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小さな町に住んでいた一匹の黒い犬

パラレル / 犬キレハ 顔3ぽいヴァン

 
 昔、昔、あるところに、



 たしかホルムという町のはずなのですが、もしかしたらそれとは違う名前だったかもしれません、



 小さな国の西の国境、対岸も見えない大河の曲がり角に張り付いた小さな港町で、春には町を囲む丘に若草が揺れ、夏になれば色んな国からやってきた船が太った羊たちのように従順に眠たげに小さな桟橋に身を並べ、秋には森と小川に金色の光と実りが満ちる、そういった、都とは違う田舎の賑やかさに溢れた町の、北に広がる、


 いやこれも、もしかしたら町どころか人の住む家すらなくて、踏み入るのは道に迷った旅人か野伏か、さもなければ兵隊たちの目を逃れるむくつけき山賊どもの一団だけの、獣すら近寄らぬただ荒涼とした丘と沼が広がる、そういった少し恐ろしいような土地だったのかもしれませんが、その伸び放題に伸びた草がもつれ絡み合い湿った風にざわざわと揺れる荒野の奥に鬱蒼と生い茂る、


 森の中に、



 奇妙な遺跡が見つかって、


 化け物たちが湧き出して、


 そこで遺跡の秘密を探ろうと、世界中から人々が集まって、


 ホルムの町、違う名前の町、さもなければ丘と野原だけだった土地、そこは短い間に随分様変わりし、宝や財宝や魔法やあるいは遺跡そのものを目当てにした、腕自慢で命知らずな人々が集まる、冒険の場所となりました。
 遺跡には太古の魔術師がいたような、いや何もいなかったような、魔王が住んでいたような、これもやっぱり確かなことはわかりませんが、


 ただ一つだけ確かなことがあって、




 *




 この町には一匹の犬が住んでおり、犬自身は真っ黒で艶やかな毛並みと鼻がいいのをこっそり自慢にしておりましたが(プライドが少し高すぎるのととても食いしん坊なのと犬にしては強情なのがこの犬のちょっとした欠点でした)、実際にはどうということもない、そこらにいるような、ごくごく普通の単なる野良犬でした。もちろん平凡だからといって取り柄がないわけではありません。それなりに利口で、それなりに勇敢で、友情や義に厚いところはなかなか見所のある、そういった雌の犬でした。


 黒い犬はキレハという名前で呼ばれていました。
 これはとても確かなことです。



 キレハはこの町の路地裏で生まれ、表通りで育ちました。酒場にたむろするろくでもない若者たちに可愛がられて、頭をなでられ、お手! と言われたらちゃんとお手をしてやり、えへん、と胸を張り、常に堂々とした態度で、拾い食いなどあまりせず、自分で小さな獣を捕まえてはバリバリと食べ、美味しい餌をくれる相手にだけは尻尾を振るという、相当に清廉潔白な暮らしぶりで、毎日を楽しく、のびのびと過ごしておりました。

