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ホルムは夏日

ひんやりばしゃん!ざわざわくらい
(おまけ)それから、あつい


 

「ひんやり」
グッドエンド後/フラン キャシアス

 エルンデューム伯の到着を控えた夏の朝、館の台所は地獄の暑さと戦場の熱気に包まれていた。
 五つある竈のすべてに今日は火が入れられ、並んだ鍋からもうもうと湯気がたっている。奈落の小鬼すら裸足で逃げ出す熱気の中、料理人と使用人たちは汗まみれになって、食事の準備に大わらわだった。
 ジャージャー跳ねる油やカンカンぶつかりあう鉄の音、床のおが屑をキュッキュと踏む靴音、料理人の怒鳴り声――北側の壁に押し付けられた長いテーブルの上には、食料庫から運ばれてきた食材が、次々と積み上げられていく。野菜と肉、大鉢に盛られた肉団子と粥、塩漬けの魚、鶏の皮から滴り落ちる金色の油、中央の作業台には香菜がまぶされた巨大な魚が刻まれて、大蒜と葉芹、生姜と肉桂、野菜のスープ、丸いパイ細長いパイ、大麦の茶色いパン小麦の白いパン、瓶の中でつやつやと光る発酵した川魚の内蔵、茹でた黄色いカボチャと緑の豆はすり潰され、打ち粉をふった板の上で次々と丸められていく――これらのすべてが、エルンデューム伯一行にふるまわれる、『ホルムらしく質実剛健で簡素、それでいて美味、量には不足なく喜びに際限のない、伯爵から馬丁まで全員が自分たちへの歓迎と敬意を感じ取り、同時にホルムへ羨望を覚え、圧倒されるような』大御馳走のための大騒ぎなのだった!
 フランは他の使用人たちと同じように、エプロンどころか女中服と肌着までを汗と湯気でどろどろにして、忙しく料理を手伝っていた。
 若い料理人に命じられた通り太い鉄串に刺した肉の塊を炉に並べ、どうも火力が足りない気がして、炭をもっと足しておこうかなと気をきかせかけたちょうどその時、料理長の「フラン!」という怒鳴り声が、台所の喧騒を切り裂いて響き渡ったのだった。
「フラン! フランはどこだ? まさか台所のどこかで気をきかせてるわけじゃあるまいな!?」
 スコップから手を離してぴょこんと立ち上がったフランに向かって、部屋の反対の端にいる料理長が、三段に重ねたプディングの頂上に小さな花形の菓子を飾りながら怒鳴った。
「おまえは氷室から氷を持って来い! たっぷりだ!」
「はい、すぐに!」
 元気よく返事をして竈から離れたフランの背に、料理長のがなり声がぶつかってきた。
「ゆっくりしてきていいぞ――肉が焼き上がるまではな!」
 台所中の人々が、うんうん、と無言で頷いた。
 廊下に出ると、喧騒も暑さもぐっとましになる。
 汗だくの額をポケットからだした手巾でぬぐい、フランはほっと息を吐いた。熱にぼうっとしていた頭が少しましになったようだ。料理長や皆様はなんて親切なのだろうと改めて感動しつつ、城の地下へと足を向けた。

