TOP>TEXT>その他の短編>魔術師を鍛える鉄

魔術師を鍛える鉄

オープニング前/シーフォン

 ずっと嵐を待っていた。


 その期待とは裏腹にうずくまる巨竜の背骨めいたバラ山の尾根の連なりの上には、昼は雲ひとつない青空が、夜には満天の星が広がっていた。嵐どころか雨の一滴、風の一吹きの気配すらない穏やかな日が続いていた。
 石畳の街道には轍の跡が二本の溝のように刻まれており、それを避けて路肩を歩いた。避けたのは轍の跡だけではない。手配書がどこまで回っているかはわからなかったが、衛兵と神官を避け、何よりも結社からの追っ手を恐れた。


  
 旅立ってすぐに、訓練された軍馬とそれ以外の馬の足音の違いを覚えた。昔から頭も勘もいい方だ。捕縛されることへの恐怖はあったが、一人で旅をすることへの不安は最初からなかった。いや、不安があろうとなかろうと旅は始まったのだのだから、後は前進するしかない。愚痴をこぼすのは性に合わなかったし、そんな暇もなかった。魔術のことが片時も頭から離れず、両目は前を見つめ、火のように燃えていた。
 湖水地帯を抜ける頃には、夕方から夜ではなく、朝から夕方に街道を歩くようになっていた。人がいない時間に移動するとかえって目立つことに気づいたのだ。そもそも夜道を旅するのは楽ではなかった。もちろん魔法はあるし、懐には自分で調合した煙石や火炎ボトルの類をいくつか隠し持っていたが、獣や野党の類に襲われた時、それをうまく使えるかどうかは心もとなかった。



 フードを引き下げ目立たぬように端を歩いても、ひょろりとした子供の体であることは隠せない。旅慣れていない足運びの子供の一人旅は目立つのか、街道で町で頻繁に声を掛けられた。坊主どこから来たんだ? どこまで行くんだ? 町まで乗せていってやろうか? 一人なのか? なぜ? どうして? いつから? お前はどこへ行くんだ?
 お前はどこへ行くんだ? 
 かわいそうな子供に親切にしよう(自分たちの業が消え、魂が天国へ行けますように!)という気概に満ち溢れた巡礼の集団から解放されようやく一人になったあと、顔を歪めて唾を吐き捨てた。信仰者たちの押し付けがましいお節介、説教、見せかけの寛大さにはうんざりだった。善良さは平穏を求め、平穏は力を手放すことを強く要求する。
「頭かち割って死にやがれ」
 一人毒づき、杖を握り直して再び歩き出した。久しぶりにむかっ腹を立てたせいで、ふつふつと元気が湧いて来た。
 この分なら今日中に次の町まで行けるだろう。
 久しぶりにフードを外した。大学を出てからずっと隠していた顔に当たる風は心地よかったが、嵐が来そうにないことに新たな怒りが湧き、そうするとますます元気になった。


 

 街道は蜘蛛の巣のように町と町とを繋ぐ。
 地図が欲しかったが手持ちの金が足りず、どうするか悩んでいたが、これは思わぬところで解決した。大きな町の食堂で地元のチンピラどもに絡まれ、三対一の喧嘩になった。クソ生意気なガキがたった一人と向こうは甘く見ていたのだろう。「表に出ろ」とすごまれて素直に連中の後をついていき、店の外に出た。連中がこちらに向き直ると同時に、隠し持っていた杖をつきだした。呪文の詠唱はすでに終えている。雷呼びのまじないは予想以上の強力さだった。杖の先から走った稲妻を食らって最初の男が吹っ飛んだ瞬間、ほんの一瞬だけ怯えに似た感情が指先を震わせたが、膨れ上った怒りがすべてを覆い尽くした。喧嘩をふっかけてきたのは向こうだぜ? 力と力がぶつかりあえば、弱い方が死ぬ。それが絶対にしてただ一つの真理だ。
 手もなく固い路面に打ち倒され、三人はたちまち命乞いをはじめた。何も言っていないのに財布まで差し出してくる。財布はありがたく頂戴するが、勝利の余韻に浸る暇はない。周囲を囲む野次馬たちが茫然自失から立ち直り、口々に騒ぎだしたからだ。
「なんだ今のは」「魔法」「魔法だ」「魔法を使ったぞ」「神官兵士を呼べ!」「邪法使いだ!」
 とっさに懐に手を突っ込んで煙石を地面に叩きつけ、怒声と悲鳴が渦巻く大混乱の中を逃げ出した。知らない町を必死で走りながら、気がつくと笑っていた。勝利の喜びは単純に楽しく、ひたすらに爽快だった。
 大声で笑いながら見上げた空は真っ青で、ああ、これで嵐が来りゃ最高なんだけどよ。嵐さえ来ればもっとすげえのをぶっぱなせるのに!