 こんなに立派なキレハでしたが、ひとつ、誰にも言えない悩みがありました。それは「自分には主人がいない」ということでした。歴史に名前が残るような、いやそうでなくとも勇敢な犬には勇敢な、利口な犬には利口な、立派な犬には立派な主人がいるもので、獣の守護者たるシャーリックが、神でありながら神々にお仕えするように、犬たちも、より犬らしい犬となるために、常に優れた主人を必要とするものなのです。町に住む犬たちは主人のいないキレハを見ると、あからさまに馬鹿にした目つきになってクフン! と鼻を鳴らし、キレハはそういう連中を馬鹿みたいと軽蔑しつつ、心の底では悔しい思いをしていたのでした。
 しかし町には犬どもの群れはなく、キレハには決まった宿がないため宿の主を主人とするわけもいかず、では知り合いの中から適当に選ぼうと見渡しても、キレハが親しくしている若者たちは昼間から集まっては酒を飲み、虫を戦わせて金を賭けさせるのはどうだろうとか、何かの間違いでうっかり騎士に叙勲されないかとか、そういったろくでもない話ばかりをしています。確かに気のいい連中ではあるものの、正直にいえば尊敬できるようなところは何もないのでした。穏やかな春の夜などに、彼らの中で一番だらしなく、一番キレハと付き合いが長くて、意気地もなく金も勇気も知恵もない、そのかわり一番人のいい若者が、酔っ払い、土埃の立つ道端に座りこみ、幸せそうな顔で眠りこけているのを見ると、これはどうも私の求める主人ではなく、それどころか人間からも相手にされないのではないかしらなどと犬なりに心配しつつ、キレハはわんわん、耳元で鳴いては手の甲をがぷりと噛み、ヴァンという名前のその若者を起こしてやり、親のいない彼が孤児仲間と暮らす、ごみごみとした港の下宿まで送っていってやるのでした。そこは屋根裏部屋なので、犬は入っていけません。キレハにとっては、そういうところもヴァンの駄目な部分なのですが、ヴァンはいつもキレハをかなり上手に撫でて「きみはいい奴だねえ」と言うので、まあ仕方ないか、このくらい面倒のうちにも入らないものね、と許してやるのでした。



 子犬の頃は小さな足を動かして、てってって、と町のあちらこちらを歩きまわり、小鳥や猫を見つけたらうー、わん、わん! と連中を追っ払い、町の治安維持に貢献していたキレハですが、彼女が若い犬になった頃、森の遺跡から化け物どもが湧き出すようになりました。そのために、酒場にたむろするろくでなしどもと、彼女の暮らしは大きく変化しました。
 つまり、町の若者や集まってきた探索者たちが、それぞれの理由から遺跡へと下りて行くようになり、その中には、遺跡の呪いのせいで妹分が病気になったという、ろくでなしなヴァンや仲間たちも混ざっていたのでした。
 でもヴァンはやっぱりろくでなしで、他の人間たちが油を詰めた瓶や魔法の杖や黒鉄の大剣で武装を整え、頼りになる戦士や魔術師たちに声をかけているというのに、キレハに、よりにもよって勇敢ではあるもののただの一匹の犬である彼女にむかって、「きみもついて来てくれるかい? きみが一緒なら安心だ」などと真面目な顔で語りかけるので、呆れきったキレハは「うーわんわん、ぐるる、ううううう、うー、わん!」と説教してやりました。路肩に膝をついたヴァンは、その赤味がかった不思議な澄んだ目でじっとキレハを見つめながら、「わかったよ」と微笑しました。そしてポケットから干し肉を取り出し「きみは本当に食いしん坊だなあ」と言ったのでした。こんなに心配してやっているというのに、なんと馬鹿なヴァンなのでしょう。怒り心頭に達したキレハは目の前の干し肉にがふっがふっと食いついて、とても美味しかったのでご機嫌で尻尾を振り、それからはっと我にかえって、こんなことではいけない、ここはひとつ私が頑張ってこの人間を守ってやらねばいけないと心に誓いました。ご存知のように犬は人間と違ってふた心がなく、誓ったことは必ずやり遂げる生き物です。
 そこでキレハは、ヴァンや他の探索者たちについて遺跡へ入っていき、後の世には英雄譚として知られるようになる冒険に加わることになったのでした。




