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未来の一つの姿を幻視する。
1
離宮には女の人が閉じ込められているんだよと妹が言うから、それは幽霊なの? と少年は尋ねる。
幽霊かもしれないよ。白い髪で赤い目で白い肌なんだって。
妹がちょっと意地の悪い顔で笑った。
――僕を脅かそうとしてるな。
すぐにぴんときた少年は、ふうん、とつまらなさそうな返事をして、長椅子から滑り降りる。
「どこ行くの? 先生がすぐにいらっしゃるのよ」
「お腹が痛くなったって言っといて」
「歴史の授業はいつもお腹が痛くなるのね」
「そうだよ。歴史と僕は相性が悪いんだ」
妹はぷっと膨れるけどそれ以上何も言わない。二人はいつも言い争いをするけれど、この場所で本当に頼れるのはお互いに相手だけだと知っている。だから今では、少年と妹の喧嘩は本気じゃない。機嫌を悪くしたり、怒っているふりだけだ。
丸い柱が並びタペストリで飾られた広い廊下を、少年は大股で歩く。
白い甲冑を着こんだ僧兵たちが行き来するが、誰も少年に声すらかけない。ナザリのお城とは偉い違いだ。あそこではすれ違うどの兵士も使用人もにっこり笑ってご機嫌よう、若様どちらかへお出かけですかな? とか、仔馬と遊びませんか若様とか、厨房へいらっしゃい若様、さくらんぼのパイが焼けてますよ! とか声をかけてくれた。そりゃあ勉強も剣術も馬術もすごく厳しくて、こことは比べ物にならないほどだったけど、でも先生も使用人も、家臣たちは皆家族だった。でもここは違う。ここでは少年の家族は妹だけだ。他の人たちは誰も少年の方を見ない。そのくせ少年が好きなところに行こうとすると、たちまち呼び止められ、連れ戻される。彼らは全部、敵だ。
――こんなところ、嫌いだ。
ナマグサボウズドモ、と口の中で小さく呟く。
突然背後から名前を呼ばれ、少年は飛びあがった。
長身の僧兵が近づいてくるところだった。バツが悪くなって柱の影に隠れようとしたが、そんなおふざけを許す相手ではないことは十分にわかっている。仕方なくその場で馬鹿みたいに突っ立って、相手が近づいてくるのを待つ。長身の男はメロダークという名前で、少年と妹をナザリから連れてきたナマグサボウズドモの一人だった。いつも陰気な顔をしていて、少年たちを目の敵にしており、何かと彼らを叱りに来る。今日も会うなり、
「どちらへ行かれるのですか。今は歴史の授業中のはずですが」
と言った。
「具合が悪くなったから外の空気を吸いにいくところだ」
「……」
鋭い視線に晒され、少年は居心地が悪くなる。しかしこんなところでひるんではいけないとも思う。身分なら少年の方が上なのだ。だからぐっと胸を張る。
「ついてこなくてもいいぞ。一人で十分だ、共はいらん」
「若様。妹君を見習って少しは大人しくなさるとよろしい」
メロダークの不機嫌で不快げな顔はきっと生まれつきなのだろう。それ以外の表情を見たことがない。
「僕は男だ。女のようにスカートを履くことも、大人しくふるまうこともできん。下がってよい。歴史の勉強は、後で妹から教えてもらって、ふ……ふくしょう、する」
精いっぱい凛々しく言い放つと、僧兵は「ふくしょうではなく復習です」とため息をついた。
「……それならお気をつけて」
ものすごく以外な一言だった。絶対に叱られて腕をつかまれて連れ戻されると思ったのに、メロダークは一歩横に動き、少年に道を開けた。
屋敷を出るまでどきどきしていたけれど、背後から少年を呼びとめる声はかからなかった。いつもは話もきいてもらえず連れ戻されるのに。やった! つまり今日の僕は、堂々とした威厳に満ちてたってことだ!
