TOP>TEXT>神殿に拾われた孤児>白光

白光

グッドエンド後/マナ メロダーク


 蛇がいる。
 愛撫する白い手のように、眠る少女の肌の上を這っていた。


 細い尾が丸い膝を撫で、ひんやりと白い内腿に胴が絡む。細工物めいた鱗は、乱れた敷布に広がるマナの髪と同じ白さで輝いていた。まだ幼さを残す乳房の上で、蛇はゆらりと鎌首をもたげ、男に向かって牙を剥いた。シュゥという鋭い威嚇音まで聞こえた気がしたが、メロダークにはこれが幻覚であることがわかっていた。
 この部屋には蛇などいない。ここにいるのは眠る少女と彼だけだ。
 メロダークが寝台へ一歩を踏み出すと、果たして蛇の幻は消えた。閉ざした窓の鎧戸の隙間から真昼の陽光が一筋落ちて、マナの体と寝台の上を横切っていた。



 服を取ったメロダークの足元で床板が大きく軋み、マナが目を覚ました。薄暗い部屋の四方にぼんやりと視線をさまよわせていたが、自分が裸のままなのに気づくと、慌てて毛布を被った。
「そろそろ帰れ」
 上着の紐を結びながらメロダークが言うと、
「嫌」
 毛布の下から小さな声が聞こえた。メロダークは寝台の端に座った。
「なら、ずっといるか?」
 マナが毛布の端からそろりと顔を覗かせた。あの不思議な赤い瞳で彼をじっと見つめていたが、やがて先程よりももっと小さな声で、そうする、と答えた。
「馬鹿者」
「……馬鹿じゃないもん」
「俺のことだ。俺が俺に言ったのだ」
 メロダークは寝台に肘をつき、毛布の中に手を入れた。肋の浮いた脇腹から柔らかな乳房へと手を滑らせる。温かな体の中央で、心臓がゆっくりと脈打っている。



 宿屋暮らしの人間が、ずっといるか、もないものだ。
 年甲斐もなく浮かれている自分に気づくのは、一人になって冷静さを取り戻した後だ。二人でいる間は当然冷静ではなく、それは少女の方も同じで、いや、年が若い分、メロダークよりもずっとひどい。
 去り際、マナはひどく憂鬱そうな顔を見せた。別れの挨拶をすませてからも扉の前でぐずぐずしている。取手にかけた手を下ろし、振り向いた。
「しばらく離れ離れですよね?」
 ひばり亭に宿泊している行商人から荷の積み下ろしの手伝いを兼ねた護衛を頼まれており、翌日からシーウァに行く予定だった。おおげさな物言いではあったが、十日ほどホルムを留守にするのは確かだ。
「いない間に何かあるのか」
「いいえ。ただ、そんなに長く離れるのが初めてだから」
 寂しいなと言われても、俺もだとか離れたくないとか、女を喜ばせるような器用な台詞が言えない。
「……お前は神殿で日々の務めがあるだろう。毎日、真面目に励めば、十日などすぐだ」
 結局、色気もクソもない説教になる。マナが上目遣いに彼を見た。
「私も一緒に、行きたいな」
 本気で言っているわけでもないだろうが、そう問われれば、どうすれば彼女も同行できるかと真面目に検討せざるを得ない。考え込んだメロダークの沈黙を、マナは不機嫌な拒絶として受け取ったようだった。しょげた様子で爪先に視線を落とし、
「というのは、冗談です」
 ぽつんとそうつぶやいた。
「くだらん冗談を言うな」
「すぐ怒る」
「帰れ」
「意地悪。言われなくても帰ります」
 出ていこうとしたマナの手首を引いて振り向かせると、目に涙が浮かんでいる。あれほど強靭な心の持ち主が、なぜ二人の時にはこんな他愛もないことで泣いたり怒ったりするのか、呆れると同時に不思議な気持ちになる。
 抱き寄せてキスすると、彼の腕の中でマナはようやく笑顔になった。
「毎日無事をお祈りしていますから」
「ああ」
「帰ったらすぐ会いに来てくださいね。絶対、すぐに」
「そうしよう」
 背中に手を回し、ぎゅっと抱きついて来る。我がままを言うようになったのも、ためらいなく甘えてくるようになったのも、怪異が終わってからのことだ。すぐに泣き、時々は怒り、それ以上によく笑う。
「真面目に考えているんです」
 胸元に顔を押し付けたマナが、くぐもった声でつぶやいた。
「神殿を出ること。メロダークさんとこうなったからではなくて。自分の生まれた理由を知ってから、ずっと。何度もアダ様とお話を」
 メロダークはマナを抱く腕に力を込めた。あらゆる宗教の教義から外れた方向に彼の信仰心が一歩を踏みだし、少女がそれに応えたあの夜から、いずれ彼女が神職から離れることは予想していた。
「巫女長殿はなんと?」
「私の好きにしなさいって。たとえ神殿を離れても、アダ様が私の養い親なのに変わりはないし、アークフィア様は私のこと、ずっと見守っていてくださるからって」
 ほんの一瞬メロダークの手が動きを止め、マナはいつもの敏感さで男の戸惑いを察した。顔を上げ、心配そうに尋ねた。
「メロダークさんは? 私が巫女でなくなるの、お嫌ですか?」
「……俺の歯止めがきかなくなるな」
 マナが笑った。
「歯止めなんか無くしてください。私はもう何も迷っていないのに」
「知っている」
「好きです」
「それも」
「それだけ?」
「なんだ」
「俺も好きだって言ってくださらないんですか?」
 虚を突かれた彼が押し黙ると、マナは突然、照れた顔になった。自分で言っておいて恥ずかしくなったらしい。
「今のも冗談です。冗談ですから。えっと、本当はわかってるんです。私が神殿を出ても、メロダークさんがずっと一緒に……」
 メロダークはマナの言葉を遮った。
「お前を愛している」
「あっ……!」
 目を丸くしたマナが、勢いよく体を引いた。背中が扉にぶつかって音を立てる。たちまち頬が紅潮し、首筋までが赤く染まった。メロダークは扉を開けた。少女の肩に手をかけてくるりと振り向かせ、そのまま廊下に押し出す。
「気をつけて帰れ。シーウァから戻ったら、アダ殿に挨拶に行く」
 そう言って扉を閉めた。



