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双晶

エンド後/チュナ エメク

 神殿中を歩きまわった最後にようやく、チュナは礼拝堂の長椅子の上で、のんきに眠っているエメクを発見した。
 祭具室の掃除をしに行ったはずがなぜここに。
 それまで心配していた反動でがっくり来る。
 巫女長様が探してるよ、さっさと起きなよ! 元気よく遠慮なくそう言って叩き起こすつもりだったのに、仰向けになったエメクの寝顔があまりにも静かだったせいで、チュナは柄にもなく神妙な気持ちになり、足音を殺して、そーっと近づいて行ったのだった。
 すぐ側でチュナが立ち止まっても、若い学僧は身じろぎすらしなかった。
 人の気配に敏感なエメクらしからぬこのありさまにまたしても不安になり、枕元に立ったチュナは、彼の寝顔を逆さに覗き込んだ。
 神殿の屋根や中庭の草木や土にぱらぱらと水滴が当たる音が聞こえる。
 礼拝堂にも回廊にも人の気配はない。
 ホルムは雨の午後だ。

 回廊の太い柱の向こうで、幾万もの細い糸のような銀の雨が、天と地上を繋いでいる。
 ひんやりと湿った礼拝堂の薄闇の中で、エメクの真っ白な顔は、いつにも増して死人めいて見えた。
 以前のエメクは、冬にすら日差しを避けて神殿の奥で分厚い本のページをめくる、無口で影の薄い、ほっそりとした、生命力の希薄な青年であった。静かな声で話し、少し動けばすぐに息を切らし、酒場や祭りや若い娘たちや賭博や、若者が夢中になるあらゆることから離れたところに身を置いていた。騒々しくがさつな下町に暮らすチュナは、そんなエメクをどうにも頼りないと思う一方、頭のいい、変わった、自分とは違う人なのだと思っていた。パリスやネルのような若者たちや、いやそれを言うなら同じ神職にある巫女長のアダとも違って、いつも生真面目な表情を浮かべるエメクは、白い肌や髪のせいばかりでなく、なにかが、どこかが――。
 でもチュナが長い眠りから目覚めてみると、びっくりするような長い時間が過ぎていて、エメクはホルムの町と同じように、すっかり変わってしまっていた。
 今のエメクは、チュナの記憶のそれよりも一回り太くなった腕を伸ばし、重い荷物をひょいと片手で持ち上げる。通りで大声をあげて知人(色んな人。チュナの知らない人。外国から来た綺麗な女の人たち)を呼び止め、ひばり亭のカウンターに寄りかかって慣れた仕草で酒を飲み、頭をのけぞらせて明るい声で笑う。でもだからといって、あの物憂げな表情や静かな眼差しは消え去ってしまったわけではない。そういうのは、エメクの奥の方に、しゅるしゅるっと隠れてしまっただけなのだ。
 見事なまでに相変わらずなパリス兄さんや、鍛冶屋でテッペンとったる! と気合いの入ったネルや、家々が建てこんですっかり様変わりしたホルムの町には目覚めて三日で慣れたのに、チュナは、エメクの変化にだけはまだ慣れずにいる。
 一度だけ、パリス兄さんと二人の時に、エメクは別の人になったみたいだねとつぶやいたことがある。へへへといつものだらしない笑顔を浮かべた兄さんは、
「色々あんだよ」
 チュナの頭をくしゃりと撫でて、そう言った。

 もっと、もっと、近くまで!
 こぼれ落ちる髪の毛がエメクの顔にかからないように注意しながら、薄く開いた唇に、自分の耳を近づける。
 生温い吐息が耳元をくすぐった。雨だれの音を縫って、安らかな息の音が聞こえてくる。
 大丈夫、普通に眠っているだけだ。
 チュナは安心した。
 それから、いくらなんでも顔が近すぎるのに気づく。慌てて体を引いたが、その前に、瞬きひとつ分の間、エメクの顔を息のかかる間近な距離で凝視してしまった。
 二歩後ずさったら長椅子に足がぶつかったので、チュナは、そのままそこにすとんと腰をおろした。
 慌てて動いたせいか心臓が駆け足、とてもどきどきいっている。
 悪いことをしてしまった! なぜかそう思う。目を閉じたエメクの横顔なんて、ホルム中の人たちと一緒に、礼拝のたびに、しょっちゅう見ているのだけれど。祭壇に向かって祈りを捧げるエメクは、いつもそれなりに立派そうな雰囲気を漂わせている。でも、正面から見た寝顔は、以前と同じように子供っぽく無防備で、とても――どういうわけかどきどきが収まらない。うまく頭が回らない――とても、とても――えーと、そう、とても、間抜けだった!
 チュナは息を吸いこんで、
「もうっ、だらしないんだから!」
 と、わざと大きな声を出した。
 エメクは目覚めなかった。
 まったくもう。
 これがパリス兄さんなら蹴飛ばして起こしてやるんだけどな。

