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一番はじめの

大廃墟 / メロダーク マナ パリス

「おいっ、マナ!」
 パリスの声に振り向けば、廃墟の崩れた路面を少女の体が声もなく滑り落ちていくところだった。
 距離が遠すぎる。
 手を伸ばしても届かない。
 ひやりとした気持ちが体を押して、敵にとどめの一撃を与えるはずが、剣を引きマナが落ちていった方角へ足を踏み出している。
 対峙していた亡霊の騎士は、当然その隙を見逃さなかった。崩れかけた骨の体の最後の力を振り絞り、彼らに向かっていくかわりに、引いた。死の上に苦痛を重ねられた亡霊は、生者たちの手を逃れ、暗闇の中へと消えていった。
 死者の霊を導くのも神官の仕事だ。
 メロダークは当然敵を逃がすつもりがなく、だが後を追おうとして一歩を踏み出したとたん、眩暈を感じてその場に片膝をついた。
 背後から来たパリスが脇を駆け抜けていく。
「足に来てんじゃねーか」
 追い越し際に、呆れた声を落としていった。
 肉体ではなく精神だ、魔法を使ったせいだ――反論しようとするが、パリスの背中は言葉を振りきる速度で亡霊の消えた通路のむこうへと遠ざかっていく。
 青年は敏捷だ。走りながら一動作で二本の短剣を鞘に収め、腰に下げたランタンを固定し、速度は一切落とさないまま戦闘で荒れた路面を跳びこえる。膝をついたまま、メロダークが怒鳴った。
「深追いはするな!」
「ビラビラが高く売れんだよ! やばけりゃ戻る、心配すんな、待ってろ!」
 振り向きもせずにそう答えたパリスは、通路に転がった太い石柱を体重を感じさせない動きで軽く踏み越え、ランタンの光を揺らしながら遠ざかっていった。
 闇の中に残されたメロダークは、高く売れるビラビラについてしばし考え、亡霊が身にまとう古代の衣装のことらしいとあたりをつける。
 仮にも死者の持ち物をと思い、内心でため息をついた。
 追うか待つかで迷ったが、状況の見極めはパリスの得手とすることであり、危険を察知して退却するだけの分別もある。あれは一人でも大丈夫だろう。そこまで考えて顔をしかめる。
 判断が遅すぎる。疲労のせいで頭の回転が鈍っているように思えたのだった。
 よくない兆候だ。こういった些細な失態の積み重ねが、いつか死を招くことになる。
 立ち上がって剣を鞘に戻し、予備のランタンに火を入れた。
 それからようやく、そちらを見た。
 彼女を見た。
 傾斜の角度だけは急だが、高さはそれほどでもない。ちょうど自分の背丈と同じくらいの段差を滑り落ちた神殿の少女は、ひび割れた地面にぺたりとへたりこんでいる。
「マナ」
 返事がない。
 落ちた時に足でもくじいたか、後方に下がっていたはずの戦いで何かがあったのか。駆け寄りたくなる気持ちを自制し、ゆっくりと近づいていった。
 これもまた、最近の苛立ちの原因のひとつだった。
 少女に対する感情の傾斜は、最近ではいささか度を越している。自分はここに遊びに来たわけではなく、もっと自制してしかるべきなのだ。ネスの大河神殿の巫女で、まだ子供で、生真面目な少女に特別な感情を抱くのは、あらゆる意味で馬鹿げている。
 にもかかわらず、ランタンを地面に置き、土埃をあげながら斜面を滑り下りた時には、「怪我でもしたか?」と冷静さとはほど遠い口調で尋ねていた。
 マナはうなだれ、太腿の上にのった自分の手を、光のない目でじっと見つめている。もう一度名前を呼んでから、もしやと気付いて少女の頭上に手をかざした。軽く意識を集中すれば、掌に気の乱れのようなものを感じとる。
 ――混乱しているのか。
 魔術的な意味での混乱だ。祈って気持ちを鎮めてやろうと目を閉じたが、瞼の裏には光の粒と渦がちらつき、静かな暗闇は訪れなかった。さきほどの戦闘のせいで疲労がたまり、集中できない。
 諦めて目を開けた。少女は暴れるでもなく恐怖するでもなく、ただ呆然としているだけのようで、自然な回復を待つのが一番のように思えた。
