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いなくなる人

エンド直前/マナ メロダーク


 午後、マナが雑貨屋に入っていくと、ラバンとキレハとシーフォンがそろって買い物をしているところだった。あまり見ない組み合わせではあったが、彼らが、というよりも皆が、一緒にいるのは珍しいことではない。ようマナ、おう、あらこんにちは、ひばり亭の朝と変わらぬ挨拶を交わす。店番をしてたネルのおばさんにはもう少し丁寧な挨拶をして、いる物を書いたメモを渡した。香油やら釘やら糸やら蝋燭やら、神殿で使う細々とした品を詰めてもらうのをマナが待つ間、探索者たちは棚に並ぶ商品を選びながら、にぎやかな会話を続けていた。
 油の詰まった小瓶を揺らし、「しかしシケてるよな、これっぽちでこの値段ってよ」とぼやくシーフォンに、おばさんが「あら、ホルムではこれくらいで普通よ」とのんびり反論する。
「売値も商品も、土地によって違うもんだ。ホルムは鉄だ。武器や防具を買っておいた方がいいぞ」
「そうですよね。鎧が軽いから、動きが楽だわ。手元にもうひとつ置いておきたいくらい」
「運べないんじゃ意味ねーぞ。地上の旅じゃ荷物になるばっかりだろうが」
 カウンターに肘をつき、仲間たちの会話にそれとなく耳を傾けていたマナは、シーフォンのその一言で、あ、と思った。
 彼らはこの先、ホルムを離れて旅するための準備を整えているのであった。
 怪異が解決した以上、探索者たちはここに留まる理由もない。
 ずっと忘れていた。
 彼らはホルムの外から来た、いつかいなくなってしまう人たちなのだ。


 最後の戦いからひと月近くが経過して、探索者仲間たちは皆、まだ慌ただしい町でそれぞれの新しい日常を過ごしはじめていた。どうやって許可を取り付けたのか独自に組織した遺跡の発掘調査隊を率いて連日遺跡に潜っているテレージャがおり、ホルム領はもちろんナザリまでを行き来して忙しく働いているアルソンとフランがおり、鍛冶屋見習いとなって一段と生き生きした毎日を送るネルがおり、ニンゲンの勉強に熱心なエンダがいて、のん気に平和を満喫しているパリスと元気を取り戻したチュナがいる。
 マナは神殿に戻った。
 もう町を救った英雄でも、カリスマ探索者でも、呪われたタイタスの器でもない。
 以前と変わらぬホルムの巫女だ。
 寸鉄も身に帯びず、巫女服を身にまとい、聖典を胸に抱いて、子供の頃からずっとそうして来たように、おそらくはこの先もそうするように、夏も冬もひんやりと冷たい神殿の廊下を歩く。
 ふと足を止めて振り返る。
 いつもの癖で視線は少し上を向いている。数歩の後ろには必ず長身の男がいることを、体が勝手に覚えている。
 しかしそこにはもう誰もいない。回廊を支える列柱の影が行儀よく並んでいるだけだ。
 今のホルムでは背中を守ってもらう必要もなく、タイタスの憑代でない自分が監視される理由もなく、つまり一緒にいるための口実はもう存在しないのだ。
 以前は穏やかな喜びであった神殿の孤独と静寂が、今は無性に寂しい物であるように思えた。通路に落ちるまっすぐな柱の影の間に、立ち止まったマナの影が、一つだけ歪な形に伸びている。
 ――メロダークさんは、これからどうなさるのだろう。
 仲間たちがそれぞれの日々へと戻っていく中、メロダークが今後の去就をどうするつもりなのか、マナには見当もつかなかった。
 メロダークは他の探索者たちと同じように、表面上はこれまでと変わらぬ毎日を送っている。ひばり亭に宿泊し、廃墟のまだ封鎖されていない区域を探索して発掘品を持ち帰る。数日姿を見ないと思えば、領内の夜種狩りや商人の護衛をしてホルムを離れていることもある。他の仲間も交えた軽い雑談のなかで、男は言動の端々に、神殿軍との決別を臭わせるようになっていた。しかし神殿軍について語るとき、メロダークがごく自然に「我々は」と言うのも相変わらずで、マナは帰属心と愛着と反発と侮蔑が複雑に混じり合うメロダークの神殿軍への感情を、もしかしたらメロダーク以上の敏感さで感じ取っていた。同じ敏感さでマナは、まだ迷いはあるものの、メロダークは近いうちに必ず神殿軍を離れるだろうとも確信していた。
 自分が彼の生命を、そして魂を救ったことは些細なきっかけに過ぎず、時がくればメロダークは自然と神殿軍から去っていたのではないか。そのようにも思う。
 密偵を辞め自由になったメロダークは、この先、どうするのだろう。当面はホルムに逗留するのだろうが……。
『これまで』のことは彼から聞いた。だが『これから』については知らずにいる。
 少女はホルムの空にそびえる鐘楼塔を見上げる。
 西シーウァと大神殿の連合軍が侵攻してきた、あの日のことを思い出す。メロダークが手引きをし、門番を殺し、大門を開き、あんなにたくさんの人が死に、彼は私を殺そうとした。
 メロダークがこのままホルムに暮らす未来は、そのような都合のいい明日など、本当にありえるのだろうか?
 それよりは旅立ちを誰にも告げずに男がひっそりと姿を消すことの方がありそうで、一度思いついてみると、それはもっともメロダークらしい選択であるような気がするのだった。
 彼は目的があってホルムへ来た人なのだ。怪異が収束した以上、ここからいなくなるのは自然なことだ。
 考えるうちに胸がひどく苦しくなってきて、マナは列柱の一つにふらふらと寄りかかった。
 メロダークさんは、と再び考える。
 すぐに頭を振り、
 ――私は、どうしたいのかな。
 そのように言いかえた。


