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夜が終わる

シーフォン 顔2アベリオン

 寂しくなったら庵を出て、山羊どもの間で眠った。ごわごわの毛を両手でぎゅっと抱くと温かく、安心する。
 しかし朝になって目覚めれば自分の固い寝床の中に戻っていて、それが人生で最初に経験した魔法だった。
 物心ついた頃から、魔法使いの老人と一緒に暮らしていた。老人は町の人から先生と呼ばれていて、自分も自然と、先生、と呼ぶようになった。
「今日でお主も五つになる」ある日、朝食の席で、先生がそう告げる。「まだ小さいが、もうそれほど小さくもない。今日から魔法を教えようと思う」手にしていたパンを皿に戻し、口にいっぱいに頬張った肉の塊を大急ぎで咀嚼して飲み込んだ。さっさと返事をしないと、先生が気を変えてしまうかと思ったのだ。
「はい、わかりました」
「ふむ、ではこの食事を終えたらはじめよう。それと、もうお主も小さくはないのだから、そろそろ山羊小屋で眠る癖を直さんとな。寝台まで抱いて帰るには、重過ぎるわい」
 そう言われて驚いた。
「先生が寝台へ運ぶ魔法をかけてるんじゃなかったの? 僕、空を飛んで帰ってるんだと思ってた」
「そんな便利な魔法があるものか。儂が毎晩、ランタンを持って迎えにいっとるんだ」
 師匠は顔をしかめてそう言った。

         *

 世の中には、お父さんやお母さんがいる子供と、いない子供がいる。
 自分はいない方の子供だ。
 師匠がいる子供と、いない子供がいる。
 自分はいる方の子供だ。
 自分が持っているものを持たない人がいて、持たないものを持っている人がいる。
 当たり前のことなのに、なんとなく、不快だ。
 もっと言うと、かすかな怒りを感じる。
 だが、その怒りを育てるには、まだ幼すぎる。胸に芽生えた小さな憤怒の炎はそのうち消えてしまう。

         *

 山羊とは寝なくなった。
 友達ができたからだ。
 雑貨屋のおばさんが娘を連れて来た。金髪で丸い顔、リボンがいっぱいついたかわいい服を着ている。おばさんが先生からカブラ苔やクルカの葉を受け取ってそれを包んでいる間、大きな茶色い目で庵の中をきょろきょろと見回していた。目があうと、にこっと笑いかけられる。病気じゃない子がこの庵に来るのは初めてだ。どうしていいかわからなくて、興味しんしんな視線を感じながら、読んでいる本に集中するふりをして、じっとしている。外で遊んで来なさい、と先生に声をかけられたので、二人で外へ出る。
「あんたデネロス先生の子供なの? デネロス先生に子供がいるなんて知らなかった」
 いきなりそう言われてびっくりする。慌てて首を横にふって、「違う。僕は先生の子供じゃない」
「子供じゃないなら、なあに?」
「先生の弟子だ」と小さな声で答えた。女の子はふーん、そうなんだ! とやけに感心した声を出す。
「わたしはネル。よろしくね」
 手を出されたので慌てて握り返す。
 デネロス先生とは違うぬくもりを持つ手が、自分の手をぎゅっと握りしめる。

 ネルは力が強くて、うまく加減ができない。先生のお手伝いを申し出ておいて、すり鉢を壊してしまう。
 薬草を探すのは上手なのに。
 夜、寂しくて眠れないことがあるんだと言うと、えー、もう大きいのに! と大笑いされて、恥ずかしさと悔しさとでブルブル震えていたら、じゃあ今日は一緒に眠ろうか! と言われたのでびっくりした。ネルはぱっと立ち上がって、せんせーい! 今日お泊まりしていいですか!? と大声で訊く。「お母さんに断っておいで」先生にそう言われて、ネルは、はーい! と答え、じゃあまた後でねアベリオン! と元気に駆け出して行く。