 *




 遺跡から通じる地下の世界は、広く、深く、暗く、神秘的で、とても危険な場所でした。
 牙や唸り声や体当たりで怪物どもをやっつけ、地下深くへ下り、白く輝く石筍の下、黒々と流れる地下湖を泳ぎ、天まで聳える大樹や、炎が渦巻く石の町や、あるいは積もった真っ白い雪の中に四本の脚がずっぽりと沈み込んで人間たちによいしょと抱き上げてもらわねばらない雪山を越え、時々は与えられたマッドシチューにお腹が痛くて動けなくなり涙目のヴァンに抱きしめられて暗黒料理人には土下座で謝られ、大丈夫だから心配しなくていいのよという合図に力なく、ぱたん、ぱたんと尻尾を振って、このように、旅の途中に何度も何度も大変な危険に襲われて、ご自慢の尻尾は流した血で赤く染まり、固い肉球は裂け、ある時は爪が折れ、これでもか、これでもかというくらい、恐ろしい、辛い、苦しい目にあいました。もしも彼女が人間ならば、もう嫌だ、と叫んでくるりと尻尾を巻いて逃げ出したに違いありません。しかしなにしろ彼女は犬で、よく知られているように犬というのは誇り高き狼たちのすぐ下の兄弟、つまり冷たき牙のシャーリックの熱い接吻をたくさん受けて生まれた祝福された獣で、大変に勇気があり、主人と仲間を守るためには命を奪うことも捨てることも厭わぬ、そんな気高い生き物なのでした。

 一方、ろくでなしで、だらしなく、「どこかにまとまった金が落ちていないかなあ、いやこの際小銭でいいや。塵も積もればなんとやらだ、いっぱい小銭を拾いたいなあ」などと恐ろしく志の低いことを、やはり駄目人間な兄貴分と真顔で語りあうばかりであったどうしようもないヴァンも、驚くべきことに、この遺跡にちゃんと立ち向かっていったのです。
 もちろん最初のうちは、キレハが事あるごとに助けてやらねばなりませんでしたけれどね。
 魔物につけられた傷を舐め、道はこっちよ! と吠えて教え、遺跡の外に出てからも「もう怖いよー、明日こそ僕は死んじゃうよ、もう遺跡に行きたくないよー」と路地裏に隠れて膝を丸めて震えているのをわんわん! と叱咤し、頬を伝う涙はぺろぺろ全部舐めてやり、しがみついてくる両腕に頭を預けて、どんな罠があるかもしれぬ迷宮の扉を開けるのすら怖いという愚痴に、くぅーんくぅーんと湿った相槌をうってやり、まったく手のかかることでしたが、それでもヴァンは毎朝きちんと立ち上がり、妹分を助けるために毎日、毎日、一日も休まず、キレハや他の仲間たちと遺跡へ向かい、思ってもみなかったような勇気や知恵を見せるようになったのでした。それは本当に大した頑張りようで、手に入れた美味しい肉の半分は必ずキレハに食べさせてくれることもあり、キレハはなかなかにヴァンを見直したのでした。
 しかしもちろんヴァンはヴァンなので、いくらしっかりしてきたといってもキレハの主人になれるほどの立派な人間ではなく、むしろだらしなく、やっぱりみっともなくて、例えば野営中に冷えこんだ夜など、「きみ、寒いからこっちおいで。いや、僕がそっちへ行こう」とガタガタ震えながら固い毛布ごと地面をごろごろ転がってきて、焚き火の番をしながら微睡んでいる灰まみれのキレハに抱きついたりして、まったく手間のかかる仲間なんだからと思いながら、おとなしくキレハは抱かれてやり、尻尾でぱたぱたと灰を払ってやるのでした。




