死者の宮殿 / キャシアス フラン パリス テレージャ
――暗いところから僕を呼ぶ
朝目を覚ませば隣にフランが横たわっている。
重ねた両手を頬の下に置き、安らかな寝息を立てていた。
これは一体どういう夢なんだろうと思う。
いやあ、ないない、絶対ないよこれは。
同じ館に暮らしていても、僕は領主の息子でフランは使用人で、すると僕らは必然的に二人きりの時間を持つことができなくなる。こういうことを言えば、パリス兄貴には必ず「嘘をつけえ!」と突っ込まれるのだけれど、兄貴はナザリで出版された「『ああご主人さま後は私にご奉仕させてくださいませ』と跪いた女は快楽の期待にわななく唇で」式のエロエロしいメイド小説の読みすぎなのだ。読み終えてもなかなか返してくれないし。
他ではどうか知らないが、僕の館では主人と使用人の間にはきっちりとした線が引かれている。
母上が亡くなられ、執事のゼペックが家内の細々とした一切を取り仕切るようになってからというもの、その線は以前にも増してゆるぎなく厳しいものとなった――わかっている、これはゼペックなりの忠誠心の表れなのだ。近づけば近づくほど礼儀は固く保つべしというのがあの老人の流儀で、父上がそんな彼を信頼するのは当然のことだし、僕だってゼペックの人格並びに大事にも小事にも適確な仕事ぶりには最大限の敬意を払っている。
しかし、しかしそれでもですよ、ゼペックが僕の世話係からフランを外したのは、職権濫用かつ横暴極まりない行為なのではないかなあと思うのだ。
館には必要最低限の数の使用人しかいないのに、いつのまにかフランは僕の部屋の掃除をしなくなり、着替えを手伝わず、入浴のための湯どころか水差しすら運んで来ないようになり、しかし人目がある他の場所では今まで以上にちょくちょくと顔をあわせるものだから、僕が彼の策謀に気付くまでずいぶん時間がかかった。まったくゼペック恐るべしだ。
この件に関して、フランは何も言わない。徹底して意見の表明を避けている。
真昼間に廊下ですれ違う一瞬の隙に、二人きりになれないことを僕が愚痴っても、ただ優しく微笑するだけだ。それで僕はますます切なくなる。いやそこはもうちょっと寂しがってくれよというか。
もちろん彼女が祖父であり執事であるゼペックの意向に表立って異議を唱えるような性格でないことは、十分に承知しているのだけれど。
そういうわけで、フランが僕の寝台で寝息を立てているこの光景は現実にはありえない。なのでこれは夢なんだと思う。
あらゆる意味でないよないない。
どうせ夢ならフランが全裸とか裸にホワイトブリムと靴下だけとかネコミミがついてるにゃんとかそういう挑発的格好であってもよさそうなものなのに、きちんと糊のきいたいつもの女中服姿というのは我ながら奥ゆかしいものだなあと思う。そういうことを考えながら愛らしい寝顔を見つめていると、フランがぱちりと目を開けた。
しばらく二人で無言で見つめ合う。
フランの頬がゆっくりと赤く染まった。
「……おはようございます、キャシアス様」
「おはよう」
僕が挨拶を返すと、フランは素早く寝台から下りて、服の乱れを直した。両手をお腹の前で組み、横たわったままの僕を見下ろすと、赤い顔のまま、こほんと咳払いをした。
「朝食の用意ができております。あたしは今日はオーセルまでお館様のお供を命じられておりますので、キャシアス様とご一緒できませんが……くれぐれもお気をつけ下さいませ……それでは失礼致します」
ぺこりと礼をし、フランはそそくさと寝室を出ていった。
残された僕は、さっきまでフランがいたあたりを片手でまさぐった。シーツは温かく窪み、フランの香りが残っている。
がばっと跳ね起きた。
えええー、あっれー?
今のは何だ?