 目を開いたら寝台の中にネルがいる。
「おねしょしちゃ駄目だよ」
「するか、バーカ!」
 かっとなって大声を出し、馬鹿、なんて言ってしまったことにちょっとだけどきりとする。怒るかな。でもネルは明るく大声で笑っただけだ。
 デネロス先生に「もう明かりを消すぞ。静かにな」と言われて、二人で声を揃えて、はーい、と答えた。

 夜、目を覚まして心細くなったら、明日、ネルと遊ぶことを考える。
 昼に寂しくなくなると、夜も怖くなくなる。

         *

 年の割には体が小さい。港へ行けば、年上の、体が大きくて乱暴な子供たちに絡まれる。なんだよ変な色! と髪を引っ張られ、小銭を出せと言われて黙っていると頬を殴られ、泣いてしまう。泣いていたら「てめえらオレのダチに何やってんだよ!」という聞き覚えのない声が響いて、路地裏から飛び出してきた、背の高い、だが自分と同じくらいの年の少年が子供たちの中で一番強そうな奴に跳びかかった。三対一の無茶苦茶なケンカだったが、驚いたことに、背の高い少年が勝利する。鼻血を出した仲間を抱えて三人が泣きながら去っていったあと、手に握りこんでいた石を河に投げ捨てた少年は、振り返ってへへっと得意げな笑みを浮かべる。
「ありがとう、助かった」
 そういうと少年は「まあ気にすんなよ、このへんはオレのシマなんだ。何かあったら、またオレがやっつけてやるからよ」と笑う。
 シマという言葉の意味がわからない。それよりも、もっとずっとわからない言葉がある。「オレのダチ、って? きみの友達? 誰? どこにいるの?」
「おまえだよ」
「僕らは初めて会ったのに?」
「いーじゃねぇかどうでも。ダチのために喧嘩しましたっていやあ、オレのシマで何やってんだ、よりは、格好がつくんだよ。大体の大人はころっといく。感心されて、小銭までもらえることもあるんだぜ」
「つまり嘘かよ」
「嘘だ」
「悪い奴だな」
「助けてやったのに面倒くさい野郎だな」
 むっとした顔になって少年が言う。少年の顎には目立つ傷がある。刃物の跡のようだ。
「じゃああれだ、オレはパリスだ。おまえ名前何よ」
 足元に散らばった魔道書に目を落とす。さっき殴られたせいでぼうっとしている。うまく頭が働かない。乱暴な連中だ。腹が立つ。負けた自分にも。泣いてしまったことも。
 しばらくしてようやく口を開く。
「僕は……アベリオンだ」
 パリスと名乗った少年は乱暴に手を握り締める。
「ようアベリオン。ほら、よろしくよ……これでダチだ。もう、嘘じゃねーだろ?」


 パリスはがさつで乱暴で馬鹿な奴だ。
 何も知らないくせになんでも知っている。大人みたいなのに、ガキだ。面白い。びっくりする。パリスと一緒に町を歩くと、知らない道、知らない縄張り、知らない規則を教えてもらえる。すごい、と思うが、素直に口にしたくない。張り合いたくなるし、向こうもそうだ。勝てば嬉しくて負ければ悔しい。競争して、勝ったり負けたり、ゲラゲラ笑い合う。ネルとのつきあいとは違う。
 パリスの家、ではなくねぐら、に泊まりにいけば、パリスはいいぜ、ゆっくりしていけよ、と言う。パリスは子供なのに一人、いや、一人と半分で暮らしてる。赤ん坊がいる。赤ん坊は好きな時に好きなように大泣きする。がさつで乱暴なパリスは小まめに赤ん坊を抱き上げ、膝の上にのせて揺さぶってやる。「ああ漏らしてやがるな」と面倒くさそうに言って、おしめをかえてやる。一枚の布でささっと赤ん坊の尻をくるむのに感心する。パリスはなかなか大した奴だと思う。さっきまで泣いていた赤ん坊は機嫌のいい顔で笑い出す。現金な奴だ。
         *

