合戦前/ゼペック カムール
夜が明けたあともホルムの空は灰色の雲に覆われていた。
昔は二段飛ばしで駆けのぼった尖塔の階段を、ゼペックは一段、一段、ゆっくりと上がっていった。体重も年齢も、この館に来た時の倍に増えた。若い頃のようには行かない。たどり着いた最上階の窓から西の丘を眺めたときには、温厚な執事ではなく老練な兵士の表情になっていた。
この季節、いつもなら金色の麦に覆われる農地に、寒々しい枯れた草と灰色の土が広がっている。ネスの兵士たちはその荒れた土地に、寂しく陣を布いていた。
テオル公子の鉄騎兵は、この距離からでも一際目立った。丘の上に鎮座する破城槌にも似た禍々しい黒鉄の固まり、蒸気で動く鉄の棺。火車騎士団たちが蟻のように群がっている。若者たちの白銀の鎧は、ホルムの空を映して灰色に曇っていた。
雨が降らなければいい。
雨が降れば戦は荒れる。
どんな天候であろうと鉄騎兵は問題なく前進する。そして貴君らの想像を上回り、市民が期待する通りの戦果を上げるだろう――戻ってきたテオル公子は以前と変わらぬ曇りのない笑顔と傲然たる態度でそう断言したが、ゼペックは公子の言葉や彼の魅力を、以前ほどは信用していなかった。
ゼペックは、若い公子とさらに若い彼の騎士たちが、勝ちを確信して戦に臨むことを恐れた。慢心は敗北を呼ぶ。
三十年前、公国への反旗を翻し西シーウァに味方するのを決めた時、ゼペックは勝つつもりでいた。追い詰められた末のあの決断が愚かだったとは思わないが、勝てる、そう信じた時点で驕りがあったのは確かだ。
ゼペックの将としての最後の戦は、敗北で終わった。
レンデュームからは多くの死者が出た。
慢心とはほど遠いゼペックの主は、キャシアスを伴って出かけ、一人で館へ戻って来た。
キャシアスはおそらくまた遺跡へ行ったのだろう。
テオル公子と共にホルムを奪還したあとも、キャシアスは勝利に酔って最初の目的を忘れることもなく、遺跡の探索を続けている。フランが報告するところによると、一癖も二癖もある探索者たちをよくまとめ、身分など帽子の飾り程度にしか思わぬ荒くれたちにすら一目置かれているという。遺跡では怪物たちを倒し、ホルム領内の村々を救い、囚われたカムールを救い出し、グリムワルド家の嫡子としてホルムの騎士として、誇るべき働きぶりであった。
つまりキャシアスは、カムールの期待に、ここでもよく応えていた。
「テオル公子は?」
いつものように広間で主人を出迎えたゼペックに、カムールはまず公子の動向を尋ねた。
「公子は火車騎士団と丘へ。鉄騎兵に最後の整備が必要なので、今日は野営するとおっしゃっていましたな」
「北部からの援軍はどうだ。伝令への返事はあったか」
ゼペックが黙って首を横に振ると、カムールは小さくため息をついた。
「戦将バルスムス率いる聖杯騎士団とパーシャ王女が鍛え上げた西シーウァ軍の精鋭を相手に、この数か」
敵軍との兵数に大きな差はないが、公子と彼が率いてきた諸侯にとって、ホルムは戦のたびに色を塗り変えられる地図の一部に過ぎない。彼らは自軍の被害を最小限に食い止めることに集中するはずだ。ネスの諸侯の繋がりの脆弱さは、テオル公子が指摘するとおりであった。
大広間の階段を上がって踊り場に立ち、兵士たちに声が届かなくなったところで、カムールが言った。
「先程、あれとの約束を破った」
「……キャシアス様ですかな?」
「妻だ」
カムールの横顔は、この城の地下牢に囚われていた時よりも苦しげに見えた。それでゼペックは、伯爵が彼の愛する息子に、出生の秘密を告げたことを知った。
「あの日は晴れておりましたな」
ゼペックの声に、カムールが振りむいた。
「奥方様が、キャシアス様をお連れになった日です」
「そうだったかな。天気のことなど忘れてしまった」
「晴天でした。赤ん坊の服を用意するよう奥様に命じられて、中庭を走って女中たちを呼びに行きましたので、よく覚えております。幸福そうに笑っておられました――キャシアス様も、奥方様も」
カムールの目が階下の広間へと向かった。
館は人が減った。駐屯していた兵士たちは砦や国境へと回されている。窓から差し込むぼんやりとした光だけは相変わらずだ。
あの日はもっと明るい光が、この広間を満たしていた。濡れたドレスの裾をからげて駆け込んできた奥方様や、彼女の腕の中で幸福そうな笑い声をあげていた赤ん坊や、その声につられて城館のあちこちから集まってきた人々や、ゼペックはここで繰り広げられた幸福な光景を、隈なく思い出すことができた。水に濡れた小さな裸の赤ん坊は、窓からの光に手を伸ばし、楽しそうに笑っていた。
がらんとした大広間を見下ろすカムールの表情がやわらいだ。
「キャシアスが色々な物を見つけてくるのは、考えてみれば、妻譲りだな」
「勇敢なのはお館様に似ておられる。ご立派になられました」
主人を喜ばせるためばかりではなく、領主一家に仕えてきた歳月の分の静かな誇りをこめて、ゼペックは言った。
「自慢の息子だ」
カムールは噛みしめるようにそうつぶやいた。
午後になって、主従は館を出た。
カムールだけでなくゼペックも、甲冑とサーコートで身支度を整えていた。
ホルムの上空を覆っていた灰色の雲は南で途切れ、雲の隙間から伸びた幾筋もの金色の光が、天と大河を繋いでいる。この春からの短い間に町の様子はずいぶん変わったが、大河や森や丘や草地は、ゼペックがホルムの騎士ではなく、レンデュームの領主だった頃と変わらぬ姿であった。
キャシアスもフランもいなかった当時のことを思い出し、ゼペックはしばらく、眼下の町を見下ろしていた。横に立つ彼の主人、かつては敵の将であった男が言った。
「ホルムは美しい町だな」
「さようでございますな」
ホルムの老騎士は、三十年変わらぬ口調で答えた。
end