「そりゃ夢だ、もう忘れた方がいい」
僕の話を頷きながらきいていたパリス兄貴はものすごい結論を出した。さすが兄貴! ってええい待て待て。
「なぜ夢と!?」
水面に並んだ僕と兄貴の浮きは、どちらもぴくりとも動かない。
僕らが釣り糸を垂らしてすぐに、笑顔で「飽きました」宣言をしたネルは、地底湖の周囲をぶらぶらと歩きながら見張り的なことをしてくれている。
広大な湖が広がり、頭上には巨大な骨が星か月のようにほのかに白い光を放つ。なかなかシュールな光景だなあと思う。お気をつけてと言ったフランとて、僕がこの危険な場所で釣りをしているとは思うまい。しかしこれは生態調査と食材の調達を兼ねた遺跡調査の一環なのだ。ということにしておこう。大物が釣れたその時は! なんのためらいもなく! ラバン爺に自慢するけどね。大体死者の宮殿はちょっと怖すぎるので、僕と兄貴の前進する気はともすればくじけそうになり、だから兄貴の「気分転換に釣りしようぜキャシアス!」という誘いについつい「合点だ!」と乗ってしまうのだよなあ。
ネルにきかれたら確実にすけべ呼ばわりされる話題なので、背後を気にしつつ、声をひそめる。
「これはあれかな、あまりにも長い間二人になれなかったせいでこう……俺への気持ちが昂って……キャシアス様をもっと間近で見つめたい……寝顔でもいいから……だとしたらなんてかわいいんだフラン」
「おまえ帰ったらまず鏡を見ろ、全体的に安心できるから」
「兄貴! ひでえよ兄貴!」
「よし謝罪する、今のはオレが悪かった。でも考えてみろよ。フランちゃんがそこまで積極的に迫ってきたことなんて、これまでになかったろ? 奇跡みたいなもんなんだろ?」
「なかったねえ。奇跡だねえ」
「つまり二度とない機会をお前は逃した」
鼻先にびしっと指を突きつけられる。
「二度目がないならそれは夢だ! 忘れろ。でないとこの先ずっと後悔だけをひきずることになる!」
「確かに! さすが兄貴!」
二人でぴくりとも動かない浮きを眺めていた。
しばらくして僕が言った。
「本格的に悲しくなってきたんだけど、どうしよう俺」
「てかよー、こうやってオレを油断させといて、実は毎晩ご奉仕してもらってるんじゃねえの?」
「マジで違うんだって」
「マジかよー。裸エプロン!」
「下着でお掃除!」
兄貴が低音、僕が高音で声を揃えて――
「ご主人さまのお仕置だー!」
いやだからそれは、
「ないないないない。誓ってないって。考えてみろよ、あの抜かりないゼペックが、僕とフランを二人きりにするわけがない……あー、くそ、こりゃ本当に失敗したかな。もういっぺんフランが来てくれれば……」
パリス兄貴がちらりと僕を見た。なんだかやけに冷めた目つきだった。
「キャシアスはほんっとわかってねえなあ――ねえよ、二度目は」
なんだこの断定的な物言いは。兄貴に女心の何がわかるというんだと思ったが、詳細に説明されてそれが逐一頷けるものだったりした場合あまりに悔しすぎるので、もう突っ込むのはやめておいた。背後からネルの、「また馬鹿な話をしているよこの人たちは……」というつぶやきも聞こえてきたことだしね。
しかし今朝も目覚めれば隣にはフランがいて、黒い瞳で僕を見つめていた。
パリス兄貴の予想は見事に外れたので、これはこれでさすが兄貴! それでこそ一万ゴールドを賭場に持ち込み、夜明けには下着一枚で帰宅した男! と寝ぼけた頭で感動する。
僕の寝台は二人にはやや狭い。小柄なフランは、毛布には入らず、寝台の端にちょこんと控えめに横たわっていた。
「おはようございます」
今日もまた、フランが恥ずかしそうな声で囁いた。
「おはよう」
わあ顔が近いなあ。吐く息がくすぐったい。なんだろうこの素晴らしい朝は。僕がじっと見つめていると、フランが言い訳みたいに呟いた。
「朝のお世話の係をお願いして代わってもらったんです」
「フランから言って?」
こくりと頷いた。
あー。
ちょっと胸が熱くなる。ゼペックにこっそり逆らうような真似を。あのフランが。
起き上がろうとした彼女の頭の上に片手を置いた。耳も髪もひどく冷たいので驚く。僕の手に押され、彼女の頭がぽすんと音を立て再びシーツの上に落下する。フランは驚いたように僕を見つめている。髪をなで首の後ろに手を回し、頭をこちらへ引き寄せた。
フランはおずおずと手を動かし、僕の寝巻の胸元を軽くつかむ。目を閉じる時には必ず僕につかまる癖がある。
長いキスを終えてから、
「……子供の頃を思い出しますね」
目を開けたフランがそう言って、くすりと笑った。
僕は笑わなかった。
『がんがんいこうぜ』という突撃命令が脳裏に響き渡るのをきいていたのだった。よし了解だ、まかせとけ。
フランはしかし、スカートの裾から滑りこむ僕の手を慌てて押さえた。
「きゃ……ちょ、ちょっとキャシアス様……お待ちください!」
「いや、待たない」
上へ上へと滑っていった僕の手は、冷たい靴下の領域を乗り越えてなめらかな太股に到着する。フランがあっと囁くような息を漏らし、身をよじった。靴下止めを外すや否やを真剣に検討しつつ、フランの上に覆い被さった。
「フラン」
自分の声が上ずっている。やべ。
「駄目ですったら……!」
拒絶する言葉とは裏腹に、フランの両腕が素早く僕の首に絡みついてくる。今日は本当に驚くほどに積極的で、ごきっという音がした。
ごきっ?
