全部を自分ですることはできませんよとアルソンが言う。
キャシアスは答えない。
夜の森にランタンが投げかける小さな明かりの輪の中で、二人の若い騎士から日中の無邪気な少年めいた印象は失われている。世を捨てた賢者たちが語り合っているようだった。
「人の手をまったく借りないでおこうと決めるのって、ひどく傲慢なことなんじゃないでしょうか。人間は一人では生きていけないんですから、他人の力を借りなきゃいけない。大切なのはそれぞれが自分の役目を果たすことだ。僕はそう思いますね」
森の中からはその音が聞こえてくる。
洞窟を吹き抜ける風の音と似ている。
低く唸っている。
地面に座ったキャシアスは視線を落とし背を丸め、いやに神経質な手つきで甲冑にこびりついた血を拭っている。汚れた布を持った指先が左右に動く。右手の親指の爪だけが真新しい桃色だ。さきほどの戦闘でならず者に殴られて指が潰れた。骨が砕けた感触があり、もう剣が握れないかとキャシアスはぞっとしたのだが、戦闘後、魔法の力で癒されている。
ホルムの領主の息子から少し離れた場所で、アルソンは切り株に腰を下ろし、今朝方仕留めたウサギの皮をはいでいた。頭を下にして道具袋と一緒に背中にぶら下げ、血を抜いておいたウサギの死体は、一時の硬直を失って再び柔らかさを取り戻している。内臓を抜いたあと、慣れた手つきで短刀の刃先を動かし、黄色い脂肪ごと皮を引きはがす。目の前の急ごしらえの竈には、鍋が煮えている。
「ウサギの毛が春の物ですよ。エルフさんたちは、季節の変化はないと言っていましたけれど、ずっと春なら過ごしやすいですね。キャシアスさん、この皮、何かに使いますか? マントの襟につけると温かいし、肌触りもいいですよ」
キャシアスからの返事がないのを気にせず、アルソンは手を動かし、丸裸になった赤いウサギの死体を骨と筋にそって切り分けて、香草のスープが沸き立つ鉄の鍋の中に放り込んでいく。
薪が燃える音、鍋の中で湯がぽこぽこと立てる音。
そちらに集中すると、森からの音が聞こえなくなる。
本当に風の音のようだ。
高く、低く、ごうごうと唸り、ひゅうひゅうと鳴いている。
キャシアスの手が止まった。
両方の耳をふさごうとしたが、そうせずに手を下ろす。
アルソンはそれには気付かないふりをしてしゃべり続ける。
「料理の方は得意なんですけれど、皮をなめすのは苦手なんですよ――手先は器用なつもりなんですけれど、どうもこういう細工仕事はね。多分僕、得意なことが集中しちゃってるんでしょうね、料理とか、裁縫とかに。ははは、ナザリで騎士見習いをしてた頃はよく乳母や女中みたいだってからかわれましたよ。本当は逆なんですけれどね。僕の父の所領は土地ばっかり広い田舎で、従者の数も少ないから、なんでも自分でやらなきゃいけなくて……でも料理も狩りの始末も繕い物も、全部乳母とその子供に習ったんですよ。ナザリでは勝手が違ったから驚いたなあ。あの城に騎士見習いとして来ている人たちって、ほんとに剣の修行や社交のための訓練だけを積んできた人ばかりで、こういう生きるための仕事を馬鹿にされて……テオルにも最初は笑われたんですよ。でも最初だけだ。あの人は理解したら笑わなくなる」
短刀ががりっと音を立てた。骨に当たった。アルソンはいったん手を止めて、肩に力を込めて角度を変えて刀を引く。一度額の汗をぬぐい、肉塊の反対側から刀を打ちこむ。今度はちゃんと関節の間に入った。楽に切断できる。
「キャシアスさんは料理には興味ないんですか? 面白いですよ、真面目に勉強すると」
「僕は」
キャシアスが言った。うつむいた額を支える手に青白い血管が浮かんでいる。
「……俺は、厨房には子供の頃から入ったことがなかった。使用人たちが……いや、自分の務めは別のことだと心得ていたからかな。きみのいうナザリの騎士見習いたちと同じだ。剣の修行と社交の訓練しか知らない」
「それと馬の扱い方」
「そうだ、暴れる馬の扱い方」
キャシアスがようやく笑みを見せた。
