのだ。おまえが俺を嫉妬するように俺もおまえを嫉妬する。ああここにもまた鏡のように――。
 一度拡散しはじめた思考は、筋道を失い、まとまらぬ想起だけが連続する。
 黒い獣は固く柔らかい。
 言葉と情景、記憶と感触、知識と経験はばらばらにほどけ、河底から浮かび上がる泡のように若者の脳裏で次々と弾ける。銀の毛並みと湿った鼻先、足元を流れる川のせせらぎ、天に伸びる炎の柱、熱を受けた頬がひりつく、「彼女の弟」、矢を受け暴れる鷹、馬上の人々、軽やかな笑い声、甲冑の兵士たち、金色の炎流れる川、天焦がす火。
 洞窟の入り口から差し込む夕暮れの日差しは一匹と一人の黒々とした影を地面と洞窟の壁に刻み、やがてその影は彼らの姿とまじり、宵の闇に溶けこんでいく。
 うずくまった獣の首筋に顔を押しつけ、手を口中に差し込んだまま、いつしか魔術師は眠りに落ちている。黒い獣は弱りきった顔でこの人間を見つめていたが、そろそろと下顎を落とし生温かな唾液にまみれた白い手を地面に吐きだすと、疲れ切った顎をふがふがと動かし、重ねた前足の上に乗せた。
 黒い獣の図体はでかいが脳みそは小さく、てまがかかる・あぶない・さむい・すき・こわがらないのね・かぜをひく、感情は言葉の欠片となり、他の言葉とつながらぬ断片のまま次々とこぼれ落ち、まとまった思考の形を編むことができぬ。黒い獣にできることは自分の胴にもたれて安らかな寝息をたてる若者の頬に湿った鼻先を押しつけ、埃と汗にまみれた彼の頬を舐めることくらいだ。若者の肌はかすかに血と火薬の味がする。涙が流れていないことに獣は安心する。
 ここで ゆっくり おやすみなさい。
 心だけは以前と同じ大きさの黒い獣は、ウウウウという唸り声にその言葉をのせ、喉の奥までが丸見えになるあくびをして、貧相な青年の肉体を守るように体を丸め太い尾を彼の腹の上に置き、自分も眠りにつく。



 靴を乱暴に蹴飛ばされ、全身ががくりと揺れた。目を覚ましたアベリオンが最初にしたのは地面に落としていた小杖を握りしめることで、だがすぐに呆れた声が頭上から降ってくる。
「いや遅いだろそれは」
 アベリオンは息を吐き、杖を再び手から取り落とす。
「パリスか」
「おまえな」とパリスが言った。
 幼なじみの肩越しに夜空が見える。アベリオンはこの場所で長い時間、自分が眠りこけていたことを知る。
「あんまり心配させるなよ。こんな時間になっても宿に戻らないから、神殿軍にとっ捕まったかと……。ネルも心配してたぜ」
「ネルも。ラバン爺は?」
「ま、何かあってもなんとかするだろ、放っといてやれ」
「彼が正しい。だが放っておかなくてもいいよ」
「つまり?」
「僕を適当に構ってくれ」
「バーカ。女に言えよ」
 軽く舌打ちして、しかし面倒見のいい友人は立ち去りもせずその場にしゃがみこむ。アベリオンがどこからか連れてきた得体のしれないこの獣を、パリスは未だに警戒している。危険に対して敏感な自分が、さしたる嫌悪感や恐怖を感じられないことも含めて。
 アベリオンは黒い獣の胴体に体を沈めた。仔馬ほどの大きさの黒い獣は、青年の乱暴な動きをものともせずに眠り続けている。柔らかな漆黒の毛に包まれた温かな体は、呼吸にあわせてゆっくりと上下する。大河のざわめきが近い。満天の星と秋の匂いだ。占領下の町の静かな夜だ。
「そういや今日エンダが森で、あの狼を見たってよ」
「あの狼。ホルガー」
「そんな名前だったかな。近づいたら逃げていったらしい。ということはだ、キレハもまだこの町のどこかにいるんじゃねーか」
 黒い獣がかすかに身じろぎし、片方の瞼を持ちあげた。アベリオンの返事がないことにパリスは眉を上げるが、叱責の言葉は吐かない。かわりに言った。
「暴動騒ぎのあと、キレハがいなくなったってきいて、オレはてっきりおまえも……おまえらは一緒に行っちまったのかと思ったよ。ホルムから離れてどこか遠くに。正直、それも悪くねえと思ったよ」
 アベリオンは手を伸ばし、ふかふかした耳を引っ張り、獣の顔を引き寄せる。クゥンと弱々しい抗議の唸り声をあげた獣の鼻の上に己の額を押しつけて、片方の目を覗きこむ。洞窟の入り口からさしこむ星々のかすかな光を集め、獣の目は深く青く輝いている。魂の奥底まで見通せるその場所に<混沌>の気配はない。いいや、そこが<混沌>そのものであるからこそ、気配を感じ取ることができないのか。
「今はどこにも行かないよ。それなりに構われている。きみがいる。ネルがいる。シーフォンのこともある」
「ああ? シーフォン? なんだよまたおまえ――」
「テレージャ」獣の頭蓋骨を震わせるように押しつけた唇を動かし、魔術師はその名を口にした。獣の閉ざされた方の瞼が一度だけぴくりと動いた。「ラバン爺、フラン、オハラさん、アルソン」探索者たちとホルムの町の人々の名を、ひとつひとつ、力ある言葉か呪文の断片のように数えていき、低い声で「バルスムス」と言った。
 獣の息だけが響く沈黙の中で、賢者の弟子は最後の一人の名を呼んだ。
「タイタス」
 岩に囲まれた洞窟に、異様な冷気が満ちたようだった。名前のない獣の鼻の真上に柔らかく、ピリオドを打つような口づけをして、アベリオンは彼女から体を離した。
 パリスが低い声で笑う。
「もててるなあ、おまえ」
「ところでひとつ発見があったんだが」
「なんだよ」
「四足獣と寝ていても興奮しない」
 パリスは返事をしなかった。洞窟の外に一瞬鋭く向けた顔を戻し、「なんかきこえねぇか?」と言った。
 きこえる。
 悲しげな声で鳴いていた。
 北の森より近く、崖の上の神殿より近く、大河の波の音より近く、近く、洞窟のすぐ側に、狼の遠吠えがきこえる。