マントを羽織るのと皮鎧の脇を止めるのと長靴を履くのと髪を整えるのをすべて同時に行いながら食堂に駆けこむと、朝食を終えた父上が、ちょうど席をお立ちになったところだった。
「寝坊か。たるんでいるな」
「おはようございます――申し訳ありません」
渋い顔の父上に姿勢を正して詫びつつ、腰帯を締めた。何もかもが半端だが、裸よりは着衣に近いのでよしということで納得して頂こう。
夜種と遺跡だけでも頭が痛いのに不作に流行り病に難民の流入にとホルムには問題が山積みで、当たり前だけれど父上は大分お疲れだ。朝だというのに顔色がお悪い。と思っていたら、
「顔色が悪いな」
と、父上がおっしゃられた。僕かよ。
「夕べも遅かったらしいが、どこで引くかの見極めも大切だ。明日も明後日も探索は続くのだからな」
「はい、心得ます」
頷くと首筋がごきごき音を立てた。ていうか今朝はいつも通りに目覚めていた気がするのだけれど。そもそもなぜこんなに体が痛いんだろう。
執務室へ向かわれる父上の背中を見送ってから着席し、あーいかん、そうじゃなくて僕が父上のお体を気遣うべきだったのにと思う。
普段はなめらかすぎる僕の舌は、肝心なところで役に立たない。
運ばれてきた二枚の皿の片方から果物をとり、立ちあがった。歯を立てれば果実は若く苦い味がして、ところどころに虫が食っている。ていうかたった二皿かよ。領主は民と同じ物を味わわねばならんという父上の意向により、僕らの食卓にはホルム領の状況がそのまま反映される。この簡素さはまったくもって非常事態だ。
なんとか早くこの騒動に決着をつけにゃならんなあと思う。
今はまだ春先だからいいものの、夜種が跋扈するこの状態が冬まで続くようなら、ホルムにはさらに広大な墓地が必要となるだろう。それはなあ。嫌だよなあ。嫌というか、うん、それだけは絶対に避けんとなあ。
「残りは包んでフランに持たせてくれ、ひばり亭で受け取るよ」
料理を運んできた女中に声をかけ、持ってきた皿をそのまま下げさせた。自分のその言葉になんだか違和感を覚える。
フラン……と、朝一緒にいたような?
んんん?
