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石を捨てる

墓所玄室/キャシアス


 夢の中にいる――わかっている、夢の中だ。

 足元には暗い夜の河が轟音とともに流れており、冷たい水が靴底を洗う感覚は洞窟の地底湖を彷彿とさせる。あのすべての始まりの場所、彼が見つけた石柱、骨となっても彼を行かせまいと警告した太古の守護者を、彼が愚かさで打ち砕いたその場所……。
 周囲は完全な暗闇だ。
 彼は恐怖にすくんだ手を動かして前を探る。水の音と感触はあるが、空気にはまったくなんの匂いもなかった。この場所には大気など存在しない。あるのはアークフィア大河の流れだけだ。本能でそれを知っている。
 ここは彼が知る場所ではない、彼がいる場所ではない、生きた人間が足を踏み入れるべき場所ではない。
 誰かいないか、誰か僕の側に――母上! どこにおいでになるのですか? 父上! 父上! 僕を置いていかないでください! お願いです!
 少年の悲鳴は声にならない。
 父と呼ぶ人も母と呼ぶ人も彼とはなんの血のつながりもない――子供の頃からわかっていたことだ。だから彼らは返事をかえさないのだと少年は思う。
 自分は一人ぼっちだ。
 たった一人……。
 フラン!
 少年は大切な幼馴染みで忠実な従者の名を呼ぶ。
 踏みだした足元で水が音をたてた。
 フラン! 僕を一人にしないでくれ! 側にいてくれ! お願いだからずっと一緒に! 僕と約束してくれフラン! 僕はいつでも怖い。僕はずっと怯えている。
 返事はない。彼女が忠誠を捧げているのはホルム伯であり、仕えているのはグリムワルドの後継ぎだ。――これも知っていたことだ。子供時代の最初からずっとわかっていた。笑いかけても手を繋いでも語り合っても心が決して近づかなかったのは、彼女が見ていたのがキャシアス・グリムワルド・ホルム伯の長子・その人であり・自分ではなかったからだ。
 この場所ではそのような肩書きはすべて意味がない。この場所では人間は己自身の姿になる。この場所で少年は、常に自分を支え、縛り、己を己たらしめてきたすべてを失う。少年時代からずっと、おまえは何者でもない、だから去れ、ここにいる権利などない、そう告げられることを恐れ続けてきた。ずっと恐れていた。そしてある朝、それは本当にやってきたのだ……彼が一番愛する人の口から……子供時代に恐れていたような軽蔑や嫌悪からではなく、愛情によって……。
 少年は流れの中に膝をつく。何千年、いや、何万年、時間の意味もないくらい水に洗われ続けたなめらかな川底の石が少年の膝を支える。暗闇のはずなのに、河の流れの中に己の顔がうつる。金の髪、白い肌、赤い瞳、このような顔の人間が、彼が故郷と思う場所の一体どこにいるのだろう? 彼の愛するすべての場所の、愛するあらゆる人間と、血の一滴すら何のつながりもない。
 誰か僕を……一人にしないで……誰か、誰か、誰か……。

 水流が変わった。前から足音が近付いてくる。彼の前で立ち止まる。うつむいた視界に、いたちの毛皮で縁取った長靴が入り込んでくる。貴族しか履かない靴だ。顔をあげるのが怖かった。頭上から降ってきた声が言った。
「やあ、ようやく会えたね」
 長い間予想してた通りの声だった――彼の父親のような堂々たる口調であり、しかし父親のような威厳と生真面目さは欠けている。軽く、からかうようで、若々しい声の張りがある。
「うん、ようやく会えたな」
 水流に目を落としたまま、始祖帝の器として生み出された名前すらない少年は、小さな声で答える。
「顔を上げて僕を見てごらん」
 頭上から振ってくる声には逆らうことを許さない凜とした響きがある。君主の声だ。彼は思い切って顔をあげる。自分を見下ろしている青年の姿を見る。長身で、栗色の髪をして、若々しい理知的な表情の青年を。
 長い間想像していたほど、父上とは似ていなかった。髪の色が同じというだけだ。母上ともそれほどは似ていない――ただその鼻筋と唇の形を覗けば。彼自身とはまったく似ていなかった。
「僕が誰かわかるかい?」
 青年がそういう。微笑を含んだ優しい柔らかな声だ。
 彼は答える。
「もちろんだ。きみは――きみは本物のキャシアス・グリムワルドだ。僕が拾われる少し前に流行り病で死んだ、父上と母上の本当の子供だ」

