エンド後/フィー シーフォン
たとえばこんな風なことだ。
古い城壁は崩れ落ち、城壁の周囲にパイの食べかすのように散らばった煉瓦や壁の残骸は苔むし、草や蔦や木の根に絡め取られている。北の果てのフォーランディアからやってきた冷たい風が、ホルムの森をざわざわと揺らした。寂しく憂鬱な十月最後の夜のことだった。
魔女のフィーは、明かりを灯した杖を手に、自分の小屋への帰り道を急いでいた。ひばり亭でパリスたちと飲んだ赤ワインのおかげで、薄いマントの下の体はぽかぽかと温かく、頬はうっすらと赤く染まっている。かつて西シーウァの巫女に「いかにも無口っぽい雰囲気」と言われた顔はいつもの無表情を崩さぬままであったが、フィーはひっそりとごきげんだった。心の中では歌っていた。
フィーはこんな風だ。
歳はもしかしたら二十代半ば、朝焼けには薄紅、真昼の太陽の下では金、月光にはたやすく青く染まる白い髪、高いところで二つに結って束ねて、大河の波のようにくるくると揺れながら、胸や背中に滑り落ちていく。髪をまとめるリボンは黒い花が咲いているようだ。ぴったりした黒い服、魔術師らしい格好、気が強そうな目は今もまっすぐに前を向いている。暮らしぶりは豊かではないが満ち足りている。ホルムに暮らす大体の人間がそうであるように。
ネルのおばさんだけは未だにフィーちゃんと呼ぶが、パリスの店の使用人やネルの子供を含む町の人からは、「フィー先生」と呼ばれていた。
「デネロス先生を呼んでおいで、森の庵にいるから!」
昔、人間や家畜が病気になるたびそう言った町の人たちが、今は同じようにフィーを呼ぶ。
「フィー先生を呼んでおいで、森の庵かさもなきゃひばり亭さ、そこにもいなけりゃパリスの店か広場の雑貨屋だよ!」
魔女のフィーは薬草師だ。賢者で、お医者で、産婆で、呪術師でもある。もしかしたら、未だにホルムの英雄と呼ばれているかもしれない。どちらにせよ彼女はホルムの住人。庵で一人暮らし。陶磁器めいた冷ややかな美貌にも関わらず、浮いた噂のひとつもない。
(あの口の悪い妖術師が生きていれば、まあそうだろうよ、てめえみたいな色気も愛想もない女、嫁さんにしたいと思う物好きはいねーよ、そう言って笑っただろう)
ほっそりとした白い踝。
サンダルを履いた小さな足が、小道に積もった落ち葉を踏む。
どんなときも手放さない魔法の杖が、彼女の靴底より先に地面を叩いていく。
フィーは久しぶりに魔法を使ったので、少し疲れている。酔っているせいもあって、甘い物が食べないなと思う。アルソンの作ったアップルパイとか。まあ無理だけど。アルソンには十年も会っていない。
ひばり亭の宿泊客が階段から落ちて怪我をして、手当てを終えた帰り道だ。治療はすぐに終わったし、怪我をした商人には感謝され、治療費を弾んでもらえた。パリスとネルが偶然ひばり亭にいあわせたのも、嬉しかった。相変わらずてきぱきしたオハラさんは、フィーの好物の赤ワインを一杯、おごってくれた。三人で乾杯をした。ひばり亭のランプに照らされた血みたいに赤いワイン。毎日楽しいね? ずっとこんな風ならいいのに。あの事件以来、ホルムは平和だ。
フィーはすんと鼻を鳴らした。その平和なホルムの夜の森に、奇妙な気配が満ちていることに気づいていた。どんな気配? 何かがそこにいる、いや、違う、フィーがここじゃないどこかにいる、そんな気配。この森がここじゃないどこかに重なってしまったような気がする。フィーは星幽界のことを思い出していた。魔力が充満している。もしここが地下世界なら精霊たちの悲鳴とざわめきが響いていただろう。ここは地上なので、そういうことにはならない。でも、じゃあ、この不思議な感じ、風が風でなく、夜が夜でなく、森が森でなく、肉体が魂だけになってしまったような、懐かしいエーテルの海を渡るような感覚はなんなのだろう?
木々の間を縫って伸びる小道の先にその人影を見つけたとき、フィーはすでに、ある種の心構えができていた。魔法の杖をぐっと握りしめる。
――さあ、あんたはだあれ?
