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ホルムのフィー、ネスのアベリオン

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 またあの子だ。
 赤毛の子。

 男の子。
 変なの。
 痩せっぽち。
 手首なんて鶏の足みたい。パリスとは全然違う。
 ネルがすごい力持ちだから目立たないけれど、パリスも普通に力が強い。去年の夏(遠い昔)、大河の浅瀬で皆で遊んでいた時、岩場の影に隠れた魚の群れを捕まえようとチュナとネルとフィーでわいわい騒いでいたら、三人から離れたところにいたパリスが「おいちょっとどいてろ」と言ってひょいと岩を持ち上げ、それを三人の足の間に放り込んだ。どぼん! と音がして水しぶきが胸元まであがって、女の子三人、一斉に飛び退きながらぎゃああー! と色気のない悲鳴をあげ、もちろん全員がずぶ濡れだ。
「何するのパリス!」
 真っ先に動いたのはフィーで、そう叫びながら、よーしこの石、投げ返してやろう! パリスもずぶ濡れになれ! としゃがみこんで拾い上げようとしたフィーの手は、水中で苔生した石の表面をずるりと滑り、つまりその石は痩せっぽちのフィーの手には重すぎて大きすぎて、それを拾いあげるどころかつかむことすらできなかったのだね。パリスはこの石を片手で無造作に投げつけたのにと一瞬はっとして、でもすぐに気を取りなおして水底を探り二回りほど小さな石を拾い上げ、放り投げてやる。狙われてるのに気づいたパリスは、飛んできた小石もそれが立てた水柱も難なく回避。
「危ねぇ、フィー、こっち投げんな!」
「パリスが先にやったんでしょ!」
 ネルが大声で笑い出す。
「ずぶ濡れじゃん! 着替え持ってきてないのに、ぎゃー! あはは、もう! あははは!」
「魚全部逃げちゃったじゃんバカ兄貴!」
「んっだとォ、石の下から追い出してやったんだろーが、怒るなよ!」
 浅瀬を逃げるパリスを三人で追いかけ、追い詰めて、最後はネルがパリスを捕まえ、せえので川の中に沈めてやり、四人で大笑いしながらじゃれあって、でもお腹が痛くなるまで笑いながら、フィーはずっと変な気分でいたのだった。
 パリスはあの大きな石を持ち上げることができるんだ。
 あんな簡単に。あんな軽々と。
 私はつかむことすらできなかったのに。
 濡れたシャツをつかんで引っ張ってやればパリスは当然のように激しく抵抗する。真夏の日差しの下、肌着すらつけていないパリスの肉体が、いつのまにか自分とは違う、硬く、強い体になっているのに初めて気づいた。

 弱っちい自分の手と指。
 見下ろせば水の中で砂利を踏む貧弱な脛と足。
 透明な、きらきら光る水の中で、真っ白く揺れている。


 小さい爪。左手の小指と薬指の爪の形が変。三角形だ。そこだけ剥がれて後からまた生えてきたみたい。指先にいくつも傷跡がある。細くて頼りない子供の手。フィーとたいして変わらない。
 男の子なのにパリスとは違う。全然違う。
 弱そう。
 殴り合いになったら絶対負けるくせに、平気で喧嘩を売るのだ。魔術を使えばいいと思ってるせいだ。悪い奴。そんなこと、したら駄目なのに。
 混ぜあわせた粉の入った鉢を分銅秤の片方の皿に載せ、鉢を取り上げて減らし、また皿に戻し、別の粉を足す。繰り返し。薬壷の蓋を全部きちんと締めてる。ネルとも先生ともやり方が違うんだ。匙の使い方も。左手の曲げた中指と薬指の間に、ガラスの混ぜ棒を挟んでる。秤の目を読み取るのがすごく早い。置く、取る、傾ける、足す、置く、取る、傾ける、足す……器具が触れ合う音がほとんどしない。調合が『教本通り』。エルパディア式、と思った。エルパディア。名前しか知らない国。赤い髪の隙間に覗く耳の形が変。耳飾りは銀に見えるけど、もしかしたらミスリルかもしれない。
 後ろから見ていたのに、気がついたら近づきすぎていた。
「おいそこ立つな。あっち行けうぜぇ」
 振り向きもせずそう命令されて、腹が立つ。だから動かない。ここはあたしの家だよ。何言ってるのこの子。調合台も道具も薬も全部デネロス先生の物で、先生が親切で貸してあげてるのに。
「行かない。目を離したら泥棒するかもしれないでしょ」
 するかよバーカって言うかと思ったら、顔もあげずにケケケって下品に笑われた。腹立つ。なんなの。
「影になるんだよ、どけって。見たいなら横に来いよ」
 そう言い直される。見たいなら? 見たいならって何? 偉そうに! むっとしたけど横にどいてやる。ランタンの光が手元に落ちる。斜めに切った赤毛の先が、銅みたいに輝いてる。変な色! でもすぐに(目にかかった自分の白い髪をさっと払って)、今のなし、とつぶやいた。
 髪が変でも変じゃなくても、あの子のやってることなんか別に見たくないもん。
 なのにフィーの知らないやり方で調合を続ける男の子から目が離せずにいる。そんな自分にまたイライラする。
 さっさと出ていけばいいのに。この部屋からも、ホルムの町からも。
 デネロス先生はなんでこんな子に優しくするんだろ。


