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幻視する彼方 エピローグ



 窓から差し込む夕暮れの光を反射して、ぎらぎらと銀の蓋が輝いている。泣き疲れ、膝の上で眠りについた女の頬に指をそえ、テレージャはそこに張りついた髪を優しく掻きあげる。彼女の髪は昔と変わらぬ新雪の白さで、眠っている顔は別れたときと同じあどけない少女のようであった。
 控え目に扉が叩かれて、返事を待たずに細く開く。テレージャを港からここまで案内してきた老神官の顔が、その隙間にのぞいた。男の目が動き、眠るマナをじろりと睨みつける。
「エムノス殿、どうかそろそろお引き取りを。憑代を眠らせてやってください。こんなにも長い話に耐えられる体ではないのです」
 テレージャは唇の片端だけを吊り上げて皮肉な笑みを浮かべた。膝の上に落ちた女の頭をゆっくりと撫でながら、答える。
「憑代とは? 失礼だが、私は古い友人と会っている最中でね。彼女の名前はマナというのだ」
 老神官は眉すら動かさない。年齢の割には堂々とした体躯をかがめ、扉の向こうから、この気難しく高貴な客に一礼する。
「失礼いたしました。マナ殿はお疲れになっているご様子です。それにあなた様も。高位の魔法を使われるとうかがっておりますが、自由のきかぬこの結界の中では、さぞお疲れでは?」
「お気づかい感謝しますよ。疲れてはいるが、結界なんぞ関係がない。旧友との再会に興奮したのと……単に年のせいですよ」
 しかしそういいながらテレージャはマナの頭に手を添え、慎重に自分の膝から寝台の上へと移動させた。握りしめた白い手の中から衣の裾をそっと引きぬき、そろそろと立ち上がった。
 寝台に横たわった女の上に身をかがめ、額に軽く、姉のような優しい口づけを落とす。一連の動作は滑らかに、極めて優雅に行われた。最後にテレージャは、マナの耳に何事かを囁き――その声は老神官の訓練された耳にすら届かなかった。もっとも届いたとしても、ホルムの訛りが強すぎて、ユールフレール生まれでシーウァより東を見たことのない彼には理解できなかっただろう――鏡のない部屋を出た。



 塔の外に出ると、北からの潮風がテレージャの髪をかき乱した。
 夕暮れの冷気にテレージャは身を震わせ、厚いショールをかきあわせた。階段の往復で軋む膝が早々と痛みを訴えだしている。若い頃から体はさほど丈夫ではなかったが、それでもネスはおろかマルディリア跡まで遠征し、雪の山にも灼熱の地下にもひるむことなく、連夜の野宿すら平気だったものだが、いやはや――。
 テレージャは大神殿の尖塔を見上げた。
 彼女の古い友人がそこで孤独な眠りについている。若い頃と何ひとつ変わらぬ、真っ白い髪、真っ白い肌……。天秤の巫女は尖塔を睨みつける両目をほんのわずかに細めた。その身分と立場の女にしては、いささか凶暴すぎる目の色であった。キューグよ、無法を決して許し給われるな、暴虐なす者、不正なす者どもを見逃されるな。どうか私に理性と分別、そして勇気を与え給え。
 何本もの鍵のついた鉄の輪をじゃらつかせながら、塔から老神官が出てきた時には、彼女はいつもの如才ない温和な表情を顔に浮かべていた。扉を閉ざした老神官の背に、さりげない調子でテレージャが尋ねた。
「ご存知ならぜひ教えて頂きたいことが。メロダークが……彼女を連れてきた密偵の名前ですが、彼が処刑されたのは、いつ頃の話になりますか?」
 老神官は首をかしげ、しばらく考えこんでいたが、答えた。
「私があの憑代の世話役となったのはもう何十年も昔のことになりますが、その頃にはすでに当時の詳細を知る者はいなくなっておりました。ですからこれは、もしかしたらの話になりますが」
 老神官が淡々とした調子で続けた。
「憑代が連れてこられてちょうど十年目に、見張りの兵士が憑代の殺害を企てて処刑されたそうです。憑代がおかしくなったのはそれからの話だと」


 大神殿の尖塔の真横を、ねぐらに帰る鳥たちの群れが通りすぎていく。
 ギャアギャアとやかましいその鳥たちの声は、幾重もの結界をくぐりぬけ、厚い窓のガラスを叩き、最上階の小部屋で眠る女の耳にも届いた。
 止まった時の中に眠る女の夢の底で、鳥たちの声は、懐かしい故郷の大河のざわめきとなっていた。
 乾いた唇が微笑の形にわずかに動く。
 皺の刻まれた目元が、夢の中の光を求めて微かに震える。

 夢の中で、女は田舎町に住む何も知らぬ少女だ。この塔に囚われた私ではなくあなたとなって、白い髪を揺らし、赤い目を見開き、今また彼との出会いを果たした。あの丘の上で、あの波の音を聞きながら、春の光に照らされた墓地で木の下に立つあの人と、最初の、最後の、千度目の出会いを。




end

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