 自然の美しさには心を動かされなかった。
 滴るような緑の森林、雄大な大河の流れ、刻々と姿を変える砂漠の景色、そういったところを旅するのではなく、都市の猥雑な路地裏を好んだ。人間が集まる場所には情報も集まる。堅気ではない連中が集まる酒場や賭場にも平気な顔で入り込んだ。元から度胸はいい方だったが、大学を離れてからはクソ度胸もいいところだ。魔導書や強大な魔力の噂を求めればどうしてもまっとうではない連中とのつきあいが増える。
 魔法使いの中には人里から離れ隠者として暮らし、魔導、真理、生命、あるいは<混沌>の極限を極めようと研究に明け暮れる者も多く、もしかしたらそれが魔術の本道なのかもしれないが、そんなのはまっぴらごめんだった。
 炎を呼び理力の矢を放ち地下から水脈をたぐりよせ人の傷を癒し、だが坊主どもが神の奇跡と呼び賢者を気取る連中が秘儀と呼ぶ物はあくまで魔術の単なる一面にすぎない。魔術を極めんとする者が目指す先は、追い求めるべきその本質は――。


 徒歩の旅が続くうち、体が強くなっていくのを感じる。同年代の少年たちに比べれば脆弱なのは相変わらずだが、大事なのはオツムの中身だ。一日の終わりには安宿のノミとシラミだらけの寝台に潜り込み、どこかの図書館や魔術師から頂戴してきた魔導書に目を通した。基礎を学び応用へ進みまた基礎に戻り、たった一人で魔術の勉強を辛抱強く繰り返した。学べば学ぶほど高いところへ登っていける。新しい魔法理論を体得するたび、己を縛り付けている重い枷が砕ける音がした。初歩の魔法は単純だからこそ強く美しく、複雑な魔法の呪文は工芸品めいたきらめきを放つ。ひとつを知るたび千の未知が広がって、もっと高く、もっと強く、この欲望は尽きることがなかった。
 


 昼頃、小さな宿場町に到着した。一軒の宿の軒先に馬車が停まっており、荷台から荷物を抱えた商人風の男たちがぞろぞろとおりてくる。
 彼らは扉を開いたが、中へはすぐに入らなかった。宿の中が昼でも薄暗いのが不満だったらしく、ひと言ふた言愚痴めいたものをこぼす。一人が道具袋からランタンを取り出した。杖にすがって歩いていた年配の男が、その杖を掲げ、呪文を唱えた。ランタンに青白い光が灯った。
 足を止め、その光景を凝視してしまう程度には驚愕した。
 魔法を使った男はどう見ても神官には見えず、白昼にこんな道端でこんな堂々と、しかも他人に見られたのにうろたえる気配すらない。ともしびを掲げた商人たちが宿に入っていくのを凝視していると、御者に声を掛けられる。
「どうした、坊主。魔法の明かりが珍しいか?」
 素直に頷くと、御者が笑った。
「この先のアークフィア神殿で修行をすれば、簡単な魔法を教えてもらえるぜ。何かと便利だぞ」
「はぁ、そうかよ」
 おざなりな返事をしたが、神殿がそんなに簡単に魔法を教えるという事実に度肝を抜かれている。東方では魔法も魔術師もそれほど異端視されていないと噂には聞いていたが、まさかこれほどとは。
 ――エルパディアなら大騒ぎだぜ。
 故郷から遠く離れた土地まで来たという実感はしかし、なんの感慨も生まなかった。
 馬車から馬を外しながら、御者が続けた。
「乗っていくかい? 安くしとくぜ」
「行き先はどこだよ?」
「南。ポリオラ。飯を食ったら出発だ」
 ポリオラか。
 頭の中で地図を広げた。ポリオラから交易都市カーケンまでは大河の流れも穏やかで、気軽な旅になるはずだ。南にはメトセラ教徒も多く、連中は独自の魔法を使うという話だ。
 カーケンで新しい魔導書なり魔術絡みのいい話があるかどうかはわからない。賭けだったが、賭けは嫌いではない。よし行こう乗せてってくれよ、そう言いかけた時に馬がいなないた。
 遠くで石臼を轢くような音が轟いた。
 雷鳴だ。
 見あげれば、北の空に厚い雲が生まれていた。真っ黒な雲は、のたうつように青空に広がっていく。北方の彼方、黒竜の翼めいた雷雲の下、切り立った白い山影が見えた。エルパディアのバラとはまるで違う険しく鋭い峰は、雲を切り裂く刃のようであった。
 頭の中の地図がその白い山に重なった。
 あれはキール山だ。
 星辰学院のお膝元。
 北にはネス公国がある。古い魔術が眠る土地。ぞくりと鳥肌が立った。
「北だ」
 と言った。さっきまでカーケンへ向かうつもりだったのに、ころりと気持ちが変わった。口に出してしまえばそれが必然であるように思える。
「僕は北へ行くんだ」
「ネスか。疫病やら化け物やらで大変らしいって噂だぜ」
 御者の声を掻き消すようにまた雷が鳴った。さっきより近い。御者が馬のくつわを引いて馬小屋に向かうと、通りからは人影が消えた。杖を握り直し、道を歩き出した。北へ向かって。風が強くなりはじめている。
 自由都市群の一帯は岩が多く乾いた土地だが、アークフィア大河が近いこのあたりは木々も多い。街道の左右にはひょろりとした葉のない木々が重なりあい、灰色の森を作っていた。適当なところで道を外れ、森の中へ踏み込んでいった。靴底で石を踏み、まっすぐに進んだ。森のどこかに獣や野盗が潜んでいたとしても怖くはなかった。懐には眠り霧のビンや爆発フラスコを隠し持っていたし、雷の魔法も使えた。何より自分が死ぬはずはないと思った。力と力がぶつかれば弱い方が死ぬ。自分は弱くはない。



