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ドラゴン殺し

小人の塔/シーフォン

 勘は鋭くない。
 だが硫黄と鉄と生臭い吐息の混じり合うこの匂い、生まれて初めて嗅いだ匂い、他に似た物を何も知らない、にも関わらずこの悪臭、邪悪な気配、触れてはいけない物だと本能が叫び、全身が総毛立っている。だからといって足を止めたりはしない。右手の杖を握りしめ、集中し、先行する領主の息子の肩越しに通路の先にぽっかりと空いた空間を覗きこむ。
 もうもうと立ち上がる白い湯気、広間の中央に空いた大穴とそれを満たす熱湯、そのほとりの金色の山の頂きに、赤い竜が眠っていた。
 赤竜だ。
 トカゲだなんてよくぞふかしてくれたものだあのクソ巨人は!

 竜だ。
 ただの魔物ではない。
 書物でしか知らなかった動物や風景や魔導書や武器や町並みや、想像すらしたことのない怪物や魔術や魔法や呪いや亜人たちや、この地下世界にあるなにもかもなにもかも、シーフォンが蓄積した知識のすべてを上回り、少年を圧倒し続ける。竜の子がいて竜の骨があって、それでも十分すぎるぐらいだったのに、今度は本物の竜だ。
 異世界で見た巨獣よりも二回りは巨大なその姿、びっしりと体を覆う赤い鱗と揺れる太い尾、トカゲみてえに眠ってやがるぞ、鼻から漏れる息が白くけぶり赤く輝いているのは見間違えじゃねえよなあかうんやっぱり炎吐いてるわあれ、腹の下の金色の山が金貨の山だと気付き、さすがのシーフォンもくらくらと眩暈を感じた。ピカピカした物を貯めこむというお伽話は本当だというわけだ。おいおい、金貨に白骨が混ざってねえ? 骨だよなあれ、うんそう来なくっちゃな!
 確かに足はすくんでいたが恐怖は感じていなかった。代わりに、
 ――僕もこれで竜殺しの英雄ってわけか。
 そう思った。
 おいおい。これ、名前が歴史に残っちまうんじゃねえの? 子供っぽい馬鹿げた興奮が胸に湧き上がってきてにやりと笑う。広間の入り口で足を止め、慎重に中を覗き込むキャシアスの横顔を見上げ、視線をそらして背後から追いついてきたエンダの頼りないくらい細い体を見た。怪力の騎士であり、炎を吐く竜の子であり、そして自分だ――つい先日習得したばかりの魔道書の術がいくつもいくつも頭に浮かぶ。天井の高さとうるさいくらい空気中をかきまわす熱い魔法の気配と、床や壁から溢れる精霊の力、風の動き、すべてを計り、流れを読み、精神を集中しはじめている。
 強大、異形、伝説の魔獣、にも関わらず負ける気がしなかった。
 おいキャシアス、いいぜ、これでてめえも英雄の仲間入りってわけだ。
「あいつ、エンダと同じ匂いがするぞ?」
 不思議そうにエンダが呟いて、シーフォンが教えた。
「そりゃそうだろうよ、あれは竜だ。おまえ見てわかんねえのかよ?」
 キャシアスが振り向いた。
「戻ろう、シーフォン」
「どうした? 早くばっきばきにしてやろうぜおい」
 忘れ物でもしたのか、あるいは正面からぶつかるよりもっといい別の手を思いついたのかと思ってききなおした。だがキャシアスの返事は思ってもみないものだった。
「僕らは竜とは戦わない」
 兜の下で赤い目が冷静な光を放っていた。 「ここでは戦わない。絶対にだ」
 ぎょっとしたシーフォンは、何言ってんのこいつ、と思う。
「やらないのか?」
 エンダが珍しく困ったような調子で言った。シーフォンはぴんときた。ぴんときた――マジかよおい何考えてるんだよそれはねーよ即否定してくれよとかなり真剣な調子でちらりと思いながら口に出した。
「まさか竜の子がいるからじゃねーだろうな?」
 キャシアスの顔が、一瞬、鋭さを増した。肩越しに振り向き、とぐろを巻いて眠る竜を見つめ、返事をしなかった。それが答えだった。
 いつもなら馬鹿じゃねーのとわめいて嫌味の二つ三つをぶつけてやるところだ。そう……気持ちに余裕がある、冷静ないつもならばば。杖を両手で握り締め、「っざけんなよ!」低い声で唸った。目もくらむような怒りのせいでまっすぐに立っていられない。「いいか坊ちゃん――おい――きけよ、あの竜をぶっ殺すべきなんだよ。このクソガキが同族を殺せば心が痛んじゃうーってか? んなわけねえーっつーの! こいつだって僕らと同じなんだよ、殺したって気にせず生きていけるんだよ!」
