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マイロード

竜の塔 / フラン キャシアス ゼペック

 洞窟から湧いて出た夜種たちは、ホルムの人々を殺した。
 兵舎の床は運び込まれた負傷者と死体の血で汚れ、騒ぎがおさまった翌日、それを洗い流すのは女中たちの仕事だった。
 三月の朝の水はひどく冷たい。
 濡れた石の床に膝をつき、ひとつ擦るたびに痕跡を消していく黒い染みを見つめながら、フランは、死とはなんだろうと思う。


 怪物に殺された人々は大河神殿で弔われた。
 レンデュームでは死を火で清める。炎も煙もないホルムの葬儀はフランには少し不思議で、少し不安だ。死の穢れがまだ残っているように思える。
 葬儀の間、フランは人々の輪から離れ、墓地全体が見渡せる場所に立っていた。祖父の大きな体はいつもの通り、領主親子の側にある。
 墓地の一角は新しく整備され、死者の数だけ墓石の長い列ができている。
 巫女長は墓の前を歩きながら、長い時間弔いの祈りを唱え続けていた。二重、三重に墓地に並んだホルムの町の人々の中央には、フランの主人たちがいる。カムールの伏せた顔には沈痛な面持ちが浮かんでいたが、その隣に立つキャシアスは、憚ることもなく声をあげ涙を流し泣いていた。
 怪物と戦って死んだ兵士たちは、館で暮らす顔見知りの若者たちであったし、戦うことすらできずに死んだ人々は、朝夕に通りで挨拶を交わす誰かや、誰かの家族であった。
 泣き声と巫女長の祈祷は混じり合い、大河の流れに消えていった。
 フランも少しだけ泣いた。
 人の死について、フランは、いや、レンデュームの人々はひどく鈍感だ。自分の涙が死者たちを悼むものではなく、キャシアスの悲しみに胸が痛んだせいだとわかっていた。

 神殿の回廊をカムールが先に立ち、キャシアスとゼペックを従えて歩いていく。
 彼らから少し離れた後ろを行くフランは、カムールが何かいい、キャシアスのぴんと伸びた背がわずかに緊張したのを見て、――あ、お館様がお叱りになられた。そう思った。
 やがて一人足を止めたキャシアスを残し、カムールとゼペックだけが回廊の奥の影の中へと去っていった。
 フランが小走りに近づいていくと、振りむいて笑顔を見せた。
「どうかなさったのですか?」
「ああ、なんでもない。そういうんじゃないんだ――怒られちまったよ。泣きすぎだって」
 赤くなった目の端を乱暴に擦った。色が白いせいで泣きあとがひどく目立つ
「ああいう席で僕が弱ったところを見せてはな。気をつけないと」
「キャシアス様……」
 キャシアスは照れたように笑った。
「ちょっとパリスのところに寄ってから帰るよ。チュナちゃんに薬を届けてくる」
 お供しましょうと言いたかったが、我慢した。あの夜以来、眠り病にかかった妹を抱えて『パリスがすっかり参っちまって』いるのは知っていたが、自分が行ってもパリスを――キャシアスの友人を励ます役には立つまい。つまりキャシアスの役には立たないということだ。役に立たないのは、辛い。
「わかりました。お気をつけて」
 礼をし、去って行くキャシアスの背を見送りながら、もしかしてこの他愛ない会話のために、あたしが追いつくのを待っていて下さったのかな、と思った。慌てて頭をふり、その考えを打ち消した――自分は分をわきまえず、すぐに思いあがる癖がある。しかしそれが正解だと直感していて、たったこれだけのことで嬉しさと気恥ずかしさに熱くなる頬を押さえた。馬鹿だなと思うが、どうしようもない。こういう恋をしているのだ。

 故郷を離れたのは十になる前だった。
 レンデュームは貧しく、そこに生まれるすべての人々を養える場所ではない。祖父が勤める『町のお城』にはそれまでにも時折遊びに行っており、ゼペックから「あのお屋敷で儂と一緒に働くかね?」と問われて、少し考え、悩み、祖父の顔をうかがってから頷いた。昔からずっと何かを決めるのは苦手で、だが祖父と一緒に働くことへの憧れが、フランの背を押し、決断させた。
 出発の日、まだ幼い弟は痛いくらいにフランを抱き締め、火がついたように激しく泣き、多分そのおかげでフラン自身は泣かずにすんだ。祖父のあとについて橋を越え郷の方を振りかえり、その時に初めて心細さが身に染みて涙が出たのを覚えている。