「確かにそうだよね。ねえ。よく叱ってるけど、なんだか楽しそうだよねデネロス先生」
 幼馴染みのネルはすぐにそう合点してくれて、だがフィーが期待したのとは少し違う言い方だ。
 眉もひそめず、嫌そうな顔もせず、なんてことなさげにそう言って、すぐに話題を変えてしまう。広げていた魔道書の一文を指差す。
「これなんて読むんだっけ?」
「エーテル。あいつ悪い奴なんだよ」
「あああーまたこんがらがっちゃうなあ。悪い奴って、誰が? しーぽん?」
 しーぽん?
 わあ、あの子のこと、そんな呼び方をしてるんだ!
 ぎょっとしてフィーは口をつぐみ、ネルの様子を伺った。ネルはテーブルの上に広げた、フィーにとっては簡単すぎてあくびがでるような魔道書に視線を落とし、一心不乱に集中している。両手を拳にして耳にあて、夕暮れのひばり亭のざわめきを遮断するように。すごく真面目な顔。果実酒をちびちびと飲みながら、フィーはじっと、夢は魔女、の幼なじみを見つめている。ネルはフィーと同じ本が読めない。子供の頃からそうだ。フィーは不思議だ。どうしてわからないんだろう、こんな簡単なことなのに。ネルは色んなことのコツをつかむのが得意で、なんでもできる器用な指をもっていて、うんと力持ちで、美味しいおやつを作れて、つまり魔法以外はなんでも簡単にできちゃうのにな! 邪魔するつもりはなかったのに、気がつくとフィーは手を伸ばし、ネルの手をぎゅうっと握りしめていた。
「ん、どしたね?」
 ネルは本から顔をあげぬまま、フィーの手をわっしと握り返してくる。ネルの指はがさがさだ。いつも水や糸や革を触っている働き者の手だ。ネルのお母さんもネルと同じ手をしている。小さな子供の頃、いや、本当は今でも、ネルのお母さんに「フィーちゃん」と呼ばれながら頭や頬を撫でられると、嬉しくて恥ずかしくてどきどきして、でもそれはネルのお母さんはもちろんネルにもデネロス先生にも内緒にしていた。ネルはいいな。お母さんがいるんだもん!
 組み合わせた指を空中でお互いにぎにぎしてから、
「ううん、なんでもない」
 そう答えた。
「このへんじゃ魔法を使える子なんて珍しいから、喜んでおられるんじゃないかな」
「でも私とネルがいるよ。わざわざあんな子構わなくていいのに」
 あはは、とネルは笑った。
「あんたって時々子供みたいなこと言うよね」
 思わぬ指摘に、フィーは、黙った。
 子供じゃないもん。
 ぐさっと来たけど、握りしめたネルの手は温かかった。いつも仲がいい。でも喧嘩もする。うっかり、とてもひどいことを言ったこともある。言われたことだって。でもずっと友達だ。
 ネルと一緒にいるのに、気がついたらまたあの子のことを考えていた。痩せっぽち。赤毛。
(あの子は友達を殺した)
 先生が、友達を殺した、そうおっしゃったとき、フィーは自分にその言葉が、どん、とぶつかったような気持ちがして、実際一歩、後ずさってしまった。なのにあの子の背中は微動だにしなかった。
 ネルが死ぬことを想像すると、ぞっとする。考えただけで心の中に寂しい空洞が生まれるようだ。死ぬ、だけでもそんななのに、友達を殺す?
 あたしは何が起ころうと、そんなことしない。何が大事かわかってる。あの子と違って。あの子、馬鹿だ。あたしの友達は生きている。友達を殺してしまうのって、どんな気持ちだろう。
 ネルが魔導書を閉じると、焦げた色の革の本は、閉じるとページの継ぎ目が消えてしまう。ネルはちらりとフィーの顔を見て、それからまた見なおした。
「どーしたね、フィー。お腹痛いの?」
「え、痛くないよ。なんで?」
「こわい顔してたからさ。これ借りていっていいかな?」
「うん、わかんないとこがあったらまた」
「うんうん、頼むねフィー先生」
 うんうんうん、と仲良く頷きあう最中に、ふと思いついて、「ねえネル、よかったら今度教えてよ薬の調合」と言った。
「いいよ」と即答してくれたネルは、小さく首をかしげる。「でもなんで? フィー、薬作りは好きじゃないって言ってたよね」
「なんとなく」
 考えたけれど、理由は全然思いつなかったので、フィーはそう答えた。