自信をつけた少年は、思い切り胸を張って、屋敷の裏手へまわる道を歩き始めた。三階建ての大きな屋敷の表は美しい薔薇園に囲まれており、裏には果樹園がある。果樹園を抜けていくと、小さな屋敷が建っている。それが離宮と呼ばれる場所だ。
――離宮には、召使という名の監視役と一緒に散歩をする決められたコースからは外れていて、少年も妹も中に入るどころか近づいたことすらなかった。ただ、少年たちの部屋の窓からは離宮の窓が見えて――夜になれば遠いその窓に、光が揺れているのだった。ランタンの明かりとはまるで違う不思議な明るい光で、少年と妹はこの島に来てしばらくの間、その光を見つめながら、あれこれと話しあい眠れない夜を過ごした物だ。僧兵たちにきいても教えてもらえず、だが妹が、刺繍を教えてくれる尼僧から、離宮の話をきいたのだった。
白い髪と赤い目の女の人――それは夜種かもしれないな、と少年は思う。少年は夜種を見たことはないが、少年の父親は夜種をやっつけるために軍団を率いて旅立ち、戻らなかった。もしも夜種なら、やっつけてやろう。武器がないからどうやってやっつけるかは考えないといけないけれど。彼らは少年から剣まで取り上げたのだ。僕はいつか騎士になるのに、剣のない騎士なんて!
少年は離宮に行って、その女の人というのに会ってくるつもりだった。そして妹に、幽霊なんかじゃなかったぞ! といってやるのだ。
閉じ込められた毎日の暮らしは単調で、少年には、好奇心と自尊心を満足させるための、ちょっとした冒険が必要だった。
背の高い緑の樹木に囲まれた離宮の正面の扉は、灰色の鉄と黒い鉄でできている。ゴテゴテとした装飾のついた取っ手に触れたが、押そうとも引こうとも、扉はぴくりとも動かない。
――なあんだ。
がっかりしたが、当たり前といえば当たり前の話だ。
少年と妹の暮らす屋敷だって、あんなに広いけれど入れる場所は決まっていて、入れない場所の方が多いのだ。
離宮の裏へ回り、窓の鍵が開いていないかを確認していく。そのうち妙なことに気付いた。
離宮は一階建てで、にもかかわらず窓の位置は高く――背伸びすればようやく中が覗ける高さだ――窓枠にはすべて鉄の格子がはまっている。
まるで牢屋みたいだと思い、幽閉されているらしいわよ、という言葉を思い出し、初めて幽閉という言葉の重みを感じて、ぞっとして、見上げた窓の向こうで白い影が揺れた。
声をあげて逃げ出そうとした。だがふりむきかけたところで思いとどまった。少年にも誇りがある。逃げては駄目だと自分に言い聞かせ、さきほど影が映った窓を見上げる。
白いカーテンが揺れている。
安堵し、苦笑した。馬鹿みたいだ、あんなに怯えて……。
でもなぜカーテンが揺れているんだろう、窓は全部締まっているのに。
そう思った瞬間、カーテンが割れてまっ白い手がのぞいた。見たこともないような白い手だった。カーテンをかきわけた手はぴたりと動きを止めた。
カーテンのむこう、鉄格子のあいだから、女の人が顔を出した。見上げていた少年と目があった。
妹が言ってたように白い髪、赤い目、白い肌だった。
でも全然怖くなかった。なにも怖くない。すごく優しい顔をした、綺麗な女の人だった。
二人はしばらく見つめあっていたが、やがて窓が開いた。普通窓は外側に開くけど、この屋敷の窓は内開きだ。女の人の顔がさっきよりはっきりと見える。
「わあっ、かわいい子だなあ。何してるの、こんなとこで?」
拍子抜けするほど明るい声だった。はかなげだったりおっかなかったりな人だと思ったのに、がらりと印象が変わる。あまりにも警戒心に欠けたその声に、気が緩んで、笑顔になりかけた。
これはいかんと咳払いしてから、
「おまえはここに住んでるのか?」
少年はなるべく偉そうな口調で尋ねた。
次の反応も予想外だった。
女は目を丸くして少年を見つめていたが、カーテンをつかみ、顔を隠した。肩と手が細かく震えだす。わけがわからずぽかんと口を開けていた少年は、くっくっと笑う声がきこえてきて、耳まで赤くなった。――笑われてる!
