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血より濃く

ネス大公 テオル

 朦朧とした意識の中で乾きを覚える。
 水を、と呟くが声にはならない。
 震える腕には力が入らず、杯を取り上げるどころか、手を伸ばすことすらできない。

(はるか昔にもこういったことがあった。あの時はまだ少年だった。火のような痛みに晒され、寝台の上で体をねじり天蓋を支える柱をつかみ宙を蹴り、泣き喚き、絶叫し、杯を取るどころかどちらが天でどこか地かもわからず、ただただ苦痛だけがあった。
 いつもなら続きの間に控えおり、咳払い一つですぐさま駆けつける侍従たちは、その晩は姿も見せず声もせず、水を、水を、そう呻き続けるうちに、やがて扉の向こうに足音がきこえた。
 石の廊下を蹴りつける重い鉄の靴、母親や召使いの柔らかで控え目な気配とはまるで違う地鳴りのようなその響き、それを耳にしたとたん、火のような痛みと渇きの両方を忘れ去った。寝台の上で身を縮まらせ、両開きの重い樫の扉を見つめやった。近づいてくるあの足音。間違えようのないあの気配。眠る獅子を起こしてしまったことへの後悔と恐怖を今でもはっきりと思いだす。傷の疼きとともに思い出す。耐えがたい喉の乾きが呼び起こす。)

(あの時扉を開けて寝室に入ってきた父上は、血まみれの寝台と両肩を抱いて体を震わせる息子を見て何を思っただろう。何をお考えになったのだろう――。彼は言った。あの日寝室で父が口にしたすべての言葉となしたあらゆる動作を、昨日のことのように覚えている。生涯忘れまい。父に関する他のすべてと同じように。父の一挙手一投足が心に刻まれている。)

(父のあの堂々たる体躯、獅子の鬣のような金色の髪と髭、重い甲冑を楽々と着こなし、巨大な剣を腰に下げたあの偉大な姿。平原を埋めた兵士たちを馬上から睥睨するあの両目。何一つ見逃さぬ鷹のようなあの視線。雷のように轟きわたる声。声――。東方守護の獅子公の名にふさわしいあの威厳。父の前に立てば意見どころか口を開くことすらかなわず、側にいるだけで睾丸が縮みあがった。
 城の礼拝堂にあるハァルの像にいつも漠然と祈りを捧げていたが、ある日見上げ、その大理石でできた大神の顔が父と瓜二つだと気付いた瞬間、雷に打たれたかのように全身が震え舌がかたまり呼吸を止めた。
 いつでも父を恐れていた――。)


