塚護人 イバの大鹿
元は土くれだった。
そうなると人間と同じだという話になるが、ともかくある日、エルフの精霊術師がやってきて、大地に魔法陣を描き、そこにあれ・ここにあれ・私に従えと力ある言葉で告げたのだった。
ひと固まりの土くれが、どろどろとした人間の形になって立ちあがり、その胸の中央にはたらふく血を吸って魔法の力で眠らされた蚤が埋め込まれた。魔法陣で呼びだされ血によって縛られた土の精霊は、朝が来ても形なき物に戻れなかった。多分三千年ほど昔の話だろう。というのも召喚されたのは低級な精霊だったので、年月を数える能力を持たなかったからだ。
塚を護れというのがそれに与えられた命令だった。
つまり森の中には小さな塚があった。
土を盛り上げただけの簡素極まりない小さな塚だった。
エルフの精霊術師は塚の前に立ったそいつを見て、自分の術に満足して立ち去った。
そしてそのうち死んだという噂だ。
一方残されたそれは、昼も夜も立ち続けていた。
塚の前に。
塚を護って。
もしも知性があったなら、小さな塚は自分の兄のようなものだと考えたかもしれない――何しろどちらも同じ地面の同じ土からできているのだから。
それに考える知性などなかった。
ひたすらそこに立ち続けていた。
日が昇り、夕闇が訪れ、夜が過ぎ、また朝になり、絹のベールのような霧がいつでも森を覆っていた。霧の中に立ち尽くすうち、それの表面は泥めいていった。
塚を護れという言葉には、塚を壊す物は倒せという命令が言外に含まれていた。
時折舞い降りてきた小鳥たちがそれの頭や肩の上で羽根を休め、春には求愛の歌を歌った。それは小鳥たちの無礼なふるまいにもじっとしていが、小鳥が塚の上に舞い降りた時には、塚を護るために小鳥を叩きつぶそうと、拳を振りあげた。欠伸がでそうなその動きに、小鳥は土から顔をだした虫をつついて食事を終えてから飛びあがった。茶色い腕の下をからかうようにくぐりぬけ、空に消えていった。結局それは一度たりとも塚の上を踏みにじった小鳥たちを倒すことはできなかった。だが、命令を守れたので満足だった。
満足?
そう、この森は精霊術師が予想していたのよりもずっと魔力が強すぎたのだろう。
ただ命令を使役することしかできない――考えることも感じることもできないはずのそれには、小さな小さな感情が芽生え始めていた。
それは塚を護ることができれば「満足」だった。
塚を取り囲む三色すみれが風に揺れるのを見て「満足」したし、太った蜜蜂が塚にとまらず空中を飛びゆくのに「満足」したし、鼻を鳴らしながら塚に近づいてきた小鹿が、それの動きに怯えて走り去るのにも「満足」した。
「満足」と「満足でない」、二つの感情しかなかった。塚に誰も近づいていないなら満足で、誰かが塚に近づけば不満足だった。
千年ほどが経ったある日、毛の長い夜種がどたどたとやってきて、塚の上を横切ろうとした。その夜種は腹ぺこで魚が食べたくて、塚は川とそいつを結ぶ直線上にあったのだ。それはゆっくりと体を動かして塚を護り、道を変えることなど念頭にない夜種は威嚇の声をあげて鋭い爪のはえた手を振り上げ、必然的にそれと夜種はつかみあいになった。体の大きさは同じくらい、力も同じくらい、勝負はまったくの互角だった。命なきものと知性なきものは相手をつかみ、殴り、押して引いて噛みつき叩きつけ蹴り蹴って蹴りたおし、草を踏み荒らし木々をへし折りながら、塚の周囲をぐるぐると回った。
最後にはそれがずっしりと重く湿った腕を夜種の頭に勢いよく叩きつけ、夜種がひるんだすきに体を頭上へ持ち上げると、遠くへ放り投げた。太い木の幹にぶつかって、夜種はギャッと声をあげた。地面に落ちたあとぴくりとも動かなくなった。死んだのだ。
風が吹き、すぐにさらさらと夜種の体は塵となって消えていった。それは塚を護れたことに「満足」した。下半身が穴だらけになっていたが、それすらも気にならなかった。何しろ塚は無事だったのだから。
意思を持つ土くれを、いつまでもそれと呼ぶのは失礼だろうか?
