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月を撃つ

グッドエンド後/キレハ

 久しぶりに弦を張り、手にしてみればやはりいい弓だと思う。
 どうせまたあてのない旅の空だ、なるべく身軽な方がいいと、遺跡で見つけた武具や装身具のほとんどは売り払い小さな宝玉に替えてきたが、この長弓は手放せなかった。

 あの日ひばり亭に入ってきたネルはこの弓を大事そうに抱えていた。嬉しそうな笑顔の彼女がまっすぐに近づいて来るのを見ても、それが自分と関係のあることだとは思わなくて、同じテーブルを囲んだキャシアスの朗らかな笑い声に気を取られながら、ずいぶん大きな弓だけれど誰の物かしらとぼんやり考えていたくらいだった。でもキャシアスでもパリスでもテレージャでもなくキレハの前に立ったネルは、「じゃーん、お待たせしました、月撃ちの弓でーす!」と高らかに宣言して、それでようやくずっと以前に弓をもらう約束を交わしたことを思い出したのだった。
 飲みさしのグラスをテーブルに置き興奮した顔で椅子を蹴って立ち上がったのはキレハではなくキャシアスで、あのお調子者は「かっこいいなあ、それ! キレハ、試し撃ちしてみてくれよ!」と高らかに叫び、その声を合図にいつもの連中がテーブルの周囲に集まって来た。おいでけえ弓だなあとかなあにキレハなら使いこなせるだろうとかネルさんの作る物はなんだかどれもネルさんっぽいですね! とかわあわあ大騒ぎの末に気がつけばキレハは森で一番高い木のてっぺんを狙って『試し撃ち』を披露することになっていて、いやそれは別にいいのだけれど、ひばり亭を出て真新しい弓を手に、エプロン姿の町娘だの輝くような笑みを浮かべた領主の息子だの隻腕の戦士だのシーウァの巫女だのぴょんぴょん跳ねる竜の子だの派手なローブの妖術師だの、なんともまとまりがない悪目立ちするお馴染みの一同の先頭に立って森にむかって町中を行列する羽目になって、どいつもこいつも声が大きいし身振りも激しいし最後尾ではわーわー口論まで始まって、町の人たちの視線が恥ずかしいのなんの。そもそも先頭に立つのは私じゃなくてキャシアスの役目でしょうが、あなたがリーダーでしょう? 私はいつだってあなたの背中を見慣れているのに。すぐ後ろを歩く彼を振り仰ぎ少し恨みがましい視線を送れば、キャシアスはいつものからりとした笑顔で「綺麗な弓だね。細工が丁寧でネルらしいや。きみがそれを持ってると森の女神と間違えそうだ」、さらりと恥ずかしいことを口にしてキレハを赤面させたのだった。まったくもう、歯の浮くような台詞を次々口にするのが得意だったわねあの人、間が抜けていていつもふざけてすぐ調子にのってやらしいことばっかり考えて、そのくせいざという時には皆から頼られて――まあそれはさておき、ネルはどうしてこの弓にこんな名前をつけたのかしらとホルムを離れた今になって思う。月は撃たないわよ、うん、普通は撃たない。だって撃っても矢が届かないもの。うん。
 受け取った直後に質問すればよかったのだけれど、鍛冶屋に弟子入りしたネルが工房にこもって作り上げる最初の作品は当然キャシアスのための剣だと思いこんでいたので、キレハはそれが自分の武器だったことに少し驚いてでも嬉しくて、「別に待ってはいないけれど……ありがとう」と言って受け取るので精一杯だったのだ。
 今思い返すとちょっと冷たすぎる態度だったかなと思う。ネルはとても嬉しそうに笑顔を返してくれたけれど。
 びっくりした時にはいつもびっくりしていないふりをする癖があって、それが嬉しい驚きであってもついつい嬉しくないふりをしてしまう。悪い癖だなあ、と反省するようになったのはホルムに滞在するようになってからで、でもその癖も直らないままホルムを発ってしまった。
 草の上に座りこみ、月光にほんのりと照り返し光を放つような白い弓を見ながら、本当に嬉しかったのよ、と改めて思う。長弓はキレハの力よりも少し強めに仕上げてあって、これはネルが普段弓を使わないのと人より力が強いせいなのだろう。そのせいで結局しばらくした後、探索中に見つけた他の弓を使うことになったのだけれど――そしてその新しい弓は墓所での戦いで真っ二つに折ってしまったのだけれど。結局すべてが終わったあと、残っていた使える弓はこれ一本で、でもキレハはよかった、と思った。
 自分のために仲間が作ってくれた武器を持っていけるのは、幸せな旅立ちに思えたのだ。

 弓を手に見渡せば、この夜に視界を遮るものはない。
 どこまでもどこまでも草の海だ。
 雲ひとつない夜空は濃紺で、やけに高い場所に満月がかかっている。
 冷気の中で白く冴え渡る月を見上げるうち、今夜は冬至節だと気づく。
 一年で最も陽が低く夜が深く月が高い日だ。

 それにしてもなんという大きな月だろう。あんな高い場所で輝いているなら、地上どころか地の底からも見えるに違いない。
 小人たちや妖精族も、あるいはこの月を見ているのだろうか。
 それに彼と、彼の恋人も。
 ホルムはもう遠い。
 肩まで届く長弓を手に、長い髪の女が一人、草原に立ち、月を見上げている。