 唸り声。
 洞窟の中から、大地を踏み鳴らし、地響きとともに、巨大な獣が姿を現す。小さな家の屋根くらいの高さに、異形の頭が乗っている。フィーはデネロス先生の蔵書でこの獣を見たことがある。象というのだこれは。ぎらぎら輝いてるのは甲冑、魔法の生き物じゃない、体は大きいけど豚や狼や人間と同じだから、殺せる。必ず殺せる。
 まだ距離が遠い。視界の端でアルソンくんが斧を投げ捨て、背負っていた槍を下ろした。
 フィーは杖を掲げ呪文の詠唱。両目の間に輝く呪文が流れ、脳を焼く。錯覚。でも実際に熱い。
 距離はまだ遠い、大丈夫だ、身を起こした野獣の頭はあんなに高い岩の天井すれすれまである! あんな高い場所から振り下ろされる長い鼻の一撃はどんなだろう、怖い――杖を取り落としかけ、慌ててそれを握りなおす。集中しろ。手に握りしめた杖の感触と重み、目には炎、舌には呪文、耳には己の声、意識からそれ以外を全部追い出す。嵐の大河に小舟一つ、この杖が櫂だ、なんて頼りない! 外から流れこんだ魔力が体の内で荒れ狂い、もっと、もっとと叫んでいる。炎! もっと! 燃えあがれ、鎮まれ、相反する二つを同時に命令する。肉体が重くて邪魔だ。膝に力が入らない。駄目、と思った瞬間、視界が揺れる。
 フィーは呪文の詠唱を途切れさせ、ぺたんとその場に座りこむ。集中がなくなり、意識を失いかけた。
「おいっ、さぼってんじゃねーぞ!」
 へたりこんだお尻に、がんと衝撃が走った。蹴り上げられたと気づいたのは一瞬後だ。
 フィーは真っ赤になって跳ね起きると、振り向いた。背後に立つシーフォンに、怒鳴る。
「へっ、へっ、変なとこ蹴らないで!」
 老樹の杖を掲げるシーフォンは、フィーではなく魔獣に視線を据えている。怒鳴り返される。
「ああ? おまえのケツって変なとこなの?」
「変じゃないわよ! じゃなくて変でしょ!? あんた何考えてるの!」
「両手がふさがってんだからしょうがねーだろうが!」
「お二人とも、後にしてくださいよ!」
 アルソンが悲鳴を上げながら前に飛び出した。
 騎士は突進してきた巨獣の前に立つ。ぶつかる寸前で横に飛び、振り下ろされた鼻の一撃を左で構えた盾で受ける。ぼかん、と派手な音を立てて、震えた盾の表面は大きく窪んでいる。鋼があんな簡単に――背中がぞくりとしたけれど、次の瞬間、アルソンがもう一方の手で構えていた槍を、腹の底からの掛け声とともに、思い切り突き立てている。
「ウラァッ!」
 狙いは違わず穂先が首筋に突き刺さった。巨獣の絶叫を待たず、フィーとシーフォンは、同時に背後に飛びすさった。
 赤い血が噴き出す、長い鼻が宙を打つ、魔術師達の顔に血しぶきが飛ぶ、象が仰向けに倒れる、錆びた鉄の甲冑ががしゃんと音を立てる、地面が揺れる、地面がまだ揺れ続けている。肉の匂いが血と一緒に周囲に飛び散った。
「うへッ、汚ねぇ!」
 裏返った声でシーフォンが叫び、フィーがぎょっとしたことに、倒れた巨獣に向かって駆け出していった。馬鹿じゃないの? 馬鹿じゃないの!? まだ死んでないのに! アルソンに任せておきなさい、戻りなさい――そう叫びかけるが、体がすくんで動かない。声がでない。赤いローブを翻して走る少年の体は、筋肉がないせいで上半身が無茶苦茶に揺れている。「シーフォンさん!」地面に膝をついたアルソンが叫びながら片手で慌ただしく腰の剣帯を探り、剣を鞘ごとシーフォンに放り投げる。フィーはその時初めてアルソンの左手が不自然に曲がっているのに気づく。折れたんだ。さっきの一撃で。
 シーフォンは一瞬足を止め、投げられた剣を、地面に近いところで受け止める。剣の重さに引きずられて姿勢を崩し、
「っざけんなよ!」
 無意味にそう絶叫する。上半身をぶん回すようにして長剣を鞘から引きぬく。格好の悪い抜刀。格好の悪い勇気!
 あんたの力じゃ皮膚を破ることもできやしない!
 フィーは杖をまた握りなおした。
 殺せる、殺せる、殺せる――。
 あたしがやらなきゃいけないんだ! そう思ったのに、やっつけたのはあの子だった。
 シーフォンが巨獣の目玉に剣を突き刺した瞬間、これまでとまったく違う声で、獣が絶叫した。