 幼い自分が下したその決断は、決して間違っていなかった。
『町のお城』のホルム伯とその家族は公平で優しく、使用人も兵士たちも皆それなりにいい人ばかりだった。
 春には領主の息子のお供という名目で野山を駆け、夏には森で木イチゴを摘み、秋には金の麦が揺れる丘に立った。雪に閉ざされる冬の日すら、館の大広間には暖炉が燃え、エールを回し飲む領主一家と騎士たちを暖かな光で照らしていた。
 言いつけられたことを言いつけられたとおりに行い、空いた時間には習った通りに技を磨き、館での日々は単調だが幸せだった。
 子供の頃にフランをかわいがってくれた兵士たちの幾人かは、フランが成長した今も館に残っている。いや、残っていた。
 隊列を組んで洞窟に入り込み、帰って来なかった彼らの葬儀はまだ行われていない。遺体がなければそれは死ではないのだ。

 二度目の洞窟探索も失敗に終わった。
 ホルムの西に広がる畑の麦は黒く枯れ、眠り病にかかった人々は目覚めの気配すら見せず、近隣の領土でホルムの名は不吉な物として囁かれるようになり、そして館には客が増えた。
 村の自警団長を名乗る年端もいかない少年や、他領の貴族からの書状を手にした軽装の使者や、木や鉄や鉛でできた手形を腰回りにぐるりとぶら下げた商人や、新興宗教の布教者かつ警告者を名乗る黒衣の男たちや――騒々しい三月の最後にはナザリから、軍馬に乗った堂々たる一団が到着した。
 薄曇りの下ですらまばゆい魔法の輝きを放つ甲冑も、飾りのついた兜も、ホルムのような田舎町には不似合いな華美さと瀟洒さだった。先頭の騎士が槍の穂先に掲げたネス大公の紋章旗は、大河からの風に煽られて頭上高くではへんぽんと白く翻り、彼らが行く先の路面には染みのような黒い影を落としていた。
 都へ引きあげて行く彼らの背中を、使用人たちは館の窓から見送った――肩を寄せ合う全員が同じ不安を胸に抱いていた。やがて年老いた女中が、ぽつんと呟いた。
「ここを接収されるようなことにはならないだろうね。いまさら仕える殿さまを代えるなんて、まっぴらだよ」
 その言葉を合図に、使用人たちは一斉にしゃべりだす。
「ズーエみたいに? 馬鹿らしいわ」
「冗談じゃない、カムール様がうんというものか」
「大体お咎めを受けるようなことは何も」
「でも巫女長様がおっしゃったらしいわよ……手伝いに行ってる従姉妹から聞いたわ……眠り病も、こんな季節にイナゴが来たのも、全部あの遺跡のせいだって」
「だから遺跡とカムール様には関係が」
「だけど、最初に遺跡を見つけたのはキャシアス様なんでしょ?」
 背後で咳払いがきこえて、窓に張り付いていた全員が振り返った。いつのまにか彼らの背後に、執事のゼペックが立っていた。
「そろそろ休憩は終わりにしたらどうかね。今日中に大広間の掃除を終えないと、明日が辛いぞ――さ、行った行った」
 軽い調子でうながされ、使用人たちはそそくさとそれぞれの持ち場へ散って行った。最後に窓を離れたフランは、ゼペックに呼びとめられる。
「ついてきなさい」
 武器庫の片付けを手伝うように命じると、自分も先に立って歩き出す。
 兵舎の端にある武器庫は、年に一度の点検日以外に奥に踏み込む者もおらず、頻繁に出し入れされるのは訓練用の槍と木剣くらいで、並べられた古い甲冑や兜の列の間に埃と黴の匂いが漂う場所だった――つい先日までは。
「フランはガリオーさんを知っているかね?」
 壁際にずらりと並んだ真新しい長剣の一本を手に取り、ゼペックがきく。フランが首を横にふると、ナザリから来た町の鍛冶屋の名だと言った。つい先日、城の鍛冶職人にならないかという打診をしたところ、即座に断りを入れてきたという。
「偏屈だが腕のいい男でね。カムール様には悪いが、彼が自分の工房を離れなかったのに安心したよ」
「どういうことです?」
「この先しばらくは、城ではなく町に良い武器や防具が必要になるだろう」
 ゼペックは手にした剣の鞘を払い、刃先を目で確かめ、また鞘に収めた。柔らかい物腰とは裏腹に、どちらかというと直截的な物言いを好む祖父にしては、ひどく歯切れの悪い言葉だった。隣の剣を取って同じように見、その次、そして四本目の剣を手にしてようやく次の言葉が出た。