ならばそろそろ我々はそれに名前をつけて――そう、たとえば塚護人と呼ぶことにしよう。
立ち続けた。
おそらく千年が経過した。
盛られた土は風によって削られ、いまや周囲の地面となんの区別もつかなくなっていた。森の中の空き地に緑の草が生え花が咲いている。誰もそこに塚があるとはわからないだろう。塚護人を除いては。
塚は今や小さな紫のすみれの花に覆われていた。
飛んできた色鮮やかなてんとう虫を塚護人はそうっと泥まみれの手で払った。赤い羽を震わせ、てんとう虫は空にむかって飛んでいった。
百年、二百年、そして千年。
不変など存在しない。
塚護人は塚を護り続けていたが、この魔法に封じられた世界にも変化が訪れようとしていた。
ある日馬に乗ったエルフの若者たちの集団が道に迷い、塚の側を通りかかった。螺鈿細工の箙を背負い銀の剣を腰に下げ、輝く髪とアーモンド形の紫の目をした見目麗しく退屈しきった若者たちだった。彼らは霧の中に突如現れた立ちつくす土の塊に一瞬うろたえ、次にそれが下級な召喚精霊だと気づくと、今度はうろたえたことに腹を立てた。エルフは命あるものを慈しみ、美を愛する。一枚のコインには裏と表があるように、彼らはその崇高な徳性ゆえに、偽の命と醜い物を激しく憎悪するのだった。
「なんだ、あの不格好な塊は」
一人が苛立たしげに舌打ちし、矢を弓につがえるとためらいなく射た――エルフが決して狙いを外さないのもみなさんがご承知の通り! 鉄の矢じりが音をたて、忠実な塚護人の胸に突き刺さった。それは痛みを感じたが――体には痛みを感じる器官がない、だが自分の体が損なわれることへの恐怖はあって、人であれ獣であれ、痛みの半分はそこから来るのだ――精霊術師はそれに舌を与えなかったので、悲鳴をあげることすらできなかった。ただぽっかり開いた口から、ごうごうと空気の音が響いただけだ。矢が刺さったことで背後に一歩よろめき、突如現れた正体すらわからぬ脅威から小さな塚を護るために両手を広げた。
引き続き飛んできた矢が、今度はそれの頭をかすめ、背後の木の幹に当たった。
「下手くそめ」
若者たちは華やかな笑い声をあげた。
嘲笑された射手は赤面し、己の失敗を取り戻そうと二本の矢を続けて放った。一本は塚護人の頭に刺さり、もう一本は最初の一本と同じように胸に命中した。塚護人は矢が塚に届かないように、腕を振り回した。塚を護れと命令されたが、自分を護れとは命令されていなかった。ゆっくりと体を揺らし腕を振り回し、しかし決して逃げだないその標的は、若者たちを楽しませた。滑稽な動きを笑いながら散々に矢を射かけたあと、「やめやめ、もう帰るぞ」と若者たちの一人が言った。
「イバの大鹿を探しに来たのに、泥人形を相手に矢を無駄にしただけではないか!」
エルフの若者たちは口ぐちに賛同した。
「まったくだ、こんなものを構っている時間はない」「なまじ動きまわるものだから面白がって」「大鹿を狩るための矢だというのに」「時間の無駄だ」
彼らが去っていったあと、全身に矢を浴びた塚護人が残された。
うろうろと塚の周囲を回っていた――脅威が去ったかどうか、理解できなかったのだ。矢は塚護人の頭に腹に胸に刺さり、力を込めて一本、一本、抜くたびに粘土のような体が揺れた。だが矢以上に心に刺さったものはイバの大鹿という言葉だった。
その言葉はなぜか塚護人はひどく「満足」させ、同時にちりちりと胸が焦げるような思いを味わわせた。
イバの大鹿!