 血は体温と同じ温かさだ。
 全身に血しぶきを浴びて湯気を立てるシーフォンは、地面に膝をつき、肩で息をしている。
 さっきまでぎらぎらと両目を輝かせていたのに、自分が負わせた傷で死んでいく巨獣の前で、血に濡れた両手を見て、びっくりしたような顔をしていた。






「あの子嫌いです」
 師匠が顔を上げた。先生の椅子の足元に座ったフィーは、暖炉で揺れる炎が壁に投げかける影を見つめていた。薪は炎に身を捧げ、舐め尽くされて灰となるその瞬間に、小さな吐息のような音を出すのであった。
「『悪い子』だからかね」
 デネロスが穏やかな声で言い、ひとつ酒の匂いのするしゃっくりをした。
「そうです」
 即答したあと、フィーは少し考えて、言い直した。
「そうですけど――そうじゃなくて。それだけじゃなくて。一緒にいると、自分が変になる気がする」
 そう言ったとたん、ひどく恥ずかしいことを告白した気がして、フィーは先生の顔は見ずに勢いよく立ち上がった。
「私、ヤギを見てきます」





 これは夢だ。
 フィーは鳥となり空を飛んでいる。
 真っ白い羽根、銀色の長い尾、火のような赤い瞳、フィーは得意の絶頂だ。
 なんて綺麗な鳥なんだろう。
 こんなにきれいな姿なのはあたしだけだ!
 こんなに高く飛べるのもあたし一人!
 だが見下ろせば見慣れた赤毛の頭が見えて、たちまち喜びがしぼんだ。代わりに怒りが湧いてくる。現実では努めて触れないようにして目をそらし、意識の外に追い出している怒りが。
 ――あいつ、こんなとこで何してるの? またなにか悪いことするつもりでしょう。さもなきゃ、危ないこと。まったく馬鹿なんだから!
 美しい小さな鳥は高度を下げる。
 杖を手に歩く少年の背後で、大地は黒々と広がり、霜の溶けたところどころがかすかにぬめるように光っている。
 やがて少年の両脇に白い輝きが見えた。一面の平原に雪が積もっているように見えた。
 近づいていくとフィーは自分が間違っていたことを知った。
 大地を濡らす物は血であり、積もる雪は砕けた骨であった。
 されこうべの間をまっすぐに、痩せ細った魔術師の少年が歩いて行く。







 ひばり亭のいつもの席に、赤毛の少年が座っている。ちっぽけで痩せっぽち。いつの間にか見慣れた光景になっていて、フィーはひばり亭に来るたび、最初に窓際のその場所を確認するようになっていた。
 シーフォンが好きだから?
 ううん、そんなわけないじゃん。
 それでもフィーはまっすぐにその席に向かう。足を止めるとシーフォンが振り仰ぐ。面倒くさそうな顔。カチンと来る。
「昨日あんたの夢を見たわ」
 そう言おうと思ったけれど、やめた。
 なんだかしゃくにさわったのだ。
 ちっぽけで痩せっぽちな魔女のフィーは腕組みして
「探索に行こう?」
 とだけ言った。




