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泥に目覚め

白子族の町/メロダーク マナ

 つづれおり、千年、住人に踏まれて丸く磨り減った石段を、音もなく駆け上がる少女の背は闇にまぎれ、翻るマントの裏地の深紅は悲鳴のように目を焼き、それすらも暗闇に塗りつぶされる。彼が呼ぶ声は耳に届いたはずなのに、マナは足を止めず、振り返ることどころか立ち止まる素振りさえ見せなかった。滴り落ちる地下水に濡れた石のアーチの向こうに、ちらりと後ろ姿が見え、すぐに歪んだ壁に隠れ、見失ってしまう。
 マナ。
 マナ。
 もう二度、名前を呼んだが、声は苔生す石の壁と闇に吸い込まれ、消えていった。
 地下の河のほとりに建つ、住人たちの姿と似て小さく歪んだ異形の町は、少女が愛する美しいホルムの町を悪意と無知でもって再築した、出来の悪い戯画のようであった。


 見失った姿を貯水池のそばで見つけた。
 ――危ない、と声をあげかけたほど、ぎりぎりの端で足を止めている。
 大きく肩で息をしていた。メロダークが近づいていく足音は、流れる地下の川音にかき消された。
 甲冑と厚い羊毛のマントをまとってなお華奢な少女の背に、ほどけた銀の髪が流れ落ちている。うつむいたうなじが白く暗がりに浮かんでいた。突然激しい愛情が、あの日墓地で感じたような、混じりけのない強い愛情が胸を満たす。
 水面に浮かぶ蓮のようだと思った。暗い水底の汚泥に根を張り、陽光に向かってまっすぐに立ち上がり、真っ白い花弁を暁闇に晒す。泥から伸びる清らかな花と似た姿で、彼の前で咲いている。

 ほとんど恐れに似たような気持ちで、彼女を見つめていた。
 血、炎、暴力、死、災厄。己の情欲、身勝手な欲望、正義の名の元の暴虐、何度も踏みつけられ、にも関わらず、アークフィア女神の巫女は依然として清らかなままだ。それに比べて自分がなんと弱く、なんと甘えていたことか! 彼は己を強く恥じた。
 タイタスの器として作られた体であったとして、その血が呪われていたとして、一体、それがなんだというのだ――肉体など些事だ。いや、俺のような者にとってはそれがすべてだ。だがおまえは違う。
 背後の都市から風が吹きつける。御子よ、悲痛な呼び声が聞こえたような気がした。
 マナがゆっくりと振り向いた。
 メロダークがそこに立っていることに、初めて気がついたようだった。



 笑え、と思った。
 笑え、マナ。おまえは意思だ。おまえは光だ。そのような顔をして俺を見るな。すがるように俺を見上げるな。傷を見せるな。笑え。何が起こったとしても、おまえには傷ひとつついていない。おまえは強い。さあ、笑え――。
 彼の心の声が届いたかのように、マナの顔が苦しげに歪み、唇の端がひきつれて、やがてかすかに持ち上がり、微笑した。胸が震えるようだった。彼が仕えてきた神々とはまるで違う。女は彼の願いをきき、それを叶える。
 彼が足を踏み出すと、マナは何かを言ったが、岩壁にごうごうと反響しながら流れる水の音に呑まれ、その声は聞こえなかった。唇は確かに何かを命じる形に動いたが、それが「来ないで」なのか「行かないで」なのかわからなかった。マナは再び彼に背を向ける。うなだれ、闇を溶かしたような水面を見つめる。光も届かぬその底に、彼女が探す希望があるとでもいうように。
 メロダークはもう自分からは声を掛けなかった。少女から離れ、背を見つめ、口を閉ざして身動ぎもせず、マナが振り向くのを待ち続けていた。
 それが彼の知る忠誠の形であった。


end

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