 *




 振り返ってみれば、なんと色々なことがあった八ヶ月だったのでしょう。

 キレハは、その冒険がすべて、遺跡が発見されたせいで起こったことで、地面に埋めておいた古い骨を食べたらお腹が痛くなったような、辛いけれど仕方がない、誰が悪いわけでもない、だからといって誰が得するわけでもない、そんな嫌な出来事だと思っていたのですが、長くて短い冒険を終えてみれば、これはすべてヴァンのための物語だったのでした。
 ろくでなしのチンピラだったはずのヴァンは、遺跡の謎が明らかになっていくにつれて、段々とぴんと背を伸ばし、胸を張って、英雄、公国の騎士、カリスマ探索者、そう持て囃されるようにもなりました。ヴァンの眼差しが変わったのは、彼がこの冒険を通じて、『自分は何者か』を知ったせいもあるのでしょう。人間たちは、犬と違って、それを自分で探さないといけないのです。このように成長したヴァンは、最後にたどり着いた天空の都で、とても強い、まるで神々のような、太古の魔術師と戦うことになりました。
 港のチンピラは、ただの犬と並んで天を見上げ、「わぁもう逃げたい。今帰ったら駄目かなあ」と最初にとても駄目なことを言ったものの、そこからは一歩も引かずに戦いました。
 キレハもまた、真っ黒い耳をぴんと立て、その持ち前の勇敢さと義侠心でもって、ヴァンと並んで天を見上げ、わわん! と格好のいい台詞を言ってから、そこからは一歩も引かずに戦いました。あんなにも強くて大きな物を相手に、尻尾を巻くことも耳を伏せることもなく、凛々しく戦うことができる犬は、この世界にそう沢山はいないでしょう。そうです、平凡なただの犬だったはずのキレハもまた、この冒険を通じて凛々しくて勇敢なすごい犬になっていたのでした。
 ヴァンとキレハを圧し潰すように広がった空から、雷がピシャーッ、ピシャーッと鋭い白い槍のように降り注ぎ、ひとつ身動きして、彼らの体や毛が空気と擦れるたび、全身がびりびりと震えて熱くなり、魔法の力を帯びた剣は明るく輝き、生み出された炎の玉は空に向かって飛んでいきました。



 雷の巨人が千々に乱れ、耳が痛くなるような轟音とともに宙に散ったあと、小さな町の上には、久しぶりに、真っ青な空が広がりました。




 *




 遺跡の怪異が収束し、静けさを取り戻した町で、ヴァンの周囲だけが相変わらず騒がしいままでした。
 ヴァンと一緒に戦ったキレハだって、勇敢な犬としてそれなりに騒がれたのですが、なにしろキレハはただの犬です。たくさんの人が立派な奴だと頭を撫でに来て、肉の赤いところをくれて、それでお終いでした。王様であっても法王様でも、犬に沢山の褒美をあげることはできないのです。キレハは美味しい餌をたっぷり食べて、わふっわふっと唸り声をあげ、尻尾をいくつか振りました。以前ならそれで大満足なはずだったのですが、今のキレハはまるで満足できません。それどころか胸も苦しいし耳も立たないし尻尾も重いし、寂しげに鼻を鳴らしながら、町をうろうろしています。
 通りを行くキレハを見れば、町の人たちは、ほら、あれが勇敢な黒い犬よ、と噂します。小鳥や猫は、その足音が聞こえただけで、慌ててピューっと逃げて行きます。前はキレハを馬鹿にしていた犬たちも、彼女に道を譲りました。
 でもキレハは、得意な気持ちになりません。
 幸福な気持ちにもなれません。
 酒場に行ってみれば、以前と同じ暮らしに戻ったろくでなしの若者たちが、以前と変わらぬ笑顔でキレハを手荒く迎えてくれますが、その中にヴァンの姿はないのです。
 ヴァンは今は立派な騎士様となり、港の汚い狭い下宿ではなく、領主の館に住んでいるのでした。
 町を、国を、世界を救った英雄のヴァンは、町の偉い人たちに、どうかこの土地を治めて下さいとお願いされました。ヴァンは、うんわかったよ、いいよやりますと、昔と変わらぬ気のいい返事をしたのでした。



