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不在の間

巨人の塔 / パリス エンダ ラバン


 吹雪。
 小さな冷たい氷の塊が、フードに覆われていない顔面に当たる。
 果てが見えない雪の大雪原だ。
 雪の中に並んで突っ立ったオレとラバン爺、そしてエンダは、ぽかんと口を開けている。全員同じアホ面で、こちらに近づいてくるありえない大きさの巨人を見上げていた。オレたちの背丈の倍、いや、三倍だ。重さの方は見当すらつかない。
 岩の巨人の一足ごとに、白い大地が揺れている。
 


 吹雪だ。
 その日オレたちは、大廃墟の一角の壁がぽっかりと崩れ、そこから伸びた新たな通路を発見したのだった。
 壁の隙間の脇道や、古代魔法の罠の場所や、隠されていた扉や――遺跡の新たな発見は、遅くとも翌朝には探索者すべてが共有する知識となる。
 探索者たちが己の発見を惜しみなく披露するようになったのはここ数か月のことだ。多分、それは、馬鹿みたいに遺跡の奥まで突っ込んで、新たな宮殿や森や迷宮を発見しつづけていたマナが姿を消したせいだ。幸運を通り越す強運の持ち主だとか、アークフィア女神から特別の加護を受けているとか、魔王殺しの勇者の生まれ代わりじゃないかとか、散々に持ち上げられたあいつも所詮は何かあれば死んでしまう、ただの人間だったということだ。
 これまでのオレたちはマナが開いた道を後追いすればよかったけれど、今はそうじゃない。強運も女神の加護もない探索者たちは、慎重に、確実を期し、生きて戻れるようにと遺跡の詳細な情報を交換しあう。
 だから大廃墟の一角で、前日までは確実に存在しなかった通路を発見したオレたちは、とまどった顔を見合わせたのだった。
 自然な崩壊によるものか、遺跡を徘徊する化け物どもが開いた道か、あるいは単純に罠なのか。
 お宝目当ての探索者なら一旦町に引きあげただろう。しかしその場にいたのは、迷宮に潜む親玉を倒したいオレと、『町がこんなになってるのにほっとくわけにはいかんだろ、どう考えても』なラバン爺と、特になにも考えてないエンダの三人で、オレたちは当然通路に入り込むことを選んだのだ。
 

 通路の先には崩れた壁があり、そこを通り抜けぐねぐねとした細い狭い道を上がっていくと、頭が揺れ視界が霞んだ。死者の宮殿を抜けたときとおなじ眩暈だった。あの時は気がつけば、ミルク色の霧が覆う緑の森だった。今回は目を開けてみたら一面の雪原だ。
 オレはもう驚かなかった。
 ファンタジー、ファンタジー。
 地面の下という奴は実に油断がならなくて、よくこんな物の上で平気で寝たり起きたりしていた物だ。
 フードを引き上げ荷物から防寒具になるものを引っ張り出し、急ごしらえで装備を整え前進した。そしてどれだけ歩いたか、吹雪のむこうに人影が見えたので、声をかけてみようかいや人間ってことはあるまいよ様子をみよう、隠れる場所はねえかなんて話しあっていたのだ。吹雪のせいで遠近感がおかしかったせいもあるが、それにしてものん気すぎた。



