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いくつものいつも

滝の洞窟 / 顔2ウェンドリン パリス


 丘の上のお城から、柔らかな服の裾をなびかせて、真っ白い女の子が駆けて来る。
 ひばり亭の前でエールの大樽の上に腰掛け、パリスは、ズーエへ向かう荷馬車の到着を待っているところだった。一枚の銅貨を空中に放り上げては掌と甲で弾き、捕まえては弾きあげ、手慰みに弄びながら、くわあ、と大あくびをする。
 毎年代わりばえのない田舎町ののどかな春の午後であったが、パリスの耳は、近づいてくるせわしない足音を聞き取っていた。軽やかな靴音と、柔らかな衣擦れと、腰に下げた剣ががちゃつく金属音と、この三つを同時に立てる人物は目下のホルムには一人にしかいない。
「パリス! ああ、パリス! よかったわ、なんて素敵な日なのかしら! こんなところであなたに出会えるなんて!」
 息を弾ませながら駆け寄ってきたウェンドリンは、両手を大きく広げて声を震わせ、運命の恋人に再会したかのような劇的な調子でそう叫んだ。港のチンピラは、眉一つ動かさなかった。
「いや昨日もここで会っ――」
「まだここにいるわよね?」
「いるけど仕事中――」
「パリス、お願いがあるの! すぐに追っ手が来るわ。何かきかれたら、『ウェンドリンは来なかった』って言ってね、お願い、私の一生のお願いよ?」
 返事を待たず、ウェンドリンはいくつも並んだ樽の間に入り込もうとして、失敗した。隙間が狭すぎる。お姫様は「もう!」と不満の声をあげるやいなや、愛らしい両手と白さも眩しい右足の丸い膝こぞうを押し当てて、樽を押した。少女の胸元までの高さがあるエールの詰まった大樽は、上にパリスを乗せたまま、石畳の上をずるずると移動した。マントを翻したウェンドリンは、隙間に滑り込み、樽の影に隠れる。
 パリスが腰を捻って振り向くと、両膝を抱えてうずくまったウェンドリンと目があった。かくれんぼをして遊んでいる子供のようにちんまりと丸くなった少女は、ひそひそ声で怒鳴った。
「駄目よ、パリス! ちゃんと前を向いて堂々としていてくれないと! 嘘をつくの頑張ってね、心の中でとっても応援しているわ!」
「おまえなあ――」
 パリスはまたしても、その言語を最後まで言い終えることができなかった。慌ただしい足音と気配と共に、五、六人の女中と召使いたちが、通りに姿を現したのだった。糊のきいたエプロンをはためかせ、手入れされたなめし革の靴を踏み鳴らし、騒々しく登場した使用人たちは、「ウェンドリン様ー!」「どこです、ウェンドリン様!?」と声をあげている。路地裏を覗き込み、商店の軒先に入り込む。知らない人が見たら、ウェンドリンとは毛並みの美しい愛らしい子猫か何かだと思うだろう。
 パリスは握りこんでいた銅貨を、再び空中に放り投げた。落下してきた銅貨を、見もせずに反対の手で握りこみ、すぐにまた弾きあげる。女中の一人が近づいて来て、「あなた確かウェンドリンさまのお友達の……」と声をかけた。
「あー、どうもッス」
「お嬢様を見かけませんでしたか?」
「ウェンドリン? さっき来ましたよ」
 パリスの尻の下で、樽がかすかに振動した。パリスは銅貨をしまい込み、西を指差した。
「あっちの方に。馬がどうとか言ってたけど、なにかあったんスか?」
「まあ、お嬢様! まーあ!」
 パリスの質問には答えず、女中は甲高い声で叫び、仲間たちのところへ駆け戻っていった。使用人たちがお嬢様、お嬢様と呼ばわりながら西の城門へと駆け足で移動していくのを、パリスは黙って見送った。樽がまたガタガタ揺れたので、踵でひとつ蹴飛ばして黙らせる。
「もうちょっと待て。一番厄介なのがまだ来てねえぞ。あの勘がいい奴」