 脇をつかみ引きあげてみれば、一度は立ったが、すぐに膝から崩れ落ちた。支えられた肩を残して地面にへたりこむと、自分のその動作に驚いたように軽く目を見開いている。完全に腰が抜けているようだった。
 内心で舌打ちをした。
 少々面倒なことになったと思うが、仕方ない。
「……触るぞ。暴れるなよ」
 マナは表情もなく無言でメロダークを見つめ返す。しゃがみこみ、上半身を胸元に抱きよせ、もう一方の手を膝の下にいれて、少女の体を持ち上げる。甲冑を身に付けてなお軽い。いつもと違ってあらがう素振りもみせず、されるままになっていた。目覚めているにも関わらず、死体のような柔らかさだ。不吉な連想に寒気が走り、口中で短くハァルの名を呼んだ。
 さきほどの場所に戻り、マナの回復とパリスの帰還を待つことに決める。斜面は急だが土は固い。
 数歩後ろに下がり、勢いをつけて斜面を駆けのぼった。あと二歩で上がりきるところで、マナの両手が頬を挟んだ。強引かつ勢いよく、横をむかされる。
 目の前に少女の顔があった。近づいてくる。
「なん……」
 ぎょっとした一瞬で唇が重なった。
 踵が滑り、キスされたまま、ずるずると下の地面まで滑り落ちていった。


 ようやく唇を離したマナが、大きく息を吸い、吐いた。
 冷たい手はメロダークの頬を滑って耳をさすり首の後ろをなで、今は柔らかく肩の上に置かれている。
 呆然として、目の前にある少女の顔を見つめていた。
 赤い瞳は焦点があっていない。まだ混乱が続いているだけだ。今の行為は自分に対するものではない。混乱の中で、何か、あるいは誰かと間違えたのだ。誰か。いつもこのように抱かれ、口づけを交わし、時には少女から接吻をねだる誰かと。
 そう気付いたとたん、嫌な感じに胃がねじれた。理屈にあわない苦痛と嫉妬だ。
「なぜこんなことをしたのかわかりますか?」
 マナが静かにそう言った。どこか憂いを含んだ口調だった。思わず首を横にふると、少女は重いため息をついた。
「虫を食べるからですよ」
「……虫だと?」
「いただきます、と言っても駄目です。そういうことりゃないの。蜘蛛は蜘蛛でチョコレートとはちがうのよ?」
 威厳に満ちた堂々たる説教だったが、微妙に舌が回っていない。
 エンダと間違われていた。
 現金なもので胃の痛みはぴたりとやんだが、さっきとは違う角度で、軽く落ち込んだ。あんな子供と。
 だがちょっと待てとも思う。お前は竜の子が虫を食べるたびにああやってキスをしてやるのか。躾にしてはおかしいだろう。
「……エンダではない」
 絞りだすようにそういうと、マナはあからさまにむっとした顔になった。
「わかってますよ。チョコレートは食べないもの」
「……」
「人のせいにしないの。メロダークさんでしょう?」
 微妙に会話が成立しているような気もするが、噛み合っていない。これはもしや泥酔しているのと同じ状態なのではなかろうか。酔ったところを見たことがないが、意外と酒癖が悪いのかもしれない。
 ――なるべく酒を飲ませないようにしよう。
 理性的な部分ではそう決意したが、二人きりでいるときに酔わせてみたいともちらりと思い、その考えは慌てて振り払った。
 返事をせずにいると、マナはうんうんと頷き、一人で勝手に納得した。
「わかってる。側にいるものね、いつも。うん」
 両手で遠慮なくぺたぺたと顔に触りだす。頬に触れ顎に触れ眉をなぞった。
「おい――」
 動揺が表に出て威嚇するような声になったが、少女はひるまなかった。
「ん。正解正解。いいんだっけ? うん? ま、いっか」
 普段メロダークに対するのとはまったく違う口調で軽やかに言い、また顔を近づけてくる。今度は不意打ちではなく、避けようと思えば避けれたが、避けなかった。固く引き締めたままの少女の唇が口の端にあたり、すぐに遠ざかっていく。顔にかかるかすかな息と、白い髪と肌から漂う香と汗が混じり合った匂いとに、頭の芯が白く痺れるような感じがした。戦いのあとは獣に近づいている。気がついた時には体の向きをかえて斜面に少女の体を押しつけ、「口を開けろ」と低い声で命じていた。
