グッドエンド後/エンダ マナ ラバン
最初にばーちゃんが死に、次に館の執事のゼペックが死んだ。ゼペックの葬儀はホルムで行われたが、遺体はレンデュームに葬られた。それからネルの母親が死んだ。いや、鍛冶屋のガリオーが先だったかな? この二人の死は続けざまだった。町中に馴染みがいた二人がいなくなると、ホルムはなんだか寂しくなった。ネルはいっぱい泣いたはずだ。それでもエンダには笑顔を見せた。
「エンダは偉いね、いつも元気で!」
ネルがくれた飴をエンダはバリバリと噛み砕いた。ニンゲンらしさを勉強しているエンダには、ネルが本当は元気じゃないのがわかったので、飴はあまり美味しくなかった。マナは毎日のようにネルの家へ行き、神殿に残された暇なエンダは、同じように暇そうなメロダークとよく遊んでやった。エンダは面倒見がいいのだ。
ニンゲンたちはぽつりぽつりと死んでいった。よぼよぼになった年寄りから順に死ぬのが普通だったが、時々はその順番も狂った。ひばり亭の常連だったおしゃべり好きな老人が死に、老魔術師のデネロスが死に、引退した行商人が死に、神殿軍に息子を殺された老婆が死に、夫を亡くした寡婦が死に、眠り病から目覚めた男が死に、エンダをかわいがってくれた者も、嫌っていた者も、興味を持たなかった者も、エンダが知らなかった者も、平等に死んだ。
それから戦争みたいなものがあった。久しぶりにホルムを訪れたアルソンがこれは内乱で戦争とは違いますと教えてくれたが、エンダにはよくわからなかった。殺し合いは殺し合いだ。アルソンはえらそうな髭を生やしていたが、エンダが引っ張ってやると痛い! 痛い! と情けない声をあげた。一緒にいた兵士から、閣下、しっかりしてください! と叱られていた。
ひばり亭はあの頃のように武装した兵士たちで賑わい、彼らはあの頃の兵士たちと同じように大声でしゃべり、手伝いの女の子をからかい、武器をこれ見よがしにがちゃつかせ、不安を紛らわすようにいっぱい酒を飲んでオハラを喜ばせた。うるさい兵士たちはある朝ホルムから一斉に姿を消し、揃って西の麦畑で死んだ。麦の穂がぱたぱたと折れて、そのうえに男たちの死体がぱたぱたと転がった。アルソンも死んだ。死んだけれど、運びこまれた遺体にマナが魔法を掛けて魂を呼び戻したので、アルソンは元気になって自分の故郷に帰って行った。
戦いが終わって静かさを取り戻した夜の神殿で、マナが言った。
「でもアルソンさんしか助けられませんでしたね」
いつも彼女の後ろに控えている忠実なメロダークが、黙って彼女の肩を抱いた。ぎこちなく、しかし優しい手つきだった。
それからしばらくしてマナが死んだ。太古の王たちと魔術師の始祖を倒した大河の巫女は、流行り病に倒れ、あっけなく息を引き取った。彼女の病が魔法でも治らぬとわかった時、エンダは命に関わる古い竜の知恵をいくつかこっそりとマナに教えたが、マナはそれらを行使することをきっぱりと拒絶した。そうやって彼女は、自分が最後までタイタスとは違う種類の人間であったことを、自分自身に証明してみせたのであった。しかしそれもある意味では、生涯マナを縛り続けたタイタスの見えない呪縛であった。
「それじゃあマナはいっちゃうんだな」
マナの死の前日、寝台の側の椅子に腰掛けたエンダがそう言うと、枕の上でマナの頭がかすかに動いた。珍しくマナは目覚めていた。乾いた唇の端が軽く痙攣して、それが今の彼女にできる精一杯の微笑なのだった。
「アダ様の夢を見たわ」
掠れた声だった。
「エンダは眠っても夢を見ないぞ。マナはいっぱい夢を見るんだな」
「大河のほとりに立って……私を乗せた舟が近づいてくるのを、見守っておられた。もしかして、夢じゃなくて本当のことかも。赤ん坊の時の記憶かもしれないね」
エンダは黙って上体を傾け、毛布に包まれたマナの胸に頭を預けた。
熱い女の肌は、昔と同じように清冽な花の香りがした。痩せた胸が彼女の呼吸に合わせてかすかに上下しており、エンダの耳は弱々しい心臓の音を聞きとっていた。マナの手が動いたので震える指先を握ると、マナはエンダの手をかすかな力で握り返してきた。
――お母さん。
久しぶりにエンダはそう思い、そう言った。
いや、口に出してそう呼んだのは初めてのことだった。
むかし、むかし、名前を与えられたエンダが卵から孵った時、エンダはマナに問うたのだった。
おまえ、お母さんか?
