星幽界/殺人ウサギ アベリオン
縄張りは月全部であった。
宇宙を漂う生命の残滓が重力に引かれて集まり、長い間なにもない地表を漂ったあと、エーテルの風に吹かれてくるくると白い塊になり、やがてぴょこんと二本の耳が立った。
月のそばにはたくさんの観測者たちが住む星があり、何千年もの間、あそこにはウサギが住むと言い伝えられていて、思惟はやすやすと現実に介入し、粘土細工のように彼らのあり方を形作ったのであった。
最初は一人ぼっちだったウサギはエーテルの風が吹くたびに数を増やし、もう一匹、もう一羽、小さな群れとなって、くるくる、くるくると、追いかけっこや毛づくろいをし、砂地に潜り込んで体を洗い、それなりに幸福に暮らしていた。
時折、見慣れない連中が彼らの縄張りに迷いこんできた。
それはむき出しの骨と筋肉を蠢かせて真空を泳ぐ異形の鳥であり、数ヶ月かけてゆっくりと月の空を通り過ぎていく巨大な星の船であり、太陽風に煽られて到着したきらきらと輝く紫色の鉱物生命たちであった。放浪者たちのなかには月の上を通り過ぎるだけでは飽きたらず、物欲しそうにウサギどもに近づいてくる奴らもいたが、ウサギたちは強く、猛々しく、彼らの逃げ足は速かった。
月の全土を縄張りとしているウサギたちであったが、そこは完全に彼らの天下というわけでもなかった。
白亜の御殿には仙女が住んでいる。
金星天が明るい夜には、時々散歩に出て来て、どのような魔法を使っているのか、彼女の行く先には一筋の光が波となって流れ粒となって弾けて月の荒野を貫く白い道となり、ウサギたちを恐れさせた。
だが仙女本人は気さくな性格で、気がむいた時にはちくわやゲソをくれるので、ウサギどもには人気であった。
白と灰色の世界に色彩はない。
しかし何事にも例外はあるものだ。
ある日、南の空に輝く青い星が生まれた。
いくら見ていても見飽きない、誘うような不思議な輝きであった。岩陰に隠れたウサギどもがそわそわと見守るうちに、その星はみるみる大きくなり、月の仙女と似た二本足の生き物の形になった。青い星と見えたものは、その人の首筋に銀の鎖で下げられた宝玉であった。
月面にふんわりと落下してきた輝く人は、岩の上に降り立つと、きょろきょろと周囲を見回した。
もう一度言おう。
縄張りは月全部である。
縄張りを荒らす奴は、敵だ。
闘志を剥き出しにしたウサギどもが突進していくと、輝く人は、口笛を吹いた。
「月にウサギが住むという伝説は本当だったのか」
感心したように声をあげ、「かわいいな! おいで、ウサちゃん!」と両手を広げたその輝く人の首筋が無防備にガラ空きだったので、地を蹴り高く高く跳ね上がったウサギは最初の一撃をその首筋にぶちこんだ。
殺人キックであった。
「ウワー!」
悲鳴を上げながら、輝く人は倒れた。
起き上がったあとは意外と強かった。
杖で殴られ魔法で焼かれたウサギたちはウサギの姿を失くし、月の荒野の八方に散っていった。解けたままでくるくると走って走って月の裏まで到着し、そこでようやくウサギの形に戻った。
――ひどい目にあった!
――ひどい目にあった!
鼻先を突きあわせ、互いに慰めあう。
それにしてもあの輝く人はなんだろう?
月の精に似た姿形だが月の精ではなく、他の星系から来た生き物たちのように磁場を荒らすでもない。
ウサギどもが見守っていると、輝く人は仙女の御殿に入り、しばらくするとそこから出てきた。足元まで垂れた長衣が翻り、痩せた体にまとわりついた。どこか難しい顔をしたまま一歩、二歩、前へ進み、輝く人の三歩目は月面ではなく空を踏んだ。四歩目で高くにふわりと浮かびあがった輝く人は、そのまま吸い込まれるように空へと消えた。
ウサギたちは肩を並べ、目を丸くして空を見上げた。
輝く人の姿が闇に見えなくなったあとも、青い宝玉は明るく輝き続けていた。
ウサギたちはうっとりと、その輝きを見つめていた。
しばらくは平穏な日々が続いたが、やがて一点、緑に輝く星が生まれた。
ウサギたちはまた岩陰に隠れ、身を寄せ合ってその星を見上げた。
ゆっくり、ふんわりと降りて来たのは、またしてもあの輝く人だった。緑色の星は彼の額に輝いていた。
――いっぱい、星を持っている。
前回のことがあったので、ウサギたちは駆けだしてはいかなかった。着地した輝く人は、杖にすがってよたよたと歩き出した。星幽界を旅する間に、どうやらあちこちに怪我をしているようだった。ウサギたちは彼が水晶宮に向かう様子をじっと眺めていたが、並んだ耳が揃って震えだした。我慢できなくなり、輝く人のところに一斉に殺到する。足の速いのが二匹、背後から襲いかかった。背中のど真ん中に飛び蹴りが決まった。