 見渡す限りの雪の平原。
 行く道も戻る道もなく、向こうから巨人がやってくる。
 最近のオレはというかオレたちは、本当についてない。
「すげー! でかいぞあいつ!」
 隣でエンダが雪を蹴散らしぴょんぴょん跳ねながら、アホな歓声をあげている。
 巨人とオレたちの間には、距離がまだだいぶある。むこうはこっちに気付いているのかいないのか。殺す気なのか違うのか。こちらへむかってくる巨人は、頑丈そうな岩の頭をゆっくりと周囲にめぐらせていた。
 オレは腰に束ねた鞭を握りしめ、アホ面のままで「ラバン爺」と言った。
「あれ、勝てるかね?」
「ふーむ、勝てそうかね?」
「とてもじゃないけどそんな気がしない」
「偶然だな、俺もそう思う――なら、策は一個だな?」
 巨人の頭がぴたりと静止した。
 暗く落ち窪んだ両目の奥で、魔法の火が揺れている――吹雪のむこうのオレたちをしっかりととらえている。
 岩の巨人はそれまでのぎこちなさを拭い捨てて両手を振り上げ、しかしその動きを見届ける前にオレはエンダの体をひっつかみ、粉袋よろしく小脇に抱え上げた。エンダが「うわーい!」と叫ぶのを合図に、振り向いたオレとラバン爺は、同時に地面を蹴った。
 全力で走り出す。
 これしかねーだろ! 常識でいって、勝てるか、馬鹿!
 裸の足をばたつかせ、エンダが喜々とした声をだした。
「パリス、あっちにもっとでっかい山があるぞ! あのでっかい奴のむこうだ!」
「うるせー後にしろ!」
 オレたちは走る走る。長靴の脛の半ばまで埋まる雪から必死に足を引き抜いて大股に次の一歩を踏み出し、口中に飛び込む雪片を呑み込み、猛烈な勢いで駆ける。来るときは気付かなかったが、平原には微妙な傾斜がついていた。行きは上りで帰りは下りだ、灰色の空の下に白くかすむ平原の先は、暗くぼんやりと霞んでいる。
 背後からは猛烈な足音がきこえている。地面がばんばん揺れている。斜面がもうちょっと急なら、雪崩が起こっているところだ。唸る風音に負けぬよう、オレは大声で怒鳴る。
「これ! まっすぐ! いけば! 地下都市に! 戻れる! のかね!」
「さてな! この雪だ! まっすぐ! かどうかも! わからん! ぞ!」
 そう答えたラバン爺の姿が、ぼすっという音とともに突然消えた――ええっ?
 積もった雪と吹雪のせいで気付かなかったが、足元に崖があってそこに落っこちたのだと理解したのは、オレの足が空中を踏み、抱えたエンダごと転落したあとだった。