「ネスの大公閣下からのお達しでな。遺跡の探索には公国からの兵は出さず、探索者を募るそうだよ」
「探索者ですか?」
「これ以上ホルムから兵士を失うわけにもいくまいと。夜種どもを見ていない貴族たちの物言いときたら……やれやれ、カムール様もよく我慢されたものだ……そういうわけでな、ホルムもしばらくは騒々しくなりそうだよ」
 洞窟から運び出された遺体の傷を思いだし、フランは少しだけ眉をひそめる。金と名誉を求める命知らずたちが列をなすだろう。彼らのどれだけが生きて地上へ戻ってくるのだろうか。
「また人が死にますね」
「ま、そうなるだろうな。探索を口実にやってくるならず者も増えるだろうし、儂らの仕事も増えそうだ。フラン」
「はい、おじいさま」
「おまえはレンデュームに戻ってもいいんだよ」
 突然の言葉に驚き、フランは祖父の顔を見なおした。窓のない薄暗い部屋の中、ゼペックの顔にはいつもの穏やかな気遣いが浮かんでいるだけだ。
「あの、ホルムがこんな時に、カムール様のお側を離れるようなことは……」
「ああ、いやいや、今すぐではないよ……もっと先の……おまえが成人してからの話だ」
 そんな先の話をなぜ今言いだすのだろうと思い、最初に思いついたのは、自分が気付かないうちに大きな失敗をしたのだろうかということだった。
「あたし、何か不手際があったのでしょうか?」
 ゼペックは苦笑した。
「フランはレンデュームを嫌いかね?」
「まさか!」
 フランは勢いよく首を横にふる。
 レンデュームは、フランにとって何物にも代えがたい大切な故郷だ。祖父母の生まれた土地、両親の愛した場所、弟が待つ村、血を分けた親族たちが暮らす郷、どれだけ長い時間をホルムで過ごしていても、フランの根は間違いなくあの緑の谷に繋がっている。
 今、レンデューム郷を離れた城で、同じ根を持つ祖父と孫は、剣と鎧に囲まれている。
 このホルムは、代々グリムワルドの一族が治めてきた場所だとゼペックは言う。
「カムール様は父上のあとを継ぎここを治めておられる。騎士となることはご自身の望みであると同時に、お父上や周囲の希望でもあった。カムール様を見ていると思うのだ……儂は思うのだ……ある種の方々は運命に選ばれ、そこから逃れようがないと。君主と呼ばれる方たちは、だからこそ人から敬意を払われ、忠誠を捧げられるのだと」
 翻ってレンデュームを見れば、人々は貧しい土地に暮らし、他人に仕えることで生計を立てている。しかし彼らは仕える相手を自分で選ぶことができる――数百年の昔、魔王に屈することを嫌った父祖たちは、土地すら捨てた。レンデュームの人間の自由と誇りは、ネスの人々が考えるそれとは違う。我々は頭を垂れる主を選び、膝をつく地面を選び、命を賭ける仕事を選ぶ……。
「いいかね、フラン、儂はおまえに自分で自分の道をみつけて欲しいのだ。三十年前、儂がカムール様にお仕えすることを選んだようにね」
「それならあたし、ここでグリムワルドの皆様にお仕えすることを選びます」
 何も考えず――考えることなど何があろう?――すぐにそう答えた。
「今になんの不自由もありません。カムール様やキャシアス様のお力になれるなら、それで幸せです」
 だがゼペックは、フランの率直な言葉を受け取らなかった。首を振り、代わりにごく穏やかに、
「キャシアス様はおまえを好いておられるね」
 と言った。
 返事の代わりにフランの頬が赤く染まった。
「別に恥ずかしがることもなかろう。キャシアス様はまずは立派な若様だし、おまえは儂の自慢の孫で、レンデュームの長の娘だ。反対する理由などどこにもないよ。ただ……ただ、誠実さは得がたい美徳だが、一時の激情が消えた次には大変な足枷となるものだ。おまえは聡い子だからわかっているはずだ……人間の気持ちは変わっていく。何事につけても必ず終わりが来るものだ」

 ナザリからホルム周辺の夜種討伐のために、兵士を率いて侯爵が来るという。
 厩舎を増設し兵舎を掃除して人数分の寝具を揃え、指揮を執る侯爵のために西館の客用の寝室を整えて、館は一度に慌ただしくなる。人が死んだ悲しさを埋めるのに、ほどよい忙しさでもあった。