 岩山の広間へと伸びる石段は、何百年も踏まれ続けて真ん中がすり減り、なだらかに窪んでいる。ランタンを手に階段をあがっていけば、一段ごとに肌に触れる空気が涼しくなっていくのを感じた。天然の洞窟を拡張した岩山の広間に灯火が灯っているところを、フランは今まで一度も見たことがなかった。
 広間の奥の氷室からは、青白い光が漏れていた。
 それに気づいたフランは一瞬、歩調を緩め、それからわざと足音を響かせて、氷室に近づいていった。
 重い木の扉を押し開くと、ひんやりとした空気が押し寄せてくる。床には厚く清潔な藁が敷かれ、巨大な四角い氷が、左右の壁沿いに積み上げられている。フランがランタンを掲げると、油を吸った灯芯に灯るオレンジの光と、氷室の奥から漏れる青白い魔法の光が混じりあい、氷塊の濡れた表面を輝かせた。
 魔法の明かりを灯せるのは、城内に一人だけだ。
 ただしその人物は、エルンデューム伯との会見に備えて、執務室でゼペックからネス南部の政治情勢についての講義を受けているはずなのだが……。
「キャシアス様?」
 フランが呼びかけると、氷室の奥で小さな咳の音がした。フランは急いでそちらへ近づいていった。
 ホルム伯キャシアス卿はランタンを側に置き、冷気が沈む氷と壁のあいだにしゃがみこんで、子供のように膝を抱えていた。
 寒さに震えながら、「やあ、フラン」と、驚いたようすもなく挨拶してくる。フランが自分の居場所を把握しているのは、当然のことだと思っているようだった。
「伯爵が到着した?」
「いいえ、まだです。あたしは料理長に言われて氷を取りに。キャシアス様はここで何を?」
「なんだと思う?」
「えっ? えっと……涼んでらっしゃる……んじゃないですよね」
「涼しいよ、すごく」
「もしかして、逃げてこられたんでしょうか?」
 フランは少しだけ遠慮がちに、きいてみた。
「エルンデューム伯領についての“予習”がお嫌で」
「半分だけ当たり。ゼペックがいざとなったらお助けしますよと言って、早めに終了してくれた――あんまりにも僕の飲み込みが悪いものでね」
 とても重々しい口調で情けないことを口にして、ホルム伯はがっくりと肩を落とす。
「あー、くそ、会いたくないなあ。伯爵はよぼよぼの年寄りだけど、物凄い切れ者だって噂だぜ。僕のことを、ホルムの小僧、と呼んでいるらしい。小僧、だってよ」
「キャシアス様は小僧なんかじゃありません」
「ゼペックによればだよ、父上がお若い頃も歳をお召になってからも、やっぱりホルムの小僧、と呼ばれていたらしい」
 表情には出さぬまま、フランはさすがにむっとした。離れた他領での嘲笑が、この城にまで届いているのが――主人を侮辱されたことはもちろん、噂の伝播が意図的な物である可能性を踏まえ――大変、不快だった。
 カムール様はもちろん、キャシアス様も、誰にだって誇れるホルムの主だと思う。
 キャシアスがおいでおいでと手招き、しゃがみこんだフランの頭をぐりぐりと撫でた。冷たい指が心地よかった。落ち着け、と言われたような気がして、撫でられるのが嬉しいのと同時に恥ずかしくなる。最後に前髪をかきあげ、フランの熱をはかるように、掌を額に押し当てた。
「冷たい?」
「とっても」
「よし、なら、そろそろいいか」
 フランから手を離すと、尻についた藁屑を払い、キャシアスが立ち上がった。すっかり血の気の引いた顔でフランを見下ろした。
「冷酷そうに見えるかい?」
「寒そうです」
 思ったままを答えてから、ホルム伯の家臣の目で彼を見た。
「顔色が悪いせいで、いつもより、お体が弱そうに見えます」
 そう言い足すと、キャシアスはがっくりと肩を落とした。
「……参ったね。冷酷、は無理でも冷静には見えて欲しいんだけどね。堂々たる態度。暑い夏でも、汗ひとつかかない。切れ者。そういう風に見られないと」
 人が聞けばきっと、子供っぽい馬鹿げた思いつきだと笑うだろう。だがフランはこくこくと頷いて、キャシアスの行動力に敬意と同意だけを示した。
 キャシアスは盛大にため息をついた。「ホルムの小僧」と憂鬱そうに付け足す。
「キャシアス様は、ご立派です」
 カムール様のように、と言いかけた言葉をフランは途中で飲み込んだ。キャシアスはキャシアスだ。
「だといいんだけどね。さ、行きますか」
「あ、えっと、キャシアス様」
 フランは服の裾をつかみ、キャシアスを引き止めた。仕事中にこういうことはなしにしようと二人で決めたのだが、「えと……失礼しますね」と断り、向き直ったキャシアスの頬骨の下にキスをした。ひんやりとした真っ白い肌から唇を離すと、キャシアスがフランの頬にキスを返した。ぽんぽんと背を叩かれ、
「心配するな。大丈夫だ」
 耳元で囁かれた。
 そう言われたとたん、自分が不安だったことに気がついた。励ましたつもりが励まされてしまった、いつものように。信頼が足りない自分が恥ずかしくなる。こんなことではいけないと思う。
「どうか落ち着いて」
「頑張ってくるよ。舐められないようにね」
 気負う風もなくキャシアスが答えた。人差し指を曲げて指の間接をフランの唇に軽く押し当て、少し熱くなっちゃったな、と笑う。キスのせいですか? うん、キスのせいだ。
 婚約者の唇から手を離すと、若いホルム伯は表情を改めた。伯爵領を治めるため、なんでもすると誓った若者は、そうやって肩の力を抜き胸を張り、堂々たる態度で、ひんやりと静かな部屋を出て、暑いホルムの夏へと戻っていく。


 

「ばしゃん!」
大廃墟/ネル ヴァン

 空気は熱の塊だ。
 息をするたび、肺に火が入りこむ。
 太陽は空の真上にさしかかり、おりゃーっとますますやる気を出して、ホルムの町をかんかんに照らしつけているところだった。
 ネルは人気のない森の小道を、汗を拭き拭き、のんびりと歩いていた。
 片腕にひっかけた籠の取っ手が汗でぬるぬるする。
 暑い。
 全身が火照っている。

