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灰のように

ホルム奪還戦後 / ネル パリス キャシアス

 魔女になるのが夢だった。
 キラキラ輝く妖精たちとおしゃべりしたり、飲めば竜に変わる薬を勇者にプレゼントしたり、すごい魔法で人々を苦しめる悪い魔法使いをやっつけたりするのだ。
 素敵じゃないですかねそういうの?
 子供のころからずっとの夢だ。
 目を閉じて魔女! と思えば、いつでもたちまちとんがり帽子に長いローブをひらひらさせて、魔法の杖を頭上に掲げた自分の姿が浮かぶくらいだ。


 ――浮かぶはずだったのだけれど、最近はあまりうまくいかない。


 元気で明るくて前向きなのが、自他ともに認めるネルの長所であり魅力であり持って生まれた性質である。
 でも最近のネルは元気がない。暗い。
 変だなあ、と本人が一番不思議に思っている。
 もっとも変なのはネルだけじゃなくて、ホルムの町全部なのかもしれない。起こったことを春から順に並べてみれば、遺跡、怪物、凶作、病気、迷宮、探検、戦争、占領、帝国、そしてデネロス先生は行方不明と来た。おいおい本当かよそんなすごい目にあう町なんてきいたこともないぜ。でも本当なんだよ、そうか本当かなら仕方ないなあスティーブ。はっはっは。
 多分わたしが変なのも、そーいう仕方ないことのひとつです。
 ぱちりと目を開ければ、瞼の裏の暗闇は一瞬で消え、代わりに雲ひとつない真っ青な空が目に飛び込んで来る。
 カウンターに肘をつき、握った両方の拳を柔らかな頬におしあてて、ネルは盛大にため息をついた。
 木箱や樽が積み上げられた雑貨屋の奥の、小さな木の扉が開いた。エプロンをひっかけて出て来たネルのお母さんが、「店番代わるわよ、ネル」と声をかけてくる。ちなみに扉の向こうはいきなりネルの家だ。前は倉庫だったのだけれど、探索者が増えてあまりにも忙しくなりすぎたので、夏ごろに思いきって改築してしまった。
 ネルは振りかえるかわりに両手を頭上にあげて、うんと伸びをした。そのまま前に倒れ込み、カウンターにこてんと顎と腕を落とす。
「えー? いいよう、どうせこの時間は暇だし。休憩もらってもやることないもん。お母さん、もう少し休んでなよ」
 思い切りやる気のない声で答える。
「あら、どうしたの。いつもなら『わーいやったー!』なのに」
「今日はそういう気分じゃないんですよ」
 こんなに暗い気分で暗い雰囲気なのに、見てわかんないのかなと思う。鈍感だなあ、もう。
 もう一度ため息などついて暗いわたしをアピールしてみたが、お母さんは気にした様子もなかった。
「ふうん? キャシアスくんかパリスくんでも誘って遊んで来たら?」
「二人とも遊ぶ暇なんかないんじゃないかい」
「ああ、そうねえ。二人とも訓練に呼ばれてるのかしらね」
 近づいてきたお母さんが手を伸ばし、髪を整えてくれる。髪を引っ張られるとくすぐったい。
「キャシアスはどうかなー。別の用事があるんじゃないかな。あの人最近、カムール様の代わりで忙しいから」
「えっ、それってカムール様の体調が……」
「違う違う、そういうのじゃなくてさ、キャシアスが頑張ってるだけだよ。って、変な噂立てないでよ。キャシアスに怒られちゃうよ!」
「あんたお母さんをなんだと思ってるの。もちろん言わないわよ」
 ホルムがこんな時なのに、とのんびりつぶやく。
「ふーん。そっか。キャシアスくん頑張ってるのか。あれねえ、キャシアスくんもパリスくんも、二人とも最近急に大人になったみたいで、なんだか寂しいわ」
 お母さんの手は硬くて豆だらけなのにふんわりと優しく動く。リボンを結びなおして、最後にぽんぽんと頭をなでた。いつもは嬉しいその仕草を、今日はやけにうるさく感じて、ぶんと頭をふって振り払う。
「もーっ、子供じゃないんだから!」
 抗議の声をあげたら、
「あらら。あんたまで子供じゃないの? お母さん、ますます寂しいなあ」
 ころころと笑われた。からかわれてるだけとわかってるのだけれど、すごく悔しくて、ちょっと罪悪感。なんでさ。よくあるいつものやり取りなのに。