久しぶりの再会は、こんな風だ。
月のない夜だったが、フィーの杖の先の魔法の明かりは、黒と灰色の世界に色彩を呼び戻していた。光こそ一番単純で一番強力な魔法だという話はしたかな? それともしなかったかな? とにかく<蛍火>のおかげで、こちらには背中を向けた人影が身にまとうローブの色や、ぼさぼさの髪の色がわかった。どちらも赤だった。無口で無表情な魔女のフィーは、そうとわかっても眉一つ動かさなかった。ただぽつりとつぶやいただけだった。
「シーフォンくんじゃない」
もしかしたら、このようにたたずむシーフォンの姿を、以前もこの小道で見たかもしれない。フィーは新しい庵を、焼けてしまったデネロス先生の庵と同じ場所に建てたのだから。
シーフォンは左手に杖を握っていた。大人になった今のフィーより、ずいぶん背が低かった。細くて骨ばった手首。薄い皮膚の下に浮かぶ華奢な鎖骨。殴られたら、きっと一撃だ。彼の周囲でだけ風が吹いたのかローブが揺れて、胸元に張り付き、一瞬だけ体の線が浮かんだ。痩せっぽち。昔、この少年はフィーよりも太ももが細くて、デブ呼ばわりされたフィーは心底嫌な気分になったものだ。
シーフォンの横顔には、神経質で、強情で、利口で、高慢で、皮肉で、繊細で、純粋で、子供っぽいいらだちが浮かんでいた。決して忘れるまいと思っていたのに、自分の記憶の中の彼の像がすっかりぼやけ、実物とはずいぶん違ってしまっていたことに、フィーは衝撃を覚えた。
シーフォンはフィーが近づいていっても、フィーの方を見なかった。そのかわり、遅れてきたフィーが追いつくのを待っていたかのように、彼女が隣に並ぶとすいと歩き出した。
「シーフォンくん」
フィーはそういう風に名前を呼んだ。
「きみ、どうしたの? 奈落が暇になったから、ここに戻って来たってわけ?」
シーフォンは――シーフォンの影は――返事をしなかった。そこにフィーがいることに気づいた様子すらなかった。そこでフィーは隣に並んで歩きながら、遠慮なく、まじまじと、十年前に死んだ少年を見つめた。乱雑に切りそろえた赤毛や、青白い頬や、そこだけは男性らしい喉仏はうっすらと透け、そのむこうに広がる空の星々の光が見えた。輪郭がぼやけた赤いローブとその下にあるはずの肉体を透かして、ざわめく森の木々が見えた。
フィーはこれは一体どういうことなのかと考えたが、しばらくして、考えるのをやめた。十月の最後の夜で、しかも新月の夜だ。魔星天と土星天の座相を考えれば、不思議なことが起こってもおかしくはない。たとえば霊魂がさまよいでたり、死者が蘇ったり、あるいは森の小道が奈落のどこかと重なってしまったり。(それとも、これは、もしかして私の夢なのかな? 久しぶりに彼の夢を見ているのかな?)
少女のように首をかしげて、フィーはほっそりとした指を折った。
「まずタイタス」
影はもちろん返事をしなかった。
「もちろん十六世」
フィーはもう一本、指を折った。次々折っていく。
「あの骸骨たち。ク・ルームにアイビアにダーマディウス。そしてタイタスさん、タイタスさん、タイタスさん! たくさん、死者に会ったよね。私たちたくさん死者を殺したね。神官たちは魂を導くって言うらしいけど、とんだ偽善だと思う――死んでも死に切れない人たちって、結構、必死じゃなかった? みんな、生命力ありすぎって感じだったよね。闘争は人間の本能ってタイタスが言ってたけど、あれって本当のことだよね?」
死者にむかってこんな話をしている自分がおかしくて、フィーはくすりと笑った。
「死者なんて気合い入れて殴ればびびる、引く。ってきみが言ったよね。覚えてる?」
シーフォンの影は前をむいて歩き続けている。
ぎゅっと結んだ唇も、眉間に刻まれた皺も、フィーにはおなじみの彼のいらだちだった。
「私、今、気合いを入れて、きみのこと殴ったらいいのかなぁ? そしたら奈落に帰る? でも嫌だよね。久しぶりなのに。それって最後のときの続きみたいだし。あれ、最後に私の魔法の矢が当たったんだよね。鎖骨、治ってるね。良かった。あのね、きみの骨が折れる音、覚えてるよ。今でも時々夢の中で聞こえて、そのたびに私は飛び起きるんだ。ごめんね。とは言っちゃ駄目か――うん、駄目だよね。きみそういうの怒るもんね。面倒くさい子だよね!」
フィーはくすくすと笑いながら、魔法の杖を持ち直した。曲がり角にある大きな木にぶつかったらどうしよう、ぶつかったあとシーフォンが消えちゃわないかな? と心配したのだが、シーフォンはちゃんと、小道に沿って向きを変えた。
「どこに行くの、シーフォンくん。もしかして、私の家?」
のんびりとフィーは問うた。
もしかしたら、昔のことを思い出して、少しだけフィーは泣きそうになっていたかもしれないけれど、大人になった魔女は泣いたりしないのだ。
あの頃、シーフォンはよくフィーと先生の庵にやって来た。一度や二度のことではなかった。そもそも一番最初だって、フィーがネルとパリスと洞窟から戻ったら、いつの間にか上がり込んでいたシーフォンが先生と話し込んでいたのだった。
なんであの子が私の家にいるの?