 子供の頃からずっと、自分は死ぬまでホルムに暮らし、この神殿で巫女として過ごしていくのだと思っていた。孤児だった己を育ててくれたアダへの愛情や報恩の気持ちとは別に、マナはこの町を深く愛しており、ホルムもまた、あの怪異を経てなお少女を愛し、受け入れてくれていた。


 翌日の夕暮れ、ひばり亭の前を通りかかったマナは、ほんの少しの躊躇のあと、酒場の中に入っていった。宿泊客と仕事帰りの職人たちで混雑しはじめた酒場に男の姿はなく、マナはそこでもまた悩んだ末、結局、階上のメロダークの部屋を訪ねた。メロダークが部屋にいなければまた明日の朝にでも来ようと思っていたのだが、そういうことにはならなかった。
 ノックに応じて扉を開けた部屋着姿のメロダークは、大して驚いた様子を見せなかった。少女を招き入れて扉を閉め、突然の来訪への謝罪を遮って、言った。
「明日にでも神殿に顔を出すつもりだった」
「なにか御用がありましたか?」
「いや、そういうわけではないが」
 窓を開けて風を入れながら、お前の顔を見たかっただけだとぼそぼそとした声で続ける。マナは思わず微笑した。
「それで、今日はどうした?」
「私もメロダークさんと同じ用事です。顔を見に来ただけ」
「……それは用とは言わんぞ」
 メロダークが小さな椅子に腰を下ろしたので、マナは狭い部屋の半分を占領している寝台の端に腰掛けた。窓の外にはあかね色の夕空が光っている。
「二人きりになるの、久しぶりですね」
 メロダークがマナを見た。不自然なくらい長く見つめていたが、やがて、
「初めてだ」
 と言った。
「……そんなことはないと思うのですが。だってずっと探索を……」
「いや、初めてだ」
 反論しようとして記憶を探り、マナは黙った。こうやって二人きりになるのは、どうやら本当に今日が初めてらしかったので、驚いてしまう。ずいぶん長い間一緒にいたのに。
「あっ、でも」
「なんだ」
「夢で」
 あの時に、大河で、二人でずっと……という続きをうまく言葉で言うことができなかったが、
「そうだな」
 メロダークがそう応じた。言いたいことが通じたことに、そして彼があの時のことを今も覚えていることに、マナはとても安心した。
「メロダークさんは……」
 この先彼がどうするつもりなのか、あるいはホルムを去るつもりなのかを問いたかったのだが、こんな重要なことをいきなり聞くのも不躾すぎる気がしたし、答えを知ってしまうことへの小さな怯えもあった。それで、前置きがわりの軽い雑談のつもりで、
「今、なさりたいことってなんですか?」
 と聞いた。
 メロダークは考えこむ様子を見せた。
「これまでは義務のことばかり考えていたが……」
 そこで言葉を切り、ふと顔をあげ、
「マナ」
 と、先ほどとは違う調子で名前を呼ぶ。
「はい」
「つまり――」
「はい」
「……二人きりだな」
「そうですね」
 マナは何の気なしに相槌を打った。沈黙が落ちた。二人でないとお話できないことがあるのかしらと思い、姿勢を正したが、メロダークはいっこうに口を開く気配がない。いつものように急かすでもなく彼が話すのを待っていると、メロダークが足を組み直した。
「今は義務ではなく、ただ、やりたいことをしている。そういう風に心がけているのだ」
 と言った。
「いいことだと思います」
「探索にしても、護衛の仕事にしても……しかし大半は、結局、やらねばならんことをこなしているだけだ。難しい物だな」
「何かなさりたいこと、ないんですか?」
「……一日料理でもして暮らしたいと思ったのだが、厨房に出入り禁止になった」
「それは……まあ、共同で使う場所ですものね。何かあったらオハラさんも大変ですし……」
 また沈黙が落ちた。