その言葉は温かい、心地よい、柔らかい、まっ白でふかふかで満腹で、とても「満足」するもののように思えた。なぜそういう風に思えるのかはわからなかった。塚護人にとって考えることは手にあまる。
にも関わらず、塚護人はイバの大鹿について考え続けた。
軽やかに飛び跳ねる斑点のある仔鹿は知っていたし、巨大な角を誇らしげに掲げる牡鹿も知っていた。だがイバの大鹿は知らない。塚護人はイバの大鹿に会いたい、と思った――思ったのだ。触れるとと同時に触れられたかった。抱きしめると同時に抱かれたかった。
風が吹き、かつて塚があった場所におい茂った青い草が、ざわざわと揺れた。イバの大鹿! イバの大鹿! と囁いているようだった。
塚に近づくものはなく、日射しはきらめき、平和だった。
塚護人は自分が「満足」していないのに気付いた。
夜が過ぎて朝が来た。
そわそわと立っていた。
いまや塚護人は、空気や光や風や水、すべての元素を動かす精霊たちの声に耳を傾けていた。彼らは自分が触れた全てを彼らの言葉でしゃべり続ける。塚護人は森の遥か北に現れたまっ白い鹿が、泉で水を飲み、柔らかな木の芽をはんでいることを知った。
イバの手が触れたもうた白い毛皮を目にすると、獣たちは鼻と尾を垂らして後ずさりし、大鹿のために道を開けた。森を徘徊する穢れた夜種どもは当然女神への敬意など欠片もなかったが、高く張り出したその角と軽やかな動きにやはり尻ごみをした。
イバの大鹿は大樹の周囲を軽やかに駆け回った。
大鹿は森を楽しんでいた。だがその鼻先を南にむけようとはしなかった。イバの女神は大鹿に、その場所で英雄を待てと命じたのだった。
北へむかおうとした塚護人の足は、みしりみしりと音をたてて揺れた。
行くことはできなかった。
塚の側を離れることはできない――そのように召喚されたのだから。塚護人はそれでも北へむかおうとした。塚を護らねばならないはずなのに、もはや塚の側にいても「満足」はできなかったのだ。塚だった場所の周囲をぐるぐると周りながら、塚護人はぽっかりと口を開け、嘆きの声をあげた。お、お、お、と虚ろな風音が響いた。まっすぐ森を突っ切っていけば、イバの大鹿に出会えるはずだった。塚護人は北をむき、イバの大鹿を呼んだ。自分が動けないならばイバの大鹿に来てもらうしかないではないか。
ただの土くれである塚護人の呼び声に、イバの大鹿が耳を傾けるはずもなかったのだが、他には何も思いつかなかった。
立っていた。
とうとう顎が崩れ落ち、叫び声はあげられなくなった。
イバの大鹿は塚護人のことなど知らぬまま、森を駆け、丘で踊った。エルフの若者たちが射かけた矢は、大鹿の毛の一本すらも傷つけることができなかった! 彼らの愚かさを笑うように、イバの大鹿はふわりと前足を持ち上げ、森の深くまで駆けこんでいった。北へ。塚護人からは遠く離れて。
塚護人が知るすべもなかったが、妖精たちの森にイバの大鹿が現れたのはひとつの予兆だった。ある日エルフたちとは違う騒々しい話し声と足音が霧の向こうから近づいてきた。
そのころには塚護人の頭は、常にイバの大鹿のいる北をむいていた。しかし塚にむかって一直線にやってくるその足音を無視することはできなかった。
塚護人はゆっくりとふりむいた。塚護人が生まれて以来、一度も目にしたことがない奇妙な格好の連中だった。エルフ族より丈高く薄汚れ、武骨な武器を携えている。塚を荒らそうとする連中を倒すため、塚護人は片腕を腕をふりあげた。
近づいてきた杖を持つ若者にむかって、背後から仲間の声が飛んだ。
「様子がおかしいわよ、気をつけてアベリオン!」
塚護人は腕をふりおろした。
戦いはじめてすぐに今までの相手とは違うと気がついた。彼らは倒れても血を見てもひるまず、最初は細い剣と杖で殴りかかっていたが、すぐに距離をとって弓と魔法で塚護人の関節を狙い始めた。鉄の矢と魔法の矢が乱れ飛び、塚護人の肩を削った。
そのうちに塚護人の左腕が音を立てて崩れ、地面に――草むらのように見える塚の上へと落下した。
塚護人は絶叫した。
よろめいた塚護人の足元から鋭い氷の槍が飛び出してきて、その土の体を串刺しにした。三千年の間立ち続けたその場所で、塚護人の体は砕け散った。土の体が周囲に四散し、空中に舞って塚へ、地面へ、木々へ、塚護人を打倒した青年たちの体へと降り注いだ。その中には三千年の間眠り続けていた蚤も混じっていた。
人の形を失って血による呪縛を失ったその瞬間、土の精霊を縛っていた召喚の術はとけた。
塚護人の形をした檻から抜け出したその瞬間に、土の精霊はこの三千年の記憶を失った。生も死もなくただ循環を続ける精霊にとって、時間の長さにはなんの意味もなかった。塚のことも、イバの大鹿のこともすべてを忘れ、塚護人だった精霊は大地の中に潜りこんだ。自由を謳歌するために、仲間の精霊たちとたわむれるのもいいし、土中に網目のように広がりこの星を覆う竜脈を駆けてもよかった。しばし逡巡したあと、土の精霊は大地の底の底、この星の中心に渦巻く灼熱のマグマ、土の精霊たちを生みだす母なる鉄の海まで行こうと決めた。
だが、ほんの少しだけ潜ったところで、土の精霊は足を止めた。そこは塚護人が護り続けてきた塚の真下だった。そこには暖かな土に抱かれ、まっ白く硬い骨が埋められていた。足を折った形で丁寧に埋葬されていたのは、大きな鹿の骨だった。己の護り続けていた塚には、七つに別れた角の形もそのままに――土の精霊による守護の力は地底まで届いていたのだ――イバの大鹿の骨が眠っていたことを知れば、塚護人は驚いただろうか? それとも喜んだだろうか?