 エルパディアから取り寄せた銀の杯は大粒の緑玉で飾られている。冷たい水で満たされている。いつでも寝台の側の小卓に置かれている。


(漆黒の甲冑に身を包み魔法のきらめきを帯びた兜を被り腰には二本の剣を下げ、黒い馬に乗ってゆっくりと、様々な紋章をつけた兵隊たちの列の間を行く。
 丘陵を埋めた兵隊たちは皆精悍で勇猛そうだ。しかし最も恐ろしく力強いのは黒馬にまたがる父だ、彼は大公であり将軍なのだ。
 知っている。まだ少年ではあるがもう幼児ではない、公式の行事には大公の長子として、馬上から臨むことを許された年齢だ――白い馬にまたがり手綱を取り、両脇を同じく騎乗した家臣に挟まれ、父の姿に熱い視線を送っている。だから理解できている。礼拝堂のハァルの像が父と瓜二つなのは、ハァル像を依頼された彫刻家が父をモデルにしたせいだ。ただそれだけのこと。しかしこうしてネスの全土から諸侯が率いてきた軍の閲兵式に臨む父の姿は、まさに神そのものだ。遠くには緑の丘の頂きに、高い壁に囲まれたナザリの都が見え、近くには雲霞のごとき兵士たちと、その前に並ぶ諸侯の姿――。
 貴族たちも兵士たちも、皆少年の父を見つめている。
 丘の上から下へと、春の風が吹き荒れる。
 少年のまたがっていた馬が、突如勢いよく頭を上げた。
 空中に丸々と太った蜂がいる。馬の白い首筋にぶつかったあと、向きをかえ、馬の耳の中に飛びこんだ。例えその蜂の動きにあからじめ気付いていたとしても、何もできなかっただろう。幼児ではないがまだ少年だ、荒れ狂う馬を押さえることなどできるわけがない。馬はいななき、後足だけで立ちあがる。夢中で手綱をつかむが、あっと思う間もなく落馬する。
 少年の体は草の上に転がる。頭上の青空を覆う馬体とその鋭い蹄鉄の閃きが視界いっぱいに広がる。悲鳴をあげた。
 家臣たちの手によって、すぐに馬は取り押さえられる。
 閲兵式でこのような馬鹿げた失態を晒すなど、誰も予想していなかった。普段は優秀な少年だ。木の剣で打たれてもひるむことなく師匠にむかっていき、牙を剥いて泡を吹く猟犬たちを鎖につなぐことなく餌をやり、落馬してもすぐに立ちあがり馬を追う。間違いなく大公閣下の御子息、勇猛で冷静、獅子公の跡を継ぐにふさわしい。家臣たちがお世辞ではなく口を揃えてそう誉める――少年自身も己の優秀さを知っている。だが唯一、父の前では……あの方の前でだけは……恐怖に手はすくみ視界は狭まり、心は震え……。
 草上の少年は頭を抱えて震えている。その姿をネスの四方から集まった諸侯たちが見ている。彼らが率いてきた兵士たちも見ている。黒馬にまたがる父が鷹のような目で少年を睨みつけている。息子の姿を見つめている。)



 毛布の上に置いた両手が震えだした。
 痩せた両手がひきつったように痙攣している。
 喉の乾きはいよいよ抑えがたい。水が欲しい。


(ためらいのない一撃だった。
 絶叫しもんどりうち、噴き出した血は少年の顔を手を服を床を赤く染めた。顔面を押さえてのたうちまわる自分にむかって、父は言う。血のついた剣を片手に下げたままで告げる。
 唾棄すべきは悲鳴をあげた貴様の心の脆弱さ。馬を押さえられなかった馬術の拙さなど些事にすぎぬ。わしがかいた恥など問題ではない。いいか、わしを怒らせるのは、将来率いるべき兵たちの前で、我が身一つを守ろうと、女のように恐怖を見せた貴様の心のありかたよ……。
 噴き出す血が両手にかかる。床の上を転がれば生温かな血が髪に絡む。痛い。熱い。苦しい。顔面が引き裂かれる。広間の床でのたうちまわる少年に駆け寄るいくつかの足音に、父の声が怒鳴る。
 ――手当ては許さん。この程度、戦場ではかすり傷よ。放っておけ、手を貸した者はこれと同じ目にあわせると、女どもにも伝えておけ。
 顔の傷はまるで雷に打たれたかのようで、悲鳴をあげてはいけない、恐怖を見せてはいけないと己に言い聞かせるものの、苦痛は少年の肺を広げ喉を押し開け、獣のような咆哮をあげさせる。しかし父への恨みなどない。憎しみなどとんでもない! 彼を怒らせればこのように罰を受けるのは当然こと、なぜなら彼は大神ハァルその人、ネスの諸侯をまとめる大公であり、後継ぎたる少年に脆弱さをお許しになるわけがない。)