 今日もキレハはてってってと町を歩きます。こんなに利口で勇敢で立派なのに、キレハは一人ぼっちです。なんてつまらないのかしら、と思います。
 酒場の前を通ったあと、ヴァンは一人で大丈夫なのかしらといつものように心配になったのですが、ヴァンはもうただの犬の心配など必要としていない、立派な身分の人間なのです。領主の館にはたくさんの召使いや従者たちがいて、ヴァンと家族に仕えています。たとえ酔っ払ったヴァンが道端で寝てしまったとしても、召使いたちが苦労もなく彼を立派な部屋まで運んでいくでしょう。もう臆病者ではないのでガタガタ震えることもないでしょうし、たとえ泣くことがあったとしても、涙に濡れた頬は集まってきた女の人たちに、綺麗で清潔なハンカチでさっと拭ってもらえることでしょう。寒い夜には、何枚もの毛布で体をくるんでもらえるはずです。それに第一、領主の館は山の上にあり、たくさんの兵士たちに守られているので、キレハは近づくことができません。
 きっとヴァンは幸せに暮らしているのでしょう。
 しかしだからといって、自分を放っておくなんて、道理にあわないではありませんか。なんという駄目なヴァンなのでしょう。
 段々と腹がたってきたキレハは、広場の石畳の上でぱっと身構えて、領主の館の向こうにかかる月にむかって、いえ、正確にはそこにいるヴァンの耳に届けと、ワォーン、ウゥー! とどこまでも尾を引く、切なげな声で、遠吠えをしました。仲間にむかって、こっちへ来なさいと合図するこの遠吠えが、たとえヴァンの耳に届いたとしても、ヴァンにはキレハの言葉など理解が出来るわけもなく、そんなことは利口なキレハには百も承知なのですが、それでも鳴きやむことはできませんでした。
 キレハは、こんなことならヴァンがあの嫌な匂いのする悪い魔術師をやっつけなければよかったのだとか、いやいや、そもそも最初にもっとちゃんと説教をして遺跡へ行くのを思いとどまらせればよかった、いやそれも違う、だってそれではヴァンの大事な家族が助からないもの、でも私だって彼の家族みたいなものじゃない、会いたいのにどうしていないの、そういった気持ちが次々と胸に広がり喉に溢れて、クゥウーン、オオーン! と繰り返し叫ぶうちに、夜もいよいよ更けてきて、白い月のあかりが石畳を濡らすような真夜中、キレハの尖った耳はひたひたという足音を捕らえたのでした。
 領主の館から広場まで、月明かりはまるで一筋の道のように輝き、その道を、ひたひた、ひたひた、赤い瞳と同じように、不思議に静かな足音が、まっすぐこちらに近づいてきます。キレハの鼻は目よりも先に、その懐かしい匂いを捕らえておりました。
 やがて姿を現したヴァンは、騎士様らしい格好ではなく、昔通りの軽装をして、肩には探索の時にいつも使っていた道具袋を下げておりました。一直線に広場を横切り、自分に向かって走って来る真っ黒い犬の気配に一瞬驚いた顔をして、その表情が変わるまえに、ヴァンの胸元にぶつかったキレハは、若者を地面に押し倒しておりました。
 顔中を舐め回されたヴァンは、「わー」とか「ひー」とか「どうしてここに」とか、そういった特に意味のない言葉を嬉しげに叫んでおりましたが、ようやくキレハを押しのけて上半身を起こすと、「お座り、お座り! きみはほんと行儀が悪いね!」と実に偉そうに言いました。まったく、なんというヴァンでしょう! キレハはその場に腰を落ち着けると「わん、くーん、わんわんっ! わん!」と、今までにない厳しい口調で彼を責めました。また会えたことはとてもとても嬉しかったのですが、ここで甘い顔をしてはヴァンのためによくない、仲のいい犬に会いに来ないことがいかに無礼で、つまらなくて、犬を死にそうな気持ちにさせることなのか、しっかりと言い聞かせなければならないと思ったのです。ヴァンは理路整然と語りかけるキレハの首を抱き寄せ、「そうかそうか、よしよし」と額や耳の後ろをごりごりと撫で回し、「わかった、わかったよ。そんなにまた会えたのが嬉しいか」と言いました。キレハはそういうことを言いたかったのではないですが、ヴァンの匂いを嗅ぎつけた瞬間からずっと千切れんばかりの勢いで左右に振つ続けている尻尾をどうしても止めることができないので、もうお説教は諦めて、「わふわふ!」と嬉しく鳴きました。