 メロダークが立ち上がり、一瞬部屋を出ていくのかと思ったのだが、マナの側へ近づいて来た。男が腰を下ろすと、寝台が音を立てて軋んだ。ためらいがちに肩を抱かれたとき、マナはあまり驚かなかった。メロダークとの間の他の色々なことと同じように、これが自然なのだと思っただけだった。だから体を引き寄せられたときにも、抵抗どころか緊張すらしなかった。頭をぽすんと胸元につける。鎧の手入れに使う油と、体臭と汗のいりまじった匂いがした。
「これが今、やりたいことだ」
 メロダークの声が耳の側でささやいたときにだけ、びくりとした。この距離だと声がいつもと違ったふうに聞こえる。メロダークの手が少女の手を握りしめ、その動きにためらいを感じた。立ち止まって欲しくなかったので、急いで顔をあげた。
「どうぞ」
「……」
「……キスをするんですよね?」
 自分の勘違いかと思って心配になった。メロダークが真面目な表情のまま、指の先で少女の顎から頬へ、滑らかな肌をそっとなぞった。
「キスもする」
 言葉の意味をしばらく考えてから、マナは、狼狽した。
「あっ、そ、そういうおつもりなんですか。それはまた……」
 話の途中でキスされてしまう。
 少女の想像とはかなり違った、それなりに大変な経験であった。
 男の唇が離れたあと、マナは息を切らし、目を見開いてじっと彼の顔を見つめていたが、我に返り、急いで言った。
「あの、それは、つ、次の……また今度……」
 キスをされた。
「……うっ……あ……次の機会で……今日ではなく、後に……」
「マナ」
「はい!」
「目を閉じろ」
 またキスをされた。
 気がつくと腰を抱かれて姿勢が崩れ、寝台の半ばまで体を引き上げられてしまっている。押し返すつもりで手をつかんだら冷静に見えていた年上の男の指先が微かに震えていることに気づいてしまったので、マナはとっさに、その震えごと彼の指を、自分から固く握り締めた。


「ホルムを去るつもりはない」
 あれだけくよくよと悩んでいたことなのに、尋ねたとたんメロダークが躊躇なくきっぱりと即答したので、マナは安心すると同時になんだか拍子抜けしてしまった。だが「今のところはそのつもりだ。先はわからん」という言葉が続いて、う、とまた心配になる。
「状況次第だ」
「状況ってなんですか」
「それはわからん。その時にならんと。声をかけてから去った方がよければそうするし、そうすべきでなければ黙って去る」
 筋の通った、実際的な答えではあったが、そういうことをききたいわけではないのに……と思いながら胸元の飾り紐をきつく結びなおした。朝とは違う結び方になっていて、一度脱いでまた着たことを誰かに気づかれたりしないかしらと心配になる。結び目を慎重に点検していると、背中を抱きしめられた。うなじに息がかかり、ぴたりと熱い物が触れた。
 跡が残るようなキスをされ、「あ」と小さな声をあげた。いたずらをされたと思ったので、赤くなって振り向いたが、メロダークはひどく真面目な顔をしていた。
「状況は状況だ。例えばお前が嫌がるなら、ここから去る」
「え……う……そ、そんなことしません」
「嫌ではなくとも、俺がこの町にいるべきではないと、お前が判断することもあるだろう」
「……状況って、全部私のことじゃないですか」
「そうだ。全部お前次第だ」
「そういうの、困ります。そういうことをおっしゃられると、私、苦しくなってしまう」
「走ったり物を持つとき、自分の手足を気づかうか? それと同じだ。気にかけずに、そういう物だ、と思っていればいい」
 無茶な言葉に絶句していると、体ごと振り向かされ、今度は首筋に唇が近づく。痣や傷跡がひどく目立つ白い肌の少女は、ぎょっとして、本気で抵抗したが、無駄だった。押さえつけられ、片方の鎖骨の上に接吻の痕を残されてしまう。マナは、
「こんなことする手足、ないもの」
 と、泣きそうな声で抗議した。覆いかぶさってきつく少女を抱きしめたメロダークが、なだめるように、あるいはごまかすように、マナの背をゆっくりと撫でながら、
「そうだな」
 とつぶやいた。