首をかしげたら、またごきごきと音がした。
思い出した。
「ってあーっ! ひっでえ! しまった!」
時も場所もわきまえず絶叫しつつ、目の前の白い靄に斬りつけたが、外れた。僕の剣を避けて片手にまとわりついてきた冷気に一瞬体がすくむが、
「キャシアスくん、目を!」
飛んできた声に反射的に目を閉じる。
空中に金色の光が爆発する――閉じた瞼を通してなお、声によって綴られた六文字の聖なる言葉が見える――空気を裂くような絶叫が響き、静寂が落ちた。
恐る恐る目を開ければ、死霊たちはもはや影もなく消えていた。通路の向こうではシーウァの女神官が掲げていた杖を下ろしたところだった。神聖魔法を目にするのは初めてだったが、こりゃ凄い。あなどれんなあ。
死霊が触れた剣の表面には薄い霜がおりている。手袋の甲で刃を拭い(これをやるとゼペックにすごく叱られる)、鞘に剣を収めた。
「大変な威力の技ですね。助かりました、ありがとうございます」
近づいてきた彼女に声をかけると、テレージャさんは顎に指をあて僕を上目づかいに眺めた。僕は一瞬、ほんの一瞬だけ彼女の見事な胸とその谷間を凝視し、すぐに視線をそらす。
まったくもってあなどれない。
広場で会った時には外套を羽織っていたせいで気付かなかったのだが、死霊との戦闘中に邪魔な外套をはらりと脱ぎすてたテレージャさんを見れば、そこにはまあなんと申しますか、西シーウァのキューグの巫女が実にスゴイという噂だけは常々耳にしていたものの、きくと見るとは大違い、秋の実りというか約束の丘というか地に流れる蜜というか……この巫女装束を見てもなお大神殿にキューグを祀らずにいるのだから、西シーウァの人間とは決してわかりあえないなと思う。
「きみこそ若いのに大した腕だ。しかし、最後に外したね」
「おっ――む――いえ、少々よそに気をとられまして。修行不足でお恥ずかしい限りです」
「口にしなきゃ誤魔化せるってものでもないんだぞ、きみ」
テレージャさんがごくさりげない表情でさらりと言い、すぐに体のむきをかえて、僕の背後に大声で呼ばわった。
「大丈夫かね、パリスくん?」
「いやー……あー……大丈夫っすよ」
兄貴の声が床から聞こえる。
あ、いかん。
僕も振り返り、テレージャさんと一緒に兄貴の側へ駆け寄った。兄貴は、亡霊どもの一撃を受けた最初の瞬間と同じ場所に同じ姿勢で寝転がっていた。
「動けるか?」
しゃがみこんで僕がきくと、血の気の戻らない顔で頷く。
「すまん、腰が抜けたうえに足を捻った」
「兄貴ぃー!」
テレージャさんが笑い声をあげ、僕の隣に膝をついた。
「きみは本当に幽霊が苦手なんだな。どれ、一応祈っておいてあげるよ。知恵の神の加護を求めてね」
「なんか馬鹿にされてないッスかね、オレ」
兄貴らしくない苛立った口調だったが、普段を知らないテレージャさんは気にした様子もなく身を乗り出し、兄貴の足首に手を触れるっておおおおおいその角度! おっぱいの位置! 兄貴ぃー! 代わってー!
テレージャさんが低い声で祈祷を始める。邪魔してはいかんかと正座で沈黙する僕に、兄貴がきいた。
「何がひっでぇ、しまった、なんだ?」
「え、俺そんなの言った?」
「最後に空振りした時だよ」
「あー。いや、ちょっと」テレージャさんの胸に興奮して朝の記憶が蘇ったあの瞬間か。「フランのことを思い出して」
「またおまえはのん気な……」
「俺的にはのん気じゃないの! 目が覚めたら今日もフランが隣に!」
ってこれ以上はすけべ呼ばわりされるかなあと横目でテレージャさんの顔および胸を盗み見た。祈祷を終えたテレージャさんが、兄貴から手を離した。
「どうだい?」
兄貴がぐりぐりと足首を回す。
「……痛みはないな。どうも……ありがとう」
「礼はいいよ。神官として当然の勤めだからね」
テレージャさんがにこっと笑い、お姉さまという呼称について正座したまま僕が考えを巡らせていると、テレージャさんがこちらをむいた。
「フランくんはきみの城で働いているんだっけね」
僕は頷くが、なぜ今それを確認するんだろうと思う。
女中服とカウンター横という立ち位置のせいで最近はひばり亭の女給さんと間違われがちなフランだが、テレージャさんとはそれなりに親しいはずだ。「あの方いい方ですよ、遺跡についてもとてもお詳しくていらっしゃるんです、あたしにはどのお話も少し難しいのですけれど」というフランの言葉もあって、今回僕は彼女に同行を頼んだくらいなのだ。フランの勤め先なんて百も承知のはずなのに、テレージャさんの笑顔はどこか物言いたげだ。
「どうかしましたか?」
僕が問うたが、テレージャさんは唇を上げて目を細めるだけの、羽根のように軽い、極めて儀礼的な笑みを浮かべた。……こういう表情を見ると、この人はいいところのお姫さまなんだなあと思う。アルソンさんといいテレージャさんといい、本物はやっぱり違うぜ!
