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名前のない手帳

巨人の塔/テレージャ エメク

 出会ってから九ヶ月、巨人の王を倒した数日後だった。


  *


 ひばり亭で夕食の最中、テーブルに匙を置いたエメクがテレージャにむかって、僕も手帳を持っている、と言った。


 なんだって?
 手帳だよ。手帳。僕が死んだら燃やして欲しい、誰にも中身を見られたくない手帳。
 ああ。なるほど。
 あなたのノートのように。
 私のノートのように。


 雪山で吹雪が通り過ぎるのを待つ間、弱気になったテレージャは、白い革表紙のノートの処理をエメクに頼んだのだった。そもそもあのノートの存在自体が誰に打ち明けたこともない秘密で、あれを男性に任せるのはどうなのかという話なのだが、いくらなんでもその場にいたもう一人、エンダに頼むわけにもいくまい。下手をしたらノートを燃やすついでにひばり亭を全焼させてしまう。
 テレージャは理性の人だ。盲信はしない。だからもちろんこの田舎町の学僧がテレージャの願いを忘れてしまったり、あるいはノートの中身を覗き見する可能性があることは承知していた。それどころかじっくりこってり最初から最後までを目を通し、うわああこんなこと書いてたのかよあのキテレツ姫の不良巫女、ねえよ、これはねえわと盛大に引かせる可能性もあり、それどころか他の女の子とイチャイチャしながら(そうだこの無口で無表情で無感動で無慈悲な野暮男は、女の子たちに人気があった。彼は大衆の耳目を集める。親しくなった人々を魅了する。そう、彼女も魅了された一人で)(……なんだけど、私は実際、どうなのかなあ。と、テレージャは思う)(エメクくんのことは好きさ。シバ帝国の列柱廻廊のように、ヴァラの馬具の装飾留め金のように、北域王国の青銅の祭壇のようにね。彼は町の人々が思っているほど冷たい男ではなく、仲間たちが思っているほど熱い男でもない。信仰への疑念と大河神殿への不信。弱者への同情と共感と自己犠牲の精神、その一方で罪を犯す人々への残酷なまでの狭量さ。彼の内側には何かが存在する。土中に埋もれた古代の遺跡のように輪郭ははっきりしない、存在も危ぶまれる、しかし計り知れない価値を持つ、何かがね。もしかしたら私はそれに惹かれているのかもしれない。いやもっと単純な話で、彼が私を好きなのが手に取るようにわかるせいで、私は彼を好いているのかもね)、ごらん、これは昔僕のことを好きだった女の遺品さ。何が書いてあるのか一緒に見てみることにしよう。いいさ、遠慮しなくても、あの人はもう死んでいるんだから。死人の思惑なんて気にする必要はないよ――時折見え隠れする例の残酷な無邪気さでそう言い放ち、恋人を抱き寄せ、テレージャとテレージャの大切な思い出をまとめて笑いものにするかもしれない。想像すると、へこむなぁ。
 だが冷静に判断するにエメクはまずそんなことをしないだろうし、万が一されても、それでもいいさ、彼になら。と、あの雪洞で頼りない炎で精一杯体を温めようと苦労しながら、テレージャは思ったのだった。いやいや、しかし、生きて帰れて良かったよ。あの巨人は実に手強かった。それにしても私は遺跡を調査して歴史の謎を知ろうとやって来たのに、どういうわけか学者ではなく伝説の巨人殺し扱いだ。私のしたことなんて微々たるもの、ワイヤーで罠を作って巨人の親指やら小指やらを引っ掛けたり、仲間の怪我を魔法で癒したり、焦げた石をぶつけていただけなんだけどさ。
 本当の巨人殺しの英雄は、スープが冷めるのも構わずに腰に下げた道具袋の中を探っている。分厚い手帳を取り出し、そうっと卓上に置いた。


 これだよ。


 四隅がよれてページが折れ、表紙には水滴の染み、挟まったメモや紙切れでぱんぱんに膨らんだ革の手帳だ。テレージャは見覚えがあった。


 君がいつも持ち歩いているやつだね。よくメモしてる。
 うん、僕の冒険の手帳だ。なんでも書きとめている。ラバン爺の忠告、読んだ本の抜き書き、忘れてはいけない話。石碑の碑文や壁の落書きや、それに釣り上げた宝のメモも挟んである。テレージャが読んでくれた古代語の本の内容もね。僕の冒険の記録だ。あの日滝の洞窟を見つけてからの何もかもが、ここに書いてある。
 ふうん。偉いね。ちゃんと記録しているんだね。私は君のそういうところ、好きだよ。


 なんの気なしに漏らした本音だったが、エメクは一瞬彼女を凝視したあと、さっと目を伏せた。頬がうっすらと赤く染まっている。純情なのだ。テレージャはいつものようにエメクの反応に気付かないふりをした。真面目な学僧だ。今はただでさえややこしい状況なのだから、あまり彼を混乱させるべきではない。というのもあるし、テレージャの方でもどうすればいいのかよくわからないのだ。