 月のない星空の下、町はずれの洞窟から出てきた青年たちが岩を踏みながら周囲を見回し、うろうろと下手な口笛を吹き、獣どもとは似ても似つかぬ声真似でクゥン、クーンと喉を鳴らしておいで、ホルガー、こっちへ来い――親しくもない二本足どもの呼びかけに当然応じる気配もなく、ただ風が荒れた河原を吹き抜けていく。
 黒い獣は一度ぴくりと耳を動かしただけだった。



「おいで」
 洞窟の入り口に立ち、魔術師が呼んだ。
「大丈夫だよ、ゆっくりと歩いておいで」
 今日もそのように声をかけ、だが獣は今日も走ってくる。
 嬉しげに耳を立て尾をふり舌を見せ、目を輝かせ、一直線に駆けて、飛びついて、ローブを着た若者は重みによろめく。黒い獣はぱたぱたと尾をうちふる。魔術師は優しく片手を伸ばし、獣の背を撫でてやる。触れた掌からどろどろとした熱が見える。今日もまた、昨日より少しだけ、<混沌>の気配が強まった。獣は毎日走ってくる。歩いて来いという言葉がもうわからないのだ。
 以前よりも明るさと平坦さを増した青い目をのぞきこみ、アベリオンが囁いた。
「そろそろ戻ってこいよ。ホルガー、あいつ、毎晩森や町のそこここで遠吠えを……そのうち兵士どもに捕まって殺されちまうんじゃないか。夕べはコートが神殿にとまっているのを見たぜ。きみの馬はひばり亭の厩舎で毎晩暴れて――飼葉を食べなくなったとアルソンが――あいつ、黒陰にもブラシをかけてやってるんだ。テレージャは『心配なんかしていないよ』が口癖になっちまった」
 ぐいと耳をひっぱり、名前のない黒い獣の耳にぴったりと唇をつける。
「おいで、おいで、おいで。皆待っているんだ。いそいでこちらへ戻って来い」
 了承とも拒絶ともつかぬ調子でくうんと鼻を鳴らした黒い獣の太い首に、魔術師は細い木の枝のような両腕を回し、固く、固く抱きしめた。
「帰ってきて、僕を構え」



 ホルム、西シーウァ、神殿軍。迷宮、墓所。タイタス、パーシャ、バルスムス。
 先生。
 デネロス先生。



 瞼を閉じれば炎が揺れる。



 あらゆる物に、あらゆる場所に、なによりも己の内側に。太古から存在するこの熱い物、輝く物、どろどろと流れとどまることなく力を求める、漆黒よりも黒い物。この<混沌>が魂を呑みこみ骨までを貪り尽くすその前に、きみの声で呼んでおくれ、俺の名を。




end

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