 汚れたシーツを山のように積んだ籠を抱え、重さにふらつきながら館を出ると、背後から聞きなれた足音が迫いかけてきた。
「ようフラン、それ、洗濯小屋まで? 持っていってやるよ」
 隣に並んだキャシアスは、ひょいと籠を取り上げる。
「い、いけません、あたしの仕事です」
「いいっていいって」
 引っぱりあいになり、当然キャシアスが勝った。フランには重すぎる籠を軽く頭上に持ちあげて、キャシアスはわざとらしく足をもつれさせ、その場でくるりと一回転する。おどけた仕草に釣られてフランも笑みを浮かべた。
 葬儀の日以来、キャシアスは一度も落ち込んだ様子を見せていない。忙しい忙しいとぼやきつつ、カムールに代わって商人組合や港や神殿に顔を出し、兵士たちの訓練につきあい、書類の山から笑顔で退却し、牧草地や田畑の見回りに行けばなぜか酔っぱらい傷だらけになって帰ってくる。変わったことといえば頻繁にカムールの執務室や自室を訪れるようになったことくらいで、ホルムとネス公国が危機に陥ったこの時期、領主の跡取りとしての自覚がようやく出てきたのか、あるいはカムールに長々と説教されているのか、どちらにしてもキャシアスはいつも通りだ。行く先々で快活な笑い声と冗談とおしゃべりをふりまいている。そう、彼がいつものように陽気な笑顔を作っていてくれれば、それだけでフランは安心する。
「それに、手伝っている間はフランと一緒にいられる」
「あ……う……そ、そうですね」
 こんな雑務で主人の手を煩わせるのは使用人失格ではないかしらというのと、キャシアスの言葉が素直に嬉しかったのとで、しどろもどろになってしまう。
「そこは喜んで、いや、せめて困らずにいてくれよフラン」
 情けない声を出したキャシアスは、背後を振りあおぐ。内庭を見下ろす上階の端の窓は、キャシアスの自室だ。そこを指さし、「フランが出ていくのが見えたから、ペンも本も放り出して飛んできたんだぜ」と言った。
「あっ、お勉強の最中だったんですね?」
「その話はやめよう。今はただきみといられる喜びを噛みしめていたい」
 さぼって来ました感丸出しだった。
 話のついででそういう冗談をおっしゃるから、あちこちで誤解されるんです――真面目にそう注意しようとして、ふと去年のあの春の日を思い出す。といっても大した話ではない。ゼペックとこの中庭で話していると、自室からキャシアスがこちらを見下ろしているのに気付いた、ただそれだけの話だ。しかしキャシアスに関するいくつかの記憶と同じように、この思い出もまた、フランの気持ちを萎縮させる。
「ん?」
 口ごもったフランに、キャシアスが問うような視線を送った。
「ええと……あの……そう、先日パリス様にお持ちした薬はいかがでした?」
「全然、まったく。ネルに見てもらったら、ただの消毒薬だから害もなけりゃ効果もないって。デネロス先生なら同じ物を半値で売ってくれるってよ。見事に騙されたよ……文句を言いに戻ったら、もう宿を引き払ったあとだった。オハラさんの忠告をきいときゃよかったよ」
 裏庭へとむかいながら、キャシアスはため息をついた。
「遺跡の探索に褒賞金が出るって話、きいた?」
「はい。カムール様から今朝、あたしたちにお話がありました」
「正式な公布はまだなのに、ひばり亭はもう探索者だらけだよ。昨日も遺跡に入れろ入れないで詰め所の兵士が総出の騒ぎになったし、喧嘩かと思って割って入れば術比べだの腕試しだの……血の気が多い連中ばかりで参るよ」
「カムール様は、今後は私闘を特に厳しく処罰されると……それも今日には布告されるというお話でしたが」
「ああ、なるほど。さすが父上だ。城下の騒ぎもとっくにご承知なわけだ」
 城壁の向こうのホルムの町も郊外に広がる深い森も、夜種が湧きだす以前と変わりがないように見える。それをいうならこのホルムの城すら、あんなにたくさんの人が死んだというのに、一見すれば何の変化もない。
 隣を歩くキャシアスは、困った困ったと気楽な調子でぼやいている。
 胸が騒ぐのはホルムの怪異のためで、落ち着かないのはゼペックの言葉のせいだ。
 キャシアスののん気そうな横顔に、突然、尋ねたくなった。
 ――キャシアス様は、いつまで、どのくらい、あたしを好きでいてくださるのですか?