 とにかく、なんだか、最近のネルは変なのだ。
 今も口をもごもごさせながら、こういう時、キャシアスなら調子よく相手を持ちあげながら話の方はふわっと煙に巻いちゃうんだろうな、パリスなら頭を下げずに腰だけ低ーくして受け流したりするのかな、なんて考えてしまう。他の人がどうするかなんて、考えても仕方ないことなのに。
 お母さん相手にいらいらしてるのも、とっさに言いかえせないのも、自分以外の人なら上手くできるのかな? なんて考えちゃったことも、全部、全部、むしゃくしゃする。うー。ネルは木の椅子から立ち上がった。エプロンを首から外して、くるくるっと丸め、カウンターの下に放りこむ。
「そうだよ、どうせまだ子供だもん!」
 頭を上げきっぱりそう宣言して、カウンターの跳ね戸を押し開ける。
「やっぱりちょっと出てくるよ。夕方までには帰るね」
「はいはい、気をつけてね。一人で町の外に行っちゃ駄目よー」
 能天気なお母さんの声に見送られ、行く先も決めないまま、石畳を蹴って走りだした。冬が近いホルムの空はどこまでも晴れ渡る青空で、こんな日に元気がなくっちゃ、本当につまらない。
 自分を応援したら元気になるかな。無理かな。走りながら「がんばれ!」とこっそりつぶやいてみたけれど、やっぱり無理だった。

 ホルムの町の暇でやることのない若者は、自然にひばり亭に集まる決まりになっている。
 健全な若者が健全にだらだらできるような店は、ホルムではひばり亭くらいしかないのだ。というのも今はあんまり正しくない。遺跡が発見されて以来、探索者向けの宿屋や食堂も何件か新しく開店している。でもネルにとって『ホルムの酒場』は今もひばり亭だけだ。
 先日の市街戦とテオルの鉄器兵のせいで、広場の石畳はあっちもこっちも荒れている。地下の大廃墟を彷彿とさせる崩れた路面を飛び越えて、足取りだけは元気に走っていけば、すぐにひばり亭に到着した。
 日の高い間は探索者はみんな遺跡に潜っているだろうと思っていたのに、ひばり亭の前には探索者が七、八人、たむろしていた。彼らから少し離れた通りの真ん中には荷馬車が停まっていて、つながれたぶちの馬がのんびりと尻尾をふっている。御者台で鞭を握っているのは、キャシアスのお城の下働きの小僧だった。「馬にやるから林檎をおくれよ」とねだってもらった林檎を自分が食べるので有名だ。馬にあげようよ。
 ぼろぼろのマントや汚れた甲冑を身にまとった探索者たちのむこうに、キャシアスとフランを見つけた。
 嬉しくなったが、キャシアスの顔を見て、「わーいこんにちは! なにしてるの?」と声をかけるのは即座に断念した。微笑を浮かべたキャシアスの横顔には、いつにもましてぴりぴりした空気が漂っている。
 近づいていくと、話し声がきこえてきた。
 いつもののん気な声じゃなくて、『よその人』用の、きびきびした、大人っぽいしゃべり方だ。カムール様とよく似ている。声の質は全然違うんだけど。
 遺跡を探検するようになってからキャシアスは、自分はホルムの領主の息子ですよというのを態度にも言葉にも出すようになった。そういったふるまいも最初は空回りが目立って、端で見ているネルの方がちょっぴり恥ずかしくなったりしていたのだけれど、近頃はようやくその言動も板についてきたように見える。遺跡で頑張ってるのはもちろんなのだけれど、他の探索者の人たちに声をかけたり、トラブルの仲裁を買ってでたり、喧嘩になって殴られたり、メロダークさんの殺人料理を笑顔で平らげたり、そういった些細なことのひとつひとつが積み重なって、今やキャシアスはカリスマ探索者だ! と呼ばれたりもする。
 片足に体重をかけて首をかしげ腕を組み両手を脇に挟みこんだ、いつものだらーんとした姿勢も、最近は余裕しゃくしゃくの堂々たる態度に見えるから不思議だ。ずっと年上でずっとおっかない顔をした探索者たちの輪の中央に、キャシアスはそのだらーんとした堂々たる態度で立っている。みんながキャシアスを注視している。
 この立派っぽい青年に、かくれんぼ中に神殿の地下墓所に迷いこみ、腰を抜かして泣いてるところを保護された苦い過去があるなど、誰一人思うまい。フランちゃんは除く。あとえっちい本をばんばんツケで購入してたら商館からカムール様に連絡が入って、二週間外出禁止の一年間小遣いなしになったこともあります。こっちはフランちゃんも多分知らない。