「フラン? いいの、この件ではあの子は私の味方なの」
 ウェンドリンが囁いた。
「フランのこと、厄介なんて言うの嫌よ。私の大事なお友達なんだから、仲良くしてくれなくっちゃ」
「仲良くも何も、しゃべる機会がまずないと思うぞ。いいぜ、いなくなった」
 そろそろと顔を出したウェンドリンは、周囲の様子を確認した後、樽の上にぐったりと上半身を投げ出した。大げさにため息をつく。
「もう、びっくりさせるんだから! パリスの意地悪! 心臓が止まるかと思った!」
「こっちの方が時間が稼げてよかったろ。で、今日は何で逃げてんだ?」
 ウェンドリンが顔をあげると、町の少女たちの羨望を一心に集める長いつややかな髪が、絹の光沢を放つ上衣の上をさらりと滑り落ちた。体の他の部分と同じようにほっそりとした華奢な指を、樽の上で、ぐ、ぐ、と幾度か握りしめた。
「一つは、お父様の部屋の扉が古くなっていたせいね。口論の後で頭に血が昇っていた私は、閉める時、つい、バーンと。そうしたら扉が少し傷ついてしまって」
 一瞬ためらったあと、あくまで控えめに言い足した。
「見方を変えれば、取手のところを中心に軽く割れた、と言えなくもなかったわ」
「割れたァ?」
「そうね、真っ二つに裂けた……と表現する人もいるかもしれない」
 ウェンドリンはそう告白し、指先に長い髪の先をくるりと巻きつけて、うっすらと頬を染めた。
「こんなぶ厚い樫材だったから、大丈夫と思ったのよ?」
 つまり城の扉を素手で叩き割り、お小言から逃げてきたらしい。再びうつむいてもじもじと髪を触り続ける少女を眺めつつ、
 ――無駄だ。
 しみじみと、パリスはそう思った。
 この幼なじみを相手にしていると、パリスは時折、その存在の端々まで溢れる、絶望的な無駄さ加減に圧倒される。
 由緒正しきご立派な伯爵家の令嬢が、どうして闇雲な怪力の持ち主なのか? 己の背丈よりも巨大な大剣を軽々と振り回す戦士見習いが、なぜこんな月光のごとき繊細かつ可憐な容姿をしているのか? 美味しい食事にはことかかぬホルムで、焦げた石や溶けた泥のような『お弁当』を持ち歩かねばならぬ理由がどこにあるのか? 腹を割って語り合う親友の一人として、良家のお嬢様や豪商の娘たちでなく、なんだって自分のようなチンピラ、それも「大好きなお父様」を親の敵と恨む人間を選んでしまっているのか……。
「もう一つはね」
 深い思索に耽りだしたパリスをよそに、ウェンドリンは話を続けた。
「暇があるから余計なことに首をつっこむんだって、習い事が増えることになったのよ」
「あー、そうか」
 パリスは、極めて適当に相槌を打った。
「それでお父様に、そんなこと習うくらいなら、家出をするって言っちゃって……だって私、楽器を習う暇はないのよ?」
「そうかよ」
「別に音痴なのが悔しくて言ってるんじゃないのよ?」
「疑ってねーよ」
「よかった! やっぱりパリスはわかってくれるのね!」
 ぱっと笑顔になったウェンドリンは、同じ速度でひどく真面目な顔になった。
「ねえ、きいていいかしら?」
「おう?」
「パリスはもういい年なのに、どうして恋人を作らないの?」
 パリスは樽の上で足を組み直した。ウェンドリンの瞳にはひとかけらの悪意もなく、純粋な好奇心と思いやりと恋愛話への興味が溢れ、澄んだ湖水の美しさできらきらと輝いていた。見る者をじわじわと疲労させる瞳であった。
「多分なんだけどな」
 と、パリスは疲れきった声で言った。
「周囲に碌な女がいないせいじゃないかと思う」
「まあ!」
 お気の毒に! という調子でつぶやいたウェンドリンが、一瞬の間を置いて、ん? という顔になった。頭の回転はやや残念な方だ。んん? とさらにしかめっ面になった後、「それって?」とゆっくりとつぶやき、はっと目を見開いた。
