/マナ メロダーク
雲はなく青空に太陽が輝いているのに、霧のような雨が降っている。
おかしな天候に怪異の先触れかと身構えることも最近は減っており、神殿から出たマナは空をちらりと見上げ、不思議な天気、そう思っただけだ。雨と日差しが降り注ぐ共同墓地にメロダークの姿を見つけたマナは、男の方へと小走りに近づいていった。
さらさらと雨の音がする。
濡れることを気にする様子もなくいつものように墓に祈りを捧げていたメロダークは、マナが隣に立っても顔をあげなかった。祈り終えてから初めて少女の方を見る。
「体を冷やすな。また熱が出るぞ」
自分の上着を脱ごうとしたメロダークの手を押しとどめ、マナは真面目な顔で、「温めて」と言った。
「……どうした」
「どうもしない」
湿り気を帯びた髪に温かな指が通ると心地いい。鎖骨のくぼみに唇が触れ、うなじに硬い掌が触れる。むきだしの肩や背を熱い手が撫でると皮膚がざわついた。胸元と袖を止めた色鮮やかなリボンが男の手で解かれた。するりと服が落ち、寝台に座りこんだマナの腰にまとわりついて、乳房や腹が剥き出しになる。男がやはり濡れた上着を脱ぎ、下衣に手をかけて結び目を解いたが、そこでマナが手を引き、抱擁を促した。
雨はやみ、静かな真昼だった。
薄明るい部屋の中、上半身だけ服をはだけた状態でぴったりと抱き合う。みじろぎするたび娘の髪の毛や男の体毛がお互いの肌をくすぐり、快感よりは痛みを感じた。濡れた肌に吐息がかかるとそこから温もっていく。長い間そうやって穏やかな抱擁だけを交わしていた。
メロダークがもぞもぞと動いて先へ進みたそうな気配を見せたので、
「まだ」
ぐずるように抗議する。
メロダークはマナを抱いたまま壁に背を預け、娘の体をすっぽりと抱え込むように座りなおした。マナの首の付け根に顔を埋める。二人の寝室には大河の波音が満ちている。
「メロダーク」
「ああ」
「温かくなった?」
「……どうかな」
メロダークは娘の体の温もりを探るように、尻や、腿の間や、腹に触れた。マナは男の手の動きに体を委ねていたが、
「私じゃなくて、メロダークが」
と言った。
「……お前は時々、妙なことを言う」
「ん……妙じゃないんだけどな。どう?」
密着した体のすべてが心地いい。彼も同じならいいと思う。
しばらくしてメロダークが言った。
「そうだな。温かい」
「全部?」
「全部だ」
「よかった」
そうつぶやいたマナは、男の腕の中で伸びをした。
触れ合えば温かく、一緒にいれば安心する。愛には特別な何かなど存在しない。当たり前で、単純なことだ。男の頬に千度目の口づけをする。
100日前
鐘楼塔の下に引っ張りだしてきたベンチに腰掛け、防具をひとつひとつ点検して、油と砂と布で磨いていく。
錆の浮いた帷子は砂で磨き、小手は擦り切れた内張りを外して張り替える。黙々と手順通りに手入れをしていると、それだけで気持ちが落ち着いた。
板金鎧の錆びついた留め具をちまちまと磨いていたメロダークは、人の気配を感じて顔をあげた。中庭の向こうの回廊を、分厚い聖典を何冊も抱えたマナが歩いて行くところだった。吹きつけた強い風が娘の髪を乱し、マナは足をとめると、頭をぶんぶん左右に振って、顔にかかった前髪を払おうとした。うまくいかない。「マナ」と呼ぶと、乱れた髪のままこちらを向いた。
「あっ、メロダークさん! ちょうどよかった、さっきネルが来て……」
弾んだ声を出したマナを手招くと、回廊から出てとことここちらへ近づいて来る。ベンチの前に立った少女の髪を、油が付いた指は使わず、両方の掌でかきあげてやった。白い髪は柔らかく彼の手をくすぐった。
「ありがとうございます」
はにかんだ微笑を向けられ、彼も小さな笑みで応じる。マナは彼に触れられるのを喜ぶ。
「手伝いは必要か?」
