ホルム占領時/シーフォン フィー
岩山の中腹に山羊がいる。
ということは、今日の夜は山羊鍋だ。
矢の魔法と雷の術のどちらで仕留めるか考えながらシーフォンが杖を握り直したとき、後ろを歩いていたネルが声をあげた。
「あれ先生の山羊じゃない?」
「マジだ、あのブチ、見覚えがあるぜ。無事だったんだな」
最後尾のパリスが相槌を打つ。
ネルが先生と呼ぶ人間は一人しかおらず(ということを理解する程度にシーフォンはこの連中と馴染みになっていた)、その先生は間抜けにも神殿軍にとっつかまってくたばりやがって(ということに未だ折り合いをつけられないくらいシーフォンはあのクソジジイに一目置いていた)、そのせいであのバカ女は家族もなく住処もなく神殿軍に追われる身となりひばり亭に身を潜め(ということは彼女は今やシーフォンと同じ境遇で――うん――だからなんだってんだよ?)、シーフォンの隣の部屋で寝起きしているというわけだ。
ひばり亭の壁は薄い。おかげでシーフォンは、つらいとも苦しいとも悲しいとも腹が減ったともシーフォン様に負けて悔しいですとも言わぬ、無口で無表情で無感動でいつもぼんやりとしたあの魔女が、毎晩声を殺してめそめそと泣いているのを知ってしまったわけだ。クッソどうでもいい。アホらしい。もう死ね。泣くなら大声で泣けよ。耐えちゃってる感じがキメエ。むかつく。気になって眠れねえ。そこで壁を思い切り蹴ったら泣き声がぴたりとやんだが壁を蹴り返され、シーフォンは当然即座に蹴り返し、そうしたらものすごい勢いで部屋から飛び出してきたフィーが今度は扉を蹴り開けて、いつもの無表情だったが、ハ、ハ、怒ってやんのバーカ。さっきまで泣いてたのどうしたよ?
やるかともなによとも言わずに二人は同時に杖を構え、じりじりと睨み合っていたが、真っ赤に腫れた目元に気づいたシーフォンがとっさに
「泣いてんな、バーカ!」
と怒鳴ると、フィーは黙って杖をおろし、踵を返して、バタン! と音を立てて扉を閉め、シーフォンの部屋から出ていったのだった。
隣の部屋にフィーが戻った気配がした。しばらくして、コツ、コツ、と二回、小さく壁が叩かれた。このノックの意味は、シーフォンにはよくわからなかった。
ともかく翌朝までフィーは泣かなかったし、翌日もその翌日も泣かなかった。
かわりに夜、酒場から帰ろうとするシーフォンを引き止めて、魔法に関する質問や、探索の相談をするようになった。
自分から呼び止めておいて、シーフォンが応じるといつも不思議そうな顔をした。
――なんだよ。
――なんでもない。
なんか、あるだろ。
わかんねえよ。
それはともかく、山羊だ。
そう言われてみれば、あの庵の裏の方からはしきりに山羊の鳴き声が聞こえていた気がする。べえべえ、めえめえ。まあ森に住む人間なら山羊ぐらい飼ってもおかしくはないが、賢者がするようなことではない。動物の世話は手間がかかりすぎる。山羊を飼い畑を作り子供を育て、デネロス老人は無駄なことばかりをしていた。そんな暇があるなら魔術書の一冊でも記せば良いのに――まあ、人はそれぞれだ。博打で身を滅ぼす奴もいれば女で破滅する奴もおり、天下国家のために命を掛ける奴すらいる。誰もが好きな愚かさを選び、好きな形で滅んでいく。
山羊は細い岩棚の上で、デネロスの庵の裏にいたときと同じように、べえべえのんきな鳴き声をあげていた。採取した薬草の袋を置いたネルとパリスが向かっていっても、逃げだそうとしない。
「捕まえんのか?」
「うん、フィーが喜ぶよ!」
とネル。
「どうするんだよ。宿屋じゃ飼えねえだろうが」
「なんとかなるよー」
シーフォンは道端にしゃがみこんだ。
「僕は手伝わないぞ」
斜面によじ登りながらパリスが答えた。
「期待してねえよ。座って見てろ」
「期待しろっての」
シーフォンは小声で毒づいた。パリスが斜面の上から近づいて下の道で待ち構えたネルが捕まえる作戦らしいが、山羊は斜め上に逃げた。うまくいかない。