「つまり……パリスにはすでに愛する貴婦人がいる……ということね?」
 春らしい素敵な天気であった。
 ひばり亭の赤い屋根の上で、チチチ、と小鳥が鳴いていた。沈黙のあと、パリスが言った。
「はい?」
「だからそれって、周囲でないところに素敵だと思う女性がいるということでしょう? あのねえ、私、そういうのに少し……ううん、とっても詳しいのよ! 輝く星のような誰かの瞳……川面に揺れる花のような面影……そういったものをパリスは胸の底に隠し持っているから、絶世の美女や愛らしい乙女たちを見ても味気なく砂を噛むような気がするのよね? だからパリスは、普段、女になんか興味ないという顔をしているんだわ!」
 ウェンドリンがこれまでに恋愛小説から仕入れ、まだ一度も無粋かつ無益な実際の経験などに汚されていない純白の知識は、彼女の態度に堂々たる自信と風格を与えていた。パリスは一瞬、あれ、オレってそんな相手がいたんだっけ? と流されかけ、危ういところで我にかえった。その隙にウェンドリンは、両手でタタタタタ! と樽の上を叩いている。赤く染まった頬を押さえ、ぴょんぴょん飛び跳ねながらキャーッと悲鳴をあげた。嬉しそうだ。
「パリス! ああ、パリス! ずるいわ! あなたいつの間にそんな素敵なことになっていたの!?」
「なってねえよ、知らねえよ、落ち着けよ! むしろおまえの中でオレが一体どうなってんの!?」
「そうやって否定するのは、パリスが自分の本当の気持ちに気づいていないからなのよ。ああ、イェゴード侯と湖の貴婦人みたい! 侯は初め自分が彼女を愛してしまったことに気づかないのよ、うなぎ料理のことで頭がいっぱいだから! ますます素敵! ほら……目を閉じて、自分の胸にきいてごらんなさいな。浮かんでくるはずよ、パリスにとってただ一人、運命の女性の美しい面影が!」
 ウェンドリンは樽の上に両手をつき、軽々と体を引き上げた。鞘をぶつけて重い音を立てながら、樽の上に上ってくる。上品な飾り編みに縁どられた服の裾を軽やかにさばき、パリスの隣にちょこんと腰掛けた。瞼を下ろして胸に手を当て、うっとりとした表情を浮かべて、毎度おなじみ夢見る乙女がたちまち一丁出来上がりだ。肘でつつかれて「ほら、ほら!」とうながされ、パリスもしぶしぶ目を閉じた。
 顔に当たる春の日差しと暖かな風が心地良い。ウェンドリンが下げた剣の柄が、パリスの腰にぶつかっている。ほのかな花の香りにくしゃみが出そうになる。期待に弾む少女の声が耳元に響く。
「どう? 何か見えた?」
 しばらく考えてから、パリスは答えた。
「瞼の裏」
 ウェンドリンは、真剣に気分を害したようであった。
「この流れでそんなこと言う人、いるかしら?」
「なんで怒られてるのオレ?」
 そう抗議したものの、パリスはつきあいのよさを発揮して、過去に出会った女の子たちのあれこれを思い出してみた。拳骨やら財布やら土足やらおっぱいやらが混じりあう種々様々なあれこれが時にはアハハウフフ、時には陰惨きわまりない記憶として脳裏をよぎる中、ひとつの光景が他とは違う鮮やかさで浮かび上がってきて、パリスは「おっ!」と驚きの声をあげた。
「すげえな、ほんとに浮かんだぞ」
「素敵! 誰!? 私も知ってる方?」
「ガキん時のおまえ。最初に会った時だなコレ。口きく前だ」
 沈黙。やがて、ふーっと重い溜息が漏れきこえた。パリスが目を開けると、ウェンドリンがものすごく嫌な目つきで、こちらを見つめていた。
「そこでどうして私が出てくるのよ。もう少し真面目にやってよ」
「しょうがねえだろうが、出てきたもんは」