 エンダはちびなのでチュナよりも軽い。
 しかしチュナの三倍くらいよく動く。
 巨大な竜に胸を踏まえる夢を見て目を覚ますと、エンダが胸の上で飛び跳ねていた。胸の上に馬乗りになり、オレの顔をのぞきこんでにーっと笑う。
「起きたか、パリス」
「……」
「腹が減ったぞ。エンダはここで寝ても平気だけど、おまえは起きなきゃ死ぬからな」
「そうかそうか、起こしてくれたのか。そりゃどうもありがとう……よっと!」
 腹筋を使って起き上がるのと同時に、太腿の間に乱暴に体をはさんでやる。エンダは嬉しそうな悲鳴をあげ、オレの脚の間で暴れる。
「おらっ、人の体の上で飛び跳ねるなっつったろーが!」
「起こしてやったんだぞ!」
 オレの足に噛みつくが、分厚い長靴を履いているのでざまあみろ、痛くねえぞ。本格的に遊んでやる気になりかけたが、いかんいかん、今はそんなことをやっている場合ではない。エンダをひっぺがして立ち上がった。背に下げていた袋の中身が白い地面に散乱している。木槌やら鍋やら油の小瓶やらをかき集め、袋に流し込み、雪が舞う空を見上げた。
 左右は切り立った崖で、氷がこびりついた岩肌がむき出しになっている。その間に、細く切り取られた空があった。崖と崖の間の道は、大人二人が並んで歩けるくらいの幅がある。道はゆるやかに折れ曲がり、崖の間に消えていた。細いクレバスとなっている場所に滑り落ちたらしい。岩肌は固く凍り、この場所から上へ登るのは難しいというより不可能に思える。
 さて、ラバン爺はどこだ?
 両側は氷で固められた断崖で、落ちる先はここだけだ。見失うはずもない。にも関わらず、ラバン爺の姿は見つからなかった。
「おい、エンダ、ラバン爺はどこだ?」
「知らない。エンダも目を回していた。起きたらパリスだけだったぞ……ここには誰もいないんだな」
「まあな。多分、この場所に来たのはオレたちが初めてだ」
「ふうん?」
 オレと同じように、エンダは腰に手をあて胸を張っている。真似すんなこら。しかし寒くないのかこいつは。雪の中なのに素肌に薄い長衣を羽織り、下はビキニパンツ一丁で裸足だ。今はおかしな子供だが、あと数年たてば立派な変態だ。
 変態予備軍はひくひく鼻を動かしている。
「ラバンの匂いがする」と言った。
「お、よっしゃ、じゃあたどれ」
「おう、いいぞ」
 歩き始めると、崖の上の雪原よりは随分歩きやすかった。地面が硬い。しばらく無言でいたが、やがてエンダが両手を伸ばしてオレの腕をつかんできた。
 なんとなく腕を曲げ、上へあげ、小さな体を宙に持ち上げてやる。エンダが「おおーっ」と声をあげた。
「飛んでる。面白いぞ」
 そういやこいつがオレにこんなに懐くようになったのはマナたちがいなくなってからだなと思う。寂しいのかね、やっぱり。腕を下げればエンダの体は地面にすとんと落ちた。不満そうだな。
「おい、もっとやれ」
「疲れる。断る」
「おまえケチだな」
「なんだとう!?」
 しゃべりながらざくざくと歩いていると、
「お前ら親子みたいだな」
 ラバン爺の声がどこからかきこえてきた。姿は見えない。びびって左右を見回す。
「ここだここだ」
 上から声が降ってきた。崖の上に、ラバン爺の顔が覗いている。オレは安心して大きな息を吐いた。仲間がいなくなるのは怖いもんだ。
「二人とも無事か。安心したぞ」
「こっちもだよ。ってラバン爺はどこから上がったんだ?」
「崖の端でうまくひっかかってな。自力でよじ登った」
 ラバン爺はそういいながら義手をふってみせた。実際にはうまくひっかかったのでなく、うまく体を止めたのだろう。オレに心配されるような年寄りではない。
「しかし少し厄介だぞ。上から見る限りじゃあ、そっちの先は裂け目が閉じていて、上がる場所がない」
 オレの進行方向を指してそう言い、次に反対側を――オレが来た方を指す。「かといってこっちも、同じ高さで崖が続いているようだ」
「ロープを投げてくれよ」
「ロープはお前さんが持っとるだろうが」
 オレは自分の腰に手をあて、あっと思った。予備のロープもオレの荷物だ。なんといううかつさ。うろたえてエンダを見たが、エンダに策があったら驚きだ。案の定、雪の上に足跡をつけて喜んでいた。ラバン爺のいつも通りの飄々とした声が降ってくる。
「食料も油もあるな? しばらく……いや、一晩、そこで待ってろ。ホルムへ戻ってロープを持ってきてやる」
「道はわかるのかよ?」
「なんとかな。クレバスのむこうに見覚えのある山があって、行きはそれを北東に見とったはずだ。まあこの幅ならさっきの巨人は落ちてこんだろうし、別の化け物が出ても、エンダと二人ならなんとかなるだろ」
「わかった――頼んだぞ」
 オレが怒鳴りかえすと、ラバン爺がまかせとけ、とでもいうように義手を振り、崖の向こうに頭がひっこんだ。
 手を広げてそこらを走り回っていたエンダが、ぐるりと旋回してオレの脇腹にぶつかる。ってえなあ。オレの体にしがみついたまま、エンダが「腹が減ったぞ」と元気よく宣言する。……まったく気楽なもんだ。何か言ってやろうと思って口を開けたら、小言じゃなくてくしゃみがでた。
 