「いいえ、これを運んだら終わりですから。急ぎの用事でもないですし」
マナはメロダークの足元に整然と並んだ、防具や武器の類を眺めた。
「何かありましたか?」
「……いや。掃除のついでに気になっただけだ。ずっとほったらかしだったからな」
「そういえばそうですね。ここに来られた時は毎日、手入れをしておられたのに」
「たるんでいる」
ため息をつくと、マナがくすりと笑った。
「そうかもしれませんね」
鎧をベンチから下ろすと、マナがそこに腰掛けた。メロダークは再び鎧を磨きはじめた。武器の手入れすら忘れて過ごす日々が来るとは思ってもみなかった。しかしそれを言うならこの境遇や今の心持ちも含めて、この町に来てからのすべてが彼にとって予想外のことなのだった。
中庭の木々の梢からは小鳥のさえずりが聞こえている。祈祷書を脇に置いたマナは、足をぶらつかせながら彼の手元を見つめている。目が合うと嬉しそうに笑った。午後は釣りに行くつもりだったのだが、マナと一緒に過ごすのもいいかもしれない。というのはつまり彼女の周囲をうろうろして、邪魔です! と叱られるということなのだが。いや、テレージャが遺跡調査のために人手を欲しがっているらしいので、そちらに顔を出してみてもいい。調査隊の人間ともすっかり馴染みになった。彼らの大半はホルムの住人で、最近はメロダークがマナと一緒に歩いていると、信者以外の人間、マナではなくメロダークの知人から挨拶されることも増えて、そのたびにマナはひどく嬉しそうな顔をする……。
「さっきね、ネルが焼き菓子を届けてくれたんです。お茶を淹れますから、メロダークさんもご一緒に」
「……前から思っていたのだが」
「はい」
「そろそろそれをやめろ」
「なんです?」
「さんをつけるな。呼び捨てにしろ」
一瞬驚いた顔で彼を見つめたマナは、
「メロダークさんがそうおっしゃるなら」
そう答えてからいきなり間違えたのに気づいて、恥ずかしそうに笑った。
「メロダーク」
ゆっくりと彼の名前をつぶやいた。
「なんだか慣れませんね」
メロダーク、メロダーク。嬉しそうに彼の名前を繰り返す。
100日前
目が覚めてもまだメロダークはマナの隣に寝ていた。
マナは幸福な気持ちで、白い朝の光が落ちる乱れたシーツに頬を寄せた。こんな近くでメロダークの寝顔を見るのは初めてのことだ。男は締まりのない顔で眠っていたが、緩みきったその表情すら愛しいと思った。開いた口を見つめるうちに、夕べの諸々を――闇の中で彼が言ったことや、声と同じようにゆっくりと冷静に動く舌や歯の感触や、その唇をどんな風に自分が求めたかということまで――思い出して、少し照れた。手を伸ばして顎を押し優しく口を閉じさせると、今度は目が開いた。
「おはようございます」
小声で挨拶すると、メロダークが寝返りを打ってこちらを向いた。彼の物となった肉体を確認するように強く抱きしめられた。マナも同じくらいの強さで抱擁を返す。耳元に息がかかってくすぐったい。
「今日が期日だったな」
メロダークがもごもごとそう言った。
なんの話だろうと思いながら、マナは男の胸の中で顔を上げる。
「粉屋の支払いだ。朝のうちに届けにいかんと」
そう言うと、メロダークはくわっとあくびした。
「毎月たいして変わらん額なのだから、他と同じように年末に一年まとめてではいかんのか。わざわざ月毎に払わせるのは、あれは税金の関係なのか?」
「メロダークさん」
名前を呼んで男の注意を引くと、
「今はそんな話、しないでください」
怖い顔をして男を叱る。メロダークが困った顔になった。
「……何を話せばいいのだ」
「それは……そんなの、知りません。でも粉屋の支払いだけは絶対に違うと思います」
すっかり目が覚めたらしいメロダークはしばらく視線を宙にさまよわせていたが、やがて「考えておこう。次は別のことを話す」と言った。