 今のキャシアスは怖くても泣かない。カムール様から当分小遣いはなしだ! って叱られたりしない。
 代わりに怖いものなんかないようなふりをして、がしがしお金の交渉をしている。
「わかりました、わかりました。かなわないな、もう――半額を今。残りは週末に城で」
 キャシアスが言い終えるのを待たず、魔術師のローブを着た中年の男が素早く口を開いた。
「百」
「五十。後ろはナザリだ、最後列の兵隊に危険なんてありませんよ」
「九十。話にならん。危険もないが得もない」
「六十。負ければ神殿軍だ。遺跡には二度と入れない」
「八十五」
「六十」
「八十」
「六十」
「八十」
「六十。荷物運びと伝令役で一人六十、割がいいと思うんだけどなあ」
「七十。勝てればね」
「では七十。勝ちますよ、絶対ね」
 荷馬車を覗き込めば、樽や木箱の間に大量の剣と槍が無造作に積まれていた。腰に剣を数本下げた、戦士風の探索者が切りつけるような低い声で何か――背中をむけて逃げ出すことについて――言い、その声の険悪な調子に、ネルは一瞬どきりとする。機嫌の悪い声はおっかない。最近のホルムは年中誰かの怒声が響いている。でもキャシアスはまるで出来のいい冗談をきいたみたいに朗らかな声で笑いだした。
「まさかまさか。シーウァの連中じゃあるまいし。それにグリムワルドの人間が勇敢なのはね、代々鈍足だからです」
 一瞬間があって、男たちがいっせいに笑い声をあげた。あの戦士も大きく口を開けて笑っている。みんな笑顔だ。
 ネルはほっと胸をなでおろす。喧嘩になるかと思ったけど大丈夫だった。キャシアスは絶対喧嘩をしない人だなあ。
 歯を見せていないのは、キャシアスの斜め後ろに控えたフランだけだ。でもネルが見つめていたら、視線に気づいたのかふりむいて、ほわんと優しい笑顔で会釈してくれる。ネルも軽く手をふり笑顔を返し、それをきっかけにその場から離れた。


 町は解放されて、領主様の館にはカムール様もゼペックさんも戻って来たけれど、だからといってめでたしめでたしにはなっていない。
 西シーウァ軍と神殿軍は今はズーエを占領していて、遺跡から戻ってきたキャシアスはずっと忙しそうにしているし、フランちゃんもひばり亭に顔を出さなくなった。
 それにあの荷馬車の武器の山。
 ガリオーさんも今忙しいのかなあ、手伝いがいなくて大丈夫かなあとちらりと心配になったけれど、よし顔を見に行こうとは思わなかった。ガリオーさんとはまだ喧嘩中なのだ。喧嘩中ではないか。怒られ中? 勝手な誤解で勝手に怒っているので、たとえ会いに行っても会話にはならないだろう。ううう。ガリオーさんはデネロス先生とちがって全然人の話をきかないなー、おじさんもそれぞれだなあ。キャシアスなら一見真面目そうな顔で怒りが鎮まるまでうんうんと話をきくのかなあシーフォンくんなら即座に言いかえして罵倒合戦って駄目だ駄目だと頭をふる。わたし、ずっとガリオーさんのところに行くのを避けてるなあ。しばらくすりゃあ怒りもさめるだろ、その頃にまた行けばいいってラバン爺は笑ってたけど、それってなんだかちょっと違うっていうか、うーん。いつの間にか下町のあたりを通りかかっている。このあたりは家々が密集して細い路地が多いので、市街戦の被害が少なくてすんだのだ。というのは市街戦が終わったあとで、商館のおばさんから聞いた話なのだけれど。
 市街戦の間、ネルはずっとひばり亭のバリケードの中にいたし、その前に西シーウァ軍と神殿軍が攻めてきたときはお母さんと二人で家の中から動けずにいた。
 遺跡では武器を片手に勇敢に夜種をやっつけることができても、地上のネルはおろおろしているばっかりなのだ。


 すれ違う人たちや露店で店番をしているのは、女の人と子供とお年寄りばかりだ。男の人たちは民兵として召集され、お城で訓練に参加したり、町の外壁の修理に駆り出されている。ネルの家族はお母さんとネルだけなのでそういった喧騒から少しは距離があるけれど、少し不安だったり、心配するのに代わりはない。