「何がおかしい!」
「……っ、……ち、小さいのに、そんな小さいのにっ……威張ってる……!」
「お、俺は小さくないぞ! ナザリの教室でも、俺より小さい奴が三人もいたんだからな!」
かっとなって少年は叫んだ。その三人が全員自分より年下だったことは言わなかった。必死の抗議なのに、白い女はますます笑いだした。カーテンで崩れ落ちそうな体を支え、遠慮なく笑い転げている。
「笑うなってば! おまえだってそんなに大きくないだろ!」
窓の真下まで駆け寄って、窓枠を抗議の意味もこめがんがんと叩く。屋敷の壁は煉瓦だが、窓枠だけはまだ新しい鉄製だった。白い女がようやく笑いやんだ時には、彼女に対する恐怖も警戒心も吹き飛んでいた。こんな風に大声で楽しそうに笑う大人に会ったのは、久しぶりだった。
女が目の端にたまった涙を拭いながら「あー、おかしかった。こんなに笑ったの久しぶり」そうつぶやいたせいで、少年はますます、彼女のことを気に入った。
少年はもう一度、しかしさっきと違う調子で、「ねえ、あんたはここに住んでるの?」ときいた。
「うん。きみは?」
「俺はあっちのお屋敷に住んでるんだ」
「あっ、そうなんだ。え、じゃあネスから来た人質って……ってああっ、ナザリってそうか……そっかそっか、だからかー」
白い女はあの屋敷がどういうところなのか、そして少年の素性を知っているようだった。だからといって他の人間のように、少年を馬鹿にしたり、敬遠する気配はなかった。感心したようにそっかそっかと繰り返したあと、女は窓枠に肘をつき、身を乗り出してきた。にこやかな微笑を含んで少年を見下ろす目は優しくて、なんだかくすぐったかった。
「閉じ込められてるの?」
少年が質問すると、「うん、られてるよ」あっけらかんとした返事が戻ってくる。
「嫌じゃないのか」
「きみは嫌じゃないの?」
「俺はなぁ」周囲を見回して誰もいないことを確認し、それでも声をひそめた。「嫌だよ。すっごく嫌。ナザリに帰りたいよ。でも俺と妹が来たら……もう戦争はやめるって言われたんだ。それで、ネスにいるよりは、俺と妹にとっても、お母様にとっても、安全なんだって。だからさ。男は……英雄は役目を果たすのに、ちゅ……チョウチョしてはならんってお父様がよく言ってたからさ、それで来たんだ」
しゃべっているうちにナザリの城やお母様のことを思い出してきて、少年は悲しくなってくる。いつも妹に泣くなと言っているのだから、自分が泣いてはいけない。泣いたら、弱虫で嘘つきになってしまう。少年は瞬きして涙をこらえ、汗を拭くふりをして、素早く目元を拭った。
捕虜としてこの場所へやってきたのだ。いつもはそのことを考えないようにしているけれど、それは本当のことだ。
女が鉄格子の間から手を出していた。
「一緒だね」
と笑いながら言った。
とっさに手を握り返したのは、女の言葉に同意や共感を覚えたのではなく、臆したと思われるのが嫌だったのだ。女の手はひやりと冷たく、思ったよりも重かった。
2
妹には秘密を持ちたくない。
秘密は不信を呼び、不信は疑惑の種を撒く。周囲を敵に囲まれた場所では、育った疑惑は自分たちを殺す毒となるだろう。
それは少年の直感で、多分間違ってはいない。
だから夕食の後、少年たちの世話係が食器をひいたり風呂を用意したり寝室の準備をするのに気をとられている間に、急いでこっそりと妹に離宮の話をした。
「女の人?」
「もう四年もいるって。またおいでって言ってたから、明日一緒に行こうぜ」
同国人の女なんだから妹はきっと喜ぶと思ったのに、妹はただ怯えた目になっている。
「なんだよ?」
「ねえ、離宮にはその人が一人で住んでるの?」
「そうだよ」
「……私、行きたくない」
「なんでだよ」
