墓所/エンダ マナ
夕暮れに時々エンダは変になる。
見上げた空にむかって、息を吸い、吐く。呼吸するたびに、皮膚の下から自分が溶け出して、空気に混ざり込んでいくような気がする。
エンダはエンダじゃないみたいだ。
自分と世界の境界が曖昧になる。
理由は自分でもわかっている。
理由は<私>にはわかっている。
昼から夜へとうつろう一瞬、どちらにも所属せぬ境目の時、<混沌>は力を増して、竜の子の魂を縛る名づけの術が揺らぐのだ。
そういうときには、エンダは、マナを探す。
マナは最近全然おしゃべりをしなくなった。探索から戻り神殿の雑務を済ませると、誰とも口をきかぬまま、疲労を口実に部屋に篭る。朝までずっと一人でいる。
今日はマナを至聖所で見つけた。
外套も脱がぬまま、石の祭壇の上に上半身を投げ出して、崩れた姿勢で座っている。床の上には道具袋や愛用の杖や短剣が散らばっている。杖からも外套からも、古い生き物の血の匂いがした。近づいていくエンダの裸足が冷たい床を踏むと、ひたひたと小さな、不思議な足音がした。マナは何も反応を示さなかった。死体のようだが生きている。眠っているわけですらない。最近のマナは他人に対し、ひどく無頓着であった。少女らしい敏感さと大胆さ、それに臆病な心で、周囲をいつも気にしていたマナから、何かがすっぽりと抜け落ちてしまったようだ。
投げ出された足の側に竜の子が立つと、マナは瞼を持ち上げた。赤い瞳を動かし、エンダか、とつぶやいた。
「思いだしていたの」
そう言って微笑した。
唇が歪んだだけの笑みだ。
エンダからすぐに目をそらす。高い天井を見上げる。
石に頬を押し付けたまま、ぼんやりとした声で続ける。
「何も知らなくて、幸せだったな。最後の数日を繰り返すなんて、怖くて残酷だと思ったけど、それはそれで幸せなんだと思う。あの時――あの時、眠らなければ、私、まだあそこにいたのかな。今とどちらがいいんだろう」
エンダはマナの考えに興味がない。床に膝をつく。マナに覆いかぶさるように、ぴったりと抱きつく。少女の全身がかすかに緊張し、エンダの抱擁を拒んだ。
「どうしたの?」
気怠い、静かな声であった。エンダはそれには答えずにいた。マナを抱きしめ、ゆっくりと呼吸をする。そのうちにマナの体が緊張をとき、抱擁を受け入れた。
空気はナイフで切れそうな重い重い湿り気を帯びている。夕暮れの金色の光が、マナの睫毛に髪にまとわりついている。長衣にも飾り紐にも日が当たっている。白い肌が輝いている。光があたったすべての場所に、影が落ちている。
じきに夜が来る。暗闇が。町を押し潰すように。
石作りの神殿は揺るぎないと感じるのはエンダ、炎と翼の風で破壊しつくせるからもろいと思うのは<私>、ふたつの心がひとつの魂の内側でめまぐるしく移り変わる。焚き火の中に炎と影が揺れ、絡まりあいながら、互いを飲み込み、混ざり合うように。
魂の底の底、熱く厚い自我の奥で、<私>が蠢いている。エンダではない<私>、エンダである<私>。親であり子であり産む者であり産まれた者である。死、生、そのすべて、かつて太古の種族であり、名前のある<混沌>たる<私>は、手を伸ばす。
名付けの術により自分を縛り、自分を解放した魔術師にむかって、人間の形をした手を。
太陽が沈みゆく。陽光がまた一段弱まった。
夜は公平だ。すべての風景から等しく色彩が拭い去られていく。マナの体からも。石の柱と床を染める平坦な灰色。そして影の黒。エンダの目には熱だけがまだ見えている。エンダの手がマナの首を抱く。温かい血と肉。マナが目を開けた。髪に睫毛に淡い灰色の影が落ちる。笑顔になった。嘘の笑顔だ。
「寂しいの、エンダ?」
ニンゲンの顔。脆弱な筋肉が脆い皮膚の下で動く。目を見れば気持ちがわかるのになぜ口や眉を動かし笑顔を作るのだろうか。マナは怯えている。怖がっている汗の匂い。マナは怖いのだ。怖いから守って欲しがっている。ずっと怖くて、ずっと怯えている。自分が小さいことに怯えている。
エンダは小さい竜だからな。
ごめんな。
マナが欲しいものは何もやれないんだ。
マナの目がエンダの目を覗き込む。見つめられて、エンダと<私>の両方が同時に幸福になる。