 本当にそう問うならば、キャシアスは恐らく打てば響くような返事をくれることだろう。永遠に、そして無限に、と。
 愛情の終わりを問うなど馬鹿げている。
 そもそも言葉で交わす約束など、一体何になるだろう?
 だから代わりに別のことを言う。
「遺跡の奥には、本当に怪異を解決する鍵があるんでしょうか」
「おいおい、大河神殿の預言だぜ」
 キャシアスは呆れた声をだした。軽薄な言動とは裏腹に、キャシアスはひどく信心深い。夕暮れに礼拝堂の側を通りかかれば、ひどく遠慮がちに壁際の椅子に腰かけ、うつむいて一心に祈る姿をよく目にする――もしお生まれが違ったなら、キャシアス様は神殿に入る道を選ばれたのではないかしら、フランは時折そう考える。しかし神官姿のキャシアスを思い浮かべればどういうわけか悲しくて胸が締め付けられるのだから、おかしな話だ。
「フランは信じていない?」
「あたし……よくわかりません。でも偉い方々がそうおっしゃるなら、そういうことなのではないでしょうか」
「ははあ。なら、偉い方々は責任重大だね」
 やけにぼんやりとした口調でキャシアスがいい、視線を宙にさまよわせると、そのまま黙りこんだ。

 整理した遺品を運び出し、寝具を整え剥がれた床板を叩き壁を拭き、隅々までを掃き清めれば、兵士たちの大部屋は、今までに使用された痕跡を失くしてしまう。
 あの寝台の上の段を使っていた若者は、毎朝寝坊をして、寝台から垂らした足を仲間に叩かれ、それで目覚めていた。隅の寝台はズーエの出身で手先の器用な兵士の場所だった。手すさびに小さな置物やら木箱の飾りやらを彫るものだから、シーツにも床にもいつも細かな木の屑が散らばっていた。部屋の中央の床がへこんでいるのは、非番の日には兵士たちがこの部屋に集まり、カード遊びをしていたせいだ。城内での賭博は禁じられていたが、それでも男たちは小銭や一杯の酒や雨の日の巡回当番を賭けてこっそりと楽しんでいた。胴元は元は船着き場で働いていたちんぴら上がりの男で、左手には指が三本しかなかったが、おかげでカードが切りやすいとうそぶいていた……。
 床を磨き終えて戸口に立ち、部屋全体を見回す。
 取り替え忘れた物はなく、清め忘れた場所はない。フランの手によって大部屋は清潔に整えられ、そこに欠けているのは部屋に住む兵士たちだけだった。
 しかしそれも週が明ければ、ナザリの兵士たちがこの部屋を使うことになる。ここは古参の兵士たちの大部屋だったのですよ、そうきかされたとしても、彼らは何の感慨も持つまい――以前の住人を彷彿させる物などなにもなく、死んだ兵士たちとなんの接点もないのだから。
 掃除用具を抱えて部屋を出ると、扉を閉める。鍵をかけながら、この程度の錠なら半分眠りながらでも簡単に開けられるなと思う。そして考える。
 こうやって一つ一つ痕跡を失っていくことが死なのだろうか。

 侯爵ではなく伯爵が来た。
 後になってわかったのだが、伯爵家の人間ではあるがまだ爵位を継いだわけでもなく、単なる騎士がやって来たのだった。
 兵士たちなどどこにもおらず、のんびしりた顔の侍従が数名、のんびりと付き従っているだけだった。一人だけ馬に乗った青と金に光る甲冑の騎士は、城内に入ると颯爽と下馬したが、直後に馬が走って逃げた。遠巻きに見ていたホルムの兵士たちは苦笑し、厩舎の手伝いの小僧たちは遠慮のない笑い声を浴びせた。だが甲冑の騎士はすぐに、鎧の重さを感じさせないような足取りで駆けだす。数歩並走して手綱をつかみ、馬の動きを強引に押さえこんだ時には、笑い声は自然におさまっていった。馬は鬣を振りみだし四本の足を踏み鳴らし、全力で騎士と引きあっていたが、しばらくすると耳を伏せ頭を垂れた。馬丁が三人がかりでやる仕事を、二本の腕だけで終わらせた騎士は、己の膂力を誇る様子も見せずに、おとなしくなった馬を引いて戻って来た。