「いや、別に。気にしないでくれ」
案の定やんわりとした答えで、追及を逃れられる。パリス兄貴が勢いよく立ちあがった。
「いつまでもしゃべってないで、そろそろ行こうぜ」
やけに乱暴な口調だった。今日は本当に機嫌が悪い。チュナちゃんが眠り病になってからずっと低調な感じではあるけれど。テレージャさんはちらりと兄貴を見てから腰を上げた。
「そうだな、こんなところで円陣を組んでいては、いい敵の的だ。ところでさっきの書庫をもう一度調べてみたいのだが」
「書庫ぉ? 金目のものでもあるんスか?」
「きみはすぐそういう……いいかね、真に価値のある物は換金できないのが常なのだよ。例えばこの宮殿を構築する資材の一つ一つがだね」
「はぁ、お貴族様の趣味はわからねぇや」
にぎやかにしゃべりながら遠ざかっていく二人のあとを、僕は追いかける。
しかしあれだなあ、僕も兄貴と同じで幽霊なんて大の苦手なんだけれど、こんな不気味な場所でも仲間といると案外大丈夫なものだなあ。
目覚めればやはり隣に女中服姿のフランがいて、僕の起床には気付かず、ぐっすりと眠っている。
うーん。
幸せなのだけれど流石にそろそろ不思議になってきた。
己の権限が増せば増すほど自重すべしという教育を受けてきたフランが、連日僕の寝台に潜りこんでくるはずがないのだ。普通ならば。
今、フランの長い真っ黒な睫毛や微かに開いた唇を見つめていると、いつものようにフランかわいいなあと幸せになる一方、段々寂しくなってくる。昔の僕らは幼馴染みで、今の僕らは館の主人と使用人で、どちらにしてもいつまでも一定の距離が保たれたままだ。フランは今普通じゃないのかな。辛いことがあるなら言ってくれればいいのに。男と女って難しいよなあ、などといっちょまえなことを言いたくなる。あーあ。
フランが身じろぎし、目を開けた。一度瞬きした次にはもう完全に目覚めている。子供の頃はもっと寝起きが悪かったような気がするのだけれど、考えたらあれはもう十年ちかく昔の話か。
慌てて起きあがろうとするフランに、
「そのままで」
と言った。
フランは素直に命令に従う。横たわり、くつろいだ気持ちでお互いを見つめていた。シーツは温かく、空気は冷たい。まだ明けきらぬ朝の光が差し込む窓の外から鳥の声がきこえている。これが毎朝の普通の光景であればいいのに、と思った。
「確かに子供のころを思い出すね」
僕の言葉にフランはゆっくりと微笑する。
「はい」
「昨日はどうしていたの?」
「ひばり亭でお手伝いをしていたのですが、午後から外の森に夜種が出たという知らせが来て、アルソン様とネル様にご一緒して、夜種を退治してまいりました」
「外の森? 町の北の?」
「はい。でも遺跡にいるような指揮された部隊ではなくて……なんでしょうね、人間に例えるなら、主のいないならずもののような……」
父上はなんとおっしゃっているんだろうとか、ホルムの兵士の数がまったく足りていないのにとか、あのあたりの村には周囲を守る石垣すらないとか、父上の親書に答えて“善意”から物資や兵隊を送ってくれる諸侯がどれだけいるのだろうとか、色々な考えが渦巻くけれどどれも僕の力では解決のしようがない。
フランの指が僕の手をそっと握った。
「キャシアス様は昨日は?」
「……遺跡の宮殿で死霊と戦って、テレージャさんに叱られた。兄貴と僕で一回ずつ腰を抜かして一回ずつ足をくじいたから」
「大丈夫ですか?」
「んー」
見上げた天井一面に張りついた赤ん坊の顔を思い出すと、震えが蘇ってくる。
「全然大丈夫じゃないね。泣くほど怖かった。おいで」
もぞもぞと毛布に入ってきたフランを抱き締める。フランはごきっとはせずに、黙って僕の背中に手を回す。今日の僕が全然エロエロしい気持ちじゃないのを敏感に察しているのだった。さすがフラン。僕の背をゆっくりとさすりはじめ、震えが治まるまでそうしていた。手をとめて、僕の胸に顔をうずめたまま、何かを囁いた。
「なに?」
「あたしはキャシアス様のお側におります」
知ってる、わかってる、大丈夫だ。
抱き合っているこの瞬間に、きみにそんな台詞を言わせる俺は何なのだろう。枕と毛布と一緒にフランの小さな体を抱く腕に少しだけ力をこめる。