もしもこのニンゲンのメスが自分の母だと言うのなら、信頼して己のすべてを預けていい、人間の形をした竜の子はとっさにそう思ったのだった。
あの時のように目を合わせてはっきりと、はい、そう言って欲しかった。マナの返事はなかった。
視線が天井をさまよったあと瞼が下りた。色のない唇がかすかに動いた。
「アダ様じゃないわ。白い服……でも……懐かしい……」
あとは意味の通らぬ混濁したつぶやきであった。寝室にひんやりとした静寂が満ちた。扉の外にメロダークがやってきた気配があったが、エンダはそれを無視した。
旅に出ようと約束したじゃないか。それなのにおまえは一人で行くのか。
「マナ。エンダをひとりぼっちにするな」
女はすでに眠りに落ちていて、エンダの言葉は宙に消えた。
大河を見下ろす崖の上の墓地の一番河に近い場所に、メロダークはマナの墓を建てた。そこが彼の新しい居場所になった。暇ができれば墓石の前に腰を下ろし、草の上で膝を抱えて何時間も無言で過ごしていた。男の表情は穏やかだった。マナの墓に花を供えに来た町の人たちも、メロダークがいるときは遠慮して声をかけなかった。町の住人たちにとって彼はもはや神殿軍の元密偵ではなく、町の英雄でもある大河の巫女に仕えた神官であり、『あの災禍』を記憶するホルムの住人の一人に過ぎなかった。体格のいい中年の男は体格のいい老人となり、黒かった髪があの巫女と同じような白髪となってから、ようやくホルムの町の住人と神官たちの頼みを受けいれ、神殿の神官長となった。
ある日、いつものようにマナの墓の前に立っていたメロダークが、食事の時間を知らせに来たエンダに言った。
「馬鹿げた話だが、今でも変わらず、いや、昔よりもずっと彼女を敬慕している。あの娘が言っていたことのいくつかを、今頃になってようやく理解できたように思える」
そう語るメロダークの手は胸元の祈り紐を握りしめていた。神官長になった時、神官と巫女たちから贈られた物であった。
「これからももっと好きになっちゃうのか?」
「その可能性は、あるな」
メロダークは面白そうに笑った。
エンダはちっとも笑えなかった。
エンダだってずっとマナのことが好きだった。この先もどんどんますますマナを好きになるとしたら、いつか苦しくて死にたくなってしまうと思ったのだった。エンダは自分がエンダという名でこの肉体にとどまる限り、マナを特別な存在として求め続けることがわかっていた。名付けの術によって誕生したエンダの魂には、生涯消すことのできない刻印が刻まれていた。
魂に同じ刻印を持つ老人は、祈り紐から離した手を伸ばし、エンダの頭をぐりぐりと撫でた。
「さあ、そろそろ戻るか。夕食に遅れるとまたチュナがうるさい」
「チュナはなぁ、旦那にも子供にもうるさいんだぞ」
「そうか。あの家族は仲がいいな。良いことだ」
以前のメロダークなら、決してそんなことを言わなかったであろう。エンダは時折、メロダークの表情や言葉や神殿に来た赤ん坊をあやす優しい仕草に、マナを思いだすことがあった。そういったものはすべて男が彼の巫女から知らずに受け継いだ事柄であった。エンダはそれを見て時に寂しくなったり、元気になったりした。
メロダークはすっかり歩くのが遅くなっており、エンダは神殿の入り口と墓地を歩く男の間を、駆け足で何度も往復した。
様々な人の予想を裏切り、メロダークは長生きをした。前の巫女長であったアダよりも長く生きた。最期は穏やかな死に顔だった。昔、マナに掬いあげられた魂は、そのときに得た安らぎを大事に抱えたまま、忘却の大河へむかった。
テレージャは西シーウァに帰国した後死んだ。死ぬ直前まで神殿に宛てて手紙を送って来た。やあ元気かね、エンダくん。きみはどうしている? きみたちは元気かい? 私はいつでもきみたちの幸福を祈っている。巫女や神官やチュナがかわるがわる手紙を読んでくれたが、エンダは返事を書かなかった。
ある日ひばり亭に行くと、カウンターの向こうにいたのは白髪を高く結い上げた老いてなお美しい女将ではなく、彼女の跡を継いだ若い娘で、それでエンダはオハラが死んだことを知った。
パリスが死んだ。ネルが死んだ。フランが死んだ。遠い国でのシーフォンの死は、風の噂となってホルムまで届いた。エンダのそばにはずっとチュナがいてくれて、何かあるたび昔と同じように「お役に立てて嬉しいよ」と苦笑して、だがそのチュナも死んだ。あの災禍をくぐり抜けたホルムの人々はみな死んだ。赤い雪が舞う空にアーガデウムの幻を見た人も見なかった人も等しく死んだ。墓地に埋めた骨の上にまた骨が埋められて、古い骨と新しい骨は混ざり合った。大河は変わらず流れ続けていた。何度か天災と人災があり、炎に包まれた石の家は黒く崩れ落ち、荒れた大地から人が離れ、新しい王によって古い道に新しい石が敷かれた。
ホルムはホルムのままであったか?