 知っていた。
 自分は単なる身代りなのだと。
 子供の頃からそう知っていた。グリムワルド家の墓所に、自分の名が刻まれているのを見た時から。母上が子供を亡くさなければ、自分など拾われなかった。両親が自分を育てると決めたのは単なる偶然の重なりに過ぎない。自分は偽物だ。流れつき、迷い込んだ異分子だ。
 目の前にいるのは、本当のキャシアスが無事に成長した姿だ。
 ここは忘却界だ、という言葉が脳裏に囁きとして閃く。
 ――魂だけがたどりつくこの場所で、本物のキャシアスはずっと僕を待っていたのだ――。

 しかし青年はゆっくりと首を横にふり、彼にとって意外な言葉を告げる。
「そうではない。そうであるけれどそうではない。ごらん、僕をごらん――もっとよく見てごらん。きみは僕を知っているはずだ」

 青年は父親と同じ栗色の髪をしている。
 母親と同じ鼻筋と唇だ。
 両目は彼の大切な幼馴染みと同じように、黒く澄んでいる――。

「もっとよく見てごらん」

 彼は立ち上がる。
 青年と向かい合う。
 二人の背はちょうど同じだ。

 青年は両手を後ろで組み、くつろいだ表情で立っている。その姿勢には、彼に剣を教え父親の怒りからかばい、叱られて部屋で泣く彼を慰めてくれた巨大な手を持つ老人を彷彿とさせるところがある。

「見るんだ、ここには人間は誰も余計な物を持っては来れないんだから」

 青年はそういって軽く顎をあげ、にやりと笑う。
 港で暮らす貧しい青年、彼が信頼する無頼漢は、このような不敵な表情を浮かべなかっただろうか?

 ――あるいは、その楽しげな目のきらめきは、子供時代から一緒に大騒ぎした幼馴染みの少女の顔に何度も浮かび、彼を幸福にさせたものではなかろうか?

 その若々しい声は、ホルムを訪れるたびに、彼らに罠の仕掛け方や雲から翌日の天気を読む方法や、釣りの楽しみを教えてくれた老剣客の声と同じではなかろうか。
 
 彼がよく知っている人々の懐かしい面影がある。

 館の敷地で剣の練習に励む兵士たちが、つまみ食いにきた彼を叱る一方で手伝えば肉の切れはしをくれる料理人たちが、森の庵で暮らす穏やかな賢者が、酒場のカウンターで声をあげ肩をすくめる女主人が、背を預けて戦うことができる大切な仲間たちが、彼の父を殺したあの少年すらも、あらゆる人々が青年の体を少しずつ作りあげている。青年は全部であると同時にひとつであった。彼が生まれて以来出会い、愛し、あるいは憎み、意識すらせずすれ違っただけのすべての人々が青年の中にあった。人間だけではない――子供時代に彼が愛した彼の仔馬が、町中を走りまわる黒い猫が、虹色の魚が、狩った狐や殺してきた夜種までも、彼と触れあった命のすべてが――流れるアークフィア大河の白い水しぶきが、春の夜の匂う甘い風が、森のざわめきが、草原の草いきれが、麦の畑が――記憶に残る物残らなかった物、あらゆるすべて青年の中にあった。

「僕をごらん!」
 青年は朗らかな声で笑った。
「僕はきみだ、キャシアス!」

 いつのまにか涙は止まっていた。
 自分は何を恐れていたのだろうと思う。突然気付く。人は死ぬだろう。愛も失われるだろう。忘却界ではすべてが失われる。しかし魂はすべてを覚えている。悲しみも、許しも、すべてを残し、すべてを刻み、いつまでも続くだろう。

 手を伸ばして青年の左胸に触れる。そこにある心臓は、すべての生きている人と同じように音を立て、脈動している。だから彼は口を開く。彼自身は気付かないが、父親とよく似た声だ。威厳があり、堂々として、声の底には生きることへの喜びがある。
「僕はきみだ――僕の名は――」


「――キャシアス。キャシアス……」
 自分の声で目を覚ました。
 すぐ側で夜の河のように黒い瞳が自分を見つめている。
 円盤のような泉にしゃがみこみ、両手と頭を濡らしていた。右からはフランが彼の体を支え、反対からはパリスが彼の腕を引っ張っている。
「……大丈夫ですか、キャシアス様!?」
「っと気ぃついたか!?」
 状況が把握できず、キャシアスはぼんやりとした表情で、彼らを交互に眺めた。泉に石を放り込んだところまでは覚えている。……いいや、すべてをはっきりと覚えていた。
「僕の名前だ」
「なんだよ?」
「キャシアス・グリムワルド。僕の名前だ」


 

end

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