 ずっと嵐を待っていた。
 水を含み雷気を帯びた空気は雷を生む。
 嵐の日は、雷の魔法を試すにはもってこいだ。
 森の奥に空き地を見つけて、胸を弾ませながら魔法陣を描いた。
 強くなってきた風に煽られてフードや髪が顔にまとわりつき、邪魔で仕方ない。あとで適当に髪を切ろうと誓い、雑念はそれくらいだ。
 まだ昼過ぎだというのに周囲は刻々と暗さを増し、複雑極まりない魔法陣を書き終えた頃には夜のような薄闇に覆われていた。魔法陣の中央に立ち杖を構える。精神を集中させたがまだ詠唱は始めなかった。
 やがてぽつぽつと雨が降りだし、雨足はすぐに勢いを増した。風のせいで横殴りの雨になる。
 黒雲に白く稲妻が走った。一瞬周囲が明るくなり、雷が鳴った。
 雷雲が近づいてきている。
 この魔法を知ったのは、秘密結社の集会に初めて参加した日だった。暗闇に揺れる何本もの蝋燭の光、衣擦れの音、フードで顔を隠した男たちの怪しげな詠唱。名前も顔もない怪しげな妖術師たちの間に、こちらを見つめる懐かしい顔が一瞬だけ思い浮かんだが、すぐにその光景をかき消す。
 杖を掲げ、詠唱をはじめた。
 焦点具に集中すると精神の鍵が外れ体の内側で扉が開く。外から魔力が流れこんでくる。すっかりおなじみとなった感覚だったが、今日はいつもと違った。稲妻を呼ぶ魔法が小川の流れだとすれば、この呪文で導かれた魔力は瀑布であった。自我も理性もたちまち魔力の奔流に押し流される。ドン、と地面が震えた。近くに落雷があったのかもしれないが、目を開いているのに何も見えなくなっており、確認ができない。もしかしたら体の内側で何かが破裂した音かもしれない。視界どころか意識まで白く染まって、詠唱の半ばで五体の感覚がすべて消失した。杖ではなく自身が焦点具となり、注ぎ込まれた魔力のすべてが、世界にむかって放出されようとしている。
 体が浮かび上がる。
 自分自身がほどけてどこまでもどこまでも広がっていく。自我は世界すべてを覆うほどに広がり、己を定義する一切が意味を失う。世界と自身は同一の存在であった。
 呪文の詠唱の最後に絶叫した。
 苦痛ではなく、快感のために。


 どのくらいの時間が経ったのかわからない。
 徐々に感覚が戻ってきた。
 体にぶつかる大粒の雨、濡れて体に張り付いたローブ、風に揺れる木々の音、握りしめた杖はひんやりと冷えている。恐る恐る目を開けた。雷撃の嵐をぶつける魔法だ。成功していれば、周辺のすべてが黒焦げになっているはずだった。
 薄暗い嵐の森に一人で立っている。森の木々も大地も空も、何ひとつ変わることなくそこにあった。呪文を唱える前と違うのは、足元の魔法陣が消失していることぐらいだった。
 何も起きていない。
 完全な失敗だ。雷撃どころか稲妻すら呼べずに終わった。
 そう理解するまで時間はかからなかった。結社の連中から教えられた最初、詠唱に失敗した時とまったく同じだった。とたんに魔力を行使したことによる疲労が全身を襲い、杖を取り落とした。泥の中に膝と両手をついたが、それでも体を支えきれず、ぬかるんだ地面に横たわった。泥と雨が服を濡らし皮膚を汚し、骨にまで冷気が染みた。
 今度もまた、失敗した。
 あれだけ色々なことがあったというのに、この魔法はまだ使えないのだ。
 あれから降りかかった災いも、悲しみも、憎しみも、恐怖も、痛みも、苦労も、決意も、すべてを失ったことも、何ひとつ彼の魔力には影響を及ぼしていなかった。災いにあったから、悲しんだから、憎んだから、恐怖したから、怪我をしたから、苦労したから、魔道の探求者となりすべてを失っても力を追い求める決心をしたから、だから魔力は増し、新しい力を得ているに違いない。心のどこかでずっとそう期待していたのだった。失った分だけは得られるはずだ。損なわれた分だけ増されるべきだ。さもなきゃこの人生って奴は、いくらなんでも不公平すぎるんじゃないか?
 ――失敗した。
 力もまた死のように公平であった。
 ぬかるみに横たわり雨に打たれながら、シーフォンは一人、安堵した。



end

TOP>TEXT>その他の短編>魔術師を鍛える鉄