 ラバン爺と別れた場所から更に少し先へと進むと、両側の崖が張り出して中央で密着し、行き止まりになっていた。
 岸壁の窪みを発見し、そこにキャンプをすることに決める。雪を避けテントを張ろうとするが、地面が凍っていて固定ができない。四苦八苦していると、エンダがオレの手からひったくった杭を拳で地面に打ち込んだ。カァンと音がして一発で杭が地面に食い込む。得意げな顔をしてみせる。すごいもんだ。
 見た目が人間の子供で言葉が通じるから、エンダが竜の子だというのを最近のオレは忘れがちだ。でもやっぱり人間じゃねーんだよなあ。しかし狭いテントに潜りこみ、身を寄せ合って揺れる火を見つめていれば、やっぱりただの子供を相手にしているような気分になる。両手で持ったチョコレートを、ものすごく幸せそうな顔で頬張ってる様子を見れば、なおさらだ。
「お前ってほんっとよく食うよな」
 そう言うと目を丸くしてから、喰いさしのチョコレートをほんの少々、割ってよこした。別に欲しいわけじゃねーんだが。と思いつつ受け取る。湿っていた服が乾いてくると、それだけで気持ちよくなってくる。温かい火と乾燥と食い物だけで幸福になれるのだから、人間なんて単純な物だ。
「これでも神殿では我慢してるんだぞ。マナがいないからな」
「あん?」
「ばーちゃんは神殿にはショクリョウが足りないと言ってる。エンダが食べすぎたら、ますますショクリョウがなくなって、帰ってきたマナが困るだろ」
「あー……」
 返事に窮する。
 近頃のオレたちは、マナの話をしない。泣いたり落ち込んだり無理やり明るくなったりととにかくうるさいネルも、空気が読めないアルソンも、人の気に障る発言を信条とするシーフォンまでが、最近ではそろってあいつの話を避けている。
 あいつがいなくなってからどのくらい経ったかを頭の中で計算した――そうしなきゃいけないくらい忘れている――もう五か月も経っている。五か月なんて五年と似たようなもんじゃねーか。
 巫女長は『あの子は帰ってくるよ。アークフィア様の加護があるからねえ』と言い、ひどくしれっとしたその声や顔からしてどうやら本気でそう思っているようなのだけれど、正直、ホルムでマナの生還を完全に信じてるのはあのばーさんくらいじゃねえのかな。
 あとはこいつか。
 エンダはもつれた長い髪をかき上げ、ぼりぼりと裸の腹をひっかき、げっぷをする。いつまでたっても行儀の悪い奴だ。
「食べ物が少ない時は、独り占めせずに分けろと言われたからな。だからパリスにもやったんだ」
「そうかい、そうかい。そりゃ偉ぇもんだ」
「そうだ。偉いだろう」
 得意げに言ったが、オレが食べずに持ってるチョコレートをじーっと見つめている。……。ずっと見ている。仕方なく手渡すと、礼も言わずにひったくり、ためらわず口に運んだ。頬を動かしつつ溶けそうな笑みを浮かべた。
「前言撤回だ。全然偉くない」
「なんでだ? マナに食べ物をやったら、マナはエンダにちゃんと返してくれるぞ。我慢したお利口のご褒美だって」
「躾になってねえ!」
「エンダは躾られなくていい」
 こ、このお。
「チュナが起きたら、すごい説教されっぞおめえ」
「チュナは誰だ?」
「オレの妹だ。今は……今は、寝込んでるけどな。ホルムで一番の説教魔だから、起きたらマジでうるさいぞ」
「ふーん。パリスもエンダと同じだな。説教されて困ってる」
「……チュナに色々言われるのは、嫌だけど嫌じゃねぇんだよ」
 エンダはくあ、とあくびをした。尖ったまっ白い歯が覗く。
「じゃあやっぱり同じだな」
 そう言うと、オレの横でごろりと寝転んだ。自由奔放だ。オレは足を崩しあぐらをかいて背を丸める。二人で寝るわけにもいかんから、当然見張りだ。
 石で作った急ごしらえの竈の内側で、エンダが吐いた小さな炎は、黒い炭を舐める赤い淡い輝きとなっている。テントを囲む風と雪の音を聞きながら、小さな熱をぼんやりと眺めていると、エンダがじりじりとにじりよってきた。オレの太腿に頭のてっぺんをぎゅっぎゅっと押しつける。猫の匂いつけか。
「ああ、なんだ?」
 オレが言うと、少しだけ頭を持ちあげる。
「おやすみ」
 にっと笑ってそう言い、目を閉じた。これにはちょっと不意をつかれた。
 卵から孵った最初は当然、挨拶なんかできないガキだったはずだが。そういえば巫女長もマナも、エンダには何かと口うるさく注意していたなあ、と思いだす。これが躾の成果か。
 もっともオレは躾なんぞをした記憶はない。チュナはいつのまにかてきぱき家事をして大人顔負けの言葉づかいでオレを厳しく叱る子供になっていた。大家の婆さんやオハラが言うには、チュナは特別に賢い子供なのだそうだ。そうなのかね。オレはよくわからない。
 チュナはチュナだ。
 オレにとってはチュナの全部が特別で全部が当たり前なのだ。