腹を立てたフィーが戸口で立ち止まったのは、勘の鋭いパリスに手首をつかんで引き止められたのもあるけれど、いつもと全然違うシーフォンのしゃべり方と、デネロス先生の厳しい声のせいだった。
フィーの右側にはネルがいて、左側にはパリスがいた。そうやって、仲の良い二人の友達に挟まれて、フィーは赤毛の少年の昔の話を聞いてしまったのだった。ネルとパリスはフィーにとってかけがえのない友人で、だから、多分、フィーはシーフォンをますます嫌いになった。心の底から軽蔑した。
――友達を殺すなんて、ありえないことだ。
にも関わらず、フィーとシーフォンはその後もたびたび、一緒に地下へ向かった。
あの頃の二人は、こんな風だ。
廃墟の湿った暗闇を払うように、フィーが<螢火>の呪文を唱える。
後ろでシーフォンが咳き込む。詠唱を続けながら振り返ると、シーフォンはフィーではなく背後の暗闇を見つめている。フィーには背中を向けている。
あ、そうか、後ろはこの子が守るから、私は前を向いていていいんだ。
フィーはそう思ってくるりと前に向き直った。結んだ髪の毛の先が揺れる。
それでこの子の背中は、私が守るんだな。
そう思ってフィーはおかしくなる。
ついこのあいだ会ったばかりなのに。あんなに大喧嘩をしたのにね。
――あるいは、ホルムの丘の上の草むらに、横たわっている。
先ほどまで夜種の群れと戦っていたのだ。くたくたになった三人は、見晴らしのいい場所で休憩を取っている。すぐ近くにヘロデン教授のテントがある。ここで休憩しようぜ。もし何かあったら、あのおっさんが騒ぐだろ? と、シーフォンが偉い教授を鳴子扱いするので、フィーはくすりと笑ってしまった。
厚く切った肉を挟んだサンドウィッチを食べ終えたアルソンは、さっさと眠りについた。ひらひらと飛んできた蝶がアルソンの鉄の靴の爪先で羽を休めている。仰向けに寝そべり、青空を流れる雲を眺めながら、アルソンお手製のアップルパイを食べる。甘くて酸っぱくてすごく美味しい。シーフォンがくわ、とあくびした気配。クローバー、たんぽぽ、ヒナゲシ、ノヂシャ、かたばみ。混じりあう若草の香りが春の鋭さで鼻孔をくすぐる。日差しが暖かい。ああ、これがピクニックならいいのにな。ピクニックなら、(アルソンはともかく)シーフォンなんて誘わないけどさ。
もう一度、シーフォンがあくびする。
フィーのまぶたも下りてくる。パイの最後の一切れを咀嚼しながら、独り言のようにつぶやく。
「夜種を追い払うことってできるのかな。全部やっつけるのが無理でも、このへん一帯に近寄らせないようにしたり」
「んあー……燻すか? 森を焼いて、魔法で風を起こしてよ」
フィーはそれについて考えてみる。夜種の生態や習性、火を使う猟、ホルムの地形、山火事についての知識を引っ張りだして検討するが、しばらくして「駄目」と答える。
「魔法の風で自然の火は支配できないよ」
「すげえ魔法なら?」
「そんな魔法、使えないでしょ」
「今はな」
「これからもね」
シーフォンがケッと鼻を鳴らした。
「わかんねぇだろ?」
「わかるもん。きみには無理」
眠たげな声で言うと、フィーは両目を閉じる。
「ぶっ殺すぞ」
シーフォンも眠そうな声で応じる。
吹き上がってきた風が、丘の草とデネロス教授のテントと、探索者たちの服や髪の毛を揺らす。
――『死者の書』を巡って争うのはいいが、勝っても負けても勝手にパーティーを離れて一人で地上に帰っていく。
走って追いかけようとするが、
「ああ? つけて来んな、バカ!」
と、とんでもないことを怒鳴られて、フィーは足を止めた。
「馬鹿じゃないの!? つけてたのは、どっちよ!」
怒鳴り返すと、シーフォンは顔を背け、路面に唾を吐き捨てた。
なにあれ!