 ホルムの町がある。
 むき出しの土の小道があり、砂利に覆われた通りがあり、灰色の石畳があり、見上げる岩山には、中央が磨り減った石段が続いている。険しい山の中腹には領主の館の尖塔がそびえている。商店や行商の露店が軒を連ねる広場には、背の高いオベリスクがあって、その向こうには旅人たちの目を引く赤い屋根のひばり亭がある。アークフィア大河に抱かれるように、崖の上には白い石造りの神殿がある。
 ずっと、港から離れる船を眺め、東西の門を過ぎゆく馬車を見、神殿に寄って旅路の無事を祈る人々に祝福の祈りを捧げて暮らしてきた。
 町に暮らす人と、町を通りすぎていく人がいる。
 陸路と水路の交わるこの小さな港町で、河のほとりの神殿に暮らす少女は、自然とその二つを分けて考えるようになっていた。
 もちろんすべての人たちがそのどちらかに所属するわけではなく、例えばラバン爺のような、ひととき羽根を休める場所をホルムに持つ旅人たちがいるが、それは少数の例外だった。マナは、自分は前者で、後者の「いつかいなくなる」人々とは深く交わることもなく暮らしていくのだと、疑いもなく信じていた。



 無人の礼拝堂の長椅子の端に、一人、長身の男が腰掛けている。あまりくつろいだ様子もなく腕を組み、夕日に照らされた聖杯や、高い天井や、中庭の木や、神殿のあちこちを眺めていた。
 回廊から入ってきたマナは、こほんと咳払いして男の注意を引いたあと、弾むような足取りで、そちらへ近づいていった。同じ長椅子の反対側の端に腰掛けた。
「……なんだそれは」
 と、メロダークが言った。
「なんだってなんです?」
「離れすぎだろう」
「そ……そうですか?」
 そう言いながら、ようやく薄れてきた首筋の痣を手で隠す。メロダークの方をちらちらと伺っていたが、男は何かを仕掛けてくる気配もなく、じっと前を向いたまま黙っていた。回廊にも中庭にも人の気配はなく、しばらくしてようやく決心がついたので、メロダークの方へと一人分、席を詰めた。
 様子を伺いながら時間をかけて、とん、とん、と少しずつ近づいていく間、メロダークは腕を組み、黙って前を向いていた。すぐ隣に腰を落ち着けてそこで止まり、うつむいて子供のように、足をぶらぶらさせていた。
「こうやって」
 と、あまり馴れ馴れしく甘えた調子にならないよう気をつけながら、言った。
「一緒にいられるの、嬉しいです」
 メロダークがマナを見た。すぐに前を向き、またマナをちらりと一瞥した。足を組み、また組み直す。咳払いをした。
 そわそわしている。
 マナもそわそわしていた。
「すごく嬉しいです。ずっとこうしていられたらいいな、と思います」
 他に人がいないのをいいことに、思い切って、大きな声でもう一度繰り返した。口に出してしまうと、すっきりした。揺らしていた足を止め、彼の顔を見上げて微笑した。メロダークがマナの頭に手をのせ、軽く叩くように撫でてから、「そうか!」と言った。自分の声の調子に驚いたようで、咳払いして、いつものように、「……そうか」と低い声で言いなおした。
 中庭の木々の細かな葉の一枚一枚が、夕暮れの金色の光に濡れている。子供の頃から慣れ親しんだ静寂の中、幸福な気持ちで座っていた。この礼拝堂も、回廊も、鐘楼も、神殿は彼女の一部であり、彼女はホルムの巫女であった。
 にも関わらず、男の横顔を満ち足りた気持ちで見つめながら、もしもメロダークさんがホルムをお離れになるようなことがあれば、とマナは思った。
 私も一緒に行こう。
 黙っていなくなるなら、黙って追いかけていこう。
 自分がいなくなるその決意には、勇気すら必要ではなかった。




end

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