「しかも最初に会った時って、パリス、あなた初めましての挨拶もなしにいきなり『また熊か』って言ったわよね。しっかり覚えてるわ。忘れずにいるわよ今でも。あれは私の生涯で最高に屈辱的な瞬間だったもの。それから十日、私は自室で泣き暮らしたのよ!」
「オレをぶん殴ったあとにな。聞くたびに日数伸びるよなそれ」
 いやしかし、足取りも軽く駆けて来たと思ったら積まれた小麦粉の袋の山を指さして、「こんにちは! これ、運ぶの? お手伝いするわ!」と、パリスが一つ持ち上げるのも苦労した袋を四つまとめて軽々と担ぎ上げた自分より小柄な少女に対し、それ以外のどんな言葉を発すればよかったのであろうか。その時は同時に、すげえ! とも思ったのだが、ひょっこりと顔を出したオハラの「あらありがとう。ウェンドリンはいい子ね、カムール様も鼻が高いでしょう」という言葉を耳にした後では、そんな賞賛の言葉など、素直に吐けるはずもなかった。




 卸商人の荷馬車に大樽を運びこむ作業は、ウェンドリンの手を借りて、あっという間に終了した。春もまだ浅いこの季節、ホルムの港に立ち寄る商船の数は少なく、パリスの仕事と稼ぎ口は自然と限られてくる。
 ――やってらんねえなあ。
 ため息をつきながらパリスは、当てにしていたのよりずっと少ない枚数の銅貨を、財布をしまいこんだ。何か物言いたげな顔をしているウェンドリンの方を向いて、「よう、一杯奢るぜ」と声をかける。
「あら、どうして?」
「どうしてって、今手伝ってもらった礼だよ、礼」
「そんなのいいのに。ちょっとお手伝いしただけじゃない」
「いいから奢られとけよ。ダチの力を借りておいて、稼ぎを独り占めするわけにゃいかねえよ」
 ウェンドリンはまじまじとパリスを見つめ、それから突然、微妙に苛立った表情を浮かべた。
「パリス」
「なんだよ」
「お父様が楽器を習うようにおっしゃるのよ」
「さっききいたぜ」
「それだけじゃなくて、お父様はこの春、あちこちからお客様をお呼びになるつもりなの。なんだと思う? おっしゃらないけれど、わかるのよ。私の結婚相手を探すつもりなの」
 パリスは黙った。
 結婚。
 結婚相手。
 その言葉を頭の中で繰り返す。
 眉をきっと吊り上げたウェンドリンをまじまじと見つめた。言った。
「はぁ」
「パリス! パリス! なんなのその不抜けた相槌は、友達甲斐のない! もうちょっと怒りなさいよ! 私なんて扉を叩き割るほど怒ったのよ!?」
 バンバンと子供のように地団駄を踏むウェンドリンにむかって、パリスはもう一度、「はぁ」と繰り返した。
 それ以外、特に感想がなかった。
 このおてんば娘が誰かと――それこそが伯爵のような、ふんぞりかえったいけ好かないお貴族様のどなたかを相手に――結婚して奥方様になるところなど、どうしても想像できなかったのだ。
「いや、だって……結婚しねえだろ?」
「そうよ、しないわよ! 私はまだ剣の修行の最中なの!」
「ならいいじゃねえか。なんで怒ってるんだよ」
「私は戦士になりたいの」
「それもきいた。何度もきいた」
「得意なことはそれしかないし、それが好きだから、そうなりたいの。物語に出てくる素敵な騎士のように、武勲でもってホルムの平和とグリムワルド家の名誉に身を捧げたい。フランはわかってくれてる。お父様も口では色々おっしゃるけれど、本当はよくご存知なの。それでも私はホルム伯の一人娘である以上、誰かと結婚しなくちゃいけないのよ」
 むすっとして語り終えると、ウェンドリンは肌身離さず下げている剣の柄をさすった。万事に粗雑なウェンドリンだが、武具と馬の手入れだけは行き届いている。武器はいいわね、と以前ウェンドリンが口にしたことがある。槍も槌も試してみたけれど、剣が一番好きよ。戦うためだけに作られた道具が美しいのは不思議よねパリス? それとも不思議じゃない当たり前のことなのかしら?