 チュナがエンダくらいの歳……ではないか、こいつはまだ一才にすらなっていない、エンダくらいの大きさの頃、よくそうしたように、頭を軽く撫でてやる。オレの膝元で安らかな寝息をたてるエンダは、何の反応も示さなかった。熟睡するの早! さすが子供!
 エンダの髪や頭の温かさに、かえってへこんだ。
 最近のオレはマジでついてない。
 ――チュナの頭をこんな風にただ無心に撫でてやれる日は、一体、いつ来るのだろう。
 マナがいれば多分いつもの真面目な顔で、『大丈夫、必ず元通り元気になるよ、目を覚ますよ。チュナちゃんがパリスを一人にしておくわけがないじゃない』とでも言うのだろう。言うはずだ。あいつはいつでも自信たっぷりに大丈夫、と言う。根拠もないのに。いつでもオレはバーカと答えるけれど、いつでも妙に安心するのだ。
 エンダがマナの話なんかをするからだ。
 強烈にマナに会いたくなってきた。ネルと三人でひばり亭のテーブルを囲んでさ、酒を飲みながら馬鹿話をしてよ、げらげら笑いてえなあ。あーあ。マナがいなくなって以来、ネルは元気そうに見せかけてその実まっ暗、オレはまっ暗に見せかけてまっ暗だ。
 あいつはいない、帰ってこない、戻らない――いつか遺体が発見される――これは覚悟じゃねえ、手軽で気楽な絶望だ。巫女長やエンダみたいに、マナが必ず帰還すると信じたかった。自分の駄目さが嫌になる。マナが生きて帰ることも、チュナがまた目覚めることも、オレは全然信じられずにいる。
 どちらもオレにとっては大事なことなのにな。


 いつの間にか眠っていたらしい。
 ぐりぐりと頭を乱暴に撫でられている。
 慌てて体を起こすと、側にしゃがんだエンダが手を引いた。目があうとにかーっと笑う。
「おはようだ、パリス」
「……おう、おっす。朝か?」
 さほど厚くないテントの布地越しにも、外には朝らしい光が見えない。聞こえてくるのは降りしきる雪がテントにぶつかる音と、風のうねりだけだ。
「朝だ。太陽がないけど、エンダが朝だと決めた」 
 強気だなおい。
 鍋を片手にテントの外へ這い出し、空を見上げた。夕べと同じく灰色の空と舞い散る雪だったが、吹雪はおさまり、わずかに日射しが変化している。鍋に雪を集めながら、周囲を見回す。
 昨日は真っ暗な影が落ちて行きどまりと見えていた場所の隙間から、ほのかな光が差している。
 鍋を手にしたまま近づく。両側の崖がせりだし、上部では密接していたが、地面に近い場所には人一人がようやく潜りこめるぐらいの幅の隙間があった。しゃがみこみ、むこうを覗く。
 白い雪と、茶色い岩肌と、そのむこうに上へと続く岩の道が見えた。


 じっとしていればラバン爺が来るのはわかっていたが、先へ進む道が見つかった以上、ただ待機しているのは返って億劫だ。塩漬けの魚と茶で簡単な朝飯を終え、探索を再開することにした。
 崖の隙間をくぐり抜けてみれば、これまでとは違ってだだっ広い、しかしやはり両側を崖に囲まれた空間に出る。
 地面は巨大なV字にえぐれており、谷底には細い川が音を立てて流れている。やけに滑らかな岩肌を見るに、どうやらここは元々、もっと巨大な流れを持っていた河の底らしかった。オレたちが一夜を明かしたクレバスは、分岐した支流の一本だったというわけだ。片方の崖には急な角度の上り坂が続いており、曲がりくねった先は見えなかったが、上手くいけば上に戻れそうだった。
 雪はまだ降り続けている。妖精族の森ではずっと霧が広がっていたのを思い出す。
「ということはだぜ、この場所にも昔の王様がいるってわけだ」
 傾斜した道を歩きながら、前を行くエンダに言う。霜と氷に覆われた路面を物ともせず、跳びはねるように歩いていたエンダが、足を止め、振りむく。
「やっつけるのか?」
 一瞬気後れしたが、
「ああ」
 と答えた。
「やめとけ」
 おい!
「ニンゲンが――」面倒くさげに濡れた髪をかきあげ、その仕草のせいでエンダはひどく大人びて見える。「古い種の血を流すのは駄目だぞ。報いがある」
「……マナにも報いがあるってか?」
「マナはいいんだ。全部特別だから」
 そう言い残すと、長衣の裾をはためかせ、坂道を駆け足で上がっていった。小さな背はあっという間に見えなくなる。
「そりゃお前がマナを特別に好きなだけだろう」
 オレの呟きは、風と雪の中に散って行く。
 取り残されたオレは、突然、一気に心細くなった。……じっとして、ラバン爺を待ってりゃよかったかな。大声を出してエンダを呼び戻そうとした時に、エンダが駆け戻ってきた。
 様子がおかしい。顔が真っ赤になっていて、泣きそうな感じだ。え、なんだ。足元も見ずに全力で走ってくる。
「パリス!」
 危ねえぞ、と声をかけるまえに、つまずいた。ごろごろ転がってきたエンダを慌てて抱きとめる。
「おい! 気をつけろ」
 よほどの化け物でもいたのかと思ったが、エンダは興奮しきった様子で、じたばたと手を動かし、シャーッと威嚇するような音を喉の奥から漏らし、絶叫した。
「――マナがひどいぞ!」
 背骨に氷の柱でも叩き込まれたような気分だった。

