TOP>TEXT>SS>牙の先触れ

牙の先触れ

大河物語

 
 冬の嵐は吹雪となって山を覆った。積雪は岩肌と木々を一面の白に染め、雲は空を黒く覆い、風は夜を灰色に切り裂いた。

 雪上に一列、赤い血の痕をつけながら、よろめき、歩いていた。男はもう死ぬところだ。杖がわりに体を支える斧の刃先は欠けており、もう使い物にはならない。男の妻が縫った綿の詰まった分厚い外套は背中から腰にかけてぱっくりと切り裂かれ、血で赤く染まっている。破れた布地は雪が混じる横殴りの風に煽られて重くはためいていた。男の腰の骨は砕け、男の腹の肉は破れ、男の臓物はこぼれている。並の人間なら二度絶命してもおかしくない傷であったが、山で生まれ山で育った男の体は、頑健だった。樵であり炭焼きであり狩人であり山羊飼いでもある男は、この吹雪の中、山腹へ至る道を正確に辿っていた。脛の半ばまで埋まる雪をかき分け、一歩、また一歩、血を流し、しかし止まることなく前進する。

 風がまた勢いを増した。
 白く染まる視界の果てに、山小屋の温かな光の点が見えた。――男は、ああ、と喉の奥で歓喜の声をあげた。あそこに行けば仲間がいる。傷の手当てを、いや、そうではない、手当てなどもう遅い、他の人間にあのことを伝えられる。あれを伝えなければ死んでも死にきれない。自分の死などどうということもないのだ、なぜならこれから先、もっとたくさんの、容赦のない、残酷で徹底した死がこの地に訪れる。彼の父祖たちが愛し守ってきたこの山に、彼の妻が育ったあの里に、狂える血に駆り立てられた、残虐な死が! 仲間たちに警告しなければ……。一歩、一歩――しかしちらつく光の点は一向に大きくならない。それもそのはず、いつのまにか男は雪の上に倒れ伏している。雪中で虚しく両足がもがく。立ち上がることができない。腹だけがひどく熱い。せめてひと声だけでもと口をあけるが、口中に満ちた血がぼたぼたとこぼれ、雪に染みただけだった。
 ――狩りだ。狩りがはじまった。『牙の狩り』が、今年はこの山で始まった……。馬を走らせ逃げろ、犬とともに逃げろ、羊たちを追って山を降りろ。
 目の前が暗くなる。仲間たちの顔が浮かび、山々の景色が浮かび、家で男を待つ妻と幼い娘の顔が浮かぶ。だが最後に浮かんだのは、吹きすさぶ雪の中、山頂に立つ、巨大な、それ自身が発光しているかのような冷たい銀色の毛をした、一匹の狼の姿であった。


end

TOP>TEXT>SS>牙の先触れ