「ですから……ですから、どうかご無理はなさらないでくださいませ」
「むしろちょっとは無理しなきゃと思ってるんだけどね」
フランが顔を上げた。僕がとまどうくらいに真面目な表情だった。キャシアス様、と思いきったような声で言った。
「毎晩、うなされておられます」
「えっ?」
「廊下まで、来るな、と悲鳴が……お気づきではないのですか?」
果てからの声がする
マジで? 僕が? この僕がうなされているんだって? いやあははは、そいつはお笑いだ、全然気がつかなかったね。体が疲れているせいか、さもなきゃ死霊がおっかないせいだ。それはまたデリケートなものだなあ。
調子がよくて騒々しい陽気な言葉を並べたてようとしたけれど、僕の舌はまたしてもこの肝心なところでもつれ固まり、フランの真摯な瞳にぶつかれば、息すらかすれてどこかへ消えてしまう。
咳払いする。なんとか声が……いつもの明るい声が出せた。
「フランが毎朝ここで寝ていたのは、もしかして、それ? 僕のお守り?」
「ち、違います、お守りなんてとんでもない! それに眠ってしまったのはついうっかり……そのう、声をおかけしてもお目覚めになりませんので、せめてお側にと……申し訳ありません……キャシアス様……キャシアス様?」
体を離し突然起きあがった僕を、フランは不安げな表情で見上げる。忠義なフラン、優しいフラン。昼に父上のお供をし、ひばり亭で手伝いをし、夜種を倒して、夜になったら僕の子守りをするのでは、体が持たない。そりゃあ寝台で眠っちまうに決まっている。きみはもっと自分を大事にしなきゃいけない。
ということをフランに諄々と説いて彼女に理解させることが、果たして僕にはできるのだろうか。
うーん。本当に困ったね、こりゃ。
ひばり亭へ顔を出すと、丸テーブルに差しむかいで座ったパリス兄貴とテレージャさんが、朝っぱらから真剣な顔で何事かを言い争っていた。ていうかどういう組み合わせだこれ。近づいていった僕の耳に「だからキャシアスは」という兄貴の声が飛び込んできて、僕は思わず歩調を緩める。
「……変な部分で鈍いけど、いい加減な奴じゃねーんだ。フランちゃんのことは、別にそんな風に――」
「そんな風ってどんな風だい。私は何も言っていない、興味もない、好奇心もない。見事にないない尽くしだよ。パリスくん、これはきみが勝手にしゃべり始めたことだからね」
「はぁ? ええ? ……おい、な、なんつー卑怯な! これだからお貴族さまは!」
「あのな、私の出自は関係なかろう。キャシアスくんたちのことといい、身分身分と実にくだらない事をくだらなく気にする男だなきみは!」
「な、な、なんだと!?」
雲行きが怪しい。
僕がテーブルの側に立つと、お互いにつかみかからんばかりになっていた二人が動きを止めて僕を見上げ、そろってバツの悪そうな表情になった。
「……よう、キャシアス」
「あー、やあ、おはよう。元気そうでなにより」
「テレージャさんのおかげですよ。昨日はお見苦しいところをお見せしました」
立ち聞きしましてというのも何だし、さっさと遺跡の話でも始めて話題を変えるのが正しい社交儀礼だろう。会話の中身は、なんとはなしに見当がついていた。しかしやはり好奇心には勝てず、きいてしまった。
「俺とフランがどうしたって?」
打てば響くように、兄貴が「なんでもねえよ!」と答える。テレージャさんはわざとらしく眼鏡を外して曇りを拭ってかけなおし、それでも僕が視線をそらさずにいると、最後に観念したようにため息をついた。
「……パリスくんがきみを好きだという話だよ」
「どうなってんだそのまとめ!」
兄貴のつっこみ通り、極めて乱暴な話のそらし方だった。僕は笑い声をあげようとしたけれど、またしても上手くいかない。
チュナちゃんが眠り病になって以来、ずっと鬱々と落ち込んでいる兄貴は、それでも僕が馬鹿話をすればのって来て恐ろしい死霊どもが徘徊する宮殿ではしんがりを務める。
館に帰れば長い夜をフランが見張り、連日の激務をこなす父上は僕の体調を気づかう。
彼らの誰ひとりとして口にしない――おそらく考えてすらいない――我々が巻き込まれている災厄の数々は、お前がその手で運んできたのだと。
こうやって受け取った一つ一つの事柄を、僕はどのように返して行けばいいのだろう?