 上へ続くかに見えていた道は、崖の半ばで途切れている。そこが終点、行き止まりだ。
 だが道の真上、崖の中腹には、洞窟の入り口が開いていた。洞窟までは岩を伝って上っていけそうだ。
 洞窟の真下、道の行き止まりに、まるで場違いな墓標のように、白い雪がこんもりと盛り上がっていた。まるで洞窟から何かが落ちてきたかのようだ。
 柔らかな形のかたまりだった。
 不思議なもので、死体は一目でそれと分かる。
 吹く風が表面に積もる雪を撫であげれば、白でも灰色でもない色彩が見え隠れしていた。近づくには勇気が必要だった――だがその前に立った時には、動揺しきっていた気持ちは落ち着いていた。
 ……大きさが全然違うじゃねーか。
 これがマナだったら、どれだけ何を喰ったんだよって話だぜ。手袋をはめなおして、体を軽くかがめた。オレの腰あたりの高さのそれに手を伸ばし、表面の雪を払いのける。巨大な動物か夜種なのは予想していたが、苦悶の表情を浮かべた獅子の顔が出てきて、びびった。獅子の開いた口から覗く折れた牙にも頭部を覆う茶色い毛にもびっしりと霜がついていて、手の下でぱりぱりと小さな音を立てた。
 獅子の首は中途で分かれ、雄山羊の頭が生えていた――反対側にはトカゲが竜の頭がついている。胸クソが悪い。こういった生き物が自然に生まれるはずもない。
 洞窟に住んでいたのが何かのはずみで落っこちたか、他の魔物と殺しあいをしたか、あるいはただ単に寿命が尽きたのか――。転がり落ちた拍子に背骨でも折って死んだのかもしれない。これまでに見たことのない化け物だが、別に見たくもねえや。
 後ろに立つエンダにむかって、大声できいた。
「お前な。これのどこがマナがひどい、なんだよ?」
 エンダはまだ興奮がおさまらないような顔をしている。かためた拳をぶんぶんと振りまわした。
「エンダを放っておいて、一人で遊んでるぞ、ひどい!」
「はあ?」
 だがその瞬間、怪物の表面の雪を払っていたオレの手が、手袋を通してすら伝わる、硬く冷たい金属の気配を感じとった。