 町の空気はざわざわしているのに、人の話し声がほとんどきこえない。みんな大きな声で笑ったりしゃべったりしないのでホルムの町は変に静かだ。大河の南から吹きつける風には河沿いの工場から流れる鉄と火薬の匂いが混じっている。
 ――やっぱり戦争中なんだなあ。
 と思う。
 変に冷静なのは、春から続く騒動のせいで、怖い! とかそんな! とびっくりする感覚が麻痺しているせいだろうか。
 ただひたすらに不安だ。
 不安はおっかない蛇みたいにぐるぐるとぐろを巻いて、ネルの胸の奥にずーっと居座っている。
 ぐるぐる、ぐるぐる。
 考えの方も不安でぐるぐる渦を巻く。
 ズーエを取り戻すための戦いで、また人が死ぬのかな。
 アルソンは大丈夫ですよ! って言ってくれたけど、あれはいつもの大丈夫じゃなかった。本当に大丈夫なのに、あんな真剣な顔をする人なんていない。
 さっきのキャシアスは一見平気そうだったけど、すごくすごく怖がっていた。あの探索者の人たちはきっとわからない。気付いてない。でもわかる。わたしにはわかる。神経質な指の動きや一瞬の目線のためらい、淡い金髪の下でじっと相手を見つめる静かな目、だって友達だもん、キャシアスが怖い時には必ずわかってしまう。きっとパリスにもわかる、もしかしたらパリスはわたしよりもずっと敏感だ、チュナちゃんもわかる、ゼペックさんもわかる、ラバン爺もわかる、フランちゃんもわかってる、でもフランちゃんは時々わからないふりをする、わかってる自分に気付かないふりをする、あの二人は時々好き同士じゃないみたいに見える。二人はそれに気付いているのかな。戦争に負けたらどうなるのかな。ぐるぐる。占領されてたあいだみたいに、神殿軍やシーウァの人たちが大股で道の中央を歩き、顔見知りのおじさんやおばさんたちは目を伏せて端っこを歩くような生活がずーっと続くんだろうか。あれは嫌だったな。すごく嫌だった。あの兵隊たちは、毎日お母さんが磨いている扉を蹴って開けた。お店の商品を当たり前みたいな顔で運んでいった。またあんなことになるのかな。また人が死ぬのかな。
 ぐるぐるにはキリがない。
 くしゃくしゃした気分でうつむいたら、ちょうど足元に大きめの石が転がっていたので、えいや! と思い切り蹴飛ばした。暗い気分は飛んでいけ! だ。
「うあ!」
 悲鳴がきこえて、ぎょっとして蹴りあげた足を下ろす。石が飛んでいった方を見た。角を曲がってきたらしい人が、その場にしゃがみこんでいる。
「あああっ、すみませーん! ごめんなさい、大丈夫でしたか!?」
 慌てて駆け寄ったネルは、男が頭をかばっていた腕を下ろすと、安堵の息を吐いた。
「ってなーんだパリスか、よかったぁー!」
「よくねえよ! オレじゃなかったら直撃してたぞ!」
 パリスが立ち上がりながら怒鳴った。わあ機嫌悪い。でも友達だから平気だ。ばったり出会えた偶然も嬉しかったので、元気よく言う。
「あっ、よけたんだ。やっぱりよかった!」
「あのなおまえな!」
「遺跡に行ってたんじゃないの?」
 文句を言い始めると結構長いので、話はさえぎりこっちの質問をぶつけてみる。パリスは首を左右に傾けてコキコキ鳴らした。本当に機嫌が悪い。
「今はそんな気分じゃねーよ。おまえは遺跡は?」
「行ってないよ。そんな気分じゃないもん」
 二人で顔を見合わせ、お互いに、相手がくしゃくしゃした顔をしているのを確認する。パリスがため息をついた。
「ひばり亭にでも行くか?」
「さっき行ってきた。キャシアスとフランちゃんがいたよ」
「お、マジ? 久しぶりじゃん。よっしゃ、ひばり亭だ!」
「でももういないんじゃないかなー。お仕事中っぽかったよ」
「あー……城の?」
「うん」
 パリスが歩き出したので、後を追う。
 肩を並べてぶらぶらと歩いていると、なんだか締まらない感じがした。キャシアスと二人でいてもちょっとつまらない気がするから、よくも悪くもわたしたちは三人組なんだなあと思う。