 ヴァンはキレハの頭を撫でたあと、やけにそわそわした顔で領主の館を振り向いて、「さあ、もう静かに。そうっと行こう、時間がない。フランちゃんがごまかしてくれるのは、きっちり夜明けまでだ」とひそひそ声で言いました。立ち上がったヴァンは、道具袋をがちゃりと鳴らして背負い直すと、足早に広場を東へと歩き出します。キレハは尻尾を振りながらヴァンの隣に並んで歩き出しました。
 こんな時間にどうしたの? もしかしてまた遺跡へ行くのかしら? それならもっとちゃんと装備をしないと! わんわん、キレハが吠えると、ヴァンはまた「シーッ!」と声を上げました。
 夜の間はぴったりと閉ざされている東の門には、今夜も見張りの門番が立っていて、しかし彼らの目は門の外に向いているため、夜闇に紛れて町の中から外へ出るのは、その逆よりも幾分容易なのでした。しかしこの町を治める騎士様が、なぜ門番の目を盗み、ロープを使って、こっそりと外壁を越えなければならないのでしょう? これまでの幾多の冒険の時と同じく、キレハはおとなしくヴァンに抱かれたまま、外壁を越えました。それから息を殺し、背の高い草の影に身をかがめて、物音を立てぬようこっそりと、ヴァンの後ろをついていき、再会してから小一時間も経たぬうちに、一人と一匹は、小さな町から離れた丘の上を並んで歩いておりました。冷たい冬の風が吹いていますが、真っ黒い毛皮に包まれたキレハは平気です。 ヴァンは膝まで届く草を掻き分けて、前へ前へと休むことなく足早に歩きながら、まるで誰かが周囲にいるかのように、警戒しきった小さな声で、キレハにむかってささやきました。
「まったく、騎士様なんて実際になったら面白いものじゃあないね。毎日毎日、あんなピラピラした服を着て、へらへら笑ってお愛想を言って、あんな書類の山に囲まれてさ。なんて退屈な毎日! 本当に死ぬかと思ったよ」
 キレハにはお愛想や書類の山が何なのかわかりません。
 ただ、領主の館で安全に暮らしているはずのヴァンに、そんな命の危険があったなんて知りませんでした。本当に馬鹿なヴァンです。口笛を吹いて私を呼んでくれれば、すぐにでも助けに行ったのに! そう思ったキレハが「うー、わん!」と唸ると、ヴァンはひとつ頷いて、さっきよりも少し堂々とした、大きな声で言いました。
「日のあるうちはお酒も駄目、蟋蟀の賭博も駄目、屋根の上で昼寝も駄目、あれも駄目、これも駄目、自由なんかまるでないんだもの! ――でも――これからは――パリスやチュナには悪いけどさ――これでもう――」
 ヴァンは雲ひとつない夜空を見上げ、それからキレハを見下ろします。不思議な赤い瞳が星のように輝いています。ヴァンの体からは、うっすらとした緊張と、ほんの少しの後悔と、それ以上にわくわくと興奮し、まっすぐな、こらえようのない、若々しい歓喜の匂いが漂ってきます。
「キレハ、またきみと会えて、俺はとても嬉しいよ!」
 キレハがわん! と鳴いて賛同の意を示すと、ヴァンは突然何事かを思い出したかのように、「あっ、いけねえ!」と叫びました。久しぶりに再会して当たり前みたいにキレハを連れてきたヴァンは、ここで突然改まった表情になり、従順に彼の言葉を待つ黒い犬に向かって、すごく真面目な口調で言いました。
「ところで説明が遅れたけどさ、俺、つまり今、俺は全部を放り出して、館を逃げ出してきたところなんだけど。それでこの先どこに行くとか決まってないんだけど、きみ、きみも一緒に行くかい?」