もう一度きいたが、妹は激しく頭をふって、黙りこくってしまった。こうなるともう口を開かせることはできない。臆病なくせに強情なのだ。少年は腹が立ったけれど、ぐっと我慢した。ここがナザリなら、髪をひっぱってぴいぴい泣かせてやるところだ。
でもここはユールフレールだ。
3
白い髪で赤い目で白い肌の女はマナという名前で、ホルムの町の神殿の巫女だったそうだ。ホルム。ホルム――少年の父親が死んだ場所だ。少年は見たこともない土地だが、それはすべてが終わった悪い場所であった。周囲から裏切られ、仲間だと思っていた人たちから殺されたお父様。少年の胸はちくりと痛む。少年は慎重に父親の名を避けてしゃべりはじめる。
今日は離宮の扉はあっさりと開いて、少年は中に入ることができた。窓にはあれだけ厳重に鉄格子をはめているのに、扉には鍵がないことに拍子抜けしてしまう。調度品は簡素だが屋敷の中は清潔で涼しく、お茶も懐かしいネスの焼き菓子もおいしかった。マナは大人のくせに、まるで少年の友達みたいにしゃべる――少年のかわいがっていた仔馬、毎日の食事、ナザリで好きだったおやつ、妹の風邪のこと、お父様のことお母様のこと少年の周囲の大人のこと、マナはなんでも面白がった。まるでお祖母様みたいだ。もちろんお祖母様よりずっと若いし、それによく笑うけれど。
マナとおしゃべりする時間は楽しかったけど、風に薔薇の匂いを感じて窓を見れば鉄格子があり、椅子から立ちあがるついでにふりむけば玄関には鉄の扉があって、なんとなく落ち着かなかった。でも少年が居心地の悪さを感じるたびに、マナがふんわりと声をかけてくれる。
「それでアルソンくんはなんて?」
「アルソンくん――じゃない、アルソン殿は、テオル殿には恩があります、この子たちではなく私が代わりに行きましょうっていったんだ。俺はさぁ、かっこいいと思ったよ。正直結構嬉しかったし。でもお祖父様にお前じゃ人質にならん価値がない馬鹿がって叱られて真っ赤になっちゃってかわいそうだった」
マナがまたぷっと吹きだした。
アルソンくんは素敵だなあ、と楽しそうに笑う。
アルソン殿をマナが知っているわけはないからそんな口調が不思議で、そう尋ねようとしたとき、扉が重く擦れながら開く音がした。
少年は逃げたり隠れたりしてはいかんという教育を受けてきたのだけれど、それでも屋敷の中に踏み込んできた長身の男の形相に、逃げたり隠れたくなったりした。いつも不機嫌な顔をしている僧兵は、明らかに激怒していた。
マナが立ちあがって「メロダークさん」と僧兵の名前を呼び、その呼びかけのなめらかさに、少年ははっとなった。その声だけで、二人が親しい間柄であることを、直感し、理解した。だが僧兵はマナをまるで無視して、少年の側に歩み寄った。
「ここは入ってはならない場所です。お帰りください」
はい、以外の返事はまったく期待していない口調だった。しかし見下ろされた少年は、拳を膝の上で握りしめ、お腹にぐっと力をこめて「はい」というひと言を飲み込んだ。
僕の方が身分が上だ、とじんじんと痺れる頭の中で繰り返す。
「メロダークさん」立ちあがったマナがテーブルを回りこんでくる。「違うんです、私が呼んだから……叱らないでください」
マナの言葉をメロダークはふたたび無視した。
少年にむかってもう一度、低い声で命令する。
「お立ちください、殿下」
そうだこれは命令だ。
少年は椅子から滑り下りる。俺は殿下なのに――でも僕は人質なのだ。せめてもの抵抗として、メロダークに肩をおされて館を出るまえに体をねじり、マナにむかって「また遊びに来るぞ」と言った。テーブルの側に立ったマナは笑ったけれど、それはとても悲しい笑顔に見えた。
館を出たところで少年はメロダークの手を振りほどく。