 森を流れる小川は蛇行するところどころで深い淵となり、ホルムの子供たちには絶好の遊び場となっている。
 小さい頃にはネルも他の子供たちと一緒に肌着一枚で淵に飛び込み、真夏の暑さと清流の冷たさを楽しんだものだ。もうそろそろ大人なので、さすがにそういうことはできないけれど。自分が女の子なのは嫌じゃないけど、それでも時々面倒臭い。
 草を踏みながら歩き続けるうち、せせらぎの音が聞こえてきた。ほどなく目にもちらつく水面の輝きが飛び込んできて、ネルはほっと息を吐き、籠を持ち直した。水の匂いがする。騒々しく歩いていたつもりもないのだけれど、
「パリスか?」
 木立の向こうからくぐもった声が飛んできた。相変わらず勘がいい。ううんネルだよ、元気よくそう答えるつもりだったのだけれど、返事をするまえに木立のあいだを抜けてしまい、淵でのんびりと泳いでいたヴァンとまともに目があった。
「わっ、ネル!」
 大声をあげたヴァンが、しぶきをあげて身を翻し、暗い淵の向こうへとバタ足で逃げていく。速度が速い。人魚かねきみは。
「なんでおまえがここにいるんだよ!?」
「パリスから頼まれて。オハラさんに捕まっちゃったから、夕方まで来れないって。はいこれ、お土産」
 籠を傾けて布巾をずらし、焼き立てのパンケーキを見せた。大急ぎで作ったにしては会心の一品なのだけれど、ネルの視界から逃げ出したヴァンは、広い淵のむこうの端まで行ってしまっていた。水面すれすれに張りだした、幾本もの枝が揺れる緑の影に隠れて立ち泳ぎをしている。
「おまえな、男が裸でいるところにずかずか近づいてくるなよ!」
 と怒鳴られる。
「ったく、おまえって全然女じゃないよな。普通、逆だろ。俺じゃなくておまえがキャー、だぜ」
 そんなに怒らなくても。照れ屋だなあ。
「平気だよ別に。メロさんで慣れてるし」
 のんびりとそう言いながら、ネルは木の根本に籠を置いた。短靴と腿までを覆う長い靴下を脱ぐ。お行儀が悪いのだが、ヴァンしかいないんだし、まあいいや、と思う。数年前まではこの場所で一緒に水遊びをしていたんだから、今更恥ずかしがる必要もないものだ。
 この淵は底が深い。気をつけながら傾斜を降りていき、草の上に座った。足を投げ出すと、夏草がちくちくと裸の腿や膝の裏を刺した。そのままぴんと足を伸ばし、爪先をゆっくりと暗い水面に近づけていく。骨まで染みる冷たい水の感触に「ひゃーっ!」と声がでた。気持ちいいな! 足首までをどぽんと浸すと、背筋がぞくっと震えた。
 ヴァンがやけに低い声で言った。
「なんだって?」
 枝の下をくぐり抜け、少しこちらに近づいてきたヴァンが、おっかない目でネルをにらんでいる。真っ白い鎖骨のあたりまでが波の間に見え隠れしている。そこから下は暗い水の中で、ヴァンの体は輪郭を失い、白い影のようにぼやけて揺れていた。
 ネルはヴァンの言っている意味がわからず、ぱちぱちとまばたきした。えっ、なんで? ひゃーっはひゃーっで単なる叫び声なんだけど、それって駄目なのかい? 女の子の悲鳴はキャーじゃなきゃ嫌とかそういうこだわりの持ち主なのかね。
「何に慣れているって?」
 ヴァンが辛抱強くそう繰り返した。
「あっ、メロさんのこと? 探索者の人だよ。ヴァンも前にしゃべってたじゃん」
「……覚えてないな。えー、その……それで、その女が――」
「男の人だよ」
「……どうして彼が、おまえの前で裸になるんだ?」
「私の前だけってわけじゃないよ。そういう癖なんだよ。このあいだもラバン爺にあんたも脱いで腹筋見せろ触らせろって迫って嫌がられてたよ」
 しばらくの沈黙のあと、
「なんだそりゃ」
 恐ろしく冷たい声で、ヴァンが言った。
 えっ。
 まじまじとヴァンを見つめてしまう。濡れた白い前髪が額に張り付き、その下で両目が剣呑な光を放っている。
「ヴァンも腹筋すごいと思うよ」
 気をつかったつもりでそう言ったら、ヴァンはますます悪い目付きになって、じろりとネルをにらみつけた。

 淵から体を引き上げるヴァンに、むこうを向いていろと言われ、素直に顔を背ける。視界の端を、白い体が通りすぎていく。
 小川のむこうはひっそりと静まりかえる深い森だ。最近は狂った獣だの野盗だの、昼間でも物騒なのだけれど、ヴァンが一緒にいるから、平気だ。
「メロだかマロだか知らねえけど、おまえ女なんだからもう少し気をつけろ」
 後ろから声がとんできて、前を向いたまま答える。
「さっき女じゃないって言ったじゃん」
「言葉の綾だろうが」
 パリスとそっくりな舌打ちをする。こういうとこ、ほんとに兄弟だ。
「なんでそんな怒ってるのさ」
 森の奥に目を据えたまま、大きな声できいたけれど、ヴァンの返事はなかった。背後で静かに布ずれの音が響く。
 ネルはうつむいて、ふーっと息を吐いた。
 木漏れ日はネルの膝の上にもちらついていた。光が目に痛い。
 なんで? なんてとぼけた声できいたけど、本当は、ヴァンが不機嫌な理由がなんとなくわかっていた。どうも、どうやら、ヴァンはわたしのことを心配していて、でもその心配にはかなり尖った苛立ちが含まれていて、なのにヴァンはどうやらそれに気づいていないっぽくて、これってつまり、つまりだね、ヴァン先生は、なんだかどうやら嫉妬してるんじゃないかい?
 うわわ。
 わー。
 水に浸した足をばたつかせると、バシャバシャと水しぶきがたった。
 今日は、とても暑い。
 体が内側から火照っている。
 顔が火を噴くように熱い。
 金具と布ずれの音がする。振り向いてみたらヴァンはしゃがみこみ、靴紐を結んでいるところだった。体を丁寧に拭かずに服を着込んだようで、薄いシャツがぴったりと張り付いて、背骨の列や、筋肉のついた堅そうな背中の形が露になっている。
 振り向きもしないまま、背中に目がついてるみたいに、
「こっち見んなって言っただろ、バーカ」
 と、ひどく不機嫌な声で言った。
「もう着替え終わってるじゃん」
 イーッと嫌な顔をしてみせてから、ネルはまた向きなおって、素足をくすぐる清流に目を落とす。流れる水は心地いい。光の加減によって青く黒く透明に揺れる水面には数枚の緑の葉っぱが浮かんで、くるくる、ふらふら、勝手気ままに揺れ動いていた。
 ヴァンは、わたしを、好きなのかな。
 頭の中ではっきりと、言葉にしてみた。
 そのとたんに胸がどきどきし始める。
 なんだよヴァン先生!
 なんだね、わたし。ついこのあいだまで、下着姿で水をかけあって、じゃぶじゃぶきゃあきゃあ笑っていたのにさ! お尻がうずうずして、じっとしていられない。ぱっと立ち上がり、どひゃーっ! と叫びながら駆け出したくなった。さもなければ、ヴァンの背中をバンバン叩いて、好きなの!? きみはわたしを好きなのかい!? と聞いてしまいたくなる。
 ネルは大きく深呼吸した。
 爪先をぴんと伸ばし、膝をくっつける。両手をお尻の横に置いて体を支え、揃えた両足をそろそろと目の高さまで持ち上げる。正面から見たらパンツが丸見えで大変な格好だろうけれど、誰も見ていないから、いいのだ。
 白い甲に水滴がついてきらきらと輝いている。爪の形はちょっとイビツだ。ネルは止めていた息を吐くと同時に、両足をそのまま勢いよく振り下ろした。踵を水面にハンマーのように叩きつけると、ばしゃん! と大きな音がして水面が割れ、頭の上まで水柱が立った。しぶきが散り、まぶしく輝く水滴の一個一個が一瞬だけ空中に浮かんで見えたけれど、すぐに水柱は音を立てて崩れネルの全身はびしょ濡れになる。鼻腔の中で太陽と緑と水の匂いが弾ける。
 だったら、いいな!