 マナが帰ったあと、部屋はやけに空虚になる。落ち着かない。彼女の方が部屋の主であるかのようだ。孤独が性分だったはずの男は、二人でいること、いや、二人であることがもう自然になってしまっていた。
 窓の鎧戸を開けて風を入れた。
 明日からの旅について考えながら窓に背を向けた時、寝台の上で細長い紐のような物が光った。一瞬緊張したメロダークは、すぐに息を吐いて力を抜く。乱れた毛布の間に落ちているのは、マナの髪を飾る細いリボンだった。
 ――蛇がいた。
 そう思う。
 目を閉じれば、マナの体を這う白い蛇の幻が浮かんでくる。




 あの日、信仰を誓った彼に、マナが言った。
 器として肉体を作られた自分は、タイタスの魂をも持ち、そしてアークフィア女神は今もこの魂を愛している。忘却界の果てしない流れの中、タイタスの魂は女神の元から失われては戻り、寄り添っては別れ、帰ったかと思えば行き、永遠あるいは一瞬の逢瀬を繰り返し、繰り返し、すべてが忘れ去られるあの場所で、女神の愛だけが変わらずにあり続けている。

 ――私はそれでいいと思っているのです。生み出された肉体も、汚れたこの魂も。タイタス。アークフィア様のこと。すべてを含めた全部が、私です。

 それからしばらくして彼女を抱いた。
 欲望とは別に少女を繋ぎ止めたいと思ったせいかもしれない。メロダークが自分の居場所はここだと確信を得たように、マナにもここが自分の居場所だと思って欲しかった。この世ならざる場所、人ならざる神の側ではなく、彼の側が居場所なのだと。



 忘却界の流れに思いを馳せる。裁きを待つ魂たちが彷徨うあの永遠の黄昏のどこかに、彼の光を待つ女がいる。



 メロダークはマナが忘れていったリボンを拾い上げた。少女の白い髪を飾る光沢のある布地は、日に焼けた無骨な男の手には馴染まない。探索の間ずっと、この淡い色彩が少女の後頭部に揺れる様子を、後ろから見守っていた。リボンを解いた瞬間の微かな衣擦れの音、髪の毛に指を通した時の感触、ひんやりとした背中、痛みや快感を堪える時に噛み締めた唇がたちまち朱に染まる様、自分を見つめる赤い瞳、そういったすべてが、もう彼には馴染みの物だった。
 蛇がいた。
 それがなんだというのだ? お前はただ見ているがいい。この猥雑な地上には、永遠など何も。魂など。俺は俺のやり方で、あの娘の幸福に奉仕するだけだ。
 彼の手の中で光るリボンに、メロダークはそっとくちづけを落とした。


end

TOP>TEXT>神殿に拾われた孤児>白光