「俺はなんだ」
マナの前で、あんなに有無をいわせず、俺に命令をして、俺よりも強くて俺は勝てなくて! 怒りと屈辱がごっちゃになって、少年を激昂させた。
「俺はネスの獅子公の血を引いた嫡子だぞ! おまえらはネスの人間を――鳥か虫のように好きに捕まえて――お父様が生きてたら、おまえらなんか! お祖父様がお元気だったらなら、西シーウァもユールフレールも何もかも、ネスに手出しはさせなかったんだぞ!」
メロダークはいつもの苦い表情で少年を眺めていたが、やがて「二度とあの館を訪れてはいけません」と言った。
「若様、おききください。あの女はつい半年前まで大神殿の地下に繋がれていたのです。今はバルスムス様の温情であの離宮を与えられていますが、もしもあなたが彼女を頻繁にお尋ねになれば……余計なことを話して、それが他の人間に知られたら……彼女はまた地下に戻らねばならなくなります」
メロダークが少年の前に膝をついた。目線をあわせて言った。
「神殿の地下で、彼女は本当に辛い思いをしてきました。そこでは彼女は、人間としては扱われなかったのです。どうぞ彼女から日の光をとりあげないでやってください。若様と妹君は成人されればネス公国にお戻りになられる。しかし彼女は一生をここで過ごし、故郷には戻れぬ運命なのです。もう帰れないネスやホルムの話をされるのはとても残酷です。どうかご配慮を」
「なんで帰れないんだ?」
「……ホルムは……いや……そういう風に生まれついたからとしか」
「でも、だって、そんなのおかしいじゃないか」
メロダークは目を伏せた。少年の視線に押されるように。
「我々の世界は常に犠牲を必要としているのです」
低い声でそう言った。まるで言い訳するように。
4
大神殿からは時折呼びだしがかかる。
そのたびに少年と妹は正装をして大神殿へ向かう。少年と妹はネス公国の正当な代表者としてふるまわねばならない。それはつまり父親に対する揶揄や嘲笑をききながら、じっと前を向いて立ち続けるということだ。
その日の晩餐では、上座に怖いような女性が座っていた。くすんだ金髪をひとつに束ねた目つきが鋭い女性で、彼女の背後に立った兵士たちの甲冑には西シーウァの紋章が入っている。
挨拶をしに進みでた少年と妹をちらりと一瞥し、「テオル公子の子供か」と吐き捨てるように言った。まるでそれが悪いことであるかのように! 少年は微かに体をこわばらせ、妹が彼の手をそっと握りしめ、少年はその手を握り返した。ここでは周囲は敵だらけだ、味方は妹だけだ……。隣の席についた年老いた大神官が、少年たちがいないもののように女に話しかけた。
「……ホルム進軍の際には、パーシャ殿のお手を随分わずらわせましたな。あの勝利はパーシャ殿のおかげです」
「あの戦さには敗者しかおらぬ。今となれば苦い思い出ばかりだ。そういえばあの時、卿らが目の色を変えて探していた憑依は……」
「今はここの離宮に。一度ご覧になりますか?」
「いや結構。ただの器には興味もない」
少年は離宮という単語に耳をそばだてたが、西シーウァの皇女と大僧正の間には、それ以上少年の気をひく会話はかわされなかった。
晩餐を終えて屋敷に戻った少年と妹は、疲れ切った体を寝台に滑り込ませた。
疲労とは裏腹にいつまで待っても眠りは訪れなかった。テオル公子の子供か、と汚いものでも吐くようにいった女の声が耳に残っている。無償にお母様に会いたかった。暗闇の中で少年は起き上がった。窓から外を覗き、……離宮の窓に白い光が揺れている。まるでマナが手招きをしているように揺れている。
(「目の色を変えて探していた憑依は……」)
ヨリシロってなんだろうと思った。