風の音と似ている。
岩塩と香辛料をほうりこみ、鍋に蓋をする。鍋には入れられないウサギの残骸を革袋にまとめる。立ち上がると竈を立てた空き地を離れ、森の中へ入っていった。ここに野営すると決めた際、傭兵は最初に汚物を捨てるための穴を掘った。革袋をひっくり返し、中身を穴に捨てる。草を踏んで川べりまで下りて行く。あの風のような唸り声は、森に入ると一層大きくきこえていたが、川辺に足をついたとき、その音がやんだ。夜の闇の中を、真っ黒い川が流れている。
しゃがみ込んで手を洗っていると、背後に足音がこえた。振り向いてそこにいるのがメロダークだと確認した。「どうも、お疲れ様です」と挨拶をする。言い終えてからアルソンは少し後悔した。メロダークは気にした様子もないが、お疲れ様、はおかしくないだろうか? 少し声がうわずっていたのは多分キャシアスの異常な緊張が伝染しているのだろう。自分もまだまだだと反省した。だがキャシアスに影響を受けずにいるのは難しい、彼にはこんな田舎町の貴族とは思えない奇妙な風格がある。一緒にいると気持ちが引きずられる。馬鹿げた話だが、二人で話していると時折、大公閣下その人すら思いだす――大公の息子であるテオルに対しては、感じたことがないのに。アルソンは立ち上がった。暗闇のせいでメロダークの表情は見えない。長身の傭兵の髪も肌も鎧も闇に溶けて、両方の白目だけが光っている。
「どうでした?」
「仲間はいない。盗賊団もホルムの町に妖術師が潜んでいるのも、命乞いのためのでたらめだ」
「あっ……そうですか」
アルソンに変わって膝をついたメロダークが流水に手を浸した。わずかに垂れた頭に、濃い疲労の気配を感じ取る。
「じゃあ僕、シチューを作っちゃいますね。それを食べてゆっくり休んでください。明日も頑張らなきゃいけませんからね!」
明るく声をかけて、アルソンは傭兵に背をむける。二人きりでいるとなんとなく落ち着かず、はっきりと言ってしまえば、メロダークと名乗るこの男はどこか不気味だった。だが、仲間に対してそんなことを考えてしまう自分を反省した。それぞれの仕事がそれぞれにあると、さっきキャシアスに言ったところだ。人にはそれぞれ役目があり、必要ならばその役目を果たすのは当然だ。右手が汚れたからと言って非難する左手がどこにあるだろう?
――テオルならば、それは他人の右手だ、己が非難して何が悪いかね、とうそぶくのかもしれない。いや、テオルは自らの手を汚すことを恐れないだろう。彼は僕らとは違う。彼は強い……。
「あのう、ほんとにお疲れ様でした」
足を止めて、思いきってそう声をかけると、メロダークがちらりと肩越しにふりむいた。
「疲れてはいない。気をつかう必要もない。あれが私の仕事だ」
「……そうですね。すみません、わかっていたつもりですけれど」
少し恥ずかしくなり、急いでその場を離れた。
空き地の竈の上で、鍋はすでに煮え立ち、香草と一緒にウサギの肉の煮えるうまそうな匂いが薪の燃える煙と一緒に漂っていた。キャシアスの姿がない。アルソンは周囲を見回し、それから、再び森の中に入っていった。
予想通りの場所に、キャシアスがいた。
キャシアスはアルソンには背を向け、立ち尽くしている。足元にはさっきまで人間だった肉塊が転がっている。星明かりの下で、遺体はほとんど傷を負っていないように見えた。メロダークの尋問は手慣れたものだった。
みじろぎもしないキャシアスの背を見つめるうちに、少年が祈りを捧げていることに気付いた――両手を組み、うなだれ、アークフィア神殿で教えられる通りの鎮魂の祈りを捧げている。アルソンは自分でも驚くくらい動揺した。胸がきしむように痛んだ。声をかけるためではなく、こらえるために大きく息を吸い込んだ。
――そんなことで傷ついていては……。僕らは騎士です。ならず者の死の一回ごとに、傷ついていては……。
祈り終えたあともキャシアスはずっと動かずにいた。
温かなシチューの匂いが風に乗って流れてくる。
end