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だれ?だれ?

墓所 / 顔3フィー

 大丈夫。大丈夫よ。安心してね。そうじゃないから。違う、違う、違うのよ。
 冷たく長い影を踏みながら、首に巻いた毛皮に赤くなった鼻先を埋め、涙をこらえて、一生懸命、駆けて、駆けながら、外套の裾をぬかるんだ雪と泥に汚して、繰り返し、繰り返し、頭のなかで、言いたかったのに言えなかったことを、思っている。
 夜の森は怖い。葉を落とした木々の枝は悲鳴のようにねじれて、絡まりあったいやらしい影を、フィーの行く手に落としている。冷たい風が、毛皮の帽子と襟巻きの間に覗く、フィーの顔を、ぱしんぱしん、容赦なく叩いて、ゆさゆさ、ゆらゆら、がたがたと、頭上で木々の枝を揺らす。真冬なのに、真っ白いふくろうが、だれ? だれ? と叫んでる。
 だれ? だれ?
 あの白い肌の子はだあれ?
 この町の、誰とも違う、あの子はだれなの?
 大丈夫。ほんとに大丈夫なの。
 口の中で繰り返す。
 ほんとのほんとに怖くないの、こんな肌と目の色だけど、あたしは皆と同じなの。
 お家に帰ったら、デネロス先生に話そうと思う。
 暖炉の前で、赤い部屋履きを履いて、毛布にくるまって、銅の鍋で温めた山羊の乳を、フィーの小さなコップに注いで、先生の大きなコップにも注いで、両手で持ったら指先がぬくもる、そうして、暖炉の側まで動かしてきた、椅子に座った先生の、膝にもたれて、薪の上で踊る炎を、ぱっ、ぱっ、と散らばる金の火の粉を、壁や棚の上で揺れる焔の影を、きらきら輝く薬の瓶や壷を、曇った窓ガラスに張り付いた霜を、外の森では、木枯らしが鳴き、でもあたしのお家は暖かだ、見つめながら、耳を澄ませて、小さな声で、先生に、いつものようにお話しするんだ。
 大丈夫よ。
 デネロス先生は、きっともうお酒を飲んでて、赤ら顔。手を伸ばして、毛皮の上に座りこんだあたしに、固くなったパイの切れ端を渡してくれる。
 これをお食べ、フィー。
 そうして、おまえ、泣くのはおやめ。
 泣いてもいいことなんぞない。
 また町の子に、いじめられでもしたのかね?

 
 違う、違う、違うの先生、大丈夫、あたしはちっとも泣いてない。
 先生、今日、とてもいやなことがあったんだけど、あたしは泣かなかったんです。ぐっと唇を噛んで、頭をあげて、背を伸ばして、まっすぐ前を見ていたんです。なんてことない、顔をしていました。いつもみたいに、平気な顔で、あたしは河を見てたんです。
 デネロス先生!
 なぐさめは、けっこうです。
 大丈夫。嘘じゃなくて、大丈夫。
 夜の森なんて、怖くない。背中がぞくぞくして、心臓がどきどきしているのは、うなじがちりちりしてるのは、寒い、暗い、夜のせいでも、吹きすさぶ風のせいでもありません。あたしのことを右も左もわからぬ子供と思って、そう扱って、そう心配するのはやめてください。いなくなっても探しちゃ駄目です。