 河沿いの細い道を通って『小さい橋』に差しかかった時、前から一列縦隊の兵隊さんたちが来たので、ネルとパリスは足を止め、彼らに橋を行く先を譲った。全員ちゃんと鎧と兜を装備しているので、ネスのというよりホルムの正規兵だ。背嚢を背負ってちょっと緊張した顔をしている彼らは、このまま野営地に行っちゃうのかなと思う。みんな帰って来られるのかなとふと思い、慌ててその考えを振り払った。悪いことを考えたらその通りになっちゃいそうな気がする。
 今のなし、なし。全員無事に帰ってこれます! だってゼペックさんが、カムール様は戦上手だって言ってたもん。あのすっごい鉄器兵や強そうな火車騎士団の人たちが、物凄く強そうなテオル様に指揮されて戦うんだし。あのキャシアスが「テオル様には全然歯が立たない」って言ってたんだから、そりゃあすごい強さだよ。うん、だからきっと大丈夫。
 小隊が今一つ揃わない足取りで『小さい橋』を渡っていくのを見送りながら、
「パリスはさー、行かなくていいの? 訓練」
 と、きいた。
「行った。帰ってきた。探索者は兵役免除、遺跡の探索を優先させろとよ。お偉い連中に突撃の号令をかけられずにすんで、やれやれだよ」
 あまり嬉しそうでもない声の調子だ。
「ふーん。何が嫌なの?」
 ずばりときくと、パリスがぐっと返答に詰まった。その顔が面白くて、思わず声に出して笑ってしまう。
「おいっ!」
「あはは、ごめんよう」
「まったくよー」
「あのさー、でもパリスが嫌な気持ち、ちょっとわかるよ。ホルムがこんな時にさ。女は兵隊になれないのって、なんでかなあ。ねえねえ、西シーウァ軍の偉い人は女の騎士だって言ってたよね? 西シーウァって女の人も民兵になるのかな?」
「バーカ。どっちみちおまえも探索者だろうが。それにオレが嫌なのは、そこじゃねぇよ」
「ええっ、じゃ何が不満なのさ?」
 子供の頃から何百回と繰り返した他愛のないやりとりを続けるうちに、いつもの調子が戻ってくる。うるせーよと鬱陶しがるパリスを何が嫌なの!? と問い詰めつつ、子供の頃から何百回と渡った『小さい橋』を渡っていく。足の下を小川が音を立てて流れて行く。


 西の大門のあたりは被害がひどい。
 割れたガラスに外から木の板を打ちつけた窓や、黒く焦げた壁が目立つ。家に口がきけたなら、『こんにちは、壁の穴のお具合、いかかですか?』『どういたしまして、それよりシーウァ兵に蹴られて壊れたあなたの扉の方は?』『まだまだしくしく痛みます』なんて話しあっているのかもしれない。ネルが家なら、頑張って二歩くらい歩いてシーウァ兵を踏みつぶしてやるところだ。無理かな。無理か。
 開いた大門からは数台の荷馬車が列をなして出て行くところで、荷台に乗り込んでいるのが甲冑姿の正規兵だったのでキャシアスの姿を探したけれど、今度は見つからなかった。くるりと振り向くと、パリスは難しい顔をして、外壁の上の回廊を行き来する、見張りの兵隊さんたちの姿を眺めていた。
「パリスさんや」
「あん?」
 パリスの視線が戻ってくるのを確認してからきいた。
「どこかを目指しているのかい、我々は?」
「我々は目的もなくホルムの町をほっつき歩いてる最中だろ」
 ネルは森の方をぴしっと指さす。
「んじゃさ、デネロス先生の家に行こうよ」
 難しい顔のまま、パリスが珍しく黙りこんだ。ネルをじっと見つめる。
 それから、言った。
「多分何もねぇぞ」
 う、と今度はネルが言葉に詰まる番だった。
 多分さっきのパリスに負けず劣らずひるみきった顔をしていたと思うのだけれど、パリスは笑わなかった。代わりに軽く顎を引き、ネルから視線をそらすとからっとした口調になって、言った。
「いいけどよー。またわーわー泣くなよ、面倒くせぇ」
 あ。
 あー。
 今、気をつかわれた、と思う。
 いつもなら嬉しくなるはずの気づかいが、なぜかやっぱり少し悔しくてとっても罪悪感でなんだからうるさくて、ネルはそっぽをむいて答える。
「……だってこの間は、先生が死んじゃったと思ったんだもん。死体がないってわかったし、もう泣かないよ」
「死体がなくても生きてる証拠にゃならねえぞ」
 パリスは時々、びっくりするくらい厳しいことを言う。
 でも本人にはあまりその自覚がないみたいで、ネルがぱっと顔をあげたら、「な、なんだよ?」とうろたえた声をだした。


 デネロス先生の小屋の跡は、前に来た時と何ひとつ変わっていなかった。