 パリスがじきに戻ってくるだろう。奇妙に冷えた頭の一部でそれなら早く終わらせればいいだけだと考え、少女の片膝だけを腕から落とした。少女の体は柔らかく開いた。疲労のせいでかえって感覚が尖り、密着した部分のすべて、鉄と鋼に覆われたところですら、肉体の重みを感じている。このように扱っていい娘ではない、お前はまた汚れた手ですべてを無茶苦茶にしようとしているとやはり冷ややかな理性の声がしたが、知ったことかと耳を塞いだ。
 きょとんとした表情で見あげているマナに、欲望が押すままの早さで乱暴に顔を寄せていった。
 何の警戒もなくかすかに開いた唇のむこうに、白い歯と桃色の舌の先がのぞいている。
 唇が触れ合う寸前に、マナが無造作に右手を跳ね上げた。
 裏拳が正確にメロダークの顎を打ちぬく。
 がつんと音がして下顎が上顎にぶつかり、脳天まで衝撃が突き抜ける。思い切り舌を噛んだ。
「がっ」と濁った声をあげて、のけぞった。
 そのままの姿勢でしばらく固まっていたが、次は少女を抱えたまま、その場でぐるぐると回転しはじめた。超絶に痛い。最後は中腰になってこらえた。苦痛も悲鳴も我慢しきった。口の中に血の味が溢れてくる。真っ赤な顔でぶるぶる震えていると、マナが再び両手でメロダークの頬を挟んだ。ぐりぐり額を押し付けてくる。右手の親指が目尻をひっぱり、左手の中指が耳の穴にはいって、何指かが口に突っ込まれている。でたらめに全部の指が動き、顔を斜めにひっぱった。
 待て。本当にちょっと待て。
 最初の気も狂わんばかりの痛みの波が引き始めたころに、マナの手もようやく顔から離れた。
「あのね、駄目れしょう?」
 変な迫力のある声だった。かなり真剣に怒っている。
「あたしがするのに。私がキスしてるとこなのに。メロダークさんがしたらそれは違うでしょ? 考えたらわかるよね?」
 メロダークは考えた――まったく理解できなかった。
「わかったらちゃんとする。ね? 大丈夫だから」
 噛んで含めるようにそういうと、マナはひとつ深呼吸してから、目を閉じ、作業を再開した。
 乾いた唇が素早く触れ素早く離れる。繰り返すうちに段々と口元から離れて顎や頬にでたらめにぶつかり始める。今度は言われた通りに、メロダークは『ちゃんと』じっとしていた。
 子供の遊びのようなものだが、何度も何度も熱心に繰り返されると、体の芯の部分がほぐれ、千々にほどけていくような錯覚に陥る。ある時点で、多分これまでの生涯で受けた口づけの数を越したなと思った。だから何だというのだ? なんの意味もない。数を比べること自体がまったく無意味だ。しかし胸が震えた。キスの雨を身じろぎもせずに受けとめていた。
 最後にふうっと息を吐くと、軽く上半身を引いて、メロダークをじろじろと眺めた。己の仕事ぶりを点検するような視線を男の顔に注いでいたが、最後に真面目くさった表情で大きく頷いた。
「ん、よし」
 マナにしかわからない理由で満足したらしかった。「メロダークさん」と名前を呼んだ。
「大好き」
 温かい指で心に触れるような声だった。
 メロダークは黙ってマナを見つめていた。
 疲れて下がりはじめていた腕に力をこめ、もう一度少女を抱きなおした。
 ――お前は一体どこまで私を、そう言おうとした。
 出会った最初からそうだ。ただ一度の表情、ただ一つの言葉で、こちらの振舞いや自制のすべてを無意味にしてしまう。無造作に近づいてきて側に寄り添い、ためらいもなく触れる。
 だが、よく見ればマナの目が据わっていた。
「――じゃないの?」
 間違えていた。
 告白ではなく、詰問だった。
 沈黙していると首をかしげ、ますます剣呑な目つきになった。
「なんで黙ってるの? 大好きじゃないの?」
 変な汗がでる。
「……いや」
 傷つき、痺れる舌で、ようやくその一言を絞りだした。
 肯定と否定のどちらの意味か、マナはしばらく考え込んでいたが、途中で考えるのが面倒になったようだった。メロダークの頭の後ろをなで、髪に指をさしこんでぐしゃぐしゃとかきまぜる。
