竜の塔直後 / エンダ キャシアス
猫だ。
最初は神殿の中庭で見つけた。
石畳の上で四本の足をおっぴろげ、ぼってりした腹に午後の光を浴びて、幸せそうに眠りこけている。
真っ黒い猫だ。閉じた口の端からは真っ赤な舌がちろりとのぞいていた。
服、服、うるさいアダの魔手から逃げ出して回廊を疾走していたエンダは、一度通り過ぎてから引き返し、立ち止まってまじまじと、中庭にぼてっと落ちているその黒いふかふかしたかたまりを凝視した。
――なんだあれ。
エンダは猫を見たことがなかった。多分。あるいは忘れているだけかもしれない。大きな竜だったころは、小さな生き物はあまり視界に入って来なかった。
猫には長いひげがあり、耳は三角、鼻は桃色、尻尾の先はまっ白だった。そのどれもが呼吸にあわせて、あるいは風が吹くたびぴくぴくと動いて、エンダを誘うようだった。
――なんなんだ、あれ。触ると楽しそうだな。
忍び足で一歩、二歩、三歩目まではうまくいったのだが、四歩目のつま先が地面に触れたとたん、黒猫ががばと上半身を起こした。前足をぐいと体に寄せて、まんまるい緑の目でエンダを見つめる。エンダも目を丸くして見つめかえした。
(尻尾をぎゅーってしたら気持ちよさそうだぞ! それにもしかしたらウマイかもしれない!)
触りたいといううずうずした気持ちが最高潮に高まった瞬間、エンダは予備動作なしで猫に飛びかかった。捕まえたと思ったのに、猫は横っとびにエンダの手の下をくぐりぬけていた。エンダはとっさに尻尾で猫を叩き落とそうとして体を傾け、ぐらりと揺れて転んだ。
尻尾がないのを忘れていた。
石畳の上に転がったエンダを尻目に、黒いかたまりはジグザグに中庭を駆け、神殿を通ってあっというまに姿を消した。猫の足音が遠ざかっていくのをききながら、エンダは大の字になって空を見上げ、ふーっと不満の唸り声をあげた。
今は小さな竜の子だしニンゲンの格好をしているので、エンダはあまり好きなところに行けないし、体の自由もきかない。エンダがニンゲンの格好をしているのは、ニンゲンのキャシアスが名前をつけたせいだ。
卵から出てきて最初に見たのは、キャシアスの顔だった。その時は当然キャシアスなんて名前は知らなかったし、キャシアスに名前をつけてくれと頼んだのも忘れていたから、ただびっくりしただけだ。慌てて岩陰に隠れてみたけれど、そのニンゲンはエンダが出てくるのをずっと待っていたのだった。そうっと顔を出してみたら、こっちを見てるニンゲンと目があった。なんだかこそばゆいような腹が立つような変な気持ちだった。
「おまえ、お父さんか?」
エンダがきいたら、ニンゲンはすごくびっくりした顔になって、ゆっくり瞬きする。
「俺が?」
そう言ってからはっとしたように仲間の方をふりむき、「誤解だ」と言った。違うのか。
「何をおっしゃってるんですか、もう!」
「きみは馬鹿なのかキャシアスくん」
「そりゃなにより……えーと、そうか、そうなるのか。鳥と一緒なのかね。ならしょうがないよなあ。いきなり責任重大だ」
ぶつぶつ呟いてから、エンダにむきなおって両手を広げた。
「お父さんだよ」とすごく真面目な顔で言った。どっちなんだ。
そのあとすぐにニンゲンは小さな魚をエンダの近くに置き、エンダは手を伸ばしてそれを物陰にひっぱりこみ、頭から食べた。おいしかった。やっぱりお父さんだろうか。でも魚の尻尾をかじりながらこっそり覗いたら、ニンゲンたちはぞろぞろと部屋を出ていくところだった。本当にわけがわからない。
慌てて追いかけたら、部屋を出たところでニンゲンは足を止め、エンダが来るのを笑顔で待っていた。
エンダの記憶では、ニンゲンというのは河のほとりに集まって泥でつくった建物の中に裸で暮らしていたのだった。エンダは普段は象や牛や大きな魚を食べていたけれど、時々は違ったものが食べたくなって、そういう時にはニンゲンを食べた。味は普通だったけれど、毛皮がないからぺろりと呑み込めて喉越しがよかった。油断していたら尖った物を持ってきてちくちくつついてくるのでちょっと面倒だったけれど、ごうっと焼いてやると静かになるからまあ問題ない。
ところが久しぶりに迷宮を出てみたら、ニンゲンたちの集落には切り出した石を高く積み上げた建物が並び、毛のない体には布や紐や金属を体に巻き付けていたのだった。
エンダは不満だ。ニンゲンは食べやすくておいしいのが取り柄だったのに。エンダに寝床を作ってくれたアダは、服を着ろ虫は食べるな落ちた物は拾えとうるさくて面倒くさい。うるさいのは嫌いだ。アダから逃げ出してホルムの町を走ると、人の多さに閉口する。
――エンダが大きな竜なら、全部ぷちってしてから食っちまうんだけどなあ。
物騒なことを思ったりもする。けれどもエンダと名付けられたエンダは、ニンゲンの形をしているので、ニンゲンを本気で食べたくはならないのだった。残念。
また黒い猫がいた。
神殿の近くの細い路地に、真っ黒いぴんと立った尻尾が吸い込まれていくのを目撃し、エンダは即座に追跡を開始した。
左右を背の高い壁に挟まれた路地は狭く薄暗く、背の高い木材が雑然と立て掛けられ、地面には得体のしれない死骸やらごみくずやらが散乱していた。猫は尻尾を立てたまま、その木材の下をくぐりぬけ、太った体と裏腹の優美さで歩き去るところだった。エンダは猫の後を追い、半分ほど路地を進んだところで、詰まった。
木材が傾いて重なりあう隙間が段々と密になっていき、最後には腕一本とつま先半分で限界になり、行くことも戻ることもできなくなったのだった。
ひっかかったエンダの視界の中で、黒猫の尻尾が揺れながら遠ざかっていく。
なんだか焦った。置いて行かれるのは嫌だった。
「おい、待て。エンダに捕まれ」
声をかけると黒猫は一瞬だけ足を止めた。隙間から突き出たエンダの腕とつま先を馬鹿にしたような目で見やった。
――腹立つ。
身じろぎした拍子に、背中が背後の木材にぶつかった。
重なりあいお互いを支えていた木材が、一度にバランスを崩した。路地裏に響き渡るがらんどしゃんという派手な音に、猫もエンダも飛びあがった。猫は走って逃げ出したが、隙間にいたエンダはそうはいかない。倒れてきた木材がいくつも頭にぶつかり、それは別に痛くなかったのだけれど、どんがらがらが収まったときには倒れてきた木と木と木と木と壁に挟まれ、身動きが取れなくなっていた。
かつて空はエンダの物だった。
ハァルは天空を竜に許し、エンバーは海を許さず、オローリオは大地を小さな生き物たちに与えた。だからエンダと仲間たちは、雲を散らして天球を駆け、炎と氷と戯れた。エンダはその頃のことをぼんやりと覚えている。今でも時々思い出す。
しかしやがて若い仲間たちはエンダを置いて南へと行ってしまったのだった。彼らが去っていく姿を見送るとき、エンダは一抹の寂しさを覚えたものの、彼らをひきとめようとは思わなかった。エンダは年老い、疲れていたものの、その気になればいつでも彼らを追うことができたからだ。
大量の材木の下敷きになったこの瞬間に、路地の隙間から真っ青な空が見えたせいで、突然それを思い出してしまった。
エンダはものすごくものすごく不機嫌になった。
動けない。
つま先がぴくぴくしたけれど、他はやっぱり動けない。体の上に乗った材木は力を込めたら折ることができるだろうけど、それを折ったら頭の上でとまっている別の一本が落下してきそうで、大体腕も斜めに挟まっていて、どれから動かそうかと考えてる間にイイーッとなった。
もう全部を焼き払ってやろうかと思う。
全部というのは文字通りの全部だ。
体が小さいから大きな竜だったころのような炎は吐けないけれど、三日ほど頑張れば大丈夫、きっとできる、はずだ。ホルムの町も太古のニンゲンが作った遺跡も、全部焼きつくしたらさっぱりするだろう。動けないのはもう飽き飽きなのだ。
息を思い切り吸いこんだ瞬間に、
「もしかしてエンダか? 大丈夫か?」
すごく知っている声が路地の入り口から飛んできて、炎は口の中でぽすんと消滅した。
「いまは大丈夫じゃないけど大丈夫だ。エンダは燃やすから」
「ええ? 何を言って――わー、狭っ――わわわっ――なんでこんな――はさまりすぎだろ!――なんだって?」
派手な音を立てながら声が接近してくる。ひょっこりと覗きこんだキャシアスの顔に遮られ、青空が見えなくなった。
「燃やすからどいてろ」
「……きき間違いじゃなかったのか。燃やすな。駄目だ、却下だ」
ぴしりと言われる。
「かなり挟まってるけど、痛くないか?」
エンダはキャシアスの顔を見ながら、体、腕、足、背中、と頭の中で自分の全身を点検してみる。無事だ。
「痛くない」
「そりゃよかった。んじゃ燃やさずにちょこっと我慢してな。今どけてやるから」
苦笑を残してキャシアスが頭をひっこめ、木材を移動させる音がし始めた。
「どうした、こんなところで? 虫でも探してたのか?」
「猫を追いかけてたんだ。黒い奴。キャシアスは食べたことあるか、猫?」
「いやあ、残念ながら。でもまずいと思うぞ。うまかったら皆に食べられて、とっくにいなくなってるんじゃないのか」
なるほどと納得したところで、体を抑えていた一番大きい木材が宙に浮き、エンダは自由の身となった。額の汗を拭っていたキャシアスは、材木の間から出てきたエンダを見るなり、その場にがっくりと膝をついた。
「おまえさんはまた裸で……ネルがやった服はどうしたよ?」
「あれはばーちゃんにやった。ばーちゃんはいつも服、服言って、服が好きだからな」
「巫女長は服が好きなんじゃなくて、だな。この。しかしちゃんと婆ちゃんて呼ぶようになったんだな。アダ様も偉いもんだ」
頭に触られたので、手を振り払った。触られるとうるさい。
「……おまえってほんと猫の子みたいだなあ」
「エンダは竜の子だ」
「わかってるよ。なにしろお父さんだからな」
すごく真面目な顔でキャシアスは言う。
「じゃ、今日は一緒に遺跡に行くか? 燃やすのは化け物相手で頼む」
キャシアスも服、服言うから服が好きなんだろうけど、材木を抱えて動かしたせいで服も手袋も全部汚れてしまっていて、それでもにこにこ笑っている。キャシアスは変なニンゲンだな。
ひばり亭でネルやパリスと遊んでいたら、キャシアスがお土産を持ってきた。
昼間のひばり亭は、遺跡への同行者を募る探索者たちでにぎわっている。エンダはただの子供だと思われているようで、あと一度うるさく触ってくる奴に噛みついてやったので、他の探索者たちからは誘われない。構わないのだがちょっと暇だ。あまりに暇だと、やっぱり燃やしちゃろかなとも思う。
エンダたちが座ったテーブルに近づいてきたキャシアスは、蒸し暑い日なのにぴったりとマントを胸の前であわせている。
「なんかもこもこしてない?」
と目ざとくネルが指摘して、するとキャシアスはものすごく得意げな表情で肩を揺らし、マントの前を広げた。
エンダは目を丸くした。
猫だ。
マントの下では、キャシアスが両手で黒い太った猫を抱いていた。固い皮鎧に爪を立てた猫は、色々と不満があるような顔をしていたが怯えた様子はなく、半眼になった緑の目で、立ちあがったエンダを見据えていた。
「何やってんだよ……」
「わあ、どうしたの? お屋敷で飼うの?」
パリスとネルの声に、キャシアスは含み笑いを返し、エンダに猫を渡す。エンダは両手を広げて、黒いふかふかのかたまりを受け取った。想像以上にふかふかで、柔らかくて、ぐにゃぐにゃで、どくんどくんいっていて、ずっしりと重たかった。
「どうだ? 満足したか?」
「うん。いいなこれ」
尻尾を触られた猫は、エンダの腕に思い切り爪を立てた。皮膚が破れ血が出たが、エンダはあまり気にせず猫の耳にかみついた。猫が両目を見開いて硬直し、キャシアスたちがひぃ! と声をあげた。
「ひえー、すぷらっただあ! エンダ、それは食べ物じゃないんだよー!」
「ふぁふぁっへふ、ふぁまりふふぁふふぁひ。ふぁふふぁふへへへ」
「エンダ、こっち食え! 猫は駄目だ!」
キャシアスが腰に下げた袋から、小さなこげ茶色の塊を引っ張り出して、エンダの鼻先に近づけた。嗅いだことのない匂いだった。猫の耳から口を離すと、すかさずキャシアスが開いた口にその塊を弾きいれる。口の中で柔らかく広がり、苦みを残してふんわりと溶けた。喉の奥まで芳香と甘みと苦みが染み込むような感触に、「おおー……」と思わず声が漏れる。猫を両手でつかんだまま神妙な顔になったエンダを見て、パリスがキャシアスにそれなんだときいた。
「チョコレート」
「うまいのか?」
「どうだろ? 薬みたいなもんだからなあ。目は覚める」
「ちょっとくれよ」
「私も食べたい」
はい、はい、と二人に配ったあと、キャシアスも小さな欠片を口に運ぶ。三人でチョコレートを口に含み、すると猫以外の全員が神妙な顔になった。猫がまた暴れ出す――エンダの胸を思い切り蹴りつけて拘束を逃れると、床に転がり落ち、出口にむかって一直線に駆けだしていった。
「お、いいのか?」
キャシアスにきかれ、初めて経験する味の余韻にうっとりと浸りながら、エンダは答える。
「猫は好きにすればいい」
エンダと猫は同じだから、と言おうとしたが、やめた。一緒にされるのは癪だったし、それにエンダはエンダで猫は猫だから、同じじゃない。
耳も尻尾も触ったし、ふかふかの毛も感じたし、味もみたし。好奇心が満たされてエンダは満足だった。しかもこのチョコレートという奴は、とてもおいしい。満足に満足を重ねて、幸せな気分になった。気がついたらキャシアスが頭をなでている。見上げると、やっぱり笑顔で「焼いちゃ駄目だぞ。焼いたら、猫もチョコレートも燃えちゃうからな」と言った。
キャシアスは変な奴だなと思う。なでられているとくすぐったいような嬉しいような悲しいような変な気分になる。もしかしたらキャシアスはほんとにお父さんなのかな。
キャシアスは腰の袋をひっくり返し、中からチョコレートの最後のひとかけを探しあて、エンダにくれた。二粒目のチョコレートも甘くて苦い味がして、この味に慣れたらまたここから動けなくなってどこにも行けなくなってしまう気がしたけど、エンダはごくんと飲みこんだ。
end