 なんという駄目なヴァン!




 なんという大きな月でしょう!




 英雄と呼ばれたこともある、ろくでなしで、しかし気のいい若者と、小さな町で生まれた勇敢な一匹の黒い犬が、満月に照らされた丘の上を、踊るような足取りで進んで行きます。ぴょんぴょんと跳ねる白い人と黒い犬の影は楽しげに揺らめき、長く長く伸びて草の上に落ち、彼らがゆく道は丘や、森や、草原や、流れる小川を越えて、どこまでもどこまでも続いているのでした。




 *




 それから一人と一匹は、




 *




 ヴァンが持ってきた古い金貨や宝玉の数々は、博奕打ちの集まる町や、川の畔に暮らす貧しい母娘や、隠れ住む亜人たちの石の砦や、足萎えを装ったひどい詐欺師や、星を見張る魔術師たちの学院や、冬の王が守る凍った山脈や、そういった人々や土地を通り過ぎるたびに少しずつあるいはどかんどかんと大きく減っていき、そのかわりにヴァンは、軽業や、魔物を呼び出す魔法陣や、宝玉そっくりなガラス玉や、欲しい物が毎日ひとつだけ出てくる魔法の袋や、ひっかき傷や青あざや、優しい涙や、女の子のパンツや、そういった役に立つ物や立たない物、たくさんの物を手に入れたり逃したりして、しかし食べ物は全部キレハときっちり二等分して、一人と一匹はいつも身を寄せ合って眠り、空きっ腹を抱えて泣きながらとぼとぼと並んで歩くこともあれば、野原を大笑いしながら抱き合って転げまわることもあり、時々は本気で喧嘩をして、はぐれて、ほどなく再会して、



 あるいはもしかしたらそんな旅などすべてが夢で、翌朝大きな都に着いたとたん、小さな町から追いかけてきた人たちに捕まって引き戻され、領主の館で待ち構えていた兄弟分や幼馴染みや仲間たちにとっちめられて、「わかった、いいよ、仕方ないな」と力なくつぶやいて、観念してその土地の領主様となり、けれどもその先はいつも必ずキレハと一緒で、起きている時はもちろん眠る時も狩りの時もお風呂でも会議の席でも裁きの座でも、だからヴァンはいつしか黒犬伯と呼ばれるようになり、キレハはキレハでヴァンがだらしない分私がしっかりしなきゃと心得ていたのでまったく吠えずいつでもぴっと凛々しい顔をして彼の側に控えているので国で一番利口な犬として知られ、



 いやいやそうではなく、旅に疲れたいくつ目かの国で、偶然立ち寄った酒場を切り盛りする年上の女に見初められ、数カ月ほどぐだぐだと一緒に暮らした後、ヴァンは彼女と夫婦になって仕事を手伝うようになり、そろそろ落ち着いた暮らしがしたいというどうしようもない下心から始まった結婚生活ではあったものの、からりとして義に厚く大の犬好きであった彼女とヴァンはなかなかに相性がよくて、キレハとヴァンとヴァンの嫁さんは仲良く暮らし、



 それもこれも違う話で、大河の波音もきこえぬ荒野に辿りついたヴァンとキレハは、そこでかつて魔王を生み出した一族の末裔に出会い、そこでまた冒険をし、彼らと不思議な友情を育んで、




 どれが本当のことなのか、

 あるいは全部が間違っているのか、



 ただ一つ確かなことがあって、キレハという名前の黒い犬は利口で勇敢で義に厚いものの、結局はただの犬なので、人間よりもずっと早くに死んでしまうのでした。




 *




 ヴァンの膝の上に横たわり、老いと病みに艶の消えた貧相な尻尾をぱたん、ぱたんと打ち振って、


 昔、あの遺跡を探索した時、とても恐ろしかったけれど、とても楽しかったわねえ!