 でもそれは、私のノートと違って、見られても困る物じゃないだろう?
 困るよ。他にも色々、書いてあるんだ。に……日記のような物が。


 ぎこちなくそう説明するうつむいた顔は年齢相応、いやずっと幼く見える。冷酷、と噂する連中に見せてやりたい。確かに時折残酷ではあるが、彼は普通の少年だ。普通よりも純情か。沼地でニョロの群れを追いかけて全滅させるのも、荒野にたむろする怪しげな魔女たちを叩き切ろうとするのも、神殿育ちの正義感と町を守ろうとする気持ちゆえだ。テレージャはそう思う。危うい、と頭の片隅で彼女の本能が警鐘を鳴らすがそれは無視する。お互いがお互いに抱く好意と同じように、あえて気付かないふりをする。ともかく、どちらにしても、私と彼は仲間なんだ。
 エメクは閉じたままの手帳の端をパラパラと指先で弾いた。気を取り直したように、それでね、と言う。


 それで、だから、僕が死んだらテレージャにこれを焼いて欲しいんだ。
 やめたまえ。私は好奇心の塊だよ。キューグの巫女であると同時に考古学の学徒だ。そこに記録があるとわかっているのに、中身を見ずに消滅させるなんて、とても無理だ。私が君なら私じゃなくてもっと別の誰かに頼むね。
 でもテレージャは、ノートのことを僕に頼んだじゃないか。
 そりゃあ、まあ。うん、痛いところをつくね。でもあのノートは記録じゃないし(まあ記録といえば記録なんだけどさ)、それに君は私と違って信頼できるもの。
 僕だってテレージャを信頼している。テレージャになら見られてもいいよ。テレージャなら仕方ない。大体、あなたは僕を信頼してくれたのに、同じことで僕があなたを頼らないなんて、不公平だ。

 ――君は本当に潔癖だな! いい加減でいいんだよ! こんなところでまで不公平だの公正だのを気にしてたら、先の人生で苦労するよ。


 エメクの白い顔にかすかな羞恥の表情が走り、テレージャの胸が鳴った。ちぇっ、かわいいんだからな。美形め。嫌になるよ。


 そうでしょうか。潔癖とかそういうことじゃないんだけど。ただ、僕はあなたがとても……いいえなんでもありません。とにかくテレージャにそういうことを言われると、僕は傷つきますね。


 と突然言葉が丁寧になったのは、つまり、拗ねたのだ。冗談だよ、とテレージャは笑い、それでもエメクが落ち込んだままの様子だったので(どこまで繊細なんだよ、クソ真面目め!)、


 わかった。いいよ、約束する、君に何かあったら私が責任を持ってその手帳を燃やそう。中は見ない。かわりに私に何かあった場合は、私の白い革表紙のノートを頼むよ。


 手を伸ばし、赤面したエメクが笑いながら抗議するまで、柔らかな髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜてやった。



  *


 それから十年ほどが経った。



  *


 その男が死んだという知らせは、ひと月ほど後になってからホルムに届いた。寒い冬の日だった。墳墓の建設のための徴兵の知らせにざわつく町の片隅で、帝国の瓦解の始まりをテレージャは静かに予想していた。妻を娶らなかった男は後継を残さなかった。それもいいだろう。大河から辺境へ追われた虎や狼たちがまた戻ってきて、憎しみと歓喜をこめて、十年かけて公平に残酷に均された帝国の屍肉を、千々に引き裂くことだろう。
 帝国の兵士たちは片腕の剣士を探していた。顎に傷のある両刀使いのばくち打ちを。背の高い、陰気な、大河神殿の残党を。彼らの首には驚くほど高額の賞金が掛けられていた。



  *


 それでもまだ一年ほど様子を見ていた。



  *


 崩御の知らせが反逆者どもを釣る餌でも全土で急速に勢力を伸ばしつつあるメトセラ教徒を炙り出す罠でもなく、本物の、間違いのない、確実な出来事だと確信するまで、テレージャは何もせず、それまでと同じように、ただじっと隠れ続けていた。彼が死んでから一年と一ヶ月が経ったその日、つまり出会ってから十一年と十ヶ月の後、テレージャは隠れ家を出て元は至聖所があった場所から河原に下り、アークフィア大河へと入っていった。彼と出会ったあの日と同じように気持ちのいい晴れた朝だった。水の冷たさにもひるむことなく歩を進め膝までを濡らし、河の流れが岸辺ではなく下流へと向かう場所まで来ると、立ち止まり、彼が軍隊を率いて町を出る前に盗みとったあの手帳をめくり、びりびりに引き裂いた。一枚、一枚、中を見ることなく丁寧に破り取った。水の冷たさにたちまち全身が氷のように冷え、噛み締めていた歯がカチカチと鳴りだした。それでも破り捨てた。ページをめくるたびに自分の名前が何度も、何度も、何度も目に入ったが、かじかんだ手を休めなかった。少年の冒険の手帳は、真冬の風に吹かれ、アークフィア大河の澄んだ流れに白い花びらのように散った。端正な字もそこに書かれた冒険と日常のすべての記録も、今ではすべて失われた物だった。他の様々な希望と同じように。私は彼の書く文字すら好きだったとテレージャは思い、視界がかすんだので不思議な気持ちになったのだが、すぐにそれが涙のせいだと気づいた。




 あの暴君のために流す涙が残っているなんて思ってもみなかったので、自分が泣いていることに、テレージャは驚いた。





end

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