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キャンディ・デイ

現代パラレル/メロダーク マナ

 まだ何も失っていなかった少年時代、いつも同じ夢を見た。
 巨大な岩を抱くように、短い鎖で手足を繋がれている。
 切りつけるような風が耳元で唸っている。せいいっぱい首を回して周囲の様子をうかがうと、ごつごつとした岩山と、山頂を覆う白い雲が目に飛び込んでくる。下方からは水の音が聞こえる。助けてくれるような人の気配はなく、ここに至る道すら見えない。絶望するが、この絶望もまた犯した罪に対する罰なのだと知っている。
 人の顔をしたおぞましい鳥の化け物が天空を舞っている。
 化け物たちは彼の体に鋭い爪を立てる。背を引き裂かれ、血が流れ、骨まで食い込む痛みに絶叫すると乾いた喉が焼け、しかし殺されることはない。痛み、乾き、孤独、絶望。そういった夢だった。岩に飛び散った血が黒く乾き、その上にまた赤い血が散る。



 ただの夢であるにも関わらず、目覚めた少年の背中には、幾本もの赤い爪跡がついていた。少年の絶叫にかけつけた母親がグロテスクな傷跡に震え上がり、このことを父親に話し、彼らはまずいじめを、次に大人によるもっとおぞましい出来事を疑い、メロダークはそれを否定した。



 鳥の化け物に襲われる夢を見るんだ。
 その夢から覚めるたびに、背中が本当に痛むんだ。



 彼の言葉に両親は顔を見合わせた。
 嘘をつくなと叱られることはなかった。
 メロダークは嘘をつかない子だった。我慢強くて手のかからない物静かな子供。
 同じ夢と目覚めと傷の痕跡。何度かそれが繰り返されたあと、学校でのカウンセリングと総合病院の診察を経て、少年は両親の友人の友人だという精神科医の元へ送られた。



「プロメテウスだね」
 精神科医はそう言った。
「プロメテウス」
 ぼんやりとした口調で少年は繰り返した。初めてきく言葉だった。
 診療室の椅子は大きなカウチソファだ。部屋は清潔で、感じのいい花柄の壁紙を間接照明が照らしている。初老の医師は白衣ではなくセーターとジーンズ姿だ。診療室ではなく金持ちの親戚の家のようだ。あるいは昔のハリウッド映画に出てくるような診療室。
「ギリシャ神話に出てくる神様の名前だよ。神々から火を盗んだために、岩山で鎖に繋がれ、内臓をついばまれ続ける罰を受けているんだ。プロメテウスは神様なので死なない。毎日傷が再生する。毎日鳥が彼を傷つける。未来永劫続く罰だ」
 メロダークはその神話を知らなかった。
 初耳です、そう告げた。
 ゲームやアニメで見たことはないかな? 漫画で読まなかった? 図書館の本は? 
 知らない。俺は図書館には行かないし、漫画もアニメも見ない。友達とはゲームじゃなくてサッカーをして遊ぶ。サッカー選手になるのが夢なんだ。もちろんうまくいくかはわからないけれど。努力をするのは大切なことだ、そうだろう?
 医者は黙って頷いた。いくつか質問をしたが、夢とは関係があるようなないようなことばかりだった。メロダークはあまりしゃべらなかった。また来月おいで、来月じゃなくても、何か話したいことがあればいつでも来ていいよ。精神科医はそう言ったが、毎晩彼を脅かす苦痛を伴う夢についての「カウンセリング」はその一回で終了になった。それからすぐに少年は両親の元を離れることになり、それまでの生活が終了したせいだ。
 一度の診察から得た物は特になかったが、水底のような静かな部屋の中、アンティークな振り子時計のカチコチという音だけはいやにはっきりと覚えている。
 