 それに色んな美味しいものをいっぱい食べたわね! 竜の尻尾を切り取ったあの肉は口に入れたとたん熱を発しながら甘く濃くとろけるようで、でもあなたのポケットから出てきた塩の味しかしない乾パンも、すごく美味しかったな! 一緒に食べたらなんでも美味しかったわね!


 もう今の私は水を飲むのもやっとだけれど、あなたはそろそろご飯を食べればいいのに。どうしてずっと座っているんだろう。もしかしたら、あまりに長い間一緒にいすぎたせいで、私と半分こしないと何も食べれないようになっているのかな。それは困るわね。私はいいんだけれど、あなたはこの先とても困るわね。


 ぱたん、ぱたんと尻尾を振って、



 めそめそしないで、しっかりなさい!



 そうするとヴァンが、「しっかりなんかできないよ」と途方に暮れたような低い声で言ったので、そんな場合でもないのに、この人は大事なことはいつだってきちんとわかってるのねと


 とても満足して




 この犬は少し強情すぎるのがちょっとした欠点で、だから目を閉じて、結局主人が見つからなかったのが心残りだわとチラリと思い、だけどもしも立派な主人が現れたらヴァンを見捨てることになってしまったからこれはこれでよかったとすぐに思いなおして、力を振り絞って舌を伸ばし、本当は頬の涙を舐めてあげたかったけれど頭がもう持ち上がらないので仕方なく自分の前足を握る手に乾ききった鼻を押し付け震える舌で手を舐めて、



 *




 昔、昔、どこかの小さな町に




 *




 もしも同じように二本の足で立ち、二本の手を差し伸べて、うん、もちろん犬なのが嫌なわけじゃないっていうかその逆で私は犬でも不満なんてないというよりむしろ人間よりは犬がいいのだけれど、だって耳も尻尾もないなんて考えられないし正直なければみっともないと思うし、それに生のままであんなにも美味しいお肉をわざわざ火にかけたりお湯に浸したり、人間はなんて不自由な生き物なのかしら、でもそれでもまあ、もしも、もしもの話よ、もしかして私が彼と同じ人間だったら、それなら別に主人じゃなくても問題がないのよね何ひとつ、そりゃ今だって問題なんてないけれど! ええ、うん、いいのわかってる、もしもの話なんだから別にいいじゃない単なるもしもの話なんだし。それに可能性もあるわよね。彼が「犬のキレハがよかったのになんだよなんでそんな格好なんだよ」ってぶつくさ文句を言い出す可能性が。ああ、すごく言いそう、そういう仕方のない文句を言いそうね! でもいいわ、わかってるもの、最後には笑って「いいよ、大丈夫だよ、きみは結局キレハだものね。こっちおいで。手をつなごう、いつものように並んで歩いてもっともっと遠くまで行こう、ずっとずっと一緒にいよう」、そう言うと知っているの。だって彼はそういう人だもの。




 *




 昔、昔、どこかの世界のどこかの国のどこかの町に、一匹の黒い犬が住んでいました。
 同じ町には一人の若者が住んでいて、彼の名前は多分ヴァン、いいえ、もしかしたら全然別の違う名前だったかもしれません。
 とにかく、その黒い犬と若者は、仲間たちと共に身の危険もかえりみず、様々な怪異に勇敢に立ち向かい、片方に元気がない時はもう一方が頑張って、揃って元気のない時は一緒に美味しい物をたくさん食べて、よく走り、よく吠え、よく遊び、眠れない夜には仲良く星空を見上げて、大きな声で笑い、時々は悲しみ、いつも頭を高く掲げぴんと背を伸ばして胸を張り、



 一人と一匹で仲良く暮らしておりました。



 それだけは確かなお話です。




 end

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