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茨姫 1

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 声は出していいとあらかじめ言われていたが何のことだかよくわからず、曖昧に微笑しただけだった。まだ子供だった。体よりは心のほうがずっと幼かった。
 召使いたちの大部屋では夜に部屋の明かりが消えたあと、寝台の一つに女中たちが集まり、噂話に花を咲かす。集まる場所は「お話」を持っている女の寝台だ。「お話」、「お話」――ナザリの行商人が持ってきた香水、奥方様の新しいドレス、森に響く亡霊の声、酒場の亭主が娘のような若い女を嫁にもらった話、市の時に逃げ出した豚の群れ、人の噂は楽しい、悪口はとにかく面白い、流行の服の話なんと素晴らしいのだろう、だが一番女たちが好きなのは、男たちの「お話」だ。町で買ってきた焼き菓子をぼりぼりとかじりながら、夜着に衣ずれの音をさせ、時にはぴしゃりと肌を叩き、肩をはたきあい、声をひそめ笑い声をあげ、彼女たちは彼らの話をする。彼らがどんなふうに自分に触れ、自分がどんな風に彼らに触れたのか。昼間とは違う彼女たちの笑い声の淫靡さ、興奮を隠すくぐもったその話し声。
 女たちには背をむけ耳を塞ぎ頭から毛布を被って息を殺していた。あれはきいてはいけないことだと思い、別のことを考えていた。

「フランは子供だから」
 召使いの中でも歳の近い少女たちからは嘲るようにそう言われたが、それなら子供でいいと、馬鹿にされたことへの反発ばかりではなく、本気でそう思っていた。女中部屋の隅ではだけた白い胸元を見せ笑いあう女たちの揺れる影や、あるいは非番の日に町へ遊びに行ってきた兵士たちが広間の柱の側で輪になり、酒と白粉の匂いを漂わせ、歯をむき出しにして話す声、目つき、身振り、大人になればあのように卑しくなるのだ、そう言われて誰が喜ぶというのだろう? 誰が大人になりたがるというのだろう?