是非そうしてくださいと相槌を打ちかけて、マナは危うくその言葉を飲み込んだ。そんなことを言ったら、次をねだっているのも同然ではないか。
同時に、ねだっておいた方がいいのかなと心配になる。
一度だけでいいと思っていたはずなのに、もうわがままになっている。
「どうした」
恥ずかしくなったので、ごまかしてしまうことに決めた。両手を伸ばし、乱れた男の髪を整える。メロダークは素直にごまかされてくれた。頭をマナの方に傾け、気持ちよさそうにしていたが、そのうちに両目を閉じる。お前に触られるのは気持ちがいいと、穏やかな声で言う。
100日前
大河を船で行く人々は、神殿に立ち寄って旅の無事を祈っていく。
夕暮れの礼拝堂でメロダークと話し込んでいる中年の男も、そのような旅人の一人であるように見えた。男が身にまとう顎までを覆う高い襟のついた上着や、裾と袖を毛皮で縁取った丈の長い外套は、このあたりでは見慣れぬ物であった。男が話し、メロダークが時折頷いたり、首を横に振ったりする。メロダークの横顔はいつもの無表情さであったが、中庭を挟んだ回廊からその様子を眺めていたマナは、胸がざわつくのを感じた。
――何か嫌なこと。
そう直感し、夕日のまぶしさに目を細める。
やがて男は足元に置いていた大きな荷物を背負い直すと礼をして出ていった。メロダークは無人の礼拝堂に立ち尽くしたままでいる。マナはしばらく躊躇した後、回廊を出て、メロダークの元へと近づいていった。もう彼のことで怖がったり不安になるのは嫌だった。
「メロダークさん」
声を掛け、近づいて来た男に「どうかなさったんですか?」と聞いた。気持ちがそのまま表に出て、ひどく不安な声になってしまう。メロダークは普段通りの顔で彼女を見下ろした。
「何もない。世間話をしていただけだ」
「嘘」
「本当だ」
「嘘」
マナが頑固に繰り返すと、メロダークが眉間に皺を寄せた。
「……動揺しているように見えるか?」
「いいえ。でも、わかります」
メロダークに目で促され、少女は礼拝堂を出た。回廊には数人の老人が集まっておしゃべりをしており、メロダークは彼らを避けて中庭へ向かった。生い茂る木の影で足を止める。後をついて来たマナを振り返ると、「本当に何でもないことだ」とまず前置きした。
「さっきの男は南から来た行商人だ。ハスラに小間物の店を構えていたが、流行り病で家族が死んだので、店を畳んで生まれ故郷のこちらに戻って来たそうだ」
「お気の毒に。ハスラはシーウァの町ですか?」
「メトセラ教国の首都だ。少年兵として徴兵されたあと、改宗し、メトセラの女と結婚したそうだ。国境を越えてこちらへ戻るために財産を使い切ったらしい。俺の容姿を見て南方の出身だと思い声を掛けてきた。そこでそういう話をされた。それだけだ」
マナは黙った。しばらくメロダークの顔を見つめていたが、やがて言った。
「泊まっていって頂いてもよかったのに」
「今日中にズーエまでは行きたいと言っていた。宿を教えた」
メロダークが周囲に人の気配がないのを確認したあと、マナのうなじに触れた。身を屈めて引き寄せた少女の白い額に自分の額を当てて息の触れ合う距離で目を合わせ、
「そんな顔をするな」
低い声で言うと、すぐに体を離した。マナは額を押さえた。
最近、メロダークはよくマナに触れる。
表情にはださずとも楽しそうな、嬉しそうな、あるいは悲しんでいる彼の気持ちがマナにはいつも手にとるようにわかって、でも、こういう時だけはメロダークの気持ちがわからない。優しく親しげに触られるとどきどきするだけだ。単に子供扱いされているのならいくらメロダークさんでも失礼だわと思うし、もしもそうではないのなら……そうでないなら、自分は、どうすればいいのだろう?