 

「ざわざわ」
グッドエンド後/メロダーク マナ

 古文書に挟まれた手紙に気づいたのは、蒸し暑い夏の夕暮れのことだった。
 封筒の表には見慣れた伸びやかな字で彼の名が綴られている。鼻に近づけると、厚い羊皮紙の封筒からはマナと同じ神殿の香りがした。
 マナは最近、メロダークのところへ古代語を習いに来ている。テレージャの調査隊の手伝いをしている彼が遺跡から戻る頃合いを見計らい、神殿の雑務の合間を縫って、ちょくちょくひばり亭に顔を出す。熱心さの割に進捗度合いは今ひとつなのだが、マナはこの勉強を楽しみにしているようで、メロダークも自分への要求の少ない少女の役に立てるのは嬉しかった。
 宿題も兼ねて独学用にと渡し、長い間少女の手元にあった古文書であったが、数日前に返却された時、マナはこの手紙については一言も触れなかったと思う。
 なぜ黙っていたのかは謎だったが、マナの思考と行動は往々にして突飛、もとい深慮遠謀すぎて、メロダークの理解をやすやすと振りきってしまう。きっとこれにもマナらしい深い考えがあるに違いないと勝手に得心し、封を切ろうとした手が止まった。
 彼女宛てに自分が送った手紙のことを、突然、思い出したのだった。
 開いた窓の外はあの日のように風が止み、ひばり亭の狭い暑い部屋は、不意に息苦しさが増したようだった。

 封を開けぬまま手紙を腰の道具袋にいれ、そのまま部屋を出た。
 今夜も一人で眠りに落ちる寝台に腰掛け、そこで手紙を読む気にはならなかった。だからといって夕暮れの酒場の喧騒に腰を据えるつもりもなく、――森へ行くか。そう思う。彼が一人でいることを好むのは、相変わらずであった。
 だが吹き抜けの廊下から賑やかになりつつある階下の酒場を見おろしたとき、マナの姿を見つけた。窓際のテーブルに手を突いた少女は、身を乗り出すようにして窓を覗き込んでいた。何かあるのかと思ったが、すぐに彼女が見ているのが窓の外でないことに気づく。窓を鏡がわりに、ひどく真剣な表情で、巫女は前髪を整えていた。
 何をやっとるのだ、あいつは。
 と、メロダークは思った。
 ひばり亭には顔見知りしかいない。領主との面談を控えているわけでもあるまいに、と思う。
 階段を下りていくと、顔をあげたマナが「あっ!」と狼狽した声をあげ、さっと窓の前から離れた。
「どうした」
 窓ガラスと少女を見比べながら質問すると、マナは妙に気まずそうな顔になった。
「どうもしません。えっと、走って来たので髪が乱れて、それで……だから、別に、ちょっと気になっただけで、メロダークさんにお会いするからというわけでは……」
 よくわからない言い訳をしたあと、こほんと咳払いして、マナは表情を改めた。
「メロダークさんはお出かけですか?」
 沈黙のあと、
「いや……散歩にでも行こうかと」
 曖昧な調子で言うと、マナはぱっと笑顔になった。
「あっ、そうなんですか! よかった、すれ違いにならなくて。走って来たのは正解でしたね」
 嬉しそうにうんうんと頷いている。特に含むところもなさそうないつもの様子で、メロダークはそっと息を吐いた。