 キャシアスが低い声で言った。
「殺す必要がない」
 怒りのあまり目の前が暗くなった。
「必要あるかよ、んなもん!」
 震える声で囁いた。こいつは、いや、こいつらは馬鹿だ。結局こうだ。他人が戦う後ろで命令を下し、自分は手を汚さずに飯を食いクソを垂れ綺麗な寝台でぐぅぐぅ眠るから、だからこんな甘っちょろいことを抜かせるのだ。だからこんなところで日和った正論(!)を吐きやがるのだ。畜生、畜生、畜生――。目をあげれば赤い竜は長い首の内側を晒している。金貨と鼻や口から漏れる炎がぎらつく輝きとなって、全身を覆う鱗に光を反射させている。堂々たるその姿。穴倉の中で育ちきったあの体躯。美しさすら感じる――いや、美しくないわけがない。あれは力だ。力そのものだ。脳の芯が痺れたようになる。距離はまだ遠い――空中に両手を掲げて親指と人差し指を突き合わせ、小さな輪を作る。その中にすっぽりと竜はおさまって見える。呼吸が荒くなるのを感じる。人はこれを恐怖と呼ぶだろう。シーフォンには違う。シーフォンは恐怖を覚えない。そのような感情は、あの炎の中に捨ててきた。偉大さ、自分の手が届かない理不尽、絶対的な力、圧倒する存在、そういったものを目にした時、いつものように腹の底から怒りが湧いてくる。
 なぜ自分はあれを支配できないのか?
 こんな感覚は他人には、ことにキャシアスのような領主の息子には理解できないものだろう。だからシーフォンは竜を指さし、震える声で告げる。地位と未来を約束された騎士見習いにむかって怒鳴る。
「後も先もねえ、今殺すんだ、僕と、おまえと、こいつで。僕らはそれができる」
「殺さない」
「殺すんだ」
「殺さない」
「殺せよ!」
「殺さない」
「おい坊ちゃん、じゃあこの竜をこのまま放っておくってわけか? おまえの大好きなホルムの町の地下に眠ってるこいつを?」
 そこで初めてキャシアスがたじろいだ。
「……今は駄目だ、そう言ってるだけだ。後から始末する」
「結局殺すんじゃねえか! なんなのおまえ!? 竜の子が一緒じゃなけりゃ大丈夫!? 同じだろうが!」
「違う――全然違う! エンダには竜は殺させない、絶対にだ!」
「同族だからか?」
「そうだ」
「ざけんな馬鹿。おまえも僕も、神殿軍の連中を散々殺したんじゃねえか。でも余裕で生きてる。何も困ってない。なんでエンダにはさせねえんだ?」
「余裕で生きてる、何も困っていない――でもエンダにはさせない」
「それ命令かよ!?」
 キャシアスがひっぱたかれたような顔になった。
「命令!? 命令だって!?」
 一瞬で激昂した。
「こんなところまで来て、俺がきみやエンダ相手に命令してるっていうのか!?」
「じゃあ、なん、なん、だよ!? これが命令じゃなきゃなんのつもりなんだ? 上から僕らを見下ろして、殺せって命令するのがおまえらのいつものやり方じゃねえかよ!?」
 指で甲冑を叩いてやると、キャシアスがたじろぎきった顔になった。あっしまったと思ったのは、怒りを見せるのも駆け引きの一つと心得ており、頭の隅にはいつもどこかしら冷静な部分が残っているせいだ。増量した河の堤が切れるように、自分の言葉によって目の前の少年の忍耐が限度を越したのを感じる。失敗したと思った――だが一歩も引かなかった。当然引かなかった。
 赤い目が光を反射せぬガラス玉のようになり、キャシアスの内側で何かが膨れ上がる気配があった。やがてその何かは、来たときと同じように静かに、どこかへ去っていった。両脇に挟んでいた手を下ろし、キャシアスが言った。
「殺さない」
 埒が明かない。
 こいつこうやって押しの一手で人生渡ってきたのかなとちらりと思い、なんつう不器用なという憐れみと、そんなんでやってけるんだから楽なもんだよなけっという苛立ちを同時に覚える。困った顔で言い争う二人を見ていたエンダが、
「エンダはな――」
 と言いかけたが、キャシアスが、「エンダは黙っていろ」とぴしゃりと決めつけた。

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