キャシアス
アークフィア大河だ。
気がついた時にはそこに浮かび、波に押されていた。
背には水の感触だけがある。
薄く全天を覆った雲は、てらてらとした奇妙な光を放っていた。まるで蛇の腹のようだ。不安ばかりが募る空だ。真昼ではあるまいと思うが、朝なのか夕暮れなのか、さっぱりわからない。
顔を傾ければ、流れゆく水面はどこまでも暗く黒く濁り、波と波がぶつかる場所には白い泡が渦巻いている。周囲は白く霞み、対岸は見えなかった。
アークフィア大河だ、そうに決まっている。
このように水が流れる場所など、他にはないのだから。
水の冷たさに身震いするが嫌な感じではない。この水は<清浄>だ。そう直感する。全身に波をかぶり、口中に水を含む。足は着くのだろうかと思う。膝を曲げれば、思ったよりも浅い場所で踵が地面を捕らえる。立ち上がろうと思う。立ち上がる。やはり浅瀬だ。膝の下までを波が洗う。
灰色にうねりながら光る空、暗い水、そのすべてに靄がかかっている。水深からいえば岸は近いはずなのだが、河岸の景色は目に映らず、音や気配どころか木や土の匂いすらしなかった。ただ水だけがある。
溺れながら大分下流へ流されたのかもしれない。やはりここは慣れ親しんだアークフィア大河だと思う。
船もまだ来ぬ早朝、大河の水面には靄が立ち込めて不思議な静寂が周囲を満たす。この風景を子供の頃から繰り返し見てきた。誰もいない桟橋で釣り糸を垂らし、鼻の先すら見えないような濃いミルク色の霧に包まれていると、世界に自分一人だけしかいないような気がして、胸が締め付けられるような悲しさと奇妙に満ち足りた気持ちを同時に味わった。桟橋から突きだした両足を行儀悪くぶらぶらと揺らしながら(館の食堂でこんなことをすれば、母上かゼペックに叱られる)、よく夢想にふけったものだ。もしも誰かが通りかかっても、僕のことをただの影だと思うだろうな。父上や母上だってお気付きにはなるまい。僕は影だ。影法師だ。白色の中に揺れる染み、夜の暗闇の残滓、実体の伴わぬ薄っぺらな影にすぎない……。
それにしても随分遠くまで流された物だ。
誰の声もきこえない。
仲間たちは無事だろうか?
前へ進むひと足ごとに波がまとわりついてくる。
脛の周囲で白い泡を散らす。
仲間とは誰のことだったのか、無事を案じるようななにごとがあったのか、まったく思い出せないことに気付く。
しかし記憶の欠落に気付いても、動揺することはない。
(この場所には何も持ちこむことができないのだ)
知っている。
ここは生と死の狭間の場所であり、人々の心の奥底だ。
自分はなぜそのようなことを知っているのだろう。
いつ、どこで、誰にきいたのだろう?
波を割って進んでいく。
少し肌寒い。
この先には彼が待っている。
そう直感している。
頭は知識ゆえに間違い、体は経験のために失敗し、心は臆病さから怯むだろう。しかし魂は間違えることなどない。
ずっと待っている、そこにいる、僕を呼んでいた。
ようやく間違いが正され、そして初めて自分は解放されるのだと思う。
裁きの場へと足を運ぶ。
彼のもとへ。
その場所へ。
気がつくと涙を流している。恐怖のために声をあげて泣き、名を呼ぶが、誰も答えてはくれない。
魂だけがここにある。
振り向くことなく進んでいく。
end