 西の空がうっすらと茜色に染まりつつある。夕暮れが近い。
 風がないのは相変わらずだが、緑の森は町中とは違う涼気に満ちていた。
 この時間にあまり町から離れるわけにもいかず、小道の側にごろりと転がった、苔生した倒木の上に腰をおろした。周囲をきょろきょろと見回すマナに、「人が来たら足音でわかる」と言った。その言葉に安心したらしく、彼の隣に座った。距離が空いているのが気に入らなかったので、
「もっとこちらへ来い」
 と言った。
「暑いから、嫌です」
 両足をぶらつかせながら、マナがきっぱりと答える。
「町よりは涼しい」
「そうですけど」
「……」
「ん……だって汗の……汗をかいたから」
 気にしなくていいことばかり気にする。手を伸ばし、強引に抱き寄せたあともしばらく抵抗してもがいていたが、腕に力をこめると、ようやく静かになって、体を預けてきた。緊張のない柔らかな重みや体温が手の中にあると、とても安心する。すぐに「暑い」とつぶやかれ、しぶしぶ腕を解いた。
「ぬ」
「脱ぎません」
 またしてもきっぱり断られる。
「脱ぐのも駄目」
 夏にそれはひどいと思ったが、我慢する。
 特に何を話すでもなく二人で並んで座り、微かな風を感じていた。やがてメロダークが「あの手紙はなんだ」ときいた。マナが彼を振り仰いだ。
「あーっ……そ、そうですよね、驚かれますよね、いきなりあんな……えっと、あの、夏至節の準備でお会いできなくてそれでつい……寂しかったか……じゃなくて夜に書いたのでどうも気持ちが盛り上がって……えっと、そもそも暑さのせいで眠れなくて、ですね。色々と考えているあいだにいつもよくしてくださるお礼を一度きちんと申し上げたいな……とふと思いまして!」
「ああ、そういう内容なのか」
 ほっとして封筒を取り出し、端を千切ろうとすると、マナがぴたりと動きを止めた。目がまん丸になっている。
「まっ……まだ読んでらっしゃらなかったんです!?」
「うむ、先程見つけた」
「あーっ、あーっ!」
 大慌てで叫んで腰を浮かし、彼の手から封筒を取り上げようとする。座ったままで揉み合いになったが、マナにはまるで勝ち目がなく、そうと気づいた少女は再び泣きそうな声で叫んだ。
「駄目、駄目!」
「……なぜいきなり、駄目、になるのだ。意味がわからん。私宛ての礼状だろう」
「それはそうですけど、確かにそうなんですけど! なっ……なんで今読むんですか! 駄目、禁止、読まないで!」
 そこまで嫌がるならばと手紙をマナに渡しかけたが、
「恥ずかしいから!」
 そう叫ばれて、手が止まった。
 立ち上がり、きゃあきゃあと飛びついてくるマナの手が届かぬよう己の頭上で封を切り、天にかざした手紙を急いで読んだ。
 古代語を教えてもらっていること、休日に神殿の手伝いを無償で行ってくれていることへの礼を丁寧な文章で述べたあと、彼の仕事ぶりを誉め、これからもどうかよろしくお願いしますと書いてある。それだけだった。二度読み直したが、男が期待したような『恥ずかしい』事はどこにも書いていなかった。拍子抜けした気分で手紙を畳んだ。
 途中で手紙を奪うことを諦めたマナは、倒木に抱きつくように倒れ伏している。丸めた背中がふるふると震えていて、草を食べ過ぎて気分を悪くした羊などを連想させた(多少礼を欠いた連想であったので、メロダークはすぐに、俺は動物の中でも羊はかなり好きな方だと、いそいで力強くつけ足した)。
 耳まで真っ赤になっている彼女になんと声を掛けるべきか迷ったが、結局「ああ」とだけ言った。
「ああってなんですか」
 マナが顔を伏せたまま、つぶやいた。
「いや、一体これのどこが恥ずかしいのだ。マナ」
「……って……」
「なんだ?」
「だって……す……好きって……」
「……なにがだ」
「だから、メロダークさんの……メロダークさんのこと……」
 驚いた。
「どこに書いてある?」
 返事がないので再度読みなおし、ようやくそれらしい一文を見つけた。
「……おい、もしかしてこれか? しかしこれは……『帰ってから夜に神殿の自室で一人になって、メロダークさんが教えてくださったところを読み直していると、まるであなたが――』」
 がばっと跳ね起きたマナが、きゃーっ! きゃーっ! と絶叫した。
「なんで読み上げるんですか! 意地悪!」
 今度こそ本気で飛びかかって来たので、手紙を取られないように腕を伸ばせば、それならばと目隠しするように小さな白い手が顔に張り付いて来る。くるくると揉みあっていたが、やがて、二人で同時に息が切れた。
「暑い」
 だらだらと流れる汗を拭ったメロダークがぼそりとつぶやくと、
「……ですね」
 肩で呼吸しながら、マナが頷いた。
 また倒木に並んで腰掛ける。
 無駄に動きまわったせいで、二人とも頭から湯気が立っている。
 暑い。
 沈黙のあと、「ぬ」と言ったら、「駄目」と言われた。

 日が傾くに連れて、ぬるい夜風が吹き始めた。
 夕日に輝く夏草の上で黒い影が揺れている。彼らを囲む夕暮れの光と影に染まった木々は、ざわざわと音を立てながら風にそよいでいた。
 礼拝中に野良鶏が迷いこんできて大騒ぎになったという実にどうでもいい話を熱心にしていたので、もう機嫌が直ったと思っていたのだが、マナはメロダークの手を借りて倒木から立ち上がりながら、「考えたのですが……」と言った。
「お返事、くださいね」
 若干目が据わっている。わかりにくいが、機嫌が悪いときの表情だった。
「返事?」
「さっきの手紙のお返事です。そしたら私、それをメロダークさんの前で読みますから」
「……」
「それでお返しです。今日の意地悪のお返し。だから絶対、お手紙をくださいね。約束ですよ?」
 メロダークは一瞬、押し黙った。それから真面目に文面を考えてみるが、マナの前で口にしたとき、自分が恥ずかしくなるような事を思いつかなかった。難しい。
「おい、何を書けばいい?」
「……知りません、そんなの。ご自分で考えていただかないと」
 町の方へと歩きだしたマナの後ろを追う。ほっそりとしたその背中を見つめながら、お前は俺から手紙を受け取っても嫌ではないのだなと思う。恐怖もなく、拒絶もなく、俺からの手紙を求めてくれるのか。大河の方角から吹く夕暮れの風は、柔らかく少女の髪と衣服を揺らし、メロダークの頬を撫で、森の奥へと消えていった。今日もまたごく無造作に、まるで当然のことのように、彼女は彼に許しを与え、彼はそれを受け取った。そこでようやくマナへの手紙に何を書けばいいのか思いついた。
「あれか、俺もお前のことを好きだと、そういうことを書くといいのか」
 メロダークが尋ねると、マナがぴたりと足を止めた。
 くるりと振り向いた巫女は、顔だけでなく、首筋までが赤く染まっていた。
「しかしそういうことでは俺はまったく恥ずかしくならんぞ。例えば愛しているとかそういった――」
「知りません!」
 暑さに微睡んでいた鳥たちが驚いて一斉に木々から飛び立つような、そんな腹の底からの大声で、羽音に気を取られた彼が紫金に染まった空を見上げた一瞬の隙に、マナは彼を置き去りにして、全力で駆けだしていってしまったのだった。