「じゃあじっとしてなさい」
 ききわけのない子供を叱るように言って、「一緒にいなさい」と命じた。
「わかった」
 とにかく命令に弱い。とっさにそう答えると、マナの頭がすとんと肩の上に落ちた。頼りなくなった体をそっと抱きしめ、そろそろと地面に腰を下ろした。低い段差だが上がる途中であのような大騒ぎをされてはたまったものではなく、落ち着くまで待った。眠りにはいろうとしているがまだ眠ってはいない。案の定、しばらくすると身じろぎした。
「約束ですよ」
 小さな声が耳元で囁き、首を回せば、肩口にぴたりと頬を寄せたマナがまっすぐに男の顔を見つめていた。表情に錯乱の気配はない。汗に濡れた少女の白い髪は肩口で男の黒髪と混じりあい、ひとつの流れとなって鎧の上にこぼれている。
 この落ち着きは見せかけの物に過ぎない、意識の混濁を抜けて正気に戻っているならば、こうやって抱かれていることにいつものような羞恥と激しい拒絶を示すはずだ。当たり前だ、今は剣を手に戦っているが、ただの町娘だ、大河の巫女だ。神殿とこの小さな町だけが彼女の世界で、炎、血、死、暴力、裏切り、自分の骨まで染み付いたすべてとは縁遠く、拒まれるのは当たり前だ。大神殿はこの遺跡を手にいれるためにシーウァと協定を結び、戦の準備を着々と整えている。別れは必ず最悪の形で訪れる。惹かれることすら馬鹿げている。
 もう一度そう己にいいきかせたが、これまで心を制止していたその言葉も、もはや何の力もない虚ろな言葉の羅列に過ぎなかった。
 少女が今、正気であり、自分も嘘がない人間であるかのように、
「約束しよう」
 そう誓っていた。
 安心したようにマナは瞼を閉ざした。体が重みを増す。今度こそ眠りに落ちたが、両腕をしっかりとメロダークの首に絡め、唇には穏やかな微笑を浮かべていた。
 次に少女が目を覚ませば、この記憶は失われているだろう。ただ自分は死ぬまでこのことを忘れないだろうと思った。少女のキスも、声も、目も、他のすべての記憶と同じ重さで心の底に沈むだろう。
 抱きしめた少女の髪に顔を埋め、気持ちが安らぐままにまかせていた。心が通じ合った恋人同士のように。せめて側にいられる間は、この娘を決して傷つけまい。最後の一瞬まで守ってやる――。
 だが一方で、
 ――帰ったら二人の時に酔わせてみよう。
 そこのところもしっかり心に誓っていた。
 もちろんそれはいやらしい下心からではなく、酔うたびにこのようになるとすれば色々と心配なので厳しく注意しておく必要があり、自分はマナを傷つけることはしないがマナの方から求めてきた場合は拒否するわけにもいくまいというところまで一瞬で考えたので、疲労困憊していても頭はきちんと働いているということだった。

「ああ、私、一度も酔ったことがないんですよ」
 ひばり亭のカウンターの前で、マナが物凄くあっさりと言った。その言葉を裏付けるように、手にした杯から果実酒を軽く飲み干す。
「だからお酒は嫌いではないですけれど、別に好きでもないというか」
 マナを挟んで座っていたネルとパリスが振り向き、自然と話に参加してくる。
「あー、マナは強いよねぇ。いつだったかの収穫祭の時、エールしか飲むものがなくて、作業しながら一日ずーっと飲み続けてたでしょ。あれすごかったよね。あれはすごかった」
「あの日は暑かったよね」
「顔が青くなる奴は強いんだよな。酒飲んで暴れる奴は青くなる。でもお前は白いまんまだからなぁ」
「自分じゃわかんないや……でもね、お祭りや特別な日にはアダ様もお飲みになるけれど、同じようなものだよ?」
「アダ様もねー、強いよねー」
「ガキのころから鍛えられてんだよな、結局」
 三人が仲良くわいわいと騒ぎはじめるのを、メロダークはいつもの通り黙って見守っていたが、途中から肩を落とした。何も言わず片手に持っていたエールを飲み始めた。ものすごく、しょんぼりしていた。


end

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