「フランは子供だから」
 大人たちとはまるで違う調子で幼馴染みの少年が言い、その言葉にかちんと来たのは、相手が彼だったからだ。彼。彼――あの子、あいつ、坊ちゃま、キャシアス。キャシアス様。あの物静かな子。町の少年たちの輪から離れ佇む、領主様の一人息子。
「そんなの……じゃあキャシアスは大人なの?」
 正面からは答えずにわざと少しずれた反論をしたのは、子供だという事実を否定できないししたくない、かといって胸を張り、そうその通り、あたしは子供よ、だから何? と堂々と聞き返すこともできない、曖昧で微妙な年齢だったからだ。
 季節は春で時刻は夕暮れ、二人は城壁の上に並んで腰かけ、ホルムの町を見下ろしていた。城壁の西側の一角は、館のどの窓からも死角になっており、内庭から見上げても大きく張り出した木の枝の影になっていて、幼い頃から二人だけの秘密の場所だった。
 フランはもう女中服を与えられており、人前ではキャシアス様、と呼ぶようになっていて、キャシアスもそう呼ばれればもっともらしい顔で頷くのだが、幼馴染みの二人のどちらにとっても、ごっこ遊びの延長にすぎなかった。キャシアス様、ホルム伯、こちらはカムール殿、ゼペック、客人の案内を。大人たちが目の色を変えて夢中になって行う、くだらない遊びだ。子供たちには馬鹿らしい。二人きりになれば昔通りにキャシアス、フラン、そう呼びあって祖父や父の真似をしてくすくす笑いあい、乱暴に小突き合って、厨房からくすねてきた焼き菓子を半分に分けて食べながら、時には言葉も交わさないままずっと肩を寄せあってただ並んで座っていた。
 この日もフランの膝の上には料理人がわけてくれた果物のパイが乗っていた。真ん中からきちんと二つ、等分に割ったパイの皮の破片と赤いジャムがこぼれ、フランの白いエプロンを汚していた。
「俺は大人だよ」
 フランの問いにキャシアスが即座にそう答え、フランはくすりと笑う。キャシアスはまだ子供だ。背は自分より低いし、文字の読み書きも苦手だし、館の人々からは半人前扱いすらされていない。一方女中服に身を包むフランは、北館の廊下の掃除はもう彼女の受け持ちになっていて、冬の日に床を磨くのは辛い仕事だがそこが自分の責任のある場所だと思えば誇らしい気持ちになる。くすくす笑いながら、キャシアスが大人ぶることに少し安心もしていた。もしもどちらかが大人になったら、子供の時間はもうお終いだ。ごっこ遊びを本気になる世界に入って行かねばならない。キャシアス様、若様。おい、そこの女中。フラン――フラン。手をつないで歩くのはもう恥ずかしい。何かの弾みに体が触れ合えば、キャシアスはびくりとして体をこわばらせ、赤面してそっぽをむく。何やってるのキャシアス、そうやって気軽にからかうことはできないだろう。それくらいは理解できる年齢でもあった。
 この日のキャシアスは笑わなかった。その顔はいつもよりまっ白で、血の気が引いているように見える。若様は子供らしくない、かわいげに欠ける、無口すぎる、召使いたちにはそう評されることが多くて、でもフランには意味がわからない。子供はいつもにこにこしてなきゃいけないの? なんでもしゃべらなきゃいけないの? 大人たちへの少しの反感を胸にそう思う。余分なおしゃべりをすれば腹を立てるくせに。素直に泣けばうとましがるくせに、泣かなきゃ子供らしくないなんて、変なの!
 城壁の上に座ったキャシアスは、立てた膝を胸にひきよせて両腕で固く抱き、その膝に頬をのせていた。
「フラン」
 キャシアスは声変わりがすんだばかりだ。フランは少年の新しい声にまだ慣れていない。いがらっぽい低いその声はあまり好きではない。それどころか、しばらくしたらキャシアスの喉が元に戻り、甲高い澄んだあの声がまた聞けるのではないか、そんな風に考えてすらいる。少年が子供時代を終え、耳に馴染んだあの声は永久に失われたことに気付かずにいる。
「フラン――」
 擦れた声で少年は二度、少女の名前を呼ぶ。西日を浴びて白い髪が金色に燃えている。フランの胸はつい最近膨らみはじめたところだ。今は衣類に擦れただけで痛む乳房に苛立っている。だがまだ子供だ。本当に子供だ。だから少年の両目の輝きに気付かない。夕日とは別に燃えている赤い瞳が理解できず、息がかかるほどの距離に座り、無防備な表情で彼を見つめている。
「キスしていい?」
 ほとんど唇を動かさずにキャシアスが言った。大人のような低い声だった。
 言葉の意味が理解できるまで少しかかった。
 沈黙の中で、キャシアスは視線をそらさず、フランの答えを待っている。意味を理解し、同時に選択権が自分にあると気づいた瞬間、少女はパニックになる。
「えっ……あ、あのっ……え? えっ?」
 赤面してしどろもどろになったフランに、キャシアスはいつものように助け船を出してくれない。怖いくらい真剣な目で、フランの返事を待っている。
 挨拶のキスではなく、祝福のキスでもなく、礼儀作法のキスでもない。わかっている。もしもそういうキスが欲しいなら、こんな風には告げないだろう。キャシアスが求めているのは――欲しているのは――もっとありふれた、ごく普通の、男と女が交わすキスだ。
 そう気付いたとたんに怖くなる。
 フランは顔を伏せ、真っ赤になって、いやいやをするように首を振る。
「嫌――」
 まるで悲鳴のように響いた自分の声に、フランはひどくびっくりした。思ったこととはまるで反対の言葉を言ったのも、勝手に口が動いたのも初めての経験だった。
 どうして嘘の拒絶は、あんなに強く響くのだろう?
 本当に嫌な時は小さな声しか出ないのに。
 やっぱり嫌じゃない、と言おうとした――言えなかった――顔をあげると、唇をかたく引き結び、怖いような顔をした少年が、城壁から滑りおりるところだった。少年の耳たぶは赤く染まり、両目には涙が浮かんでいた。普段は軽々と昇り降りする城壁なのに、着地に失敗して尻もちをつき、だが無言のまま姿勢を立てなおすと、館の方へ駆けだしていく。
 あ、と叫び声をあげ、フランも立ちあがる。
 果物のパイは足元に転げ落ちる。
「待って、キャシアス――」
 少年は振り返らない。その背が遠ざかって行く。
「待って!」
 傷つけた、と思った。
 キャシアスは勇気を振りしぼってそれを言ったのだ。不器用で、プライドが高くて、欲しいものを欲しいとは素直に言えない性格だ。いつも黙って我慢している。わかっていた。わかっていたはずなのになんであんな風に拒絶したんだろう? あたしの方がお姉さんなのに……でも……だって……駄目じゃなかったのに、本当は全然駄目じゃなかったのに……。
 キャシアスを泣かせてしまった。
 城壁の上で立ちすくみ、エプロンを握りしめ、気がつくと、泣いていた。告げられた気持ちを拒絶したのは自分なのに、自分の勇気が、告白が、欲望が、親しい人から踏みにじられたような気持ちになっていた。館の主塔の向こうに赤い夕陽がぎらぎらと光っていて目を開けていられない。
「ごめんなさい……ごめん……違うの……ごめんなさい……」
 ぼろぼろと泣きながらそう繰り返していた。
 鼻をすすりあげ、服の袖で乱暴に顔を擦り、明日謝ろう、そう思った。ごめんなさいって言おう。怒っているだろうからすぐには口をきいてもらえないと思う。でも謝ろう――そしたらそのうちにキャシアスもわかってくれる。だって友達だもの。許してくれる、謝ったら絶対許してくれる……。

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