僕は兄貴の肩に手をかけた。なんだか泣きたい気分だった。なかなか言葉が出てこず、不審げな兄貴と熱く見つめあってしまう。
「……ありがとう、兄貴」
「おいっ、ちょっと気持ち悪いぞ! なんだその反応!」
「テレージャさんも、お気づかいありがとうございます」ためらったが、言った。「フランは……多分、テレージャさんが誤解されているようなことじゃなくて、彼女は単に俺の恋人で……」
しかしテレージャさんの様子がおかしい。僕らの方を見ていない。テーブルの上に肘をつき、広げた両手の指先を額にあて、うつむいた顔の表情を隠していた。肩がわずかに震えており、唇に笑みが浮かんでいる。え、なんで?
「どうしたんですか?」
「……これはまた……いや、なんでもない。私は気にせず、どんどんやってくれたまえ」
「な、何をです?」
顔をあげ、眼鏡の位置をなおした。いや、どうしてそんなに嬉しそうなの本当に。
テーブルの横を、装備を整えた探索者の一団が足音も高く通りすぎていく。彼らにつられるように兄貴が椅子から腰をあげて、僕を見た。
「キャシアス、今日も一緒に行くか?」
「ああ、行く行く。テレージャさんは、ご予定は……」
「任せておきたまえ、喜んで同行しようじゃないか!」
パリス兄貴がテレージャさんに「だからあんた、なんで興奮してるんだ!?」と突っ込んだが、テレージャさんは腕組みをして意味ありげな含み笑いをするばかりだ。「だからなんで!?」えーと……兄貴とテレージャさんが仲良くなったみたいで、よかった……のか、これ? ともかくにぎやかにおしゃべりをし笑い声をあげて、肩を並べた兄貴たちは酒場の戸口へとむかい、僕は二人のあとに続く。
……父上は「探索者を束ねて怪異の原因を探り出せ」とおっしゃったけど、これって全然束ねられてないよなあ。ていうか刈り取った麦じゃあるまいし、こんな灰汁の強い連中を束ねるのなんか、僕には無理、無理。
オハラさんに挨拶していこうかとカウンターの方に目を走らせたとき、フランが店の奥のいつもの位置に立っているのに気付いた。ありゃりゃ。
近づいていくと、フランはにこりと笑った。
「キャシアス様、そろそろご出発ですか? お気をつけてくださいませ」
「こら、今日は一日休んでおくようにって言ったろ? せっかくゼペックにもそう伝えておいたのに」
「でも、どこも悪くありませんから。お休みは頂けません」
そういうフランの顔には確かに疲労の影もない。こんなに小さな体なのに、頑丈なんだよなあ。うん。うーん。フランは左右を見回し、周囲に人がいないのを確認してから、そっと顔を寄せて小声で囁いた。
「それにキャシアス様にぎゅっとして頂きましたから、元気なんです。ああいうこと、あの……久しぶりでしたし」
う。かわいいな、おい。
フランは照れたように顔を伏せる。
やはり二人きりの時間が持てなかったのが寂しかったのかと思い、愛されているという実感は当然のように僕を調子にのらせる。
「えっ、でも昨日はごきって!」
驚いた声で言う。
「あれは……あれは、朝から変なことをなさるからです!」
怒られてしまった。案の定だ。僕は笑ってフランの手を取り、指に軽くキスをする。ひゃっと声をあげ、フランが慌てて手を引き抜いた。
「こ、こんな場所で……」
「キャシアス、もう行っちまうぞ!」
外から飛んできたパリス兄貴の怒鳴り声が背中にぶつかる。本当はフランと一日中いちゃいちゃしていたいんだけどなあ。そういうわけにはいかんよな、今はまだ。
「じゃあ行ってくる。寝台を暖めておいてくれ」
「キャシアス様! ですから、そういうご冗談は!」
「ただし寝台の下は掃除するな! あそこは少年の夢置き場だからな、約束だぞ!」
冗談めかして最敬礼を送り――内心では一滴の不真面目さもなかった。フランは常に帰るべき僕の場所だ――真っ赤になってキスされた手を握りしめ、怒るべきか笑うべきか表情を決めあぐねているフランに背を向けると、外へ、僕を待つ仲間たちの方へむかって歩きだした。
ここへおいでと呼びかける
血より濃く
僕を待つ
end