「おー、こりゃまたすごいのが来たなぁ」
 廊下から中庭の騒動を見下ろしていたキャシアスは、感嘆の声をあげた。キャシアスの後に従っていたフランも、主人に習って足を止め、その視線を追った。
 兜を脱いで照れたような微笑を浮かべた騎士は、キャシアスよりいくつか年下にも見える。素直に感心しているキャシアスが少しもどかしい。
「あれくらいなら、きっとキャシアス様もお出来になります」
「……フランはときどき無茶言うなあ。俺なら黙って見送るよ。しかしいくら強くても、一人ではな。一人で百人を倒せるわけじゃなし――約束されていた兵士はどこに?」
「後からお出でになるのではないでしょうか。大公閣下が正式な使者を立ててお伝えになったことを、簡単に覆されるとも思えません」
「彼が指揮官? ふーむ、単騎で部隊に先行する指揮官ならば、彼は愚かさと勇敢さ両方の持ち主だな。二つが一緒だと性質が悪い……ってなんだよなに笑ってるんだよ」
「お館様そっくりでしたよ、今」
 キャシアスが困ったように笑った。
「そうあるべく日々努力はしているけれど、どうも追いつかなくてね――口だけならそろそろ一人前かね」
 窓辺に寄りかかり、しかしすげえ鎧だなあれは高そうだなあと下世話な好奇心を発揮しはじめたキャシアスは、ふと言葉を切りフランの方を見た。片手を伸ばし、額に垂れた黒い前髪を優しくかきあげた。
 フランは顔をあげ、キャシアスが触れるに任せていた。髪を押さえる指の動きがくすぐったい。露わになった顔の全てを食い入るように見つめている。
「どうしたんです?」
 尋ねるが沈黙だけが戻ってくる。眼差しはひどく真剣で、あの春の日を思い出す。
 目立たないように気配を殺すように、ずっとそう躾けられてきた。こんな風に不躾な視線を他人に許すことはない。キャシアスだけだ。恥ずかしくて逃げ出したくなるが、そんな無礼はいけない。この目から逃れることもしたくない。
 やがて手を離したキャシアスが、柔らかく微笑した。
「かわいいな、と思っていただけだ」
「……」
「きみこそどうしたんだ? 最近、少しおかしいよ」
 優しい声でそうきかれ、突然、泣きたくなった。
「怖いんです」
 ようやく喉から出た声は震えていた。
 暗い夜の風にざわめく森も、赤く染まった大河も、飢饉の噂も、郊外をうろつく夜種どもの群れも、死んでいった兵士たちも、町に滞在する探索者たちも、ナザリからの使者も――なにもかも、なにもかも。これまで平和だったホルムが変わっていく。そしてこの渦の中心には彼がいる。
 彼が。
 窓辺にもたれたキャシアスは、領主の息子にふさわしい、気さくで、明るく、人を安心させ、何の問題はないと誰もが信じるようなからりとした笑みを、二人きりでいる今も浮かべている。子供の頃から見慣れてきた優しい目でフランを見下ろしている。
「キャシアス様」
「うん」
「どうかあたしを置いていかないでください」
 やっとのことでそう言った。
「置いていくって何を……大丈夫だ、そんなことはしない。絶対にしない。ねえ、本当にどうしたんだ?」
 とまどったような声できいたキャシアスは、フランの肩を抱き、その体を軽く引き寄せた。
 フランは固く目を閉じ、額をキャシアスの胸に押し当てた。いま何かを言おうとすれば、そのまま声をあげて泣いてしまいそうだった。
 そんなことはしない、絶対にしない。好きだ、大事にする、きみを傷つけない、ずっと一緒にいる。
 言葉はなんと簡単なのだろう。