小さな体は、巨大な器でもある。両目を閉じて乳房に鼻を押し付ければ魔法の輝きが眉間を焼く。エンダが大きい竜ならばおまえをきっと美味しく食べただろう。エンダが大きい竜で――(そう考えようとしたが、竜の子は『エンダ』という名の自我の核から離れて物を考えることができなかった。鎖に縛られた犬のように、『エンダ』からは意識も思考も遠ざかることができぬ。竜が彼女に与え彼女が竜に施した名づけの術は原初の<混沌>と親しい太古の種族の魂を強く縛る。空の巨人に姿を与えたように、名前はエンダの一部であるにも関わらず、エンダの形を決め、そこから魂が逃れることを許さなかった。藍より出たる青、藍を越す青、青金石の青)――ああ、駄目だ。エンダはおまえを殺すことも食らうこともできないぞ。マナ。お母さん。マナ。マナ。血の血、肉の肉。抱き締めるとマナの手がエンダを抱き返す。
「本当にどうしたの? 犬と喧嘩して負けちゃった?」
声が染みると体が喜びに震える。縛られた己の魂が歓喜の声をあげる。秘石による呪縛とはまた違う、もっと根源の――秘石の呪いが竜の子を押さえつける猛々しい男の手だとすれば、名付けによる呪縛は、根源を優しく甘く包みこむ女の手だ。他のニンゲンたちはただのニンゲンだ、あるいはただの仲間だ。でもおまえは、おまえが望もうと望むまいと、エンダにとって特別なのだ。甘い内臓の詰まる腹に鼻を押し付ける。体の奥からかすかに血のにおいがする。娘よ、巫女よ。番え、産め、そして増えろ。人はそうする。おまえは強い。古い血は強すぎる。強いものはその力ゆえに、大地に広がることがない。弱いものこそがこの地の支配者なのだとおまえは知っているのか。ニンゲンが大地を埋め尽くしたのは自然の理であったのだ。マナ。この弱い種族の中で、おまえは強い。ちがうもの。ちがう生き物。特別な古い血が脈打っている。懐かしい。腕も体もエンダには心地良い。羽毛に包まれているようだ。卵の中にいるようだ。マナの手が髪を撫でている。
気持ちよくなったエンダは、くふんと鼻を鳴らした。
「うーん。卵」
「卵? 晩ご飯、足りなかったの?」
「足りた。でも、まだいけるぞ」
「そっか。じゃあ少しだけお夜食を……食べ残しが道具袋にあったかな……パンでいい?」
「うー。なんでもいい」
なんでもいいなんて、駄目だよ。起き上がったマナがささやいた。なんでもいいなんて、そんなこと、あるわけないもの。本当は欲しい物がきっとあって、それに気づいてないだけだでしょう?
引き寄せた道具袋を探り、油紙の包みを取り出す。挽いた小麦、水と塩、わずかに肉の汁が染みている。マナの手の上のそれにかぶりつく。
「もう、お行儀が悪い!」
少女の指ごと舐めると叱られる。爪。皮膚。細い指の骨。溢れでる魔力は、骨の芯から発されている。特別な体。
マナはすぐ怒るな。
腹ペコなせいか?
二つの意識が交錯する体内の混乱は、ようやく落ち着きつつある。黄昏が過ぎていく。曖昧な境界の時間を過ぎると、混沌は混沌へ。闇は闇へと。動いていく。去っていく。<私>はエンダでありエンダは<私>である。
床の上に座り、道具袋を片付けているマナの膝に頭を寄せる。両手で太腿をつかみ、まどろみはじめる。
エンダはエンダだ。
マナが怖がっている匂いがして、エンダは少し悲しくなった。どうした。何が怖いんだ? もしかしておまえ、ツマンナイのか? エンダが朝になったら、いっぱい、遊んでやる。今は眠いから駄目だけど。遺跡で遊んでやるからな。それまでは眠れ。待ってろ。
頭を撫でられるとくすぐったくて気持ちいい。マナに触られるのは好きだ。マナはエンダに触っていい。マナはエンダが好きなんだな。エンダもマナが好きだ。エンダはおまえの行く場所へ行くだろう。契約に縛られた魂の命じるまま、それを忘れてもただ本能のおもむくまま、やがては理屈も何もなく、おまえを幸福にするため、つまりは自分の幸福のために。ぎゅっと抱きしめると、マナが優しく額に手を置く。「ここで眠っちゃ駄目だよ。エンダ。風邪を引いちゃうよ」そう言いながらも、マナはエンダの頭に膝を貸したまま、身動きする気配を見せなかった。しばらくすると、体がふわりと布に覆われた。マナがマントを掛けたのだ。エンダは、満足して眠りに落ちた。
end