下品!
それに、バカ!
ものすごーくバカ!
自分から近づいてくるくせに、こっちが近寄ろうとしたら、あっち行けとか、来るなとか、意味がわかんない!
もう一撃、電撃でもお見舞いしてやろうと杖を掲げると、背後からキレハに声をかけられる。
「やめなさい、とどめになっちゃうわよ」
「うううーっ、うーっ!」
腹は立つけどとどめを刺したいわけではないので、真っ赤になったフィーは唸り声をあげ、しぶしぶ杖を下ろす。見ればシーフォンの背中はずいぶん遠ざかってしまっている。
「そんなぼろぼろで、一人ぼっちで、夜種に襲われても知らないからね!」
売られた喧嘩は必ず買うシーフォンは、フィーの罵声をやはり無視しなかった。
うるせえブス、と遠くから声が聞こえてきた。魔術師たちは全体に声量が豊かで、知識があり、性格がねじれ、不屈の精神を持っているため、喧嘩相手としては実に鬱陶しい。
『死者の書』を抱いたまま、フィーは怒鳴り返した。
「それは、あんたの趣味が変なんです! なによ、私より弱いくせに!」
それに、私に負けたくせに。
心配してやってるのに、なによ、バーカ!
それでも大体は色んなことを話しながら並んで歩いていた。
通れない道をどうするかとか、遺跡の謎とか、効率のいい探索の仕方、テオル公子やカムール伯のことや、怪物や夜種や盗賊たちの倒し方、エルパディアについて、大学の話、好きな食べ物、嫌いな言葉、一番よく話したのは魔法や魔術の話で、デネロス先生とは全然違う理論と倫理、ネルにはわからない技術の話もシーフォンはわかる、ひばり亭に戻ってもまだ話し続けていることもあって、フィーはある日、もしかして私この子と友達になってない? と気がついて、だってシーフォンが「おい、時間あるだろ、今日は調合を教えてやるよ」とかこっちが混乱するほど親切なことを平気で言い出すし、そもそも探索を一緒に続けてるんだから、そりゃあ、ねえ? 仲良くなるなという方が無理な話。
でもこんなに喧嘩ばっかりする友達、いるかなあ?
そう、そう。
ずいぶん親しくなったつもりだったあの夜、フィーはシーフォンから死んだ友達の話をされて、
「友達ごっこなんてクソ下らねえ」
そう言われたのだった。
敵同士になると釘を刺されたにも関わらず、フィーはその時、この実に面倒くさい少年と自分が、もしかしたら彼が殺してしまった友人と彼のように、ひょっとしたらそれよりも深く、関わりあい、結びついてしまったことを知った。
そうでなければ、なぜ彼は、こんなことを自分に話したのだろう?
つまり二人は、そんな風だった。
シーフォンはフィーが大切にしている物を馬鹿にした。フィーがくだらないと思っている物を追い求めた。
シーフォンと口論をはじめるときいつもフィーはとても親切で明るいしゃべりかたになり、口論の最後はいつもシーフォンはフィーの肉体や心やこれまでの経験のすべてを叩き切るような目と声になった。
シーフォンはフィーが嫌いだった。フィーもシーフォンが嫌いだった。それなのに二人は友達だった。
立っている場所が違いすぎたのだ。あるいは重なりすぎていたのだ。
森の木々の間に、フィーの住む庵が見えてきた。
夜空は海のようであった。いつの間にか風は止んでいた。
森を覆っていたあの奇妙な気配が、和らいでいることに魔女は気づいた。
――ああ、バカなことしか話していない。私、もっと違うことを言いたかったはずなのに。
でも、何を?