三千年前、女神イバに命じられ英雄のために放たれた大鹿は、命令のとおり英雄に狩られた。その白い毛皮は英雄を護る盾となったが、エルフの王の命令を受け、毛皮の残りと肉と骨は丁寧に埋葬されのだった。大鹿の安らかな眠りのために、小さな塚が築かれた。塚を護るため、エルフの精霊使いは土の精霊を召喚したのだった。
まっ白な鹿の骨を前に、理由もわからぬまま土の精霊の心は騒いだ。しかし精霊の掌が骨に触り、頭蓋骨を抱いたその瞬間、骨は三千年の時間を思い出し、塵となって崩れ落ちた。たちまち塵は土と混じりあい、残された土の精霊は軽く首をかしげた。骨なんて見慣れたものなのに、なぜ自分はこれが気になったんだろう? 大鹿の骨が消えてしまった今となっては、精霊は己の心をざわめかした焦燥の正体を知ることができなくなっていた。
土の精霊はマグマへ向かう途中だったのを思い出した。土の中で軽く跳ねて塚に背をむけ、流れる星のような勢いで、大地の底へと突き進んでいった。今でもこの地面のどこかで戯れているという噂だ。
塚護人を倒した魔術師の若者たちは、そのまま北へ進んだ。
イバの大鹿は彼らの前に姿を現した。それが女神イバの命じられたことだったからだ。弓矢を背負う女と義手の男を従えた魔術師の青年は、三千年前に大鹿を倒した英雄と同じ顔をしていた。獣の匂いのする女が、弓の弦を軽くはじき、魔法の力のこもる声で歌った。三千年前と同じように、イバの大鹿は前足を振りあげ、踊り出した。近づいてきた青年が重い杖を両腕でゆっくりと振りあげ、振りおろした。杖は踊るイバの大鹿ではなく、すぐ側の地面を撃った。杖を立てて自由になった両手で大鹿の角に触れ頭をなで、青年は満足したようだった。背後の仲間たちの方を振り向くと、こういった。
「このまま逃がしてやるけどいいかな?」
踊り歌を歌う女はわずかに眉をひそめたが、義手の男は剣をおろし、どこか愉快そうな口調で言った。
「しかしずいぶん立派な鹿だぞ。俺もこんな鹿は今までに見たことがない。鍛冶屋に頼めば、そいつの皮をいい防具に仕立ててくれると思うが……それでも逃がすかね?」
「殺す気になれん。こんなにもふかふかだ」
歌声にあわせて頭を揺らす鹿の首をなで、真面目な顔で青年は言った。義手の男がからからと笑う。
「好きにすればいいさ。それならこっちへ戻って来い――おまえさんが離れんと、キレハが踊り歌をやめれんからな」
青年は最後にもう一度首をなでると、イバの大鹿から手を離し、そろそろと後ずさった。女が歌をやめたとたん、イバの大鹿は足を下ろし、小さく鳴き声をあげて、森の中へ駆け込んでいった。
さて、魔術師の青年がイバの大鹿をなでてやったとき、青年も鹿も気づかなかったが塚護人のもうひとつの祈願が成就したのだった。
塚護人が打ち倒された時、三千年前から眠り続けていた一匹の蚤が目を覚ました。宙に舞う土くれから飛び出した蚤は、慌てて土を蹴りぴょんと跳ね、近くにいた生き物の体に飛びついた。
そしてそのまま青年のローブの袖の隙間にすがりつき、ここまで運ばれてきて、イバの大鹿の毛皮へと潜りこんだのだった。
温かい、心地よい、柔らかい、まっ白でふかふかな場所で、蚤はうんと伸びをした。三千年ぶりの目覚めは三千年ぶりの空腹を呼んでいたので、蚤は尖った口をぷすりと突きさし、さっそくそこにある血を飲んだ。違和感は感じなかった。なにしろ三千年前にも、これとそっくりな白い大鹿の毛皮にとりついてそいつが死ぬ瞬間まで、散々その血を吸っていたのだから! 満腹になった蚤は、硬い毛にもたれて眠りはじめた。それは「満足」していた。
蚤に噛まれた瞬間、イバの大鹿は小さな痛みを感じたが、それよりは英雄の手を逃れて生きのびた喜びの方が大きかった。
イバの女神は英雄からつきかえされた贈り物を、あえて殺そうとはなさらない。大鹿は自由になったのだ。
白い大鹿は霧が晴れた森の中を全力で駆け、小川を飛び越し、やがて彼方へ消えていった。
そして今でも妖精族の森のどこかで自由に飛び跳ね、時々は蚤に刺された場所を痒がっているという噂だ。
end