 パリスにはよくわからない。刃物は刃物で、武器は武器だ。研ぎ澄まされた短剣の閃きと重みに感動し、手元を見もせずぱちりと剣を鞘に納めるラバンの背はかっこいいと思うが、美しい、というのはちょっと違う話のように思える。剣には美しいなんて使わねえだろ。それはそういうのとは違うモノに言う言葉だろ。鋼の上を辿るウェンドリンのほっそりとした指を見ながら、手入れがいいから綺麗なんじゃねーの、そう思い、そう言った。ウェンドリンがどういう反応をしたかは覚えていない。
「別に今日相手が来て明日結婚するわけじゃないんだろ」
「そりゃそうだけど」
「ならいいじゃねーか。今からくよくよ悩んでもしょうがないだろうが」
 だって結婚しねぇんだろう、とパリスは内心で、奇妙な確信を持って繰り返す。
「大体おまえさ、普段から変なモン読んじゃキャーキャー喜んでんのに、なんで実際の結婚は嫌がるんだよ?」
 ウェンドリンは、難しい顔で腕組みをした。
「それはそれ、これはこれよ。大体ねえ、婚約者同志が出会った瞬間に恋に落ちたり、薔薇に永遠の愛を誓ったり、二人で魔法の迷路を彷徨ううちに互いを魂の伴侶として慈しむ心が芽生えたり、そんなのお話の中だけのことじゃない。実際にありっこないから楽しいんじゃないの。現実にはそういうの、全然ないわよ」
「なんだ。そこまでわかってんのに、あんなに大騒ぎしてるのかよ」
 呆れて、パリスが突っ込む。
「それはそうよ。自分のことですもの、わからないはずないわ。私は何でも望めるけれど、何を望んだとしても――」
 曖昧に語尾を濁して口を閉ざしたウェンドリンは、沈黙の後、ため息と一緒に憂鬱を振り払ったようだった。頭ひとつ背の高いパリスを振り仰いだ時には、もういつもの突撃的な明るさを取り戻している。瞳を輝かせ、熱っぽい口調で告げた。
「だからパリス、あなたは素敵な恋愛をして、私をときめかせてよね?」
「話飛びすぎだろ、おい!」
「とっても繋がってるじゃない。パリスは身を焦がすような恋をして苦悩したり、報われぬ愛のために戦って敗北したり、すべてを失ったり痛手を負ったり艱難辛苦に翻弄されて紆余曲折の末に結ばれるかと思いきや、すんでのところで永遠の別れに魂が引き裂かれるような絶望と涙を経験するといいんだわ!」
「オレ全然いい目にあってないよな!?」
「報われぬ愛こそが至高、生涯胸中で燃える炎となり我らの行く末を照らすのだってヴァナリオン王子の言葉もあるじゃないの?」
「かなり悲惨な末路を迎えた奴じゃねえか! ちょっとはいいこと言えよおまえ!」
「王子はとっても美形だったのよ?」
 金持ちで貴族で美形って、どっちかっつーとオレの敵じゃないか? とパリスは思う。
 ホルムのお姫様はマントの裾を払い、優雅に体の向きを変えた。長い睫毛の下の赤く澄んだ瞳が、ホルムの北に広がる森をとらえる。ほんの一瞬、その瞳が、夢を見ているかのようにとろりと溶けた。
「私は――私は、洞窟に行かなくっちゃ」
 独り言めいた調子で、うっとりとつぶやく。
 数日前に『まるで恋に落ちる前のような胸騒ぎに』早朝の森を散歩していたところ、『私を手招きするような不思議な霊感に導かれ』、『奈落もかくやという暗さの秘密の洞窟』を見つけて以来、ウェンドリンはその場所に夢中なのだった。