 怪物の首の付け根には、半ばで折れた剣が刺さっていた。
 黒い鋼の表面に、なお黒く、古代文字が刻まれている。蜘蛛の糸のような細い線は、鍛冶屋の手が焼き込んだ跡ではない。
 オレは魔法がさっぱりわからねえ。
 知っているのは実際に目にしたことがある魔法だけだ。見分けのつくせいぜいが、シーフォンの野郎がぶちかます雷、テレージャが施す治癒の術、そしてマナが操る――ネルと二人で、あるいはチュナと三人で練習につきあい、ガキの頃から何度も目にしてきた――神聖魔法の三つくらいで、そしてこの刃には、神聖魔法の痕跡が残っている。
 注意しながら折れた剣を引き抜く。肘から手首ほどの長さで、厚く、重い。元の剣はいかつい両手剣であるように思えた。器用さと素早さを信条とするオレの手には余るが、戦士や傭兵たち、例えばメロダークのおっさんならば楽々と振るえる代物だろう。
 この雪と氷に覆われた場所で、怪物がいつ死んだかを推測するのは困難だ。血は黒くかたまり、死体は腐ることなく横たわっている。だが、この雪の積もり方、霜の下りかた、――五年や五カ月昔に殺されたなら、怪物の全身は雪に埋もれ、完全に見えなくなっていただろう。
 やむことなく降り続ける雪が、フードに覆われていない顔や首筋に当たり小さな音を立てる。オレは折れた刃を持ったまま、へへっと小さく笑う。
 お前まだ大丈夫なんだな。
 お前ら、まだ進んでるんだな。
 巫女長はすげえや。
 エンダもすげえ。
 そのすげえエンダが、背後からオレの腰に頭突きをかましてくる。ぶつかられた弾みに刃を取り落としかけて、ひやっとした。
「うおおっ、危ねえ!」
「パリスも怒れ! エンダは怒ってるぞ! エンダはショクリョウも我慢していい子でいたのに! もう残してた分も全部食べちまうぞ!」
 それはむしろ喰っておいた方がいいだろう。
「しかしお前、これをやったのがマナだとよくわかったな」
 野性の勘か、『マナの匂いがする』か、さもなきゃ魔法の痕跡を竜の子独特の方法で嗅ぎとったか――オレの予想はことごとく外れる。
「最初はマナだ」
「ああっ?」
「エンダは知ってる。誰も知らない場所に最初に行った奴がいるなら、それはマナだ」
 揺るぎのない口調でそう断言した。


 洞窟があった崖を離れ、反対側の崖に道を探した。かなり急な坂道を見つけ、ロープと両手と両足と体全部を活用し、斜面を登る。こりゃ明日は体が痛ぇだろうな。崖の上に体を引き上げた時には、手袋をはめていた両手は痺れ、疲労に目も霞むようだったが、悪くない気分だった。
 後から登ってきたエンダに手を貸して引きあげてやる。ロープをまとめている最中に、粉雪がちらちら舞い散る白い平原の向こうから近づいてくる人影が見えた。
 大きさを比較できる物がない。だが遠近感がおかしくなっているとしても、あれは絶対巨人ではない。巨人があんな見慣れた懐かしい足取りで近づいてくるもんか。エンダが爪先立つと、頭上で片手を激しく振った。
「おーい! ラバン! 早く来い! ラバンもマナに怒れ!」
 エンダがとんでもない大声で呼びかけると、その声が届いたのか、ラバン爺が掲げた左手を振りかえしてみせる。義手の先についた鉤爪が光を反射した。エンダがオレの腕に両手を絡ませる。ガキってのはどうしてこう、すぐ人にぶら下がりたがるのかね。チュナもこいつくらいの歳の頃には、こうやってよくオレに飛びついてきた。ということはだ、エンダがオレに懐くのも後ちょっとの間なのか。……ってなんだよこの寂しい感じは。
 オレは疲労にふらつく足元をこらえ、エンダの頭を撫でてやる。こいつがオレに懐くようになったのはマナがいなくなってからで、つまり帰ってきたマナは驚くだろうなと思う。こんなにオレたちが仲よくなってるのを見たらよ。しかしエンダは、ぶるぶると頭を振って、愛想の悪い声を出した。
「うっとうしいぞ、触るな」
「ひど! これだけ懐いてるくせにそんなかよ、お前! ていうか今朝確かお前もオレの頭撫でてたよな!?」
「ああ――あれはご褒美だ。パリスもよく我慢したからな。大丈夫だ」
 驚いてエンダの顔を見下ろすと、エンダはしれっとした顔で言った。
「チョコレート、食べなかっただろ? 帰ったらエンダがパンの乾いたのを分けてやる」
「その話かよ! ていうか明らかにいらねえよ!」
 まあそうだろうな。そんな難しいことを考えるこいつじゃねーよ。しかし久々に他人から言われた大丈夫という言葉はなかなか悪くない響きだった。頭を触られたら嫌がるエンダは、オレの腰にしっかりとしがみついてくる。
 もう一度オレを見上げ、
「大丈夫だ」
 と繰り返した。その台詞はお前にゃ十年早いっつーのと思いつつ、オレはエンダの頭をがっしがしと撫でてやった。
 


 end

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