ホルム占領/ラバン キャシアス
己の元へやって来た物は、いつか必ず去っていく。
金や物はもちろんのこと、愛だろうと宿命だろうと同じことだ。人間は持って生まれた肉体を保ち続けることすらできないのだ。
そういうわけでターニャちゃんのパンツもここが去り時だとラバンは長年の経験からピンと来たのだが、珍しく今回は勘が外れた。
天井近くに縦横に張り巡らした麻紐には探索者一行が雪山で着ていた色とりどりの上着やら肌着やら靴下やらが隙間なくぎっしりと吊るされて、吹きこむ隙間風に揺れてもつれあい、天井付近の混沌を一手に引き受けていた。日が差し込む窓辺の一等地に干しておいたターニャちゃんのパンツは、あっという間にパリっと乾いた。素晴らしい。しかしこれは俺の手元にいつまでも残しておける物ではないとラバンは思う。
「長い旅の途中、こいつはずっと、俺と一緒にいた。だが、もう別れの時が来てるんだな」
「ラバン殿」
「こんな人生だ。別れには慣れちゃあいるが、それでも寂しいもんさ。たとえそれが一枚のパンツでも」
「ラバン殿」
「もっともダッタの件がなけりゃあ、俺はこのパンツを持っていることすら忘れちまうところだった。思い出したってことは、そろそろ忘れる時期が来てるってことさ……」
「興味深いお話の途中で申し訳ないのですが、ラバン殿」
「おう、どうしたキレハ」
寝台の端に腰掛けたキレハは、いつもと変わらぬ表情だった。年は若いが熟練の旅人であり、優秀な探索者だ。真横に座るラバン、山羊のような鳴き声をあげて回転している人工精霊八号、長々と寝そべって読書中のテレージャの背中、三方向からぎゅうぎゅうと圧迫されつつもキレハは普段の冷静さを保っている。しかしなにかを堪えるようなゆっくりとした口調は、いつもより静かな熱を帯びていた。
「失礼ですが、そのパンツ。どうして私の部屋で干す必要があるのですか」
――怒っている。
ラバンは、びっくりした。
頭上にはためくパンツから、苛立ちをこらえている遊牧民の娘へと視線を移す。
「お前の部屋?」
キレハが何か言うより先に、すいと伸びてきた金属製の杖が彼女の左足を叩こうとした。キレハは膝を持ち上げて難なくそれを交わす。人工精霊がその膝にぶつかり、悲しげな悲鳴をあげて逆方向に回転し始めた。
「何するのよ、シーフォン?」
部屋の中央(なんという邪魔な場所だろう)にでんとあぐらをかいた妖術師は、冷静さなど欠片もない怒りに燃える目で、キレハを睨みつけていた。
「僕、様、の、部、屋、だ。お前の部屋じゃなくてな。ふっざけんなよ僕がこの部屋を一人で使うのにいくら金を払ってると思ってんだよ?」
「私と同額よね」
「この部屋は最初っから僕が使ってたんだぞ!」
「こんな非常時に甘えたこと言わないで」
「甘え? ハァ!? ハァアー!? ふざけんなこの出ていけ!」
杖を振り上げようとしたシーフォンは、「あいッ!」とあまり聞いたことのない悲鳴をあげて仰け反った。シーフォンの振り上げた杖を、後ろにいたネルが片手でつかんでいる。もう一方の手に鉄の金槌を持っているのはアルソンの甲冑を修理中だからで、別に怖い人ではない。
「しーぽん、こんなところで杖を振り回したら危ないよ!」
「そうだあぶないぞ。その杖はエンダによこせ。広いところでエンダがふりまわしてやる」
「帰れ! 家がある奴らは帰れよ! ていうかここで鍛冶やんな頭湧いてんのか!」
「あなたもここで呪文を詠唱しないで」
ごっちゃごちゃになって揉め始めた若者たちはラバンのことなどもう忘れてしまったようで、ラバンは寝台の端から立ち上がり、乾いたパンツを紐から外した。
天井近くは洗濯物で混沌としているが、それ以外の空間はぎっしりと詰まった人間たちでさらに混沌としている。ひばり亭の狭い部屋には蝋の耳栓を詰めてイライラと古文書をめくるテレージャ、回転する人工精霊八号、絶叫するシーフォン(杖の先には干してあった誰かの猫耳フードが引っ掛かり、シーフォンが腕を振り回すたびに猫耳が揺れてなんとなく楽しそうなことになっている)、腰に手を当ててシーフォンと睨み合うキレハ、彼らにはもう背をむけて甲冑のへこみを裏から叩いているネル、その甲冑を押さえてネルの手伝いをしているどこか萎れた様子のアルソン、アルソンに神殿軍の様子をあれこれ質問しているパリス、寝そべって何かをくちゃくちゃと噛んでいるエンダ、皿から茶色い何かの塊をちぎってはエンダに渡しているフラン、フランの隣で両膝を抱え壁を見つめている青ざめたキャシアス、そしてこの有り様を見回すラバンがいて、メロダークまでこの部屋じゃなくてよかったよ、どこにいるのか知らないが、あいつがいたらかさばって仕方がないところだったとラバンは内心でひとりごちた。