 夢の中、地上にぽつりと膝をついたシーフォンは背を丸めている。
 その背が歓喜にふるえている。
 少年が何かを見つけたことがわかる。
 なんで何かを得ることができるのよ。
 あんたの生き方は間違ってるくせに。
 一面に広がるされこうべの白に埋め尽くされた大地に膝をついたシーフォンは、両手が傷つくのも構わず、真っ黒い土を掘り続ける。
 ――どんな人生であろうと、人がその人生から何ひとつ得ずにいるのは不可能なのだよ。何ひとつ失わずにいることが不可能であるのと同じように。
 両手を真っ赤に染めたシーフォンは、土中から何か輝く物を掘り出そうとしている。鳥になったフィーはその頭上で旋回し、翼をうちふりながら、怒りと苛立ちと不安に胸を焦がしている。フィーはいくらでも高く飛べてどこへでも行けるのに、そこには触れることすらできないのだ!
 なんなの、あんた。
 なんなの、なんなの、なんなの。
 沢山の人を傷つけて、悲しませて、苦しませて、傷だらけになって、それでそこから何を得ようっていうの?
 私は絶対に許さないから!
 シーフォンの両手からはすべての爪が駆け落ち、それどころか指先の破れた皮の下からは肉が失くなり骨がのぞき、にもかかわらず少年の顔は透明な澄んだ喜びに輝いている。美しいと言ってもいいくらいだ。魔術でももう癒せない深い傷を負いながら、シーフォンは歓喜に震えている。黒い土の下から漏れいづる輝きはフィーの飛ぶ高みまでを照らし、太陽も雲も空も星も虹も、価値ある尊い物の中で正しく飛んでいるはずのフィーは、怒りに目がくらみ、己のすべてを投げ打ってでも少年が得た物を奪いたいくなった。
 エルパディアから来た少年が、宝玉のように輝く何かをとうとうつかもうとしたその瞬間、天空から声が響いた。
「さあ、もう戻っておいで、子供たち!」
 しわがれた威厳に満ちた老人の声は、フィーの大切な師匠のそれではなく、雷鳴のようであった。





「それで『鍵の書』はどうした!?」
 フィーはしがみついていたネルの胸元から顔をあげた。涙はまだ止まっていない。シーフォンをにらみつけ、叫んだ。
「あんたなんでそんなこと言うのよ!? 先生が死んだのに!」





 土中から掘り出した輝きは、少年の両手の中で白い女の形となった。
「僕が欲しかったものはこんなんじゃねぇよ! 力だって言ってんだろうが、女なんて力と全然逆なんだよ!」
 怒りに震え絶叫したシーフォンの腕の中で、ホルムのフィーは生まれて初めて滑らかな声をだした。
「あたしだってあんたに彫り出されたくなかったわよ。勝手なことしないでよ。あたしの形を作らないで。魂を作らないで。あんたなんてガラクタみたいな物しか欲しがらないくせに。間違ったものしか作り出せないくせに。悪いことしか出来ないくせに。なのになんであんたが、よりにもよってあんたが、このあたしを掘り当てたのよ?」
 もがく相手の体を互いに抑えこむように打ち合ううちに、二人の肌の上にも体の中にも火が走った。







「私が男の子なら」
 とフィーは言った。
 赤毛の魔術師は最近ずっとそうであるように、今日も何も答えなかった。黙って窓の外を睨んでいる。
「男の子なら、きっと、あんたみたいになってたわ。力を追い求めて――どこまでも――どこまでも――ひょっとしたらネスで一番偉い魔術師になろうとして」
 フィーはおしゃべりじゃない。
 無口、強情、何を考えているのかわからない、いつかどこかへふらっと消えてしまいそう。
 そう思われていたし自分でもそのつもりでいた。
 でも今は口が止まらなかった。胸のうちを全部ぶちまけて、何も残さず、全部を伝えたい。
 この子の前ではいつもそうだ。
 おしゃべり、弱いくせに意地っ張り、思ったことは全部見ぬかれて、この子とずっと一緒にいられないことを予感している。
 痩せっぽちで不器用なホルムのフィーは、誰かの役に立ちたくて、この子に負けたくないだけだった。今や彼女は誰よりも強い魔術師となり、一人で立ち、さらに先へ向かう。彼女が行く場所は、デネロス先生もネルもこの子も臨むことすらできぬ果てであった。いや、その先、もしかしたら始祖帝すら認知できなかった場所が果ての先に待つことを、小さな町の少女は予感している。気がつくと声が震えていた。
「それであんたなんか……あんたなんかとは、出会っても喧嘩しかしなくて。こんな風にしゃべることもなくて、一緒に探索に行くことなんかなくて。そう、私が男の子なら、あんたなんて全然知らない子のままだったかもしれない」
 シーフォンが椅子を引いて立ち上がった。不機嫌そうにフィーの前までくると、手刀を作り、ビシ! と額を叩いた。フィーが避ける暇もなかった。
 細いくせに力のある手。
 薬草と火薬の匂いが染み付いた魔術師の手。
 男の子の手。
 フィーがぶたれたところを両手で押さえると、シーフォンはケッと心底つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「そんなことにはならねぇよ、バーカ」
 そう言い残して、フィーを一人残し、階段を上がっていった。

end

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