 炎に負けずになんとか形を残したのは漆喰の壁や柱や石で組まれた暖炉くらいで、残るすべては焼け落ち、崩れ、灰や燃えかすとなって一面に散乱している。先週、キャシアスやシーフォンと訪れた時に自分たちがつけた足跡がそのまま残っているのを見て、ネルはがっかりする。
 デネロス先生が戻って来ていないのにしても、立ち寄った痕跡ぐらいは発見できないかと思っていたのだった。
 ただ、下に先生が挟まっているのでは? とキャシアスと一緒に動かした(その間、シーフォンはものすごくものすごく不機嫌な顔で、黙って焼跡を睨み続けていた)太い天井の梁は、庵の横の小さな畑、いや元・畑にごろんと転がったままだ。兵隊たちに踏み荒らされ、白と灰色と黒の灰や煤にまみれその下にわずかに土がのぞく元・畑には、青々とした草が伸び始めていた。以前との違いはそのくらいだ。人間が何をしていても、自然は関係ない顔でいつも通りに芽吹き、茎を伸ばし、葉を茂らせる。雑草の間には、見慣れたクルカの葉やその他の薬草も混じっている。
「根は生きてたんだねえ。よかったよかった」
 そうつぶやいてしゃがみこみ、クルカの葉をぶちぶちと摘んでやる。素手で。鋏を使え! と先生が注意する声が飛んできそうな気がしたけれど、当然何もきこえない。焼跡に踏み込み、歩き回るパリスの靴音が聞こえるだけだ。ざくざく。ざくざく。
 それにしてもデネロス先生が毎朝水をやって雑草を抜いて畝を作って肥料をよせてきちんと手入れしていた畑なのに、ひどいことになっちゃったなあ。家が焼けて畑も荒れて、先生が戻ってきたらかなりがっかりすると思う。
 ネルは畑仕事は興味がなかったので、あんまりここのお手伝いはしなかった。でもいつだったか箒とカボチャと古着で案山子を作って、持って行ったことがある。その少し前に落馬して骨折したキャシアスのお見舞いに行くのに薬をわけてもらったお礼と、日頃お世話になっている恩返しのつもりだった。デネロス先生はカボチャの顔に大笑いしたあと、いらないから持ってお帰りと言った。いや違うかな。立派な案山子だがこの畑では暇を持て余すだろうよ、だったかな。あの頃のホルムは家の数も少なくて道が広くてあっちもこっちも畑だらけで平和で何もない田舎町だった。先生が張ってた鳥や獣を寄せつけない結界ってまだ効果あるのかな。
「焼け残りも全部ぶち壊してやがるなぁ。連中、無茶苦茶しやがったなあ」
 パリスが独り言みたいにつぶやく声がきこえる。
 本当にね。
 先生が十年二十年、いやもっと時間をかけて大事にしてきた全部が燃えて灰になっちゃうんだから、炎って奴はまったくすごいぜ。
 緑をむしる手を止めて、地面に広がる灰を片手ですくう。灰を握り込んだ掌を持ちあげ、空中で傾けた。
 元は先生が大事にしていた本だったり道具だったり薬だったり衣類だったりするはずの一握りの灰は、さらさらと音を立ててこぼれ、地面に落ちるまでに大半が風にさらわれ舞い散って消えてしまう。
 わたしがすごい魔法使いだったら、デネロス先生の居場所を探せるのかな。ううん、じゃなくて、あの日燃えてる森に気付いて駆けつけることができたのかも。そして神殿軍をばったんばったんなぎ倒して、先生を助けたりとか。デネロス先生がよくやったネル、おまえの魔法はすごい、助かったぞ、よしもう教えることはない免許皆伝じゃ! って。無理か。無理だね。
「ネル」
「うん」
「おいネル」
「なんだよう」
「おまえもう泣かないって言ってなかった?」
 パリスの呆れた声が飛んできたけれど、一旦流れ始めた涙は止まらなくて、行儀悪く鼻をすすって「うううー」と情けない声をあげた。
「先生、どこに行っちゃったのかなあ?」
「……オレにきかれても。知らねえよ。神殿軍には捕まってないってキャシアスが言ってたじゃねえか。死んでなきゃどこからか出てくるんじゃねえの。泣くなよ」
「パリス」
「なんだよ」
「全然元気でないよー」
「って言われてもよ」
 ぽたぽたと落ちた涙は灰を柔らかくへこませた。
 涙と一緒に、これまでずっと押さえつけてきた不安と悔しさも溢れてくる。
 デネロス先生、と胸の内で呼びかける。
 先生は今、どこにいるんですか?