数日前、西シーウァと大河神殿の連合軍がホルムの町を占領した。
占領軍の兵士たちはひばり亭にもやってきた。連中は探索者が所持していた発掘品を調査の名目で片っ端から没収し、遺跡は自分たちの管理下にあると宣言し、当分はこの町から出ることはまかりならん、日没後の外出は一切禁止すると申し渡し、横暴に抗議した探索者の数人を鉄槌でぶん殴った。
「グリムワルド家の長子キャシアスがこの店に出入りしていたことは、我々の耳にも届いている」
最後には小隊を率いてきた指揮官がカウンターの前に立ち、そう言った。
「キャシアスがもしまたここに姿を見せるようなら、即座に通報するように。匿った者は重罪となるが」一旦言葉を切り、白い甲冑姿の指揮官は、酒場に集められた探索者たちをまるで豚の群れでも見るような目で見回した。「通報者には、金貨十枚を与える。当然通報者の秘密も守る。捕まえても彼に害は加えない、率先して遺跡の探索をしていたというキャシアスに、我々は遺跡調査の協力を仰ぐつもりだ。諸君もこの町の治安を守れるよう、積極的に我々に協力してくれたまえ」
剣客、戦士、遺跡荒らし、傭兵に放浪神官に吟遊詩人に魔術師、はみ出し者が大半を締める探索者たちは無言でその演説を聞き終えた。だが兵士たちが宿を出ていったあと、――仲間を、あのキャシアスを、誰が売るかよ。誰かが吐き捨てるようにつぶやいて、それに賛同する声が一斉にあがったのだった。ラバンは彼らの義侠心に感動するとともに、冷静な部分ではちょいと驚き、軽い危惧の念を抱いたのだった。
ラバンは人間を信じていたが、信じすぎてもいなかった。
成人して間もない領主の息子への熱狂を、ラバンはおそらくその場でたった一人、ひんやりとした気持ちで眺めていた。
そのキャシアスは、数日後の夜、アルソンとフランと一緒にのっそりとひばり亭に顔を出した。オハラは「ま、これは貸しだからね」と神殿軍の脅しなどなかったかのようなさっぱりした顔でキャシアスたちを迎えいれ、その後はてきぱきと指示をして、シーフォンだかキレハだかの部屋に彼と親しい仲間たちをまとめて押し込めたというわけだ。神殿軍の兵士たちがまたやってきても、キャシアスと親しく腕っ節の立つ彼らなら、なんとかしてくれるだろうというわけだ。まあこの面子なら、確かに大体のことはなんとかなるだろう。
しばらくおとなしくしていたエンダが、突然跳ね起きた。
「うぅ?」
小さくうめいたあと、口をぱくんと開く。
「あっ、エンダ様」
「おい!」
フランやパリスが何かを言いかけたが、エンダはびっくりした顔のまま、いきなり小さく炎を吐いた。金色の炎の塊が目の前にあったアルソンの背中にぶつかり、薄いシャツに火が移った。
「うわああ、なんです!?」
悲鳴をあげてアルソンが飛び上がる。
「アルソンくん、燃えてるよ!」
「ですよね!? 僕もそう思いましたよ!」
金槌を放り出したネルがシーツの端をひっつかむと、それを引っ張った。寝台からキレハとテレージャがまとめて転がり落ち、丸い人工精霊を楕円形に潰した。
「きゃあ!」「うわわ、なんだい!?」「ま゛ま゛ま゛っ」「熱い! 熱いですよ!」「今のはエンダだけどエンダじゃない。これ辛いぞ」「シーフォン、水だせ水!」「魔法じゃなくて水差しを使え!」
ネルがシーツを振ってアルソンの背中を叩くのと、シーフォンがひっつかんだ水差しをアルソンの頭から浴びせるのと、フランが再び火を吐こうとしたエンダの口の中に何かの丸薬を投擲するのと、テレージャがつかんだ杖の頭が腰を浮かしたパリスの腹に刺さるのが同時だった。
阿鼻叫喚だ。
たちまちひどいことになった部屋の中、青ざめた顔をしたキャシアス一人が微動だにせず、壁に向かって三角座りを続けていた。
ひばり亭にやってきた昨夜からずっと、キャシアスはこの調子だ。
部屋に入ってからはひと言も口をきいていない。
ホルムが手もなく西シーウァに占拠されたこと。民衆を守るべき立場の大河神殿がそれに協力していること。ホルム伯である父親と家臣の安否もわからぬこと。民のためにを口癖としていたネスの公子が、戦いもせず真っ先に逃げ出したこと。遺跡が封鎖されたこと。自分が無事でいること。
(それでお前さんが一番ショックなのは、どれだい?)