 


「くらい」
小人の塔/アベリオン キレハ

 廃墟ではいつも時間の感覚がおかしくなる。
 光の輪を踏み越えて馴染みの滝の洞窟に帰り着いてみれば、地底湖が小川となって流れる出口の外には夜空が広がっており、殿を努めていたアルソンは、あからさまにぎょっとした顔になった。
「どうしたの?」
 キレハが聞くと、アルソンは拳を握り締め、
「夜じゃないですか!」
 と言った。
 そうですね。
 アベリオンは先端に玻璃瓶をくくりつけた杖によりかかり、水筒の底に残った水で乾ききった喉を潤しながら、この人は思ったことをなんでもそのまま口に出すよなあと感心していた。よくも悪くも裏表がない。パリス曰くのお貴族様ながら、皆と親しくなるのはとてもよくわかる。アベリオンも彼のことは――探索者仲間のほぼ全員にそうであるように――好きだった。そもそも魔物を相手に臆することなく剣を振るう若者を嫌いになるのは、今のホルムでは難しい。この遺跡の町では目下のところ、力と勇気は何物にも代えがたい美徳だ。
「今夜はテオルと一緒に晩餐に呼ばれていて……参ったな! アベリオンさん、僕、ちょっと先に帰らせてもらいます」
 アベリオンは無言で頷くと、どうぞどうぞと手を動かした。その場を立ち去りかけたアルソンはしかし、数歩行った先でくるりと振り向いた。
「アベリオンさん、歩いて帰れますか? なんなら僕、またお宅まで背負って行きますよ」
「……大丈夫です。気にせず行ってください」
 耳が熱くなるのを感じた。くそ。前言撤回だ、この無神経男め。さっさと帰れ。十日も前のことを今ここで持ち出さなくてもよさそうな物だ――彼女が一緒にいるのに!
 杖に寄りかかり、探索の終わりにはいつもそうであるように浅く苦しげな息をしている顔色の悪い魔術師を邪気のない目で一瞥して、アルソンは彼が『大丈夫』であることに納得したようだった。
「気をつけて」
 道具袋をがちゃつかせていたキレハが、火を灯したランタンをアルソンに渡した。
「ありがとうございます、お二人もお気をつけて。それではまた明日!」
 てきぱきと挨拶した後、アルソンはばちゃばちゃがっちゃんがっちゃんと波を蹴りたて甲冑の音を響かせながら出口へ向かって走りだした。しばらくすると、ランタンの揺れる炎もその足音も、洞窟の外へと消えていった。
 そういうわけで、滝の音が響く夜の洞窟で、アベリオンはキレハと突然、二人きりになったのだった。
「あの人いつも元気ね」
 弓を背負い直すと、キレハはうつむいて両手で長い髪をかきあげ、汗ばんだ首筋に風を当てた。静かに目を閉じていたが、やがて眉間にかすかに皺を寄せた。
「陽が落ちたのに外は暑そうね」
 アベリオンは返事をしなかった。
 一日、いや二日間の探索を終え、最後には小人族の戦いに巻き込まれ、体はへとへと、ローブはぼろぼろ、魔法の使い過ぎで目はかすみ息は切れ意識は朦朧としていたのだが、その分心は無謀かつ大胆になっていた。
 玻璃瓶に封じられた星の光は、淡く優しく、夜に似た女の顔を照らしていた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
 そう答えて、アベリオンは杖を握り直した。
 ――告白しよう。
 そう決めたのだった。