 成人したあともその夢は時折彼の元を訪れ――夢の中でいつも彼は少年のままだった――目覚めると彼は、痛みや恐怖ではなくぼんやりとした懐かしさを覚えた。現実は夢よりも遥かに苦痛を伴うようになっていた。夢では彼は傷つけられる立場であったが、現実で彼は傷つける側に立っていた。もう背中に傷など浮かばなかった。
 プロメテウス。
 くだらないことだ。彼は神でも英雄でもなかったし、自分の仕事を英雄視できるような無邪気さも持ちあわせていなかった。そのくせ仕事には熱狂的なふりをした。いや、実際に熱狂していたのだろう。
 もう子供ではなかった。嘘もつくようになったが、不思議なことに盗みだけはしなかった。
 正義の名の元にそれ以外の悪事はすべてやったように思えるのに。
 ともかくそのようにして、時間が経っていった。一日、一日、なんとか生きて、そうこうする間に両手はどんどん汚れていった。
 カチコチ、カチコチ。



 それから?
 うんざりするような汚れ仕事の仕上げに善良な人々が死に小さな町が滅びかけるような大きな出来事に巻き込まれ、メロダークはそこで一人の少女を見つけ、少女もまたメロダークを見つけたのだった。千年の呪いのように、あるいは邪悪な怪物のように町を襲った出来事の数々は、少女によっていともたやすく打ち砕かれた。メロダークも彼女に救われた一人であった。
 マナという名の少女は災いの一因であったメロダークに罰を与えることも恩を売ることもなく、静かに自分の日常に戻っていき、メロダークの日々にもまた、少年時代以来初めての平和が訪れた。
 めでたしめでたし。
 完璧なハッピーエンドだ。







 マナと会う約束の日は3月14日ではなかったが、通りかかった洋菓子屋で、彼はキャンディの詰め合わせを買った。
 バレンタインに渡されたチョコレートが好意よりは礼儀による品だというのはわかっており(にも関わらず、あれほど狼狽したのはひどかったし、狼狽に気付かれたのはさらにどうしようもなかった。マナは目に見えて困惑していた。しかしあの時赤くなって鞄を抱きしめたマナはそこまでの話の流れのせいでまるで自分に――いや――やめよう、こういう考えは少女を卑しめることになる)、その日のうちに土産としてケーキを買って渡している。ホワイトデイにもう一度菓子を渡すのもくどすぎてどうかと思ったのだが、色とりどりのキャンディが詰まった壜を見た瞬間、それを受け取ったマナの笑顔が頭に浮かんで、その笑顔に押されるように店に入ったのだった。
 ひと月前、別れ際に何度も振り返っては嬉しそうに手を振っていたマナの姿を思い出し、メロダークの頬はかすかに緩んだ。
 ――甘い物は好きだと言っていたな。ケーキを選びながら真剣に悩んでいた。あれはうまそうに飯を食う。



 待ち合わせ場所まで歩きながら、暖かな日差しを肩に感じていた。じきに春が来る。大学に無事合格したと、電話越しに弾んだ声でマナは告げた。春からは園を出て、学生寮に入ります。初めて自分の部屋が持てるんです。メロダークさん! 調べてみたのですが、寮からメロダークさんのおうちまですぐなんですよ。
 合格祝いに食事を奢る約束をして(マナは驚き、遠慮し、途中でそれならメロダークの手料理を食べさせてくれと言い出しあまりの無防備さにメロダークを絶句させ、叱られると悲しそうにして、あれやこれや、散々恐縮した最後に『またお会いできるのすごく楽しみです』とはにかんだ声で告げた)、電話を切ってから、メロダークは動揺した。
 マナに対する好意が、想像以上に膨れてあがっていることに気づいたのだった。
 これだけ無条件で絶対的な愛情を誰かに抱いたのは初めてのことだ。普通なら子供時代から成長期に家族や周囲へと向ける物なのだろうが、優しい両親にこうするしかないからと泣いて頼まれ、サッカーの試合のために使っていた大きなバッグに身の回りの品を詰めこんで家を出たあの日、少年の愛情は行き場を失ってしまった。
 この愛情はつまり、年下の勇敢な少女への敬意であり、感謝の念であり、形を変えた謝意であった。同時にそういった理屈を超えた何かだった。暗闇の中で光を見た人間がひたすらそこへ向かうように、メロダークの心は少女を愛した。
 相手は子供だ。それに彼女の立場を考えてみろ。単なる合格祝いなのだからそれ以上の意味を見つけようとするな。そう思ったが、二人きりで会えることへの喜びは、メロダークを動揺させたままだった。
 