少年と妹は、ネス公国と西シーウァが和平を結ぶのと引き換えに、このユールフレールへとやってきた。彼らは表向きはネスからの高貴な客人としてこの屋敷にとめおかれている。テオル公子を父親を持つ自分たちよりずっと厳重に隔離されている彼女は、一体、どんな罪を犯したのだろう。
少年は寝巻のままでそっと部屋をでた。
廊下の窓を開けて外に出ると、裸足のまま中庭を歩いた。夜の庭園はどきどきする。塀のむこうで、丘の上にある大神殿には篝火が揺れているけれど、地上は闇だ――離宮の窓をのぞいて。暗闇の中で薔薇の香りがひときわ強く感じられた。離宮の玄関の扉に手をかけて悩んだが、結局、光が灯る窓に近いた。窓を叩こうとした少年は、伸ばした手をとめた。中からは話し声が漏れきこえていた。
「そんなことは考えていません」
押し殺した声はマナだ。
「だが上はそう思わない。ここにおまえを移したのは――」
もう一つの声はメロダークじゃないか。
少年は思わず背伸びして、窓の中を覗き込んだ。こちらは暗く中は明るい。ばれないはずだ。多分。覗きこむまえに(王子が覗き見なんて)自分をたしなめる妹の声がきこえた気がするが、好奇心には勝てなかった。
……部屋の中には誰もいない。少年に見えるのはそっけない白塗りの壁と板張りの天井、壁に取り付けられたランプの揺れる炎だけだ。だが二人の声だけは聞こえ続けている。
「――バルスムス様が特別の配慮を与えたからだ。神殿内にはおまえを危険視する声もまだ根強い。出られるわけがない。妙な夢は見るな」
「本当に危険な人間がこんなところでじっとしていると思ってるの?」マナの声が腹を立てている。窓枠をつかむ少年の指に、知らず知らずのうちに力がこもった。「私が本当に――ここから逃げ出せないとでも?」
「マナ!」
ぴしゃりと短く、低く、乾いた音が響いた。まるで――まるで――頬を叩いたような音だ。少年の心臓が胸の中で暴れている。怖かった。もうこれ以上きいてはいけない。嫌な予感がする。あの日の朝、城のつり橋を渡って伯父上とアルソン殿が馬で駆けこんでくるのを窓から見おろした時のような……扉を開けて足早に近づいてきた母上が倒れこむように少年と妹を抱きしめ「お父様が」と囁いたときのような……無力な自分を端に乗せたまま、世界が音を立てて回転してしまう予感がする。しかし少年の目はすでに見開かれ、耳はどんな些細な音も聞き逃すまいと研ぎ澄まされている。
呼吸と……衣ずれと……寝台のきしみと……呻き声と……「ごめんなさい」という泣き声と。
「ごめんなさい。怒らないで」
「怒っていない」
「嘘」
「怒っていない。怒るわけがない。あの子から何をきいた?」
「……」
「テオルの子供だぞ。おまえたちの町を無茶苦茶にした男の」
メロダークの声に初めて怒りがこもった。
少年は窓枠から手を離す。マナが何をいうのかききたくなかった――身をひるがえし、暗闇の中に駆け込んだ。離宮へ来たときには感じなかった冷えた空気が肌を刺す。
お父様はホルムを無茶苦茶になんかしていない。
胸の中で叫ぶ。メロダークに、マナに、夕食の席で吐き捨てるように父上の名を言った西シーウァの皇女に、すべての人間にむかって叫びたかった――太古の邪悪な遺跡を地下に抱え、ホルムはすでに無茶苦茶だったのだ、お父様はそれを正しにいったのだ。
ネスが戦争に負けたのはお父様のせいじゃない、ホルムがああなったのはお父様のせいじゃない。お父様が遺跡から怪物たちを解放したのは、ネスの土地を横取りしようとした西シーウァと神殿軍をやっつけるためだ。お父様が正しいことをしようとして、ただそれがうまく行かなかっただけなのだ。
確かにたくさんの人は死んだ。ホルムの町は滅んだ。でも怪物が人を殺して何が悪いのだ? なぜお父様だけがあんなにも責められるのだ? 戦争で人は人を殺すじゃないか!