 杖の先に明かりを灯すのは簡単だ。
 先生は簡単な魔法しか教えてくれない。

         *

 パリスと二人で森へ遊びに行く。つもりだったが、広場の前を通ったら雑貨屋からネルが飛び出してくる。「あっ、またあんたたち二人で遊んで! 私も交ぜてよ!」とネルが言う。カウンターの向こうでネルのお母さんは嬉しそうに笑っている。パリスは顔をしかめて「ったくよー、おまえってすぐにくちばしをつっこんでくるなあ」なんて言ってる。ネルがパリスの腕をつかんでぎゃーぎゃーうるさく騒いでいる。
 三人で文句を言い合いながら森へ向かう。森には今、よその国から来た老剣士がテントを張っている。パリスは彼にウサギ罠の作り方を教えてもらっている。ネルは釣りを習っている。自分はワイヤーを持てばごちゃごちゃにしてしまい、魚を捌けばぐちゃぐちゃにしてしまう。ラバンは面白そうに笑って、「おまえさんは専門職って奴だな」といい、自分が灯した明かりに触れて「ありがとうよ。いい獣避けにならあな。虫は集まっちまうけどよ」と笑う。

 魔法の光は熱を伴なわない。
 それではつまり、虫は熱ではなく光のみに反応しているのだ、と思う。
 夜、先生を手伝って山羊に餌をやったり薬草の整理をしたあとは、庵の本棚から本を選び、昆虫についての項目を読む。もっと様々なことを知りたい。本を読むのは、先人たちの足跡を読むのと同じだ。ページを開いて文字をたどり、百年、二百年前に生きた人々の思考の跡を追うのは楽しい。ラバン爺から教えてもらった草食獣の三種類の足跡の違いはどうにも覚えられなかったのに。自分は書物の世界の狩人だ。

         *

 孤独ではない。寂しくなったら庵に帰るのを遅らせて、ネルやパリスと一緒に過ごす。魔法の勉強はどこででもできる。パリスとチュナのいる屋根裏で、ネルが店番をする軒先で、ラバン爺が釣りをする港で、酔っ払いが嬌声を上げる酒場の隅のテーブルで、ずっと魔導書を読んでいる。
 下町を駆け回っている小さな子供たちが、自分を見つけると名前を呼びながら駆け寄ってくる。遊んで、アベリオン! 僕のお菓子をわけたげるから、お話をしてよ! 大人たちは、小さなお弟子さん、と呼ぶ。町には暖かな夕餉の煙が流れる。この小さな町が自分を受け入れてくれているのを感じる。

         *

 春が一番好きだ。若草の上にネルとパリスと三人で寝転び、空を見上げながらどうでもいい話で盛り上がる。将来、パリスは英雄になりたいという。ネルは魔女。僕はなんだろう。デネロス先生は、こういうとなんだが正直ちょっとしょぼくれている。お酒を飲んではごろごろしていて、時々うんざりする。いい人か悪い人か、なら、いい人、だが、目標にすべき人物ではない。青い空がどこまでも広がっている。
「僕は」と言う。息を吸い込むと草いきれが胸に満ちる。ホルムの春は穏やかだ。利き腕の側に寝転んだネルの胸元には花の輪が載っている。それが欲しいと言えば、すぐに頭に載せてくれるだろう。反対側に大股を広げて寝転んだパリスは、どうやらもう眠りかけているようだ。森を探検中に発見した小さな滝つぼで、さっきまで三人で大騒ぎしていた。誰の髪もまだ乾いていない。疲れは心地よい重みとなり、眠りを誘う。
 視界の隅をひらひらと、白い羽根の蝶が舞っている。真っ赤な花の上で開閉を繰り返す羽根を見ていると、何かを思い出しそうになる。左手を持ち上げて指先を伸ばすが、蝶は蜜もない人間の指などになんの興味も示さない。
「僕は――僕は、偉大な――」

         *

 簡単な怪我なら先生の代わりに診察できるようになっている。小さなお弟子さん、ではなく、アベリオンくん、アベリオンさん、と言われている。庵を訪ねてきた人が、自分の手当てで痛みが和らぐのを見ると、ほっとする。アベリオン先生と小さい子供に言われて恥ずかしくなる。だが誇らしい。