 薄い布地の向こうでキャシアスの心臓はひどくゆっくりと脈打っている。フランの肩を抱くその手にはなんの震えもとまどいもない。
 ふるまいはなんと残酷に人の心を伝えるのだろう。
 目を開いたときにはまた姿を消しているような気がして、服の裾を握りしめた。

 仕える者は自由だとゼペックは言った。
 レンデュームの人間は己の道を選べるのだと。
 だがフランの目には、祖父こそが運命に見出された人のように見える。ホルムの城でカムールの側に控えるゼペックの顔は、レンデューム郷の温かな炉の側で一族に向ける好々爺のそれとはまったく違う。その些細なことすら見逃さない眼差しや、八方に意識を巡らせる気配や、きびきびとしたその態度は、カムールがいなければ得られなかったものではないのか?
 領主様と一緒にいる時、おじい様はあたしたちのおじい様ではなくて、別の方のように思える。
 あのようになりたい。おじい様のように。
 単純な子供らしい憧れであった。

 地面の近くを、黒い鳥がついと横切っていく。
 赤い喉を見せた鳥が高度を上げ青空に消えていくのを目で追い、その姿が点のようになって消えたあとで、あれは燕だと気がついた。
 長い雨が続いたあと、久しぶりの晴れ間が広がっている。
 例年とは違って蒸し暑く風のない春で、領内の村からもたらされる知らせは相変わらず不吉なものばかりだった。麦の畑に広がった病は麦の根までを枯らし、家畜の仔は生まれてすぐに死んでいく。それでも春を告げる鳥は、いつものようにホルムを訪れていた。久しぶりに気持ちが軽くなるのを感じ、フランはしばらく、燕が消えた空を見上げていた。上空には風が強いのだろう。薄い切れ切れになった雲が刻々と動き、見る間に形をかえていく。この晴れ間も恐らくは一時のものかもしれなかった。
 館の裏から兵士たちの声がきこえてくる。朝食の後片付けを終え、しばらくの休憩を取ろうと厨房を出たフランは、彼らの声に誘われるように裏庭へ足を向けた。塔の角を曲がろうとしたとき、むこうから足早に近づいてくる人の気配を感じ、衝突を避けて足を止めた。ひと呼吸あとに姿を現したのは、領主の息子だった。
「あ、キャシアス様――」
 自然にその名を呼び、それからどぎまぎした。先日二人きりになった時には気持ちが高ぶって随分子供っぽい振舞いをしたと思い、顔を見るのが気恥ずかしい。
 こちらに気付いたキャシアスも、あ、と明るい声をあげた。
「フランか! ちょうどよかった。花が欲しいんだけど、摘んでいいのがどれかわからなくてさ。薬草園で次に悪さをしたらシチューの具にしてやるって脅されてるから、うかつなこともできなくってよ。いや、ここで会えたからめでたしだ。ちょっと一緒に来て選んでもらえるかい?」
 一息にそう言われ、照れたり狼狽する隙がなかった。
「すぐにご用意します。えっと、お部屋に飾るものでしょうか」
「いや、あー、白い奴」
 それで花は墓地に供える物だとわかり、フランは頷く。
「承知しました。すぐにお持ちしますから、どこかでお待ちいただければ」
「いいよ、ついていくよ。アルソンさんを待たせてるから、あんまりのんびりもしていられない」
「お二人で墓へ?」
「ん」
 返事が短い。詮索されたくないのかと思ったが、並んで歩きながら、「神殿へ行くついでだよ」と照れを含んだ口調で言った。
「そうでもなきゃいかない場所だから。ついで……ついでっていうのはひでえのかな」
「そんなこと……あの……あたしの里では決まった時にしか墓に行きません。ですからこの町の皆様が、何かのついでで墓地へ寄られるのを見ると、いいな、と思います。亡くなった方を忘れないのは……思い出すのは、ひどくないです」
「決まった時って?」