 片手に下げた洋菓子屋の紙袋が、かさかさ、こそこそ、聞きなれない音を立てて耳をくすぐり、メロダークは落ち着かない気分になる。キャンディだけでなくケーキも買えば良かった。俺はどうやら気が利かないらしい。いつもより念入りに剃刀をあててきた顔が、かえって不自然ではないかと心配になる。待ち合わせの場所を外ではなくどこかの店にすべきだったと反省する。いつの間にか早足になっている。そわそわしている。早く会いたいくせに会うことに少しの恐れもある。子供のようだが、年齢を考えれば子供よりひどい。
 待ち合わせ場所の駅前の広場に、マナはもう来ていた。前回のことがあったので早めに来たのだが、また待たせてしまったようだ。
 噴水のそばに立つマナは、学校帰りの制服姿だ。両手で革の鞄を持ち、丈の長い黒いワンピースに白いヴェールを被っている。通り過ぎる人々はじろじろ見たりしない。この町では珍しくない、ありふれた姿だ。キリスト教系の一貫校と修道院があり、神学科の女生徒やシスターは皆このような格好だ。
 少女は修道院の児童養護施設で育ち、大学の神学部に進むことが決まっている。四年後には、あの白いヴェールは堅信礼を経て黒いヴェールに変わる。同年代の他の少女とは違い、ふわふわとしたところがない娘だ。大人よりもずっと強い意志を持ち、どんな困難もやりとげる。在学中に心変わりをすることもなく、きっと立派なシスターとなり、生涯を信仰に捧げ、神と人のために素晴らしい仕事を成し遂げることだろう。
 駅の方から彼が現れると思っているのだろう。
 マナは彼には横顔を向け、視線を改札口の方に注いでいた。
 メロダークは横断歩道のこちらで足を止め、少女の姿を見つめた。
 ほっそりとした両足に、重たい黒いスカートのすそがまつわりついている。あの日と同じように、何も恐れたことがなく、一度も臆したことがないように、ぴんと背を伸ばして胸を張っていた。
 陽光が彼女の目に反射して光った。他の誰とも違う赤い瞳だ。



 突然、目がくらんだ。
 両膝が震えている。
 なんのことはない。
 ――俺は今日、この娘を抱くな。
 メロダークはそう思ったのだった。それは彼の意志や気持ちとは一切関係なく、ただなさねばならぬ事実として、天啓のように閃き、彼を刺した。愛情や敬意や感謝や謝意や、そういう物すべてが入り混じり、耐えられない熱となって心臓を叩いていた。
 今わかった。この娘は俺のすべてだ。今日抱かなければ、この娘を神が奪う。暗闇はもう沢山だ。俺はこの光を失うことに耐えられない……。
 強い視線に気づいたのか、マナがこちらを向いた。
 メロダークを認めたとたん弾けるような笑顔になったが、メロダークは会釈を返さなかった。唇を一文字に結び、自分の顔色が変わっていることを意識しながら、横断舗道に足を踏み出してマナの方へと近づいていった。夢の中を歩いているようだった。道路をゆく車のエンジンや人々の話し声が遠ざかる。かわりに色彩が鮮やかになり、細部までがくっきりと見える。
 マナの真っ白な喉、胸の膨らみ、足元の影、両手に下げた重たげな革の鞄、野暮ったい黒い靴。噴水の水しぶき、灰色と白の石畳、鳩の群れ、飛び散った灰色の羽根……。


 もうひとつの理解がゆっくりとやってきた。
 ずっと見続けた夢の話だ。マナに会ってからは見なくなった鳥の夢。
 岩に繋がれた自分。背に食い込む鋭い爪。鎖。流れる血。少年の日の彼は、この理不尽で耐え難い苦痛に悲鳴を上げながら、心のどこかで諦めている。助けを求めても無意味だ。なぜならこれは罰だからだ。
 あの医者の言った通りだ。あれはプロメテウスの物語だった。どことも知れぬあの場所、あの苦痛、あの与えられた罰、あれは俺の心から生まれた何か、人類が持つ過去の記憶、遠い昔の神話の夢ではない。あれは今日この日に向けての予知夢だったのだ。あまりにも重い罪より先に、罰があった。それだけの話だ。俺は今、神々から火を盗む。



end

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