「ウワー!」
今回も絶叫しつつ、輝く人は倒れた。
起き上がった後は前回よりも手強く、月面の裏まで追いかけて来たが、くるくると逃げ出したウサギたちは岩陰に隠れ、難を逃れた。やがて宮殿に入っていった輝く人は、月の精の歓待を受けたせいか、来た時よりも元気を取り戻した様子で月を旅立っていった。
月面では平穏な日々が続いた。
ある日ウサギたちが空を見上げると、一点、赤く輝く星が生まれていた。
ウサギたちは今日は岩陰に隠れることもなく、その星を見上げた。
指先に輝く炎をまとった人は、ウサギたちが待ち構えているのを見ると、慌てて空中で方向を変えた。エーテルを泳ぐと宮殿の上に降り立とうとして足を滑らせ、やっぱり「ウワー!」と絶叫した。今日はウワー! だけでなく、「ルギルダさん!」と大声で呼んだ。
宮殿の二階の窓を開けて顔を出した月の精は、きょろきょろと周囲を見回して最後にようやく、宮殿のひさしにしがみついた輝く人を発見した。
「……別人です」
と言った。
「誰でもいいけど、なんですこの連中! なんで俺を見るたび襲い掛かってくるんです!?」
「……過酷な自然界の掟……」
「ここ星幽界でしょ!? エーテルだけで暮らしていけるなら、争うような縄張りも必要ないじゃないですか!」
輝く人を取り囲んだウサギたちは、前足で短いジャブを打ち込んだり、太い後足で回し蹴りをしたり、思い思いのファイティングポーズを魅せつけていた。月の精は首をひねった。
「……あなたの霊体が強すぎるのかも?」
「強い敵とわかるなら、戦わずに逃げ出してもらいたいね!」
「倒せるくらいには弱い……?」
輝く人は空を見上げ、おお、とため息をついた。
輝く人が中に入ったあと、ウサギたちは宮殿を取り囲み、中の様子をずっと伺っていた。
輝く物が欲しい。
と思っているのであった。
全員が、熱心に。
ウサギたちは頭を寄せあって、なぜあの輝く物がこれほど欲しいのだろうと話しあってみたが、結論は出なかった。もしかしたら月天が、色彩のない、岩と砂だけの場所なのと関係しているのかもしれなかった。
どちらにしても、あの輝く人は次々と様々な素敵に輝く物を持ってきて、本当にすごい!
一個くらいはわけてくれていい!
そういう結論に到着して、ウサギたちは深く頷きあった。
しばらく平和な日々が続いた。
月天の毎日は平穏であったが、ある日、輝く黄色い星が見えた。
とんと着地した輝く人は、周囲を警戒しながら、とん、とん、と軽やかに月面を歩いた。この世界にすっかり慣れたような身のこなしだった。ウサギたちはそろそろと岩陰から顔を出して走りだしたが、輝く人は彼らをちらりと見ただけで、背中はみるみる小さくなっていった。
しばらく平和な日々が続いた。
星幽界では時の流れは一瞬であると同時に永遠であった。
輝く星がおかしなことになっているのに気づいたのは、やはりウサギたちであった。
砂だらけの白と灰色の月天から、ウサギに似た物たち、観測者によって存在すら左右されるとても不安定な彼らは、その星を見守った。小さな星は、青と緑と白に輝いていたのだが、その一箇所に灰色の雲が、渦を描いて黒々と固まっていた。雲の間に紫の雷光が、バチバチと走る様子が、月にいるウサギたちの目にも見えた。
あそこで何かが起こっている。
あの星にとって、とても重要な何かが。
星には青い河と海があり、キラキラと輝いている。
黄色い砂地が広がり、ところどころが白い雪と氷に覆われている。緑色の森と赤い山脈はある場所では仲良く絡まりあい、ある場所では相手を端に追いやっていた。
あの星に暮らす観測者たちによってウサギの姿を与えられたウサギたちは、くるくると回転する美しい星を眺めながら、長い長い日々を過ごしていたのだった。観測者たちが月を見上げてウサギを思う一方、思われたウサギも己を生み出した観測者たちを見上げていた。訪れることもかなわぬ懐かしい場所で、誰かがとても重大な戦いを繰り広げている。
白と黒しかない月面を、月の精が歩いてきた。
ウサギたちが肩を並べて青い星を見上げているのに気づくと、その中央に腰を下ろし、ウサギとおなじように空を見上げた。
「……頑張っている」
小首をかしげたあと、「頑張れー」と小さく言い直した。
ウサギたちは人語を理解しなかったが、それでも月の精が応援しているのは理解した。月の精を取り囲んだウサギどもは、何が何と戦っているのかもわからないまま、ぴょんぴょんと跳ねたり、勝手なファイティングポーズを取ることによって、誰とも知らぬあの輝かしい星の守り手に、熱心に熱心に、応援を送り続けたのである。
end