         *

 間違えるはずはないと思った薬の調合を間違えて、危うく妊婦を殺しかける。先生に厳しく叱られて、その間、ずっとうなだれている。泣くものかと思うが泣いてしまう。泣いても師匠の叱責は和らがない。「儂らは魔術師だが、この町の人々にとっては医者で、命を預かる手だ。傲慢になればその手が鈍る」

 自分の両手を眺める。

 気がつくと、デネロス先生は怖いくらい静かな目をしている。
「覚えておきなさい。魔術師の手は、死を呼び込む手なのだ」

         *

 死についてなんて、考えたくもない。
 だが空想の中で自分は白いローブを身にまとい、たった一本の杖を手に、戦場に立つ。弓矢が嵐のように飛び交い、赤い炎が流れ、ぎらぎらと甲冑と抜き身の剣の列が輝くその場所で、優雅に呪文を詠唱し、杖をかざせば、異界と門がつながる。ごうと音を立てて天空からドラゴンが降りてくる。若き天才魔術師アベリオンの召喚に応じて姿を現した竜は、敵兵どもを灼熱の炎でなぎ払う。
 黒焦げになった兵士どもが悲鳴をあげる。
(ちりぢりになった髪が焦げる、兵士たちが焼ける匂いは夕餉の肉が焼ける匂いを思い出させる。ぱっ、ぱっと明るい輝きを放ち、燃えた服が千切れて暗闇に舞い上がる)

         *

 妊婦は助かり元気な赤ん坊が生まれる。先生と二人、お見舞いにいって、ほわほわと泣く赤ん坊を抱かせてもらう。赤ん坊はずっしりと重い。そこで自分が泣いているのに気づく。なぜ涙がでるのだろう。

         *

 死について考えるのはまだ恐ろしい。だが、生命の不思議には夢中になる。女の体への欲望とは別のようであり、同じようでもある。魔道書のページをめくり、交合以外で命を作り出す方法を学ぶ。命とはなんだろう。好奇心が募り、ある日、ネルにいくつかの質問をする。質問に段々と夢中になってきて、無礼かもしれないがこのくらいいいだろう友達なんだから、それは最後に一つの依頼となる。ネルはものすごく長い間、目を丸くして、自分を見つめている。段々とそこから表情が消えていく。優しく明るいネルが冷たく厳しい声で言う。
「嫌だよ、アベリオンは私のこと全然好きじゃないもの」
「僕はきみが好きだよ」
「あんたってひどい馬鹿だ」
 そう言うと、ネルは選り分けていた薬草をまとめて縛る。恐怖や嫌悪の色はない。かわりにすごく怒った顔をしている。ネル、と名前を呼んだが、振り返りもせずに出ていってしまう。

 ネルが庵に遊びに来なくなった。
 あとから「そういう意味」で彼女が自分の言葉を受け取ったのに気づく。馬鹿だな。そんなんじゃないのに。なんだよ、友達のくせに。バーカ。むしゃくしゃする。ネルは馬鹿だ。


「お前ほんと馬鹿だな」
 げんなりした調子でパリスが言う。
「なんだよお前まで。僕が悪いってのかよ」
 むっとしてそう言うと、パリスが舌打ちする。「自分がいいか悪いか、他人にそれを聞いた時点で、もう正しくないんだよ」
 パリスにしてはえらく含蓄のある言葉で少しとまどっていると、
 「――って大河神殿の婆さんが言ってたぜ」と続ける。なんだ。受け売りか。しかし自分の知識や言葉とてデネロス師匠の受け売りばかりだ。桟橋に腰をおろしていたパリスは釣糸を河から引き上げる。「来いよ」という。「来い。いいから。なんでネルに言うんだよ。そーゆーのはオレに言えオレに」
 気がつけばパリスの背は自分より遥かに高くなっている。鍛えられた広い背中を見ると、面白くない。自分はいつまでもチビのままだ。小さいお弟子さん、アベリオンちゃん。「来いよ」港の倉庫の間を縫って歩いていったパリスは、手にしていた釣竿とバケツをそっと地面に置く。倉庫の裏には煉瓦造りの小さな家が建ち並んでいる。「内緒にしとけよ。バレたらオレもおまえもピンガーさんも縛り首だ」明かりとりの窓が高い位置についている。木箱を踏み台にしてその上に立つ。背伸びして窓を覗き込む。天井には薄ぼんやりとした明かりが灯っているが、その光は弱すぎて、室内の大部分は暗闇に沈んでいる。よく見えない。白い煙がこもっている。男たちの野太い笑い声がする。それよりももっと甲高い、女たちの笑い声。すすり泣くようなうめき声。
 段々と目が慣れてくるにつれて、暗闇にうごめき、もつれあう獣たちがその輪郭を露にする。