(そうだ、そしてその晩、手当ても受けぬまま自分の寝台の上でまた開いた傷口に苦しみ暴れる少年の元に再び父が姿を現したのだ。 父は寝台までまっすぐに近づいてくる――申し訳ございません、父上、しわがれた声でそう呟く。それで精一杯だ。涙が浮かぶ。恐怖だけではない、恥ずかしさと不甲斐ない自分に対する怒りのせいだ。何よりも父を恐れていた。同時に最も敬愛していた。悲鳴を叱咤されたにも関わらず、夜になってもまだ叫んでいる己が口惜しく、期待に添えないことが心底悔しかった。
 しかし近づいてきた父は、卓上から杯を取り上げ、首の長い水差しを持ちあげると杯に水を注ぐ。寝台の端に腰を下ろし、その力強い腕で少年を抱き寄せると、唇に杯を近づけた。父の腕にすがりつき、夢中で水を飲んだ。一滴残さず飲み干すと、父は少年の頭をなでた。家臣の前では決して漏らすことのない、柔らかいな温かい声で言った。
 ――よく我慢したな。それでこそ我が息子よ。
 もはや涙をこらえることができない。顔を伏せ嗚咽を漏らす少年に、父は言葉をかけない。立ちあがると身をひるがえし、ゆっくりと寝室を出て行く。その威厳に満ちた背中。
 振り仰ぐ大神であり仕えるべき君主であり尊敬すべき男である父の姿――何よりも恐れている。世界のすべてよりも愛している……。)



 喉が渇く。
 手に力が入らない。
「水を」
 そう言ったつもりだが、声になったかどうか。
 しかしその時廊下に足音がきこえてきた。身の回りの世話をする女たちの、柔らかで控えめなそれとはまったく違う気配。石を叩く鉄の靴底。間違えようのないあれは父上の足音だ。父上が来られる。朦朧とした意識の中でそう思う。恐怖のあまり体がすくむが同時に例えようのない喜びを覚える。父上、ご覧ください、私は立派に成長いたしました。父上……もう落馬などいたしません。あの日の閲兵式に臨んだ諸侯を束ね、私は戦場では見事に号令をかけたのです。西シーウァの兵隊どもには雨のように火矢を降らせてやりました。泡をくって逃げ出す連中の姿をお見せしたかった!……父上、私はネスの領土を見事に守り抜きましたぞ……キール山の麓もホルムも、父上から譲り受けた領土は何一つ欠けてはおりませぬ……。
 重い樫の扉はゆっくりと開いていく。父を迎えるために寝台から起き上がろうともがくが、彼の体はいうことをきかない。手も動かせぬ人間が、体を起こせるはずもない。扉が開ききり、その向こうから長身の男が姿を現す。堂々たるその体躯、甲冑に身を固めたその姿……。

