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火は流れ

墓所玄室/キャシアス


 暗いところ、深いところから、声が呼ぶ。はやくここまでおいでという。おまえを待っているという。僕を呼ぶ。

 母上は最期の時に痩せ細った手を泳がせて朦朧とした表情にまま「カムール、カムール!」としゃがれた声で叫ばれて、身をかがめた父上がその手をしっかりと握りしめられた。寝台の足元に控えていた僕は巫女長とゼペックをうながして部屋を出た。父上と母上をお二人だけにしてさしあげたかったのだ。
 母上の寝室の扉を離れ僕らは廊下の先に開いた大きな窓の側で足をとめた。天球には星がまたたいていたが、東の縁の雲は紫と白灰色と薔薇色の縞となって連なり、夜明けが近いことを告げていた。見下ろせばホルムの町は闇の底に沈んでいた。じきに母上のお好きな春が来るのに、母上がその春を見られないのが不思議だった。夜明け前という一番静かな時刻のせいでもあるのだろう。体も頭も重く痺れていたが、心は平静だった――予想していたのよりもずっと平静だった――準備の期間は十分にあったのだ。ひと月も前からこの日の覚悟はできていた。母上が忘却界でようやく肉体の苦痛から解放されるのかと思えば、安堵の方が大きかった。
「巫女長にはお世話になりましたね」
 窓の外に目をやったまま僕が言うと、このひと月の間、何度も館を訪ねて祈ってくださった巫女長はかすかに首をふった。
「あたしはただアークフィア様の慈悲におすがりしていただけさ。頑張ったのはカムール様とあんたと……それに……」
 それから長い長い沈黙が落ちる。窓の外の白んでいく朝焼けを眺めている。まだ母上は生きておられるのに、僕らはまるでそれが起こってしまったかのような、ぼんやりとした悲しみに包まれている。つまり僕らは終わりの只中にいる。やがてゼペックがわずかに体の向きを変えた。廊下の向こうで扉が開き、父上が顔を出された――土気色のそのお顔に、僕はわずかに身震いする。
 巫女長とゼペックの先に立ち、母上の寝室へむかいながら、こんなことは考えては駄目だ、絶対に駄目だと思っていた。今は母上の死を悲しむべきときなのに、僕はまったく違うことを考えていたのだ……母上が最期にお呼びになるのはやはり父上だったのだな、と。
 
 もしもを言い始めるときりがない。だから僕はそういうことを考えない。仮定形は過去という箱の中の怪物だ。好奇心から蓋をあけてその姿を眺めていれば、そのうちに指を手を腕を体を持っていかれる。だから僕はもしもとは考えない。(もしも僕が母上が腹を痛めて産んだ実の子だったなら、どうだったんだろう? 父上だけではなく僕の名前も呼んだのではあるまいか?)考えない。考えない。考えない……。
 僕は母上に愛されていたと思う。僕も母上を愛していた。それだけで十分だろう? どんな物語でもそういうことになっているじゃないか。

 葬儀の慌ただしさがあってその後にぽかんとした空白があって空白を埋めるための忙しさがあって、母上がおられない春が行く。僕はフランと母上の墓へ行き花を手向ける。グリムワルドの一族が眠る墓に母上も今は安らかに眠る。
 父上は執務の間に時折手を休め、空白の表情を作りどこか遠くを眺めるようになる――母上は父上の魂の一部を忘却界へ持ち去られたかのようだ。
 でも僕はそうではない。僕は厩舎に誕生した仔馬を喜び、逃げた羊の群れを猟犬と一緒に追いかけて笑い声をあげ、パリスとネルと港へ廃船の解体作業を見物に行って気楽な時間を心から楽しみ、郷士たちと森でキツネを狩る、ひばり亭で酒を飲み女の子たちをからかう、フランの焦げた料理を頑張って食べる、つまり幸せに過ごしている。
 でもある日の午後、中庭でゼペックとフランが立ち話をしているのを窓からぼんやりと見下ろしている。フランは洗濯物の大きな籠を抱えている。二人を見るたびに感じていた“なにか”の正体に気づく。二人の顔立ちにはよく似ている。目元や耳の形にはっきりとした血の繋がりを感じる。そりゃあまあそうだよなあ祖父と孫だもんなあと思ううち、突然何かが僕の中ではじける。僕は窓に額を押し付け、目を閉じる。鼻の奥がつんとしてあ、あ、泣くな馬鹿と思ったが、涙をこらえることはできなかった。大の男が馬鹿のようだ。母上が亡くなられてもう半年も経ったその日、僕は自室でたった一人、初めて涙を流した。嗚咽をこらえることができない。僕の体には母上の血の一滴も流れてはいない。骨格も肉付き顔も肌も目も爪も髪も、僕を作る何もかも、僕と母上は似ていない。母上に対する奇妙な罪悪感が胸にこみあげ、そんなことを考えても仕方がないしこれは筋があわないと考えても僕は僕であることが苦しくてたまらなくなる。母上の実の子供でなくて申し訳ありませんでした。ただそれがそれだけが寂しくて、幼い子供のころから僕は――。
 
 ――鏡を見れば父上とも母上ともまるで似ていない顔が僕を見つめ、キャシアス、グリムワルド、その名前が奇妙で――。

 僕は誰にも似ていない。僕の足元はいつもぐらぐらと揺れている。
 
 暗いところで声がする。
 おまえの居場所はここだよ、と。
 僕はその声にむかって足を踏み出す。
 僕の体を流れる血がその呼びかけを懐かしむ。

end

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