現代パラレル/マナ メロダーク
十六時ちょうどの待ち合わせだったが、マナはその一時間前に、約束のホテルのティールームに到着した。
スーツケースを手にエレベーターから下りてくる人々のざわめきと足音が、分厚い絨毯に吸い込まれていく。ラウンジの窓際に席を取ったマナは、悩んだ末にメニューの一番上のストレート・ティーを注文した。
私服ではあるが見るからに高校生のマナはどうにも場違いで、笑われるか叱られるのではと心配したが、銀の盆を手に上品な猫のような足取りで近づいてきたウェイターは、少女の白い髪に一瞥をくれることすらしなかった。しばらくして運ばれてきた紅茶は、マナの知らない香りと味がした。美味しい、と感動したあと、マナはもう一度メニューを開いた。
――アダ先生、いつも玄米茶だけど、こういうのもお好きじゃないかしら。
やたらと長い茶葉の名前を暗記する。
窓の外には雪が降っている。
マナは鞄を開けると、中から小さな包みを取り出した。桜色の包装紙の端に、艶のない銀色のリボンが薄紅色のシールでとめてある。テーブルの上に置くと、しばらくそれを見つめていたが、再び鞄にしまいこみ、紅茶を飲み、また取り出して眺める。天井に浮かんだハートの風船が女の子たちの熱気に揺れるデパートの特設会場では気づかなかったが、安っぽい包装紙とリボンで飾られた小さな箱は、あまりにも浮わついた好意に溢れすぎているように見えたし、男が指定したこのホテルの落ち着いた雰囲気の中では、悲しいくらい子供っぽく見えた。マナは、ひそかにしょげた。
やはりこれは渡さない方がいいような気がする。
今日は偶然バレンタインだったし、改まったお礼の品ではないから軽い気持ちで受け取ってもらえるだろうと用意してきたのだが、自分がこういうものを渡すのはどう考えても不自然だし、ふざけているようで不快に思われるかもしれない。そもそも考えてみれば、こういうイベントを気軽に楽しみそうなタイプでもない――買い物につきあってくれたネルには申し訳ないけれど、これは夜、エンダや先生方と食べることにしよう……。
そう決心してチョコレートを鞄にしまい込み、ぱちんと鞄を閉じたとき、待ち合わせの相手が来た。
エレベーターから降りて着たメロダークは、コート、スーツ、糊のきいたワイシャツにタイ、長髪と無精髭は清潔に整えられており、以前とは別人のようであった。男が少女を探して周囲を見回し、彼女の姿を認めて(会釈はしなかった。それはしない人なのだ)ゆっくりとした足取りで近づいて来るあいだ、マナはじっと、失礼なくらいにじっと、数カ月ぶりに再会した男の顔を見つめていた。コートを脱いだメロダークがテーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろした。それでようやく、マナはメロダークから視線をそらすことができた。
「こ……こんにちは」
ぎこちなく頭を下げる。
「お久しぶりです。すみません、お忙しいところをお呼び出しして……」
「いや、私も会いたいと思っていたところだ」
メロダークが言って、近づいてきたウェイターにコーヒーを注文した。腕時計をちらりと見た。
「ずいぶん早く来たな」
「土曜日はボランティアの方が来てくださるから、園は暇なんです」
「皆元気か」
「ええ、とっても。メロダークさんもまたいらしてください」
「……それもどうかと思うが」
「でも、あの会社、辞められたんでしょう?」
「ああ」
「それなら問題ないじゃないですか」
「お前がそう言うならそうなのだろうな」
あ、差し出がましかったかなと思ったが、メロダークの口調も表情も淡々とした物だった。
気が付くとメロダークが彼女を見つめていた。ぶっきらぼうな態度も口調も相変わらずだったが、再会を喜んでいるのがわかる。どこが、なぜと言われたら困るのだが、ともかく、マナにはわかった。目があったので微笑すると、メロダークは無表情なまま視線を落とした。嫌な感じではなかった。それどころか、
――あ、照れた。
なんとなくそう直感する。
「……怪我はどうだ」
「大丈夫ですよ。元気です。病院の先生にも綺麗に治ってると誉められました。メロダークさんこそ、足の方は?」
「俺の方は問題ない。怪我には慣れている」
「そういうことをおっしゃるの、嫌です。悲しくなります」
マナは小さな声で言った。メロダークは無言でネクタイに手をやった。男の性格がそのまま表れたきっちりとした結び目に触れたあと、
「……子供の頃、よく鳥の夢を見た」
これまでとは少し違う調子だったので、マナは飲みかけていた紅茶を皿に戻した。だがその時ウェイターが来てメロダークの前にコーヒーを置き、メロダークは何を言いかけていたにせよ、それを口にするのをやめてしまったようだった。
「鳥の夢?」
「……なんでもない。つまらん話だ、忘れてくれ。それよりもお前の話をきかせてくれ。今日は俺の話ではなく、お前の話を聞きに来たのだ」
並んだ街灯に黄色い明かりが灯る頃には、雪はもうやんでいた。
メロダークが先にホテルを出た。
濡れた歩道を歩く男が、片方の足をわずかにかばうような歩き方をしていることに気づいて、マナはまた少しだけ悲しくなった。彼に会うたび、嬉しいのに寂しくなる。一色に塗りつぶされるような単純な喜びを味わうことはできない。
――嘘つき。
小走りになって追いつく。紅茶を奢ってもらった礼を言おうとしたが、メロダークはそっけなくそれを遮る。
「構わん。こんなことでいちいち礼を言うな」
叱られてしまうが、最初に会った頃と違って、怖くはなかった。年上の男の人は、陰気に見えて面白く、無口なくせに饒舌で、厳しい態度は崩さぬくせにマナに甘い。
並んで歩き出す。相変わらず背が高い。前と違って歩調を合わせてくれているのに気づいて、申し訳ないと思う一方で、優しく扱われているのに嬉しくなってしまう。
「……そういえば、今日はバレンタインだな。駅前にうまいケーキ屋があるから、そこで……」
メロダークの口から思わぬ言葉が漏れて、マナは「えっ」と声を出した。
「なんだ」
「いえ、メロダークさんがそういうこと気になさるの、意外だなって」
「……言っておくが」メロダークが真面目な声で言った。「俺は料理が趣味だぞ。ケーキも焼く」
「えっ!?」
「パイも。プディング。パスタは粉から打つ」
「そうなんですか! すごい、素敵ですね! 私、料理はさっぱりなんです。昨日も友達が簡単だからってガトーショコラの作り方を教えてくれたんですけど、結局失敗しちゃって、一緒に買いに行って」
つい口を滑らせてしまう。
あ、と思った時には遅かった。メロダークの眉間に皺が寄った。
「……ああ。バレンタインだからな。悪かった」
悪いことなんてないです、チョコレートを選ぶのは楽しかった、マナがそう言うより先に、メロダークが独り言のようにつぶやいた。
「気が利かんな、俺も。こちらの用事につきあわせて……恋人と約束があったか」
マナは、自分でも狼狽するくらい、男のその言葉に傷ついた。足を止めて、メロダークの背中にむかって、大きな声を出した。
「恋人なんていません!」
やけにはっきりとした声になった。
「そんな人、いません。メロダークさん以外と約束なんてしていません」
メロダークが振り返った。マナの顔を見て困ったようになった。
「……神学部に進むと言っていたな。すまん。許してくれ」
そういうことじゃなくてと言いかけたが、何が違うのか自分でもわからなくなった。せっかく私服で着たのに、うつむくと真っ白い髪がベールのように垂れた。
大きな手で頭を撫でられる。
驚いて顔を上げると、メロダークがもう一度頭を撫でて手を下ろした。
「謝る。だから機嫌を直してくれ」
完全に子供扱いだ。拗ねているとますます子供と思われそうで、マナは赤くなった顔を背けた。鞄を開けて、中からチョコレートを取り出す。両手でメロダークにぐいと突き出した。メロダークが不審げな表情になる。
「……これ。メロダークさんに、です」
声が少し震えていた。お礼の気持ちです、という一言はなぜか言いたくなかった。メロダークはしばらく小さな包みを凝視していたが、受け取ったそれを、すぐにコートのポケットに突っ込んだ。
うむ、とも、ああ、とも言わなかった。
マナの顔も見ずに、背をむけてすたすたと歩き出す。先ほどよりも早足になっている。
マナは胸元で鞄を抱きしめたまま、メロダークの後を追った。礼すら言われなかったことにショックを受けていた。
チョコレートが嫌いだったのか、こういう気遣いが嫌だったのか、バレンタインに浮かれた自分が不真面目だと思われたのか。今度こそ泣き出しそうになって、男の後を追いかける。
「メロダークさん」
ごめんなさい、と謝りたかった。
メロダークは振り向いてくれなかった。まっすぐ前をむいたまま歩き続けている。マナに見られていることに気づくと素早く片手をあげて、視線を遮るように顔を隠した。固く結んだ唇がかすかに震えていた。怒っていない。そうではなくて、
――照れている。
――ものすごく、照れている。
想像外の事態に呆然としたマナに、メロダークが言った。
「マナ」
「はい!」
「……俺は……」
次の言葉がなかなか出てこない。横断歩道の信号が赤になって二人で立ち止まり、並んで信号を待つ間、メロダークはずっと無言だった。隣に立ったマナは、沈黙が続く間に、どんどん自分の顔が熱くなっていくのを感じていた。どういうわけか泣きだしたくなって、チョコレートひとつ分軽くなった鞄を、胸元で思い切り抱きしめた。
信号が青に変わった。
end