 寝室に足を踏み入れたテオル公子は、すでに旅支度を整えている。素早く目を走らせて室内の気配を探り、すぐに表情を緩めると、十字の傷が浮かぶ顔に短い苦笑を閃かせた。
 部屋の中央に置かれた寝台から、痩せ衰えた老人の体がずり落ちている。
 ネス大公ラウル、六十四の小邦と諸侯を束ねるネスの第一人者、東方の獅子公と呼ばれた血筋の男は、乱れた白髪の下の焦点を失った両目を宙に泳がせている。だらしなくぽかんと開いた口の端からは涎が垂れ、震える手は天蓋から垂れた薄絹をつかんでいた。
「やれやれ、またお暴れになられて――困った癖ですぞ、父上。ご病気の間は侍医たちの言うことをきいて、おとなしくして頂かなければ」
 扉の外に控える衛兵たちの耳まで届くように大声を出し、寝台に近づいていく。長い闘病生活で痩せ衰え見る影もなくなった父親の体を、楽々と片腕で支え起こした。ここしばらくはかけられるどんな声にも反応を示さず、口のききかたすら忘れたようなラウルだったが、テオルの腕にすがるように両手をからめて、彼の顔を仰ぎ見た。細い声で「水を――」と囁く。
「水ですか?」
 テオルは父の体を支えたまま、振りむいて寝台の脇の小卓に手を伸ばした。なみなみと水が注がれた杯を父親の口元に運ぼうとする――だがそれが銀でできていることに気付くと、途中で手を止め、杯を宙に掲げた。
 テオルはゆっくりと微笑する。
「見舞いに来た誰かに、いらぬことでも吹きこまれましたかな――毒は銀を曇らせるというが、あれは迷信だ。実際には何の効果もない。己は以前試したことがあるのですよ、親父殿。毒を混ぜた葡萄酒を注いでも、銀はなにひとつ変化などしない」
 ラウルの黄色く濁った眼には、わずかに涙が浮かんでいる。テオルの声がきこえているのかいないのか……間近でその顔をじっくりと観察しながら、テオルは内心で小さく舌打ちをした。毒を与え続けて早や三月、普通の人間ならひと月せぬうちに死ぬという話だったのに、体だけは丈夫なものだ。古い傷痕が無数に残る老人のその顔に、いつもと違う表情が……黄色く濁った両目に影のようなものが、意志の力を感じさせる何かが浮かんでいる。
 ――まさか回復しているのではあるまいな?
 はるかな昔、父を見るたびに感じていた圧倒的な恐怖心が、記憶の中から真っ黒い鎌首をもたげるのを感じる。あの頃は彼を不死の神々の一柱であるかのように思っていた。馬鹿げた話だ。テオルの腕の中にあるラウルの体は枯れ木のようだ。その目にも声にも往年の力はない。ねばった涎に汚れた唇からは、脈絡のない言葉がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「……水を……父上が……落馬など……あのような……お恥ずかしい……父上に恥を……水を……あの土地を……ホルムを……ホルムを……」
「おや、これは――」
 テオルはわずかに目を細めた。暗い緊張に満ちたその目つきとは裏腹に、朗らかな声で言った。
「ご安心なされよ、今から出発いたします。怪異の数々など恐れるようなものではない。ホルムの遺跡は己に任せられよ……そう、それにしばらくはナザリを離れたくもありますしね……父上のご病気と息子の己を結びつけるとは、まったく疑い深い……困った連中がいるものだ」
 最後にはテオルの声は低い囁きとなった。
「……侍医たちはすべて己が雇った者ばかりだ。必ず彼らの言うことをおきき下さい。己がホルムから帰るころには、その苦痛からはきっと解放されておられるはずだ」
「水を……水を……」
 テオルは片方の眉を持ちあげる。ずっと空中に掲げていた杯を下ろし、乾ききった父親の唇に近づける――唇が銀の杯に触れた次の瞬間、さっと立ちあがった。支えを失ったラウルの体は、力なく寝台の上に倒れ伏す。
「いけませんなあ、親父殿。水くらいはご自分の力でお飲みにならないと! ……人間は戒めがなければいくらでも脆弱になっていく……あなたさえ例外でないとは。まったく、困ったものです!」
 杯をつかむ手をひらりと翻した。
 冷たい水は杯からこぼれ、寝台の下に敷かれた毛皮と冷たい石の床に黒い染みを作る。ラウルの目から顔全体に広がっていく絶望を、恐怖を、狼狽を、その素晴らしい甘さをテオルは存分に目で味わう。彼は己の乾きが満たされるのを感じる。
 軽やかな笑い声をあげ、テオルは杯を小卓の上に置いた。
「さて、それではそろそろ失礼致しますかな。父上、どうかお元気で。最後にお会いできてよかった。実に楽しいひと時でしたよ」
 白い傷が横断するその頬が、興奮のためにわずかに上気している。少年のような無邪気な喜びが浮かぶ両目で、寝台の上に倒れ伏す父親の姿をひとなですると、身をひるがえし、足音を高らかに響かせて、寝室を出ていった。


(父上、父上――世界のようにあなたを愛している。あなたはいつも私に報いて下さった! あの火のような痛みすら、与えて頂いた愛情の証。なんの恨みがございましょう? だからすべてはあなたの為されたそのように)



 喉の渇きはもはや痛みを覚えるほどだ。
 朦朧とした意識の中で、水を、と呟く。
 力が入らない。
 涙を流し、水を求めている。たった一人で。長い間。ずっと一人だけで。


end

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