秋晴れの青い空に小さな雲が浮かんでいる。上空にも地上にも風がない。山頂の城の塔のてっぺんでは、神殿軍と西シーウァの旗が並んでだらしなく垂れ下がっていた。ホルムは今、あの連中の庭だ。昼間に町を歩いているだけでとっつかまるのに、こいつらも山羊ものんきなものだ。馬鹿だろ、馬鹿。
最後にパリスが輪にしたロープを投げて、それが山羊の角にひっかかった。ラバンのワイヤートラップの真似事だ。遺跡で毎日怪物たちと戦っているせいか、パリスもネルも手馴れている。どうしようもなくなったら手伝ってやるつもりだったシーフォンの出番はなかったのだが、息を切らしながら山羊を連れて戻ってきたネルが、「じゃあ、これ、お願いねしーぽん」とロープの端をシーフォンに渡した。
「はぁ?」
「え、だってひばり亭に帰るんでしょ?」
「はああ?」
ネルは大体、素直だ。常識人でもある。シーフォンの反応に、そんなに嫌ならいいやという顔になったので、シーフォンはとっさにロープをひったくった。
フィーは古代帝国の遺跡の噂を聞きつけてやってきた連中の一人ではない、元からここに暮らす魔女だ。森に住み、薬と知恵を売り、まじないをしてやる、まだ半人前の賢者の弟子。
別段珍しいこっちゃない。大神殿のクソ坊主どもが禁忌、邪悪と大騒ぎしてどんな刑罰で追い立てようとも、魔女や魔法使いは決して消えない。彼らはこの世界のどこにでも存在する。魔法がどこにでも存在するように。
宿屋に山羊はねーよな山羊はと素直さは欠片もないが常識のあるシーフォンは思い、おとなしくついてきた山羊を入り口の前に繋いで店の中に入ったが、フィーはまだ帰っていなかった。わざわざ部屋まで行ってやったのに、まったくよー。
夕暮れのこの時間、フィーはホルムの町のどこかにいるはずで、彼女が好むそのどこかがどこなのか、シーフォンには見当がついた。ただ、わざわざ探しに行く必要がない。戻ってきたフィーがヤギを見れば、大体の事情を察して好きにするだろう。
というわけでシーフォンはさっさと自室に引っ込もうとしたのだが、吹き抜けの廊下からふと見下ろせば入り口に見慣れた黒い影を一つではなく二つ発見し、嫌な予感がして扉から手を離した。
急いで階段を下り、ひばり亭の外に出ると、黒いマントの大男とメイド姿の娘が山羊を囲んでいた。
「……ほう」
「はう、とってもかわいいですね。それにここのお肉が」
「……うむ」
「あたしもそう思います!」
主語や述語をなぜか大胆に省いている。
不穏の一言だった。
戸口から顔を出したシーフォンが、
「それあのクソ魔女のだぞ」
と注意した。
しゃがみこんでいたフランが山羊の後足から、メロダークが角から手を離した。
「フィー様の山羊ですか! 危ないところでした」
「危なくすんな。帰れ」
さっさと行けよと暗黒料理人どもを追い払い、ここだと神殿軍の連中に『徴収』されかねないのに気づいた。シーフォンは山羊を引っ張って歩き出した。
なんで僕様がこんなことをと思うが、途中で放り出すのは癪だった。
紫紺の空に星が輝きはじめている。
相変わらず風のない夜だった。薄闇のむこうに葉を落とした木々の影が、切り絵のように黒くそびえていた。町と森のはざまに立つ白い少女の姿は、明かりもないのにぼんやりと輝いて見えた。
予想が見事に的中したわけだが、シーフォンはちっとも嬉しくなかった。神殿軍の連中はまだこいつを探しまわっているはずだ。こんな時間にこんなところにいるなんて、馬鹿だろ、馬鹿。いや大馬鹿だ。
庵の焼け跡を眺めていたフィーは、シーフォンの足音に振り向くと、いつものように不思議そうな顔をした。こいつ最初に会った時もこんな顔をしてたよなとどうでもいいことを思い出した。野次馬たちの人垣を割って転がるように輪の中に飛び出してきた少女は、久しぶりの喧嘩に興奮していたシーフォンに術比べを申し出られて、ぽかんと口を開けたのだった。二本足で歩く熊かキツネに出くわしたかのように、信じられない、理解できない、そういう表情でシーフォンを眺めていた。その後、魔女はぶんぶんと首を横に振って売られた喧嘩に『いいえ』を態度で示し、シーフォンを心底落胆させたのだった。