         *

 死はどこから来るのだろう。
 生命について考えると、必ず、死についても考えることになる。
 自分が死ぬことを考えると、幼い頃、夜中に寝床の中で目覚めて感じた狂おしいほどの孤独と恐怖がよみがえってくる。もう山羊の間で眠るわけにもいかない。死について、生命について、どちらも考えないようにする。

         *

 ある日、庵に帰ると、見知らぬ中年の男がいて、小汚い小僧に過ぎない自分に、丁寧に頭を下げる。身なりのいいその男は、焦点具ではないただの杖を手にしている。デネロス先生としゃべっている。星々の動きと季節風について、神聖文字とシバの古代文字の違いについて、シーウァ三国の歴史について、いくつかの質問を自分にする。自分はそのすべてに答える。
 男が帰っていったあと、「今の人は?」質問すると、ずっと表情を消していたデネロスが「リルゼイ大学の世話人だ」という。
 大学?
 大学だって?
 賢者たちが集う星の学院ならともかく、教育機関の人間がデネロス先生に何の用なのだろう。
「儂ではなくてお主だ」
 師匠がうっすらと喜んでいるのがわかる。
「利口な子供がいるという噂をきいて、わざわざこんな田舎町までやってきたそうだ。アベリオン、お主、大学に行くつもりはあるか?」
 驚いて先生を見つめる。
 大学について、知識としては、知っている。だがそれは都の裕福な家に生まれた子息が通う場所で、そもそも自分の年齢では早すぎる。
「頭のいい子供たちについては、年齢に関係なく、特別に声をかけているそうだ。試験に合格すれば学費はすべて免除だと。どうだ、行く気はあるか?」
「でも先生」
 戸惑いながら、答える。
「それは僕の話じゃありませんよね」
「うん、なんだって?」
「それはアベリオンの物語ではないはずです」
 口を閉ざしたあと、自分は何を言っているのだろうと混乱する。意味がわからない。物語? なんの話だ? デネロス先生もぽかんとしている。
「すみません。なんだか……少し疲れているみたいだ。もう少し考えさせてください」
 しどろもどろに謝り、これはなんだろう、と思う

         *

 着替えを数枚、あとは路銀と杖だけを持って旅立つ。デネロス先生は「何かあった時のため、お前あてに遺書でも書いてどこかに隠しておくかな」と冗談めかして言う。縁起でもない。パリスと、そして久しぶりのネルが見送りに来てくれる。
 パリスはつまんなくなっちまうなぁ、と笑う。パリスと固く抱きあう。握った拳で肩を乱暴に叩かれ、「元気でやれよ、兄弟」と言われる。泣きたくなるが、自分も同じように拳を作り、パリスの肩を叩き返す。「あんたもな」と言う。
 そしてネル。
 両手を広げて抱きついてくる。腕のなかで彼女の体が微かに震えるのがわかる。丸みのある柔らかな体温に、あ、女の子の体ってこんな風なんだ。そう気付いて、びっくりする。悪いことを言ったと思う。大切な幼馴染みをぎゅっと抱く。同じようにぎゅっとネルが抱き返してくれる。あんな風に怒らせて、ずっと口もきかなくて、謝罪すらしていないのに、それなのに互いに心に壁はできていない。僕らは友達だ。ようやく体を離して、ネルが言う。
「元気でね、アベリオン。帰ってくるのを待ってる。ここがあんたの居場所だよ」