「……なんだかごまかされたような気がします」
額を押さえてマナがそうつぶやくと、メロダークが真面目な調子で「何をだ?」と言った。
回廊に戻りながら、メロダークがぼそりと呟いた。
「メトセラ教国にいたころ、戦えばきっと故郷が救われると思っていた」
「ええ」
「そして故郷に帰れると。そういうことにはならなかった」
マナが小走りになってメロダークの隣に並ぶと、メロダークは歩調を緩めた。マナは考えた末に、言った。
「この町をメロダークさんの故郷だと思ってはいただけませんか?」
メロダークは返事をしなかった。
忘却界の黒い河の流れや、小舟に座る少年の頼りない背や、暗雲が晴れて光が差した後の光景を見た時の彼の悲鳴や、懐かしく大事なはずの故郷がぎらぎらとした欺瞞と怠惰な無関心に満ちた町であったことを思い出し、なんだか泣きたくなった。
――私、この人を救えてなんかいない。そんなこと、できっこない。
タイタスの魂を持つ自分こそ、彼の求める救いからは一番遠い存在であるように思えた。
裁くことも救うことも神の仕事だ。人間の身である自分にはどちらも遠い。
ひんやりとした冷たい回廊に、二人の足音だけが響いている。
100日前
遺跡ではよく戦った。
だがそもそも本来の大河の巫女としての務めぶりをメロダークは見たことがないわけで、そう考えると、マナはお腹が重くなるように感じた。緊張している。とても緊張している。息を吸って、吐き、両目を開けた。朝の光に照らされて、鏡の中の自分は難しい顔をしている。
今日は礼拝日だ。
今日は朝からメロダークが来る。
今日は初めて、メロダークに本当の自分の姿を見せるわけだ。
自分より遥かに年上の男に忠誠を誓われ帰依されたことに対して、マナはずっと戸惑いと喜びが入り混じった気持ちでいた。喜びは、単純だ。一緒にいると、メロダークさんは楽しそうだ。私も嬉しい。
メロダークの笑顔を見ると――それは唇の端をかすかに動かす程度のわずかな笑みであったが、マナは驚くほどの強い喜びを感じた。だがもしもそれが恋だと言う人がいれば、驚いて打ち消したに違いない。
戸惑いの方は、もう少し面倒だ。
大河のほとりで剣を捧げられた時には、戦闘の意志を放棄したことを、メロダークなりに証明してみせたのだと思っていた。それと、マナに対する信頼を。
普通なら「お前を信頼した」と言う、相手が頷く、それだけでいい。だがメロダークは違う。彼の信頼は何度も裏切られ、おそらくは彼も密偵として信頼を何度も裏切って、だから言葉だけでは足りないのだ。敵対しないと言う代わりに剣を捧げ、お前のことを大切にするという代わりに帰依して信仰を誓い――。
「本当に?」
マナは鏡にむかってそう呟き、次に思い切り顔をしかめてみせた。もしかしたら私は彼の信仰や忠誠を、自分に都合よくねじ曲げようとしている……。
いつもより時間を掛けて髪を結い、胸元の飾り紐をきちんと結び直してから礼拝堂に向かった。
ずっと信徒の数が減ったまばらな礼拝堂の最後列に、長身の男が座っている。マナは一瞬だけ彼の方をちらりと見た。メロダークは見慣れた静かな表情で彼女を見返した。マナは聖杯の前に立つアダの傍らの椅子に座り、聖典を開いた。
男が甲冑姿でないのに気づいたのは、礼拝が始まってからだった。