フィーはいつもと違って、
「あっ!」
と、大きな声をあげた。見開いた両目が丸くなって、シーフォンの連れた山羊に視線が吸いよせられる。
彼女を喜ばせたところでシーフォンは別に嬉しくも楽しくもなかった。山羊もどうやらシーフォンと同意見のようで、跪いたフィーに抱きつかれても、特に反応を示さなかった。
「言っとくけど、僕じゃねーぞ。パリスとネルが捕まえたんだからな」
立ち上がり、手渡されたロープを受け取ったフィーの頬はかすかに赤く染まっていた。顔色の変化はわかりやすいくせに、それが興奮なのか喜びのなか、感情の変化がひどくわかりにくい。シーフォンはフィーのそういうところが嫌いだった。
「ありがとう」
そのくせ、素直に礼を言う。
シーフォンは素直な奴が嫌いではなくて、なのでフィーに対する気持ちはとてもややこしい。お互い様だ。少女が輝くような笑顔を見せたことになぜかうろたえたが、
「あんたいい奴じゃないけど時々いいことをするわね」
そう言われたせいで、すぐに平常心を取り戻した。
「うるせーよ。それよりどうすんだよ、こいつ」
「飼うわ」
「無理だろ」
率直な感想を述べると、フィーはぎゅっと唇を結んだ。むっとしたのか考えこんでいるのかわからない。少女は黙って山羊の頭を撫でた。山羊は迷惑そうに頭を振った。シーフォンにフィーが言った。
「この子、人間に触られるのは嫌いなの」
「なら撫でんなよ」
「でも私はこの子を撫でるのが好きなの」
変に強情な口調になる。こいつらしいやと思った。
「死体がないから、連れていかれて殺されたのだとずっと」
フィーはうつむいてそうつぶやいたあと、淡々とした調子で続けた。
「山羊は二匹いたのよ」
「そいつしかいなかったぜ」
「うん、片方は死んでしまったから。神殿軍が来るより前に。家が焼けた時、初めて先に死んでいて良かったと思ったわ――少なくとも、すでに死んだ山羊を私から奪うことなんて、誰にもできないものね」
山羊を飼ったことがないシーフォンは、
「二匹で飼わなきゃ駄目なのか?」
と聞いた。
「そういうわけじゃないけど、一匹じゃ寂しいわ」
「お前が?」
「山羊が」
「そんなわけねーだろ」
フィーはそれには反論せず、山羊の首にかかったロープを結びなおしてやった。自分の髪飾りとお揃いのかわいい結び目を作る。
「この子が生きていてよかった。ありがとう、シーフォン。このお礼はいつかするわ」
「いつかじゃなくて今やれよ。魔導書よこせ」
行きかけていたフィーが立ち止まった。振り向いたフィーからは、先ほどまでの幸福そうな微笑、優しい手つき、友好的な雰囲気は消え失せていた。
以前は無口で無表情で何を考えているかわからぬぼんやりとした態度で、魔導書にも勝負にもさほどこだわりを見せない娘であったが、住み家を焼かれ師匠を失い何もかもを失ったあの夜から、ほんの少し、何かが変わった。
今、赤い瞳が怒りに揺れている。
「私の物はもう誰にも、何も、渡さないわ。あんたにだってよ、シーフォン」
「ああ? なら返せよ、その山羊」
その口調よりも目つきにかちんと来たシーフォンが、山羊なんて別に欲しくもないのにそう言った。売り言葉に買い言葉だ。フィーは顎をぐいと持ち上げ、一層冷ややかな目つきになった。粗末な服をまとい山羊を連れた田舎町の小娘は、シーウァやネスの貴族たちなど足元にも及ばないような尊大な表情を作って見せた。
「そんならこの山羊を殺すわ」
その声にはなんのためらいもなかった。彼女が完全に本気だとわかった瞬間、シーフォンは自分の中から怒りが消えるのを感じた。かわりに笑みが浮かんだ。彼に背を向けた魔女が町の方へと姿を消し、一人になったあとも、ずっと笑っていた。
end