         *

 大学生活は順調だ。
 ネスのあちこちから集まってきている学生連中と教師たちは皆彼より年上だ。最初こそ気後れしたものの、柄の悪い、弁が立つ、学ぶことに貪欲で、揃って薄汚い格好をした学生たち、学問の合間に大酒を飲みたちの悪い悪戯をして酒場の女の子を追い掛け回し、何よりも議論を愛する彼らとの付き合いは、刺激的で面白い。自分を一切子供扱いせず、こちらも年齢差を気にせず堂々と対等に渡り合い、おかげさまでホルムでは聞いたことすらない悪い遊びをいくつも覚える。酒場も賭場も売春宿も、危ない場所で危ないことをいくつも経験する。だが、本当に一番悪いことは、生真面目そうな金持ちの優等生、なんの害もなさそうな上品な顔をして近付いてくる。
「魔術に興味があると聞いたんだが」
 とその上級生は言う。
 法学の講義が終わったあとだ。大学には学舎がなく、キューグの神殿を間借りしている。周囲には人はいない。いかにも高価そうな絹の上着を身に着けた上級生は、ホルムのアークフィア神殿を思わせる列柱が並ぶ廊下を並んで歩きながら、声を潜める。
「デネロス師が育ての親だと」
「デネロス先生を知ってるのか?」
「ああ、魔術師として大変、高名な方だ。『鍵の書』の継承を許された話は有名だよ」
「へえ!」
 思わず声が弾んだのは、誇らしさもあったが、端的に言うとこのところ先生が恋しくてたまらず、名前を聞いただけで高揚したからだ。大学では魔術師が妖術師と呼ばれて、あからさまにさげすまれている。ネス公国では魔術が禁忌とされているわけではないのだが、ホルムと比べてなんとなくおおっぴらにはできない空気があり、肩身は狭い。デネロス先生との森での暮らしが、ホルムの路地裏が、町の人々が、幼馴染みたちが、そして堂々と魔法を使える生活が恋しい。
 魔法に興味があるなら、と繰り返したあと、上級生はある集会に誘ってくる。
「僕たちは古代の魔術を研究しているんだ。大河神殿が教えるものとは違う。聖典の解釈に合わせた神殿の魔法体系にはそもそも誤りも多いという説がある。そういう研究があるんだ……いや、もちろんナザリの法で許された範囲での、知的好奇心を満足させるための集いだよ。学生だけじゃない、教師だって参加している。そういえばきみと同年代…いや、少し年上の学生もいるんだ。エルパディアからの留学生で、下級貴族の出身らしいが、非常に頭がいい子だ。ただ、少し傲慢ではあるが。面白いやつだよ。力を証明したいなんて言ってね」
 列柱の間から差し込む陽光のまぶしさに目を閉じる。
「どうした、アベリオンくん」
 どうしたのか、自分でも分からない。
 ただ心臓が強く脈打っている。
 会ってはいけない、と思う。同時に、会わなければ、とも。恐怖と歓喜、相反する二つの感情が湧き上がり、動けなくなる。だがその心臓が熱い手でわしづかみにされたような、奇妙で強烈で唐突な興奮は一瞬で消え去る。
「いや、なんでも」
 目を開けてそう答える。
「いいね。ぜひ。その人にも会ってみたい。僕と同じくらいの歳で学生で魔術に興味があるなんて。友達になれたらいいな」
 パリスやネル、大切な友人たちの顔を思い浮かべながらそう言う。