「おい、オレも行くぜ!」
 パリスは急いでそう言った。
 洞窟の中にはお宝が、そこまではいかなくともなにか金目の物があればいい。そういった最初の欲望丸出しな目的とは別に、湿った仄暗い闇の中、奇妙な生き物が跋扈するあの場所への好奇心が生まれていた。それともうひとつ、あんなヤバい化け物がうろつく場所に、ダチを一人で行かせるわけにはいかない。
 振り向いたウェンドリンは妙な顔をしていた。
「そんなの当然でしょう」
 剣帯を締めなおそうとうつむいたウェンドリンの髪が揺れて、見た目ばかりは華奢な少女の背中に、銀の輝きが流れ落ちた。
「私の行くところにパリスが行かないなんて、そんなことあるはずないじゃない?」
「ほんとにおまえの中で、オレって一体どうなってるんだよ……」
 ぐったりとしたパリスにウェンドリンが、さも当然という調子で返事する。
「変なこときかないでよ。パリスはいつだってパリスじゃない」




 丘の上のお城から、柔らかな服の裾をなびかせて、真っ白い女の子が駆けて来る。
 港の倉庫からひばり亭まで運んできた小麦粉の袋の上に腰掛けて、まだ子供の体にはいささか過酷な肉体労働の合間の、しばしの休憩を楽しんでいたパリスは、束の間、肩や背中の痛みも疲労も空腹も喉の乾きも、それどころか、自分が暮らすこの町への憎悪にも似た苛立ちすら忘れていた。
 春の日差しを浴びて、銀色の髪や、細かな縁取りのついた肩掛けや、光沢のあるドレスや、透き通るような肌がきらきらと輝いている。血の色を透かしたような不思議な瞳は、長い睫毛に縁どられていた。世の中からまだ傷を受けたことのない子供にしか浮かべることのできぬ、無防備で完璧な微笑が、整った小さな白い顔を彩っている。
 なんて綺麗な子なんだろう!
 普段のパリスなら、そんななよっちい考え、鼻で笑って、いや女の子を見てかわいいならともかく綺麗だなんて、そんなことそもそも思いつきもしなかっただろう。だがその時は――ただその時は、お伽話から抜けだしてきたような少女がこちらに向かって来るのを、息を詰めて見つめていた。
 ぶらぶらと揺すっていた両足は、いつの間にか動きを止めている。少女は駆けて来た足取りを緩め、こちらに顔を向ける。パリスにとっては知らない子で、少女にとっても知らない少年だ。少女の目が一瞬、人見知りに怯えて、ほんの少しの警戒心が覗き、だが最後は好奇心が溢れ出す。まっすぐにこちらへ歩いて来る。パリスは突然、自分の擦り切れた服や、膝に穴があいたズボンや、汗と埃にまみれた顔や手や、目立つ場所にある傷跡まで、すべてが恥ずかしくてたまらなくなる。だが養い親を失ったばかりの少年の矜持が、彼の背中を強く押す。顔を上げ、胸を張り、たじろぎを隠し、噛み付くような視線をむけて、そうして、それから、その先にはいつもの春となる、いくつもの春と同じように、近づいてきたウェンドリンがパリスの前で足を止め、パリスはウェンドリンを見下ろして、目があって、二人は同時に照れくさげな小さな笑みを浮かべた。




 end

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