「誰かが死んだ時です」
「そりゃまたはっきりしてるなあ」
 レンデュームの人間は死をさほど特別に思わないのです、そう説明するとキャシアスは軽く首を傾げた。
「フランも?」
「あたしはこちらでの暮らしが長いので……里の者とは少し変わってしまったように思います」
 厨房の裏には小さな畑が作られており、その端に料理人たちが作った薬草園がある。色とりどりの花が揺れる間に身をかがめ、春の日差しに温もった土の上にしゃがみこむ。冗談混じりの会話を交わし、キャシアスのために花を選んでいると、暖かく胸が弾む。ささやかだが確かな幸福を感じる。
 小さな花束を受け取ったキャシアスは、気取った仕草で花の匂いを嗅いだが、すぐに顔をそむけた。
「うへえ、ちょ――これ湿布?」
「薬草ですから」
 くすりと笑ったときに、キャシアスが腰に儀礼用でない剣を――武器庫に新しく揃えた兵士用の長剣を下げているのに気付いた。立ち上がりながら「その剣は」と尋ねる。キャシアスが照れたように笑い、剣の柄を隠すように握った。
「フランもゼペックもほんとによく気がつくなあ。慣れてる物を使った方がいいっていうからさ。ちょっと遺跡に行ってくる」
 キャシアスがさらりと口にした言葉に、フランは絶句する。
「え――」
「あー、大丈夫。父上の許可はとってる。というか二人で話してそういうことになったから……これが一番グリムワルドにとって格好のつく話だ」
 キャシアスが平然としているのに気付いて、フランはかえって狼狽した。無意味に両手を握りしめ、また開く。微笑したままフランを見つめていたキャシアスが、軽く肩をすくめた。
「最近の俺は駄目だね。どうも皆を心配させてばかりだ。そんなに頼りない?」
「頼りないなんて……そんなことありません」
「それならきちんと見送ってくれ。俺が無事に帰って来れるように」
 穏やかな声だったが、そこにはいままでにきいたことのないある種の威厳が含まれていた。フランははっとして姿勢を正した。
「……ご武運をお祈りしております。どうかご無事で」
 キャシアスは静かな表情で頷き、その挨拶を受け止めた。空を振り仰ぎ目を細め、「また雨が来そうだな」と言った。

 城壁の隙間からホルムの町へ続く急な道を見下ろす。
 灰色と茶のくすんだ岩山の道に、キャシアスとネス大公の甥が徒歩で下りていく姿が、鮮やかな色彩になって揺れていた。先を行くキャシアスは片手に白い花束を握り締め、時折振り向いて笑顔を見せ、耳を澄ませば朗らかな笑い声までがきこえてきそうだった。
 重い湿った風が髪をかき乱すが、身じろぎもせず、遠ざかっていくキャシアスの背だけを見つめていた。
 春の日に一人の若者が、怪物たちの巣へと下りていく。家族のためでなく、友人のためでなく、恋人のためですらなく、いや、もしかしたらそのすべてを平然と背負い、当たり前のように義務を果たしにいく。
 弟へ向けるような穏やかな愛情や、ふと手が触れあった時に交わし合う笑顔や、使用人としての心得や――これまでに培ったあらゆる気持ちを覆い尽くし飲みこむように、新しい感情が生まれていた。これまでに一度も感じたことがないような、強い強い気持ちだった。
 遥かな頭上に広がる雨を含む雲は、強い風に押されて、南へ、キャシアスとフランの知らぬ土地へと足早に流れていく。
 あの方のためならあたしは人を殺せると思った。


 主君とは運命の別の呼び名なのだと祖父は言った。
 雨が血と闇を洗い流し、ホルムの空も地も開かれた四月、レンデュームのフランは自分の道を見つけた。



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