 彼らの仲間に加わるには秘密めいたいくつかの儀式を必要とする。用心のため、理解されないことが多いから、高貴な生まれの方も参加しているので、さまざまな理由を聞かされるが、要するにこれは単なる学生の勉強会ではない。歴とした秘密結社だ。厄介な匂いを感じる一方で、まだ自分が知らない魔術の理論に触れることができるのではないかと、期待に胸が弾む。
 結社への入会を認められたその日の夕方、大学からも学生街からも離れた場所に呼び出される。地図を片手にたどりついた町外れには、ずいぶん長く放置されたのが一目瞭然の、荒れ果てた館が建っている。窓に外から打ち付けられた板や、壁を覆う枯れた蔦、長いあいだ人の手が入っていない廃屋に見えるが、下部が黒く腐った木の扉を開けて中へ入ると、廊下には埃が積もっていない。しかもここにはかすかに魔力の流れがある。
 奥の部屋にたどりつく。
 床に置かれたランタンの弱々しい光が、家具も窓もないがらんとした室内を照らしている。
 床にはいくつもの正円と方形が描かれていた。いや、描かれている最中だ。こちらに背を向けた誰か、フードをすっぽりとかぶった性別も年齢もわからない誰かがしゃがみこみ、白墨で魔法陣を描いている最中だ。自分の足音に気付いているはずなのに、振り向きもしない。広い部屋の床一面を埋め尽くした円と線と文字、そのすべてが驚くほど正確だ。まだ未完成の魔法陣は、すでに場の魔力に秩序だった流れをつくっている。均一な線で引かれた術も式も図も呪文も、古代の魔導書をそのまま引き写したような完璧な美しさで、一瞬、見惚れる。
「足元に気を付けろ、敷居にも呪文が書いてある」
 思いがけず甲高いその声が聞こえた瞬間、喉が詰まる。

 生とはなんだろう。
 わからない。
 だが、自分は死については知っている。

 しゃがんでいた少年が立ち上がる。
 少年だ。
 声でわかった。
 フードのついた、裾の長い白いローブを身に着けている。
 少年が振り返るとその拍子にフードが滑り落ちる。現れた髪もまた白色だ。ばさついた髪は、中途半端な長さで乱雑に切られている。ほっそりとした白鳥のような首。純白のまつげに縁取られた赤い瞳がこちらをまっすぐに見つめた。
「やあ。きみがアベリオン?」
 白い少年はてきぱきとした口調で言う。笑っていない。真面目な顔をしている。
「僕はエルパディアから来た。シーフォンという名前だ。よろしくな」
 手短に自己紹介を終えるとまっすぐに目を見つめたまま、軽く首をかしげてかすかに笑った。引き込まれるような魅力的な微笑だった。
 呼吸が苦しくなる。抑えがたい不快感が込み上げてきて、とっさに自分の頭部に手をやり、赤い髪をかきむしった。ガラスを爪でひっかくような、不快な、きしむような、甲高い調子外れの声が喉から漏れる。
「違う」
 恐怖はいつものように怒りに置き換わった。
 怒りに震える声で言った。
「違う。お前はシーフォンじゃない」
「僕はシーフォンだ」
「違う、違う、違う。駄目だ、やめろ。その名前を名乗るな」
 汚泥を耳に流し込まれたような、自分自身を芯から穢されているような、耐えがたい不快感が背を震わせる。
 同時に、アベリオンと名乗る自分もまた、目の前の少年の本質を――人生を、貪っていることに気付く。
「僕はシーフォンだ」
 落ち着いた声と表情で、白い少年は繰り返した。
「エルパディアの下級貴族の家に生まれて、神童と呼ばれ、大学に招聘された。魔術への興味から結社に加わった。魔術を行使することで強い力を得られると考えたのだ」
「それでもお前はシーフォンじゃない」
「足元に気を付けろ。よろけて呪文を踏まないでくれ。その魔法陣は完璧な調和を保っている。僕がエルパディアにいた頃、独力で学び、練り上げた魔法理論だ」
 白い少年はぐいと顎を上げた。
 自分が選ばれることは当たり前だと信じきっている人間独特の、冷静で残酷で優雅な口調で続ける。
「われわれの住むこの星は、いや、天空のすべての星々は、生誕したその瞬間から完璧な調和を目指し自転と公転を続けている。僕にはそれが見える。古い魔力の血を汲まず、優れた師匠に育てられず、心の支えとなる幼馴染みたちと出会わず、古代の帝国が眠る土地に生まれず、たとえシーフォンという名前の下級貴族として魔術を禁忌とする国に生まれたとしても、僕はこの世界の理を見通し、大いなる力をつかめるのだ」