 もちろんそのように思ったのはこれが初めてではない。
 思い返せば出会った最初の頃は何気なく、最近では自分でも呆れるくらい明確な意志を持って、きみが好きだ、何度もそう言いかけてはその言葉を飲み込んできたのだった。探索者仲間が好きだ。しかしその中には例外的に大嫌いな奴がいて、とても好きな人がいる。どちらのことも夢に見る。
 黒鉄の小人族の矢に切り裂かれ、キレハに手当てしてもらった腕の傷はまだ熱を帯び、ずきずきと脈打っている。その痛みがなぜか決断を急いているように思えて、告白しよう、もう一度そう思った。
 キレハは彼に背を向け、洞窟の出口へ向かって地底湖の浅瀬を歩き始めていた。寄せては返すさざなみが彼女の革靴を黒く濡らしている。躊躇いのないその足運びを眺めるうちに、いきなり気持ちがくじけかけた。おまえさんの神経は鋼で出来ているなとラバンに言われたが、そんなことはない。拒まれるのは怖い、気まずくなるのも怖い、「私はあなたを好きじゃないわ」と言われるのがとても怖い。
 少し考えてから、外に出るまでに告白しよう、とまず時間を決めた。次に、それができなかったら潔く死のうと自分を追い詰める方向で決意し直した。だが即座に、それはない、と自分で自分に突っ込みをいれる。
 人間はそんなことでは死なない。女に振られて死ぬ奴はいるだろうが、告白できなくて死んだ奴の話は聞いたことがない。
 ただそのくらいの決意をしないと、アレが足りないから何もできないというだけの話。
 アレってなんだ?
 勇気?
 そう、勇気だ。
 洞窟の入り口からごうと音を立てて生温い風が吹きこんできて、水面が揺れた。
 黒い髪が風に流れて、一瞬だけ、ほっそりとした白いうなじがあらわになった。
 普段は髪に隠れているから、日に焼けないんだ。そう発見して、呼吸が苦しくなる。ネスやシーウァの女たちと違い、彼女の服は露出が極端に少ない。普段目にすることができるのは手首から先と首から上くらいだ。荒野ではきっと日差しがきついせいだろう。太陽は体力を奪う。こことは違う太陽、違う土地。俺は両足も見たぞ、と誰かに自慢するように思った。一度だけ。引き締まった太股。伸びやかな脛と、ほっそりした足首。
 キレハが突然振り向いた。
「ねえ、聞いてる?」
 それでようやく彼女が何かをしゃべっていたのに気づいた。
「いや、聞いていなかった……ごめん、大事な話だった?」
「いいわ、別に。気にしないで」
「怒った?」
 キレハの両方の眉がすーっと持ち上がった。ああやっぱり怒っていたのだなと思ったのだが、
「いいえ、そういうわけじゃないわ」
 という返事だ。また表情を読み間違えてしまった。ネルやパリスと違って難しい。
「疲れているから、少しイライラしてるみたい。それに、暑いし――さっきの洞窟よりはましだけれど」
 ぶっきらぼうにそう言う。
 彼女がいらだっているなら告白はまた別の機会にした方がいいんじゃないか、理性あるいは臆病がそう耳元に囁き、アベリオンは即座にその考えの尻(考えに頭も尻もあったものではないが)を思い切り蹴飛ばした。
 駄目だ、今日するのだ、いま告白するのだ。
 ずるずると先延ばしにして来たけれど、俺はもう我慢ができないのだ。そもそも賢者の弟子たる者が、真実を怯えて目をそらすとは何事か。俺は知恵者だが臆病者ではない。
 さあ、やれ、行け!
 再び足を止めたキレハは、地底湖の中央にぽつねんと屹立する四角錐の石柱を眺めている。横顔の美しさが今日もまた胸に染みた。きみが好きだ。簡単な言葉だ。よし、今、言おう。
 口を開いた。
「洞窟じゃなくて」おいおい。「あれは塔だ」
「あそこが? あんなに広いのに?」
「そのはずだよ。塔でないとおかしい。どこかに秘石を持つ太古の王がいるはずだ――その王がダリムの父親なのか、彼の叔父なのか、まったく別の誰かなのかはまだわからないけれど」
 淡々とした彼の説明に、キレハは「そう」とつぶやいたあと、「この町も夏には暑いのね」と繰り返した。どういうわけか先程よりも沈んだ調子だった。
「大河が近いせいかしら。故郷の夏とは違う暑さだわ」
「帰りたい?」
「時々、懐かしくなるわね」
「僕には故郷がない」
 唐突にアベリオンが言った。
 キレハが彼を見た。デネロスが彼の血族ではないこと、アベリオンが捨て子であったことはとうに知っている。どうしたの、と視線で問われたが、アベリオンは軽く肩をすくめた。自分でもなぜそんなことを言い出したのか、さっぱりわからなかったのだ。
「この町は?」
「町の人たちは好きだ。それだけだよ」
 ふうん、とたいした興味もなさそうに相槌を打たれる。
 沈黙が落ちた。
 自分がキレハの同情を引こうとしていたことに気づいて、仰天した。なんとなんと。俺はどうやら、かわいそうなアベリオンちゃんと思われれば、彼女から激しく拒絶されずにすむと考えたようだぞ!
 誇りが激しく傷ついて、かっとなった。愛情よりは自尊心のために口を開き、好きだと告白しようとしたそのとき、
「きいたのよ」
 と、キレハが言った。
「えっ?」
「だから、さっき。この騒動が一段落したらあなたはどうするのかってきいたの」
 アベリオンはゆっくりと瞬きをした。
 キレハのことを考えながらふわふわと宙を周回していた意識が、突然、地上に引き戻されたようだった。
 世話を待つ山羊たちや庵を訪ねてくる町の人々、乱雑で、快適で、居心地はよいが二人暮らしにはいささか狭すぎる小屋のことを思った。自分がずっとここに暮らすとは一度も思ったことがなかった。いつかは師匠の側を、あの庵を、町を、もしかしたらこの国すら離れることになる、子供の頃からずっと、漠然とだがそう考えてはいた。そのいつか、がもうすぐそこに来ていることに、突然、気づいた。そう気づいた瞬間、この先自分がどうするのか、具体的な考えは一つもないことに狼狽した。
「あなたにもいつか見せてあげたいわ。私の故郷を」
 荒野から来た女が、穏やかな調子で言った。
 思いも寄らぬ言葉に息が詰まる。
「それ、きみが僕を好きってことかい」
 アルソンも顔負けの率直さで、頭に浮かんだことをそのまま口にしていた。
 キレハが驚いた顔をした。
 青い目を丸くしてまじまじと彼を見つめたあと、
「そういうこと言ってるんじゃないんだけど」
 むしろ申し訳なさそうに言われてしまう。
 これはきつい。
 心底がっかりして、玻璃瓶を下ろすと、なるべく冷静な口調で「ああ、そう」とだけ言った。