タイタス十六世の宮殿で出会った死者の群れを思い出す。彼らは語り、フィーは聞いた。タイタスは語り、フィーはそれも聞いた。時にはフィーが語り、彼らが聞くこともあった。だがそれは対話ではなかった。死者と生者が語り合うことは不可能なのだ。
「私ね、きみよりずっとうまく雷の術を使えるようになったんだよ。きみ、私の術を見たらきっとまたぶんむくれてアルソンかパリスに八つ当たりするよ。そういうとこ、そういうのね、ずぅっと面倒くさい子だと思ってたよ。こんな子と関わりあいにならなきゃ良かったって、私、何度も思ったもの」
あの頃と同じようにまくしたてたが、シーフォンの影は返事をしなかった。当たり前だ、これはただの影なのだから。
フィーは立ち止まり、唇を噛んで、うつむいた。そうしていたのは一瞬で、足を速めてシーフォンの影の前に回りこむと、そこで両手を広げた。手にした杖は投げ捨てなかった。彼女は魔女だ、そんなことはできなかったし、今この瞬間さえ赤毛の少年と対等でありたかった。道を塞いだフィーの両手の中に、歩みを止めずに近づいてきたシーフォンの影が飛び込んできた――シーフォンの影、細い体、わずかに歪めた唇、裾の擦り切れたローブ、赤い髪が温かく脈打つ魔女の体に触れ、重なり、何の感触も残さずに通りぬけた。
振り向いてフィーは、赤い影が暗い森へ消えていくのを見守った。
あの日のようにシーフォンの背中が遠ざかっていく。フィーはもう少年を呼び止めたりしなかった。
そのかわり、大きな声で言った。
「きみ、私をきみと同じところに置いていくんだね」
その先は言葉にならなかった。届くことのない言葉を口に出すことに、一体なんの意味があるというのだろう?
――友達を殺したあと、きみ、どんな気持ちだった? どんな風に毎日を過ごした? 私は笑っているよ。私はちゃんと暮らしてる。魔王になんか憧れない、力を追い求めたりしない、自分を滅ぼそうとしない。だってきみのようになりたくなかったんだもの。私はきみに負けたくなかった。ねえ、すごいでしょ? 悔しいでしょ? 悔しがってよ。
だから、お願い、行かないでよ。
一緒にいなくてもいいから、この世界のどこかで。
どこかに。
声にならぬフィーの叫びは、シーフォンの影と同じように暗闇に吸い込まれて、夜の森のどこかに消えていった。
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王国歴三〇八年十一月の最初の朝、シーフォンはリルゼイの学生街の一角、三階建ての宿屋の最上階で目を覚ましたが、その心はまだ夢の中をさまよっていた。
リルゼイ大学の学生委員会の招聘に応じて昨夜遅くリルゼイにやって来たしたシーフォンは、到着したその夜のうちに、学長や学部長との会談をすませていた。どちらもシーフォンとさほど歳の変わらぬ若者であったが、彼らは高名な魔術師シーフォン師、と敬意の滲む口調でシーフォンを呼んだ。講師を引き受けてくださって感謝します。あなたは諸国を放浪し、弟子をとらないという話でしたから。テオル公子が亡くなったナザリの怪異の時にも、あなたが活躍なさったという噂を聞いています。なんでも復活したタイタスと戦い、それに打ち勝ったとか……。シーフォンは返事をしなかったが、若者たちは赤毛の青年の沈黙を、知恵ある者の無言の返事と受け取ったようだった。
バカかよ、と思うが、シーフォンは神童と呼ばれた大学生だった頃の自分の愚かさをよく覚えていたため、彼らをなじらなかった。黙って食後のアップルパイを食べながら、くそまじい、と内心でそちらを罵倒していた。なんだっけよ、ホルムで会ったあの騎士、そうだ、アルソンだ、あいつの作ったアップルパイはうまかったな。あの女も喜んで食べてたっけ。
そういった昨夜の会話、階下の食堂から漂ってくるパンとバターの匂いと宿泊客の喧騒、夜寝る前に枕の下に置いた魔導書の感触、そして先ほどまで見ていた夢、様々なことのせいで、シーフォンは今がいつで、自分が誰で、ここがどこなのかを忘れていた。ホルム、ひばり亭、探索から帰宅した夜明けのようであった。まどろみながら彼は枕の下に手を差し込んで、そこに大切な魔導書があることを確認した。
『鍵の書』の表紙を撫でながら、目を閉じたまま、シーフォンは寝ぼけた声でつぶやいた。
「さっきてめえの夢を見たぜ」
十年前、魔女の返り血で赤く染まったその魔導書は、血に濡れたページが張り付いてぴったりと糊付けされたようになり、どうしても肝心な部分が開かないままなのであった。まるで誰かさんみたいだね、力で手に入れたものなんて、こんな風になるしかないってことだよ、あのクソ生意気な魔女が生きていれば、そう言って笑ってみせたに違いない。
end