 わたしは先生の弟子なのに、ひどい目にあってる先生の力になれなかった。先生だけじゃなくて他の人やホルムの町の役にも立てなかった。わたしが元気なのって、みんなからちょっとずつ元気をもらっていたせいなんです。わたしは明るくて、いつも元気で、前向きなつもりだったんだけど、それってわたし一人の力じゃないから、ホルムの町が傷つけば、わたしも元気じゃなくなってしまう。
 先生。おまえには才能がない、何か別の道をみつけろって言われてから、わたしなりに色々考えました。やっぱりわたしは魔女になりたい。
 お伽話の魔法使いたちのように、すごい魔法を使いたい。デネロス先生みたいに色んな人を助けたい。呼びだした暗闇の前で、シーフォンくんがローブを翻す姿を見ていると胸がどきどきする。子供の頃からずっと見ていたすごく大事な夢です。
 それなのに、夢よりも大事なことができました。
 ――わたし、今、すっごく誰かの役に立ちたいんです。
 キラキラ光る妖精や、飲み干せば竜のようになる虹色の薬は、遺跡に入ってこの目で見た。やっぱりすごかったし素敵だった。びっくりすることに勇者にだって薬を渡せたのだ。キャシアスは勇者になろうとしてる。弱虫で泣き虫ですけべなくせに、遺跡から帝国まで色んな物に翻弄され続けてるホルムの町がそういう人を待っているから、ネルの大事な友達は、勇者になると決めたのだ。
 魔法使いのローブを着て小さな杖で奇跡を起こす魔女になるのが、子供の頃からの夢だった。魔女になった自分の姿を思い描き、いつでも胸をときめかせてきた。今、空想の中の素敵な自分の姿はちょっとかすんで、以前のような輝きを失っている。
 かわりにはっきりとした輪郭と色彩で心に迫ってくるのは、戦火に煽られて傷ついたホルムの町並みや、慣れない剣帯に四苦八苦している近所のおじさんたちの姿や、町を囲む壁の上で赤々と揺れる松明の炎や、遠い人の輪の中で心配ごとなんて何もないとでも言いたげに朗らかな笑い声をあげるキャシアスの横顔だ。
 そういった諸々は胸の底にことんことんと落ちて行き、真っ黒いぐるぐるな蛇は段々小さくなっていき、でもまだそこにじっと居座っていて、もしかしたらこの先もずっとずっとそのままで、子供の頃に夢見た通り、魔女にならなきゃ追い払えないのかもしれないけれど、それでも、多分、きっと、絶対、
 ――ガリオーさんのところに行こう。行って、きちんと話をしよう。
 そう思った。
 だけど今はもうちょっと泣こう。
 灰になった先生の家と、これから消えちゃう自分の夢と、英雄が必要なこの町のために。
 抱えた膝に顔を埋め、本格的に嗚咽し始めたネルの後ろで、パリスが途方に暮れたように頭を抱え両手を広げ、最後に天を仰いで――これだからオレ、戦争は嫌いなんだよなぁ、そうぼやく。
 とりかえしもつかない灰の上、しゃがみこみ背を丸めたホルムの少女が泣いていて、涙をふいて立ち上がるころにはきっと少しだけ大人になって、元気な笑顔を見せるだろう。でも今はまだ声をあげ、幼馴染みには背を向けて、子供みたいに泣き続けているのだった。



end

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