 洞窟から出ると熱波が押し寄せてくる。
 むしむしとした真夏の夜の熱気に、踵を返してひんやりとした洞窟に逃げ戻りたくなった。崖から降りるキレハの足元を背後から照らしてやりながら、なんだか締まらねぇなあ、と内心でため息をついた。あれは好きだと告白したことになるのかね? ならないよなあ。森を抜けてしばらくすると、すぐにひばり亭の屋根が見えてくる。
「明日も暑いかしら?」
「多分ね」
 ひそひそと話しながら歩き、ひばり亭の裏口へ通じる路地の前で足を止めた。そのままなんとはなしに、玻璃瓶の光に照らされたお互いの顔を、近い距離で見つめあっていた。
「アベリオン」
「うん」
「あなたは勇敢だと思うわ」
 いきなり真逆のことを言われてしまう。思わず苦い顔になった。
「そんなことない。臆病さ」
「――本当にそうならもう少し慎重になって。今日みたいにあんな風に、一人で射手の列に突っ込んでいくのはやめて欲しいものだわ。心臓が止まるかと思ったわよ」
 すでに呪文の詠唱も終えており、流れる白煙が目隠しとなっていたのでそれほど無謀なわけではなかったのだが、アベリオンは反論せずに黙っていた。あんなものは勇敢とは言わない。勝てる戦いで前へ出るのは普通のことだ。俺に足りず、俺が欲しいのは本物の勇気だ。
「それだけ。じゃあさようなら」
 そこまではいつもの真面目でそっけない態度だったが、キレハは目を伏せると、照れたように恥ずかしげに微笑した。彼の好きな楽しげで優しい笑みだった。
 念を押すように繰り返す。
「明日ね。また明日。おやすみなさい、アベリオン」
「ああ、明日。おやすみ、キレハ」
 アベリオンは彼女の行く先の路面を照らすように、玻璃瓶を掲げ持った。キレハがつまずかないように、本当は長い間、彼女の姿を見ていられるように。キレハは狭い路地を抜け、ひばり亭の開いた裏口から漏れる、温かな光の方へと去っていく。
 彼女の軽やかな足取りや黒髪が揺れる様子を、若い魔術師は夜の闇の中から見送っていた。
 二日も一緒にいて明日も会うのに、別れるのは辛くて悔しかった。
 それなのに追いかけることも呼び止めることもせず、玻璃瓶をゆらゆらと揺らしながら、彼女の行く手を照らしている。夜の熱気の向こうに、キレハの姿が消えていく。
 明日、明日、また明日。
 まったく――この意気地なしめ!


end

 

「それから、あつい」
ざわざわのあと/マナ メロダーク

 夜が明けるまでに帰らないといけない。
 墓地を通って神殿の宿舎の裏からこっそり忍び込み、廊下を歩くときは音を立てないよう気をつけて、水を汲んで部屋に戻り、きっと寝過ごしてしまうから仮眠は取らず、体を洗って身支度を整えたら厨房へ行き、早起きしすぎたふりをして、パンを焼く手伝いをしよう……。明日、ではなくてもう今日になった、一日の予定を考えているのが半分、残りの半分では男のゆっくりとした呼吸やそれにあわせて浅く上下する胸の動きや心臓の音に安らぎ、このまま眠ってしまおうと思っている。朝までこのまま。窓を閉ざした部屋の中は暑い。触れ合った部分が熱くてまた汗をかいているけれど、離れたくないのでじっと動かずにいる。眠っていると思っていたのだが、男の手が動いて、二本の指が首の骨を軽く押さえ、背骨の横を滑っていく。抱いてほしいと思った場所でぴたりと手が止まった。大きな掌が腰を抱く。
 自分の体を知られていることに安堵する。それを手紙に書かなくてよかった(もう何度目か、あんな恥ずかしいことは二度とすまいと決意しなおす)けれど、同時に、ちゃんと伝えておきたいとも思う。だが大切なことを言葉にして伝えるのは、とても難しい。


 蒸し暑い、粘りつくような夜の空気が記憶を呼び覚ます。
 まどろみの中で、今、と、昔、が、ごっちゃになる。
 アークフィア大河は夜空の下を、轟音と共に流れている。これはあの春の日の記憶だ。あの嵐の日の。すべてが始まる前の。波が高い。黒い奔流の半ばに根も枝もある一本の木がくるくると回転しているのがちらりと見え、あっという間に彼方へ流されていく。濁流はおそろしい速度で流れている。石造りの至聖所の床や柱までが揺れているようで、女神がお怒りになっていると思い、激しい雨と風に震えながら、祈るような気持ちで石の柱にしがみついた。嵐が去ったあとは、春らしからぬ暑い夜が続いた。寝苦しい夜の眠りは浅く、妙な胸騒ぎがして、早朝に目が覚めた。天井がやけに低い場所にあるような気がした。ぐっしょりと汗をかいている。全身を圧迫されるような、感じたことのない不安と焦燥であった。行かなければと思った。町の北へ。夜が明ける前に。森になにかが――森に――。
 瞼の裏で闇が流れる。
 あっ、また悪夢が来るのかな。
 不安になりかけたとき、とんとんと背を叩かれ、覚醒した。
「起きろ。もう帰れ」
 メロダークがささやいた。
 厳しい口調と素っ気ない言葉とは裏腹に男の両腕はしっかりマナを抱いたままだ。無言で男の背を抱き返すと、メロダークが足を絡めてくる。
「夏は夜明けが早いからいかんな」
 ため息まじりの声がつむじのあたりにぶつかった。
 寝ぼけた頭でしばらく言葉の意味を考えていたが、
「本当に、いかんことです」
 男の胸元に鼻先を埋めたまま、マナもむにゃむにゃと相槌を打った。


 起き上がったメロダークが窓を開けた。夜の森の香りが吹きこんでくる。神殿の寝室とは違い、大河の波音は聞こえない。着替えはじめた男の肩越しに、満天の星空を眺め、また目を閉じて、引き寄せた枕に抱きつく。
「メロダークさん」
「なんだ」
「森へ行きたいって言ったら、一緒に行ってくれます?」
「今からか?」
「んー……今じゃなくて、ずっと前。会う前に」
 頭を撫でられた。寝ぼけていると思われたらしい。実際まだ寝ぼけているのかもしれない。
「どこだろうと、こんな時間に一人で歩かせるわけにはいかんぞ」
 なんだか呆れたような調子で言われてしまう。「ほら、起きろ」男の手が今度は頬を撫でたが、今日の意地悪のお返しに、目を閉じて知らんぷりをしていた。全身に汗をかいている。暑い夜だ。でももう嵐は来ない。それに一人でもない。



end

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