 あたしは、今日、自分が誰だか知りました。





 先生、この地面の下に、あたしを産んだ、おかあさんが、おとうさんが、あにが、あねが、いたのです。叔父、叔母、曽祖父、彼らは、ああ、なんて白い髪、白い肌、真っ赤な目、きもちがわるい、子供のころ、あたしが町の子にからかわれたら、ネルや、パリスや、先生や、みんながみんな、口をそろえて、「フィーは全然、おかしくなんかない、大丈夫だよ、大丈夫」そう言ってくれたのだけれど、今日わかった、みんなは偉い、とても偉い、あたしはちっとも偉くない、だってあたしは、血のつながりのあるあたしの一族が、あたしによく似たあの人たちが両手を広げて御子よと呼びかけて、彼らの輝くような笑顔、純粋な歓喜、それに我慢ができなくて、ああ、なんて気持ちの悪い、心の底からそう思ったのです。
 あたしはいつも、辛いことがあれば、あたしが流されてきたという、どうどうと流れる輝く河のほとりに立ち、彼方の上流を眺め、あたしのおかあさん、おとうさんはどんな人だろう、いつかあたしを迎えに来てくれるのだろうかと考えていました。彼らもきっと、辛くて苦しくて悲しくて、なぜ自分は生きているのだろう、自分の命に悩んだ日には、どうどうと流れる暗い河のほとりに立ち、赤ん坊のあたしを運んでいった流れの果てを眺め、御子はどんな子になっているのだろう、いつ自分たちを迎えに来てくれるのだろうかと考えて、その時の彼らの胸の焦がれまであたしには容易に想像できて、もしかしたら地上と、地下とで、同じ位置に立ち、同じ日に、同時に涙を流したことまであるかもしれず、互いに知らぬまま互いを思っていたこともあるやもしれぬ、ああ、それなのに、あたしはあたしがタイタスの、あの皇帝の血の絆、こんなにも鎖、重たく、ジャラジャラと、奴隷たちの足枷焼印を羨む日が来ようとは!

 先生、でもあたしは、泣かなかったのです。
 本当は、泣きたかった。
 嘘、嘘、嘘って大声で叫んで、ちっとも大丈夫なんかじゃなかった。

 本当は、ふりむいて、違う、違うの、大丈夫、大丈夫なのよあたしはあんたと同じなの、お願いだから怖がらないで、安心してね、だれでもない、御子なんかじゃない、だれかじゃない、あたしはフィー!
 大声で、すがりついて、そしたらぎゅっと抱きしめられて、大丈夫、わかってる、よしよしかわいそうに! 傷ついたんだね、たくさん泣けばいい! もしもそう慰めてくれる人がいるなら、あたしはきっと、泣いていました。たくさん泣いて、かわいらしい、かわいげのある、かわいそうな、ただのフィーになっていた。

 絶対、泣いたりできない、意地っぱり、強情、無口なくせに我がままで、いつもそう、それがフィー、なんてことない顔していたんです。今日あたしは、泣いたりしなかった、泣いたら馬鹿にされると思った、あの子に馬鹿にされたくない、そう思って、それだけを頼りに、あたしはいつもの顔をして、水路を見つめていたのです。
 胸を掻き毟り、心臓を押し潰してしまいたかった、でも両手を握りしめていました。泣き崩れるかわりに、唇を結んでいました。ええ、眼差しを伏せることすらしなかった。走って逃げはしたけれど、自分で足を止めました。
 泣かずに前を向きました。
 あたしはあの子の目の前で、己の運命にたじろぎ、うろたえ、傷ついたところを見せるくらいなら、死んだ方がマシだと思ったのです!




 ――暗い森の先に小さな明かりが見えた。煙突から立ち昇る細い白い煙は星が輝く夜空になびき、庵の暖炉ではすでに夕餉の用意が整っていることを、彼女を慰め、厳しく諌め、導いてくれる人がそこにいることを、一人ぼっちの少女に教えた。師の待つ懐かしい我が家の扉に触れた瞬間、フィーの指先に電気が走り、この小屋はもう燃やされて、暖炉も、子供の頃から毎日使っていた大好きなコップも、部屋履きも毛布も薬瓶も、それどころかデネロス先生すら、失われたことを思い出した。
「あっ、これ、夢だ! あたし、眠ってるんだ!」
 思わず口に出して、言った。するとフィーの言葉が力あるまじないであったかのように、夢の中の空気が震え、扉も、小屋も、明かりも、煙も、森も、夜も、冷たさも、すべてが細かな灰になって崩れ落ちた。




end

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