 アベリオンという名の赤毛の少年は、腰を折り、真っ黒な固い襟に包まれた己の喉を締めるように両手でつかみ、溢れかけた悲鳴をなんとか胸腔内に押さえ込んだ。狂乱の縁で踏みとどまった若い魔術師の視界いっぱいに、複雑怪奇な呪文に彩られた魔法陣が広がる。自分の意思を裏切って、両目が勝手にギョロギョロと勢いよく動き、魔法陣を読み解こうとする。だが、わからない。言葉の音が分かっても意味は分からず、意味が分かる単語は未知の法則による文法で束ねられている。美しい、そう思うが、ここに織り込まれた高度な魔術理論は自分のようなありふれた天才の理解を許さなかった。
 自分にはこの魔法陣を読み解くことができない。
 僕にはできない。
 春の草原の草いきれ、ランタンの光の下、師匠と向き合って座り魔導書のページをめくる安らぎ、気心のしれた友人たちの笑い声。夕暮れの帰り道に漂うスープの匂い。ホルムという田舎町で健やかに育ってきた少年の暖かな記憶はしかし、暗い部屋の底でもつれあう獣たちの影に飲み込まれる。あいつは確かに僕とは違う。僕が望んだ物、望まなかった物、得られなかった物、馬鹿にしていた物、欲していた物、遠ざけた物、諦めた物、取り上げられた物、理解できない物、失った物、追い求めてきた物、あらゆる物に囲まれてあいつは健やかに育ち、そしてたったひとつ、僕がすべてをなげうってでも欲っした物を、あいつは手にしようとしている。
 どれだけ焦がれても、僕が僕である限り、絶対に手は届かない……。
 魔法陣を遮るように真っ白い手が視界に入り込んでくる。
 握手を求められていると気付くまで時間がかかった。
「友達になろう、アベリオン」
 白い少年が真心のこもった明るい声でささやく。
「僕たちは貴族と貧しいまじない師だ。僕たちは別の国に生まれて、まったく違う人生を歩んできた。だが僕らは出会った。僕らは良く似ている。きっといい友人になれる。語り、学び、きみが望むなら力を競い合い、同じ夢を追おう。僕はきみとずっと一緒にいたい」
 赤毛の少年は、清潔なその手をまじまじと見つめた後、勢いよく払いのけた。
 乱れた呼吸が整うのを待たず、叫んだ。
「それで今度はお前が僕を殺すのかよ?」

         *

 これが死だ。

         *

 頭上の瓦礫から石粒が転がり落ちてきて、その音で一瞬の意識の混濁から目を覚ました。長い夢を見ていたような気がしたが、実際には一瞬だということも分かっている。どんな夢だったかはもう思い出せなかった。
 周囲を覆う暗闇に混乱してとっさに魔法で周囲を照らそうとするが、杖を持った手に力が入らない。右手を動かそうとしたせいで、骨が折れた胸に激痛が走った。うめき声が漏れた。
 先ほどまで周囲をうろついていた怪物は、嘔吐を催す山羊に似た臭気だけを残し、どこかへ遠ざかっていったようだ。だが身を隠すために慌てて入り込んだこの瓦礫の下から這い出す体力はなくなっていた。ここにたどり着くまでに血が流れすぎた。止血のために縛った膝から下の感覚はもうなくなっている。地上は遠いが傷薬も痛み止めも手許にない。このまま押し寄せてくる苦痛に身を委ね、ゆっくりと死んでいくだけだ。『鍵の書』にも触れぬまま。
 どうしてこうなった?
 奴に、どこが負けていたっていうんだ?
 力を振り絞り、両手を掲げた。
 真っ白い掌は自分の血でべったりと赤く汚れていた。

         *

 一度きりの人生が汚泥の中で終わりを迎えようとしている。恐怖はなく、ただ純粋な怒りだけがあった。闇の中でたった一人、誰にも知られぬまま、耐えがたい苦痛と脳髄を焼き尽くすような憤怒と共に横たわっている。死が彼の足元にうずくまり、冷たい指先で彼の爪先に触れていた。シーフォンはようやく気付いた。
 どれだけ離れていても人と人は出会い、生は世界のすべてを残酷に繋ぎ合わせてしまう。だが見よ。
 ――死によって断たれぬ物など、何もなし。




 end

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