 長椅子の端からだらしなくぶら下がったエメクの右手の親指の付け根には、以前はなかった硬い豆ができている。
 チュナは、自分の両手をぴんと伸ばし、空に掲げてみた。
 鶏の足みたいな細い腕だ。
 肘の小さな窪みまで毎日きちんと洗っていることや、ほっそりした爪の形なども鑑み、思い切り甘めに採点してみたが、それでも『子供丸出し』という感想しかでない。
 八ヶ月前と比べて、なにひとつ変化がないように見える自分の体に、チュナはがっかりした。
 寝台でぐうぐう寝ている間に、同じ年頃の子供たちに置いていかれてしまったような気がする。エメクは前はもっとひょろっとしていたのに今はこんなにも差がってええっとおかしいな、エメクは別に同い年じゃないしそもそももう子供でもないし、置いていかれるも何も、元から並んではいないよね。そのはずだよね?

「つまんないの」
 ぼそりとつぶやいたら、笑い声がした。
 ぎょっとして振りむくと、さっきと同じ姿勢で両目を閉じたままのエメクが、小さな笑みを浮かべていた。
「起きるの遅いよ! もう、鈍いんだから!」
 ひとりごとを聞かれた恥ずかしさにとっさにきつい声を出すと、「遅くないよ」とエメクが答える。
「チュナちゃんが礼拝堂に入ってきた時から、目は覚めていた」
「ええっ、なにそれ! ならとっとと起きなよ!」
 真っ赤になってチュナが叫ぶと、エメクは綴じた瞼の下で微笑を広げ、「ごめんごめん」と謝罪する。
「そのつもりだったんだけど、公平じゃないなと思ってさ」
「公平?」
「僕はチュナちゃんの寝顔を毎日散々見ていたのに、チュナちゃんは僕の寝顔を見たことがない」
「……意味がわからないんですけど。でも散々見られたのはちょっと、ううう、嫌だ」
「うんごめん。だからさ、まあゆっくり見ておいてよ」
 エメクはチュナの方に寝返りを打った。でも別にそんなに見たいわけでは……と思うのに、つい、じーっと凝視してしまう。あ、エメクだ、と思った。ほっとして、とたんに気が楽になった。
「あのね、眠り病だったらどうしようって心配したんだからね」
「チュナちゃんは心配性だな」
「バカ兄貴に苦労してるせいだよ」
「パリスはチュナちゃんの眠り病を治すためにずっと頑張っていたよ。バカじゃない人たちが諦めたあとも」
 チュナはひとつため息をついた。
「うん、知ってる」


 パリス兄さんは全然変わってないみたいだけど、本当の本当は、そうでもないのだ。


「エメクも変わったね」
「そうかな。同じだよ。ありがたいことに、僕は僕のままだ」
「変わったよ。あーあ、嫌になっちゃうな。わたしだけ成長していない」
 エメクがまたひっそりと笑い声をあげた。雨は激しくなったのに、さっきまで肌寒かった礼拝堂は、少し温度が上がったようだ。
「チュナちゃんは、心配性なうえに点が辛い」
「エメク!」
「なんだい」
「わたし、神殿のお仕事頑張るからね。ご飯もたくさん食べて、さっさと大人になるからね。だからちゃんと一緒にいてくれなきゃ駄目だよ」
 何も考えずにそう言ってしまってから、おかしなというよりちょっと物凄いお願いをしてしまったような気がしたけれど、ようやく目を開けたエメクは、全然びっくりした顔をしていなかった。チュナを見つめながら、チュナがずっと昔から好きなとても真面目な口調で、
「わかった、約束する」
 そう答える。



end

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