寝台の端に座りなおしたラバンは、若者の横顔を見つめていた。大人と遜色ない体つきをしたキャシアスだが、中身はまだ子供だ。領主の息子として生まれた少年が背負っている物はあまりにも多い。しかしラバンには、背負わなくていい物がいくつも混ざりこんでいるように思えた。
ラバンは真面目な顔のまま、ターニャちゃんのパンツを思い切り左右に引っ張った。皺を伸ばしたのだ。
なんだかんだでアルソンは立ち直りが早い。
シャツを燃やして背中を火傷し後ろ髪の一房から燃えカスの嫌な匂いを発しながらも、「平気ですよこれくらい!」と笑顔で断言している。
「平気なわけないよ」
「手当てするから来たまえ。まったく、面倒な男だ」
小言を言いつつ、テレージャとネルが頑丈な騎士を寝台に引っ張って来る。
「ラバン爺ごめん、ちょっとどいてくれる?」
「ほいよ」
ネルの言葉に気軽に応じたラバンは立ち上がって寝台を怪我人に譲る。女の子二人にてきぱきと服を脱がされているのにひたすら恐縮しているだけのアルソンに、若者よ、エロスの女神には前髪しかないのだぞと内心で説教しつつ、壁沿いに移動した。歪つな形で悲しげに弾む人工精霊の下をくぐり抜けてキャシアスの側に行くと、青年の隣に座った。
キャシアスの目の下にはものすごいクマができている。いつもの笑顔は消え去り、青ざめた顔には内心の脆さが剥き出しになっていた。ラバンはその横顔をしばらく見つめていたが、
「キャシアス。あんまり落ち込むな」
そう言った。
キャシアスは顔をあげ、そこにラバンがいたことに驚いたようだった。
「自分を責める必要はないぜ」
「父上が捕まっている。ゼペック。それに家臣たちも」
エンダの口を拭ってやっているフランには届かない、とても小さな声だった。
「ま、シーウァ軍も馬鹿じゃないからな。無意味に殺したり痛めつけるような真似はせんだろう。そんなことをしても町の住人の反感を買うだけだ」
キャシアスは両手で膝を抱え込み、うなだれた。探索を始めてから筋肉がついて一回り大きくなった体を、子供のように小さく丸めた。
「僕も逃げずに戦うべきだった。行け、と言われても、留まるべきだった」
「そうかい?」
父上、とキャシアスがつぶやく。
「わからない。どうすべきだったのかわからないんだ。子供でもないのに」
「どうすべきかなんてわかる奴はいねえよ」
「子供ですらないのに」
キャシアスはもう一度そう繰り返した。
――落ち込んでんなぁ。
こんな状況でなければ、酒でも奢ってやるところだ。酒の代わりに老剣客は、青年剣士の肩を叩いた。
「元気を出せよ」
沈黙。
ラバンが手を離したあとで、
「うん」
キャシアスが小さくそう答えた。
洗濯物に絡まっていた人工精霊をパリスとシーフォンが引っ張って床に落とす。フランの膝の上では、エンダが寝息を立て始めていた。
ふと思いついて、ラバンが言った。
「そうだ、キャシアス。ターニャちゃんのパンツをやろうか?」
キャシアスがようやく顔をあげた。
「ラバン爺」
「おう。遠慮するな」
「いや、そうじゃなくて……それ、大事に取っておきなよ。女の子からもらった物だろ。もう会えないと思ったから、その子はラバン爺にパンツを預けたんじゃないのか」
生真面目にそう言う。
「大事にしているさ。だからこそお前に託したいんだ」
「……ダッタに渡そうとしていたように思うんだが……」
「キャシアスよ」
ラバンはキャシアスに向きなおると、力強い口調で言った。
「いいか、大事にするってのはな、懐に取っておくことじゃあないんだぜ。――他人から受け取った気持ちなんてのはよ、それが大事であればあるほど、一人で抱えこんではいけないものなんだ」
キャシアスの真面目さに応じてラバンも大真面目に本心を伝えたつもりだったのだが、キャシアスは疲れた顔になる。
「……時々、ラバン爺が羨ましいよ。パンツの貰い手を探す旅にでるなら、俺も連れていってくれ」
「どんな旅だよそりゃあ」
ラバンが呆れた声で言うと、キャシアスがようやく笑顔になった。
ひばり亭にやって来たキャシアスが、洞窟を見つけたんだと笑顔で話したのが八ヶ月前。
彼の母親が亡くなって二年。
五年、十年、この町でラバンが子供らと仲良くなったのは一体いつ頃の話だったか。ラバンが初めてホルムを訪れたのは、二十年、五十年、もしかしたら百年前。
二百年。
三百年――。
時間とともに両手の間から零れ落ちて行く記憶があり、色褪せない思い出がある。
ラバンはターニャちゃんがどんな顔をした娘だったのか、もう忘れてしまった。パンツをくれた女の顔を忘れちまうなんて、そんな残酷なことがあるかね、少しの悲しみと共にそう思う。その代わりというわけでもないのだが、ラバンはターニャちゃんの声をはっきりと覚えていた。別れ際の彼女との会話の一言一句を、彼女の口調を真似て繰り返すことが出来るくらいだ。もっともラバンの記憶しているターニャちゃんとの会話がどれだけ事実と合っているのか、それがわかる人間は当のラバンを含めて、この世界にはもう誰も存在しないのだが!
end