 東から吹き寄せる冷たい風に、さざなみのように草が揺れる。一面に広がる草原を、倒し揺らし濃淡のうねりを見せて、風が遠くへ渡っていく。
 キレハの髪とリボンも風に流れ音を立てた。
 夜の匂いと草のざわめきが空気に満ちている。
 腰まで届く草の中から満月を見あげていると、マルディリアを思い出す。でもあそこにはこのような草原はなかった。故郷の大地は荒涼たる眺めだ。マルディリアの土と雨と風は強く厳しく人を育てる。そう、大河に抱かれたネスの人々の柔らかさや伸びやかな明るさとは正反対だ。

 馴染んだ場所を遠く離れ、彼方まで来たことをふと自覚する。ふりむけば銀と灰色に揺れる草原に、己の影が黒く長く伸びている。

 たどりついたあの小さな町で、地の底と天空の果てまでを見たというのに、私はまだ自分の影を見つけていない。
 いや、一度は影らしき物をはっきりと感じたことがあった。
 小刻みに震える醜い異形の手をかたく両手で握られ、「俺はいつもきみに無理をさせちまうなあ」と悲しげな声でささやかれたあの時、古い血に荒れ狂う心の奥底に影の気配を、そう、獰猛で臆病な暗いものがさあっとどこかへ引いていくのを感じた。あの瞬間に両目を閉ざし己の心を見つめれば、影の手がかりを、あるいは影自身を得ることができたはずだ。
 でもそうする代わりに私は目をあげて彼を見た。彼を見た――倒れた私の側に跪き、鉤爪を物ともせずに手を握りしめてくれたあの人を。そこには私を優しく包み、受け入れてくれる微笑が待っている気がしたのだ。
 でも彼の赤い瞳は私ではなく太古の邪悪が潜む暗闇へとむけられていた。どこかにいる恋人の姿を探す必死な横顔は、私を受け入れるどころか、その存在すら気にかけてはいなかった。
 声をかけることすらできず目を伏せれば床の上には真っ二つに折れた魔法の弓が転がっていて、猛り狂った己がへし折ったことを思い出すまでに、頭の芯が痺れていたせいで少し時間がかかった。

 そろそろキャンプを張る時間だ。炉を組み火を起こし風を避け、温かな食事を用意すべきだ。昼間に収穫した冬の果実を煮込んで甘いスープを作ればいい。明日に備えて休むべきだ。明日も、明後日も、影を探し旅は続く。
 悲しみなど感じない。
 ただ血がざわめく。
 行け、駆けろ、もっと目指せ彼方の果てまでを。


 ふと弓を構えると、月に狙いを定め、矢を番えぬままきりきりと空弦を引いた。


 普通の矢では届くまい。
 魔法の矢があればあるいはと思うが、他愛もない空想にすぎない。しかし当たったらどうするのよとちょっと真剣に考えた。
 落ちてきた月はホルガーに拾ってきてもらえばいいのかしら。口にくわえて持って来れるのかな。あんなにぴかぴか輝いていて、高いところにあって、皆が憧れるような――もしも月が手に入ったら、あの冷たい輝きが影を払いのけ、それで私は幸せになれるのかしら。
 でも本当にそうかな?
 手元のお月様なんて、旅の邪魔になるんじゃない? いつかどこかで後悔しない? 何より、空を見上げて月がないことを、悲しむ人がたくさんいるんじゃないかしら。
 そろそろと構えた弓を下ろし、弦から手を離す。

『試し撃ち』で狙った木の葉は天空に近い梢にあり、一直線に飛んだ矢は見事にその葉を撃ち落とし、彼女を取り囲んだ仲間たちが、あの減らず口のシーフォンまでが両目を見開き口を開けて「おおーっ!」と声をあげる中、その声に煽られるようにキレハ自身も頬を染め、恥ずかしいのと照れくさいのとちょっぴり誇らしいのとでどんな顔をして何を言えばいいのかわからなくなり、途方に暮れて、とっさに彼の方を見た。
 仲間たちの中央で、キャシアスも派手に「おおーっ!」の顔をしていたけれど、目があうと実に嬉しそうに――キレハ本人よりも誇らしげな笑顔が浮かんでいて、そのせいでキレハの心臓は強く脈打った――言った。
「きみの腕なら、その気になれば月だって撃ち落とせるぜ」
 喜びに胸が震え、だがキャシアスの視線はすぐにそれ、「すごい、すごいです!」と声をあげ瞳を輝かせて拍手するフランに優しくむけられた。


 もちろんそうでしょう、と思う。
 その気になればきっと月だって射止められる。
 でも私はまだ旅の途中だ。
 痩せ細った太陽が一度死ぬこの夜、あの町を遠く離れたこの場所でようやく気づいた。私に今必要なのは、己の行き先を照らし、道標にと追いかけることのできる、天空に輝く月なのだ。
 私はもっと果てまで行こう。
 美しい故郷を離れ、天の高みと地の底を見たこの目で、世界のあらゆる景色を見よう。
 白く輝く月に照らされた遊牧民の女の唇には、いつのまにか、柔らかい大人びた微みが浮かんでいた。




end

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