はいでありいいえであった。
ホルムと呼ばれた土地も大河も変わらなかった。ホルムと呼ばれた町は死んだ。
最初に広場のオベリスクが死んだ。
何度目かの戦争でオベリスクは鉄の砲弾を受けて砕け散り、残った根本の部分は掘り起こされて、平らかにならされてしまったのだ。マナがエンダと一緒に歩いた道、ネルとネルのおばさんの笑い声が響いた通り、テレージャとパリスが喧嘩をした広場は死に、職人街も商人街も死に、港も死に大門も死に、領主の館も死んだ。神殿は長い間死ななかったが、まず信者たちが、次に巫女や神官たちが消え、手入れする人もなく見捨てられた石造りの建物はゆっくりと死んでいった。
エンダはその頃には人里を離れ、森の奥に暮らしていた。裸でいてもよかったのだが、一枚のぼろ布をまとっていた。マナがいつも追いかけてきて、体を布で覆ってくれたことを覚えていたからだ。森でエンダは小さな動物や木の実や草を食べて暮らしていたが、生ではなく、竈を作って料理した。マナにもらった本で学んだ料理の腕前は普通で、あまり失敗しなかったが、時々、焦げた石やまずい鍋の味を思い出した。昔、エンダの仲間たちが作ってくれた美味しくない料理が、エンダはそれなりに好きだった。
エンダは昔ホルムだった場所、昔神殿があった場所、昔墓地があった場所、昔マナの骨が埋められた場所を、暇さえあれば訪れた。墓石の列はかろうじて残っていたが、一帯は草に覆われ木々が生い茂り、石に刻まれた文字は擦り切れて読み取れなくなっていた。マナの骨が埋められた場所をエンダは間違えなかった。そこからはマナの匂いがした。白い骨を隠した土は、今でも清冽な香りを放っていた。エンダは黒々とした地面に横たわり、冷たい墓石にぴったりと耳を押しあてた。何も聞こえなかった。年月の重さに崩れた石造りの神殿とまだ新しい森を包む静寂を、大河の波音が満たした。
――マナも卵を産めばよかったのに。
エンダはそう思った。
そうしたら今度はエンダがマナの子供に名前をつけてやったのに。マナがエンダにそうしてくれたように。
――マナ。エンダはニンゲンの勉強をしたぞ。いっぱい、したぞ。マナに教えてやりたいことがあるんだ。
目を閉じてじっとしていると、マナがそばにいるような気がした。だが今はマナの魂はどこにもない。この地上には。
最後にラバンが来た。
その日、墓石の前にぼんやりと座っていたエンダが気配に振り向くと、緑色の帽子を被った男が近づいてくるのが見えた。帽子からはみ出た前髪と、擦り切れたマントと、空っぽの服の袖が、春の風にふわふわ、ぱたぱた、揺れていた。隻腕の剣客は昔と変わらぬ足取りで、草地を縫うようについた獣道を登って来た。背の高い草の間に埋もれるように座っているエンダを見つけると、目が丸くなり、「エンダじゃないか! なんとなあ!」と陽気な声で叫んだ。
エンダは立ち上がって、ラバンを迎えた。
「おいおい、まさかここでまたお前さんに会えるとは――いや――さすがに驚いたぞ。相変わらずだな?」
「おまえもな。相変わらずだな」
「俺はもうよぼよぼの年寄りさ」
「エンダよりは若いぞ」
他の人々とは少し違った時間を生きる二人は目をあわせてにぃと笑い、それで全部の挨拶をすませた。
「そりゃ、なんだ?」
「マナの墓だ」
ラバンは帽子のつばを指先で押しあげ、ホルムの町だった廃墟をぐるりと見回した。古ぼけた石碑の前にぽつんと座りこんだエンダにむかって、
「そんなこっちゃないかと思ったよ」
と、からりとした声で言った。
それからラバンは背中の道具袋を下ろし、酒の壜と干し肉を取り出した。パン、干した果物、油紙に包まれた魚のパイ、固くなったプディングも出した。昔と変わらぬ旅人たちのご馳走を草の上に並べ、エンダと分けあってたらふく食べて飲んだあと、エンダの手拍子に合わせてがらがら声で調子はずれな歌を歌い、エンダにも無理やり歌わせて、日が暮れたので焚き火をおこし、旅の空で出会った様々な人や獣や魔王や祭りや町や山や海の話をして、お返しにエンダは自分が大きな竜だった頃に見聞きした様々な出来事を教えてやり、そうするうちに瞼が重くなってきたので、横になって眠った。
素足に触れる朝露の冷たさにエンダは目を覚ました。ここで休むときはいつもマナの墓を抱くようにして眠っていたのだが、今日は墓からは離れて地面に張り出した木の根を枕に眠っていた。ラバンは焚き火の跡のまだ温かな地面のそばに寝転んで、のんきにいびきをかいていた。
二人は大河に下りて、並んで顔を洗った。ミルクのような霧が大河の彼方に漂って対岸の景色を隠していた。水面には霧の影が白く落ち、影はきらきらと輝きながら、ゆっくりと川下へと流れていた。ラバンは濡れた髭を拭い、ごきごきと腰を伸ばした。
「この風景は変わらんなあ」
「ここはな。でも上流に行ったら、だいぶ違うぞ。新しい町があって、ニンゲンがいっぱい住んでるんだ。エンダはなー、そいつらが嫌いじゃないけど、そいつらには会わないようにしてるんだ。ちゃんとした服を着ろとうるさいからな」
ラバンは声を上げて笑い、エンダの頭をなでた。他人に頭をなでられるのは、くすぐったくてちょっと困るがなんだか嬉しいことなのを、エンダは久しぶりに思い出した。
「一緒に行くか?」
エンダの頭から手を離すと、ラバンは前置きなしにその誘いを口にした。唐突な言葉であったがエンダは驚かなかった。昨日現れたラバンを見たときからずっと、老人が自分を旅に誘うような気がしていたのだった。
それでエンダはラバンを見上げ、一晩考えていた答えを告げた。
「いいぞ。エンダはそろそろ、仲間を探す旅に出よう」
「そうか」
ラバンは頷いた。
「最近はすっかり魔王みたいな連中も減っちまった。生きている竜か。海を渡ることになるかもしれんが――まあ、二人なら退屈はしないだろうよ」
旅をはじめてしばらくした頃、エンダが訊いた。
「なあラバン。ラバンはマナのことを覚えているか?」
「どうすれば忘れられるんだ? 安心しな、俺だけじゃなくてたくさんの奴が覚えてるさ――南へ行けば、キレハの作った歌が節回しのひとつも変えずにそのまま歌われているくらいだからな」
「おー」
感心したエンダは声をあげて、マナがそれを知ることができないのを残念に思った。
「ラバン」
「なんだ」
「エンダはな、マナに教えてやりたかったことがたくさんあるんだ」
「そうかそうか。俺にも教えてくれるか?」
「いいぞ。ええとな、まずマナが死んじゃった次の日だ。神殿の庭でぶちの犬が子犬を産んだんだ。いっぺんに六匹だぞ。それからな、チュナが赤ん坊を産んでな、神殿に来たパリスがこう言ったんだ」
パリスはチュナの赤ん坊が、血も繋がらぬレナ母さんに似ていると言い張ってやまなかった。だってオレにはそうとしか見えねえよ。そりゃあもちろんチュナとあの野郎に似てるし、それ以上にチュナの赤ん坊の頃にそっくりだけどよ、レナ母さんにもよく似てるんだぜ?
レナ母さんに似ているのか似ていないのかはともかく、愛らしい赤ん坊は元気に育った。
元気に育ったのはチュナの赤ん坊だけではなかった。
眠り病から目覚めた子どもたちはみんな成長し、大河のほとりや、西の麦畑や、北の森や、レンデュームの橋や、草原に点々と散らばる白い巨岩に囲まれたなだらかな丘の上で、恋人と愛を語り、夫や妻となり、やがて父親や母親になった。そうやって生まれた赤ん坊は神殿でアークフィア女神の祝福を授かり――ある日メロダークが、殺した数よりたくさんの赤ん坊を抱けることになるとは思わなかったと低い声でつぶやいて――ネルの子供の子供はびっくりするほどネルに似ており、エンダが飴をやるとネルそっくりの元気な笑い声をあげてありがとうと言い――酔っ払った老人が酒場の席で、ワシが子供の頃爺ちゃんに聞いた話なんだけどね、昔地下から怪物が湧いてきたことがあってさとなんだか聞き覚えのある調子で言い、今度生まれるひ孫に話してやるのが楽しみだよと、聞いたような言葉を重ね――ある時西シーウァから遺跡の調査に来た若い学者の横顔にはテレージャの面影が宿り――赤ん坊が生まれ――麦の穂は再び実り――赤ん坊たちがまた生まれて――葬儀がない年などなかったが誕生がない年もなく、ニンゲンたちの命は大河の流れのように、途切れることなく連なっていた。
死ななかったエンダは、命を賭けて